大股開き

大股開き

序章

文久二年十二月二十六日

 其処もと、山口殿であられるか。

 試衛館道場での稽古の帰りに、牛込の通りで呼び止められた。羽織袴姿の男は、目前に立ちはだかると書状を突きつけてきた。書状には、【果たし状】とあった。

「橋本信三郎からだ。確かに渡したぞ」

 そう言って、男はきびすを返すと元来た道を引き返して行った。その後ろ姿を見詰めた後、手に持った書状を広げた。

 貴殿に決闘を申込む
 三日後十二月二十九日未八つ
 小石川関口石切橋袂にて

 橋本信三郎。旗本の次男坊。もう一年近く前に上野の剣術道場で出合った相手だ。流派の違う道場に手合わせを願って門を叩いた。だが自分が右差しで有ることを理由に鼻先で笑われた。それでも稽古場に通された後、門人に取り囲まれた。一歩前へでた男が、橋本だった。木刀の切っ先が自分に向けられ、右肩を強く突かれた。正座をしていた自分は、そのまま脇においていた刀に手をかけた。

 見詰め返すと、橋本は嘲笑しながら、「暇つぶしにはなる」そう言って、一本だけ勝負してやろうと言った。

 勝負は、一瞬で終わった。構えから、一気に突きで攻め、初太刀で仕留めた。胸を突かれた相手は、足を滑らせ無様に尻餅をついてひっくり返った。

 道場に居た他の者は、皆驚いていたが、誰かが笑いだし、それをきっかけに皆が大笑いした。嘲笑う連中。元の位置に戻り礼をしてから、木刀を仕舞い道場を後にした。門前払い。そうでない場合は、必ずこのような闘いで終わる。行き場のない思い。勝負に勝っても、すっきりせぬ。足早に道を踏みしめる草鞋は、砂埃を立てた。

 あれから、もう一年近く経った。今になって、果たし状など。そう思ったが、ここで臆したとなれば、一生そしりを受ける。そう思いながら、書状を懐にしまった。三日後の午後。それまでに、必要な事は全て滞りなく終えよう。あと三日。



***********

文久二年三月

 時は遡って、今年の春のこと。

 市谷甲良屋敷にある試衛場の門を叩いた。上野の道場を追われた自分は、西方面に向かうしかなかった。鬱屈とした冬の日々を経て、ある日急にふと通りの反対方向に足が向いた。あれは今年の彼岸過ぎ。まだ桜が咲き始めた頃だった。雨上がりの冷える朝に本郷弓町の自宅を出て市谷に向かった。甲良屋敷の門には「天然理心流試衛館道場」と木の看板が掲げてあった。そこで、沖田総司に会った。初めての手合わせで初太刀を躱され、相手の突きを思い切り鳩尾に受けた。その衝撃。出来る相手に自分は生まれて初めて出会ったと思った。

 驚きはそれだけではなかった。一本を取られているのに、自分は剣を止めることができなかった。

 やってやる。やらねば、やられる。

 緊迫した思いと快感が全身にみなぎった。剣を激しく合わせると、相手は同じように睨み返しながらも、笑顔を見せた。それはいつも自分に向けられる相手を嘲るようなものではなく、本当の楽しみを見つけた者が見せる歓びの光。自分もおそらく同じような表情を見せていたのであろう。後ろから羽交い締めにされて動きを止められるまで、互いに無我夢中で撃ち合い続けた。

 それが総司との出逢いだった。そして、道場に居た門人達。皆が、自分の剣の強さに舌打ちをして感心した。

「あんた、強いな」
「山口殿といったな。次は俺と手合わせを願う」
「こんな、ヒヤヒヤする仕合は久しぶりだ。いいもの見せて貰った」

 それまでは、自分の剣は人を不快にさせるものだと思っていた。己の強ささえ、人の反感を買う。右差しというだけで蔑まれ、忌み嫌われる。どこにも行き場がない。どんなに精進してもやりきれぬ。やり場のない思い。憤る想いを、独りで剣を振っては、紛らわせてきた。

 この様に、手合わせを願われるとは。自分のような者を。

 その日以来、ずっと試衛館道場に通っている。最初は月初めに月謝を納めた。だが、道場主の近藤勇はそれを受け取らず、代わりに他道場へ出稽古に行ってもらいたいと頼んできた。それは五月の半ば頃だった。天然理心流師範代の総司以外にも、土方さん、神道無念流の新八、北辰一刀流の平助、槍術の種田流を教える左之助が、皆で持ち回り、他道場に出稽古に出ていた。出稽古にでれば、試衛館に実入りがあり、利に適っているからだと説明を受けた。食客の新八達とは違い、自宅から通いの者には、少しだが謝礼も渡すという。嬉しかった。自分の剣で、金を得る事ができるなど。考えたこともなかった。そして、自分が人に剣術を教える日が来るなど。

 夢のようだ。

 その日は、ふわふわと宙を浮く足取りで道場から通りに出て帰ったのを覚えている。そして、その翌日から早速出稽古に出向いた。最初は、伝馬の道場。門人は、六名。そこに通いで数名の士族の子息が来ていた。若い者は十五から、四十に届く者まで。伝馬には、土方さんと出向いた。朝早くに、水戸藩屋敷の北門前で待ち合わせて歩いて伝馬に向かった。土方さんは足早に歩く。道すがら、これから向かう道場の門人について教えてくれた。手のかかる者、気性の荒い者、逆に大人し過ぎる者など。黙って聞いていると、「お前も、大概無口な、大人しい質だがな」と笑われた。

 だがひとたび、剣を握らせたら、竜虎の如く……。
 ま、そんなところだ。

 振り返って自分に笑いかけた土方さんの顔が逆光で眩しかった。自分の剣を褒められたのが嬉しかった。強いことを、そこを認めて貰えた。

 あれから半年。毎日が出稽古と道場での精進。充実していた。時折、神道無念流の道場、上野練兵館に出向くこともあった。周辺には、他の道場も点在している。幕臣が通う練兵館は、常に多くの門人を抱えていた。新八が元々通っていた道場であった事もあり、ここの出稽古には、近藤先生、新八、総司と一緒に通うことが多かった。この界隈は、自分が昔、道場荒らしとして虱潰しに門を叩いていた。上野界隈で剣術を学ぶ者たちの中で、元道場荒しの無法者が練兵館で剣術を教えているという噂は直ぐに広まった。

 おそらく、近藤先生の耳にも入っていただろう。だが、先生は出稽古に出ることを控えろとは決して言わなかった。ただ、「稽古に出向く時は、必ず誰かと一緒がよい。総司か永倉君がよかろう」そう言って、頷いていた。




*****

文久二年五月

上野寛永寺界隈

 まだ夏ではなかったが、昼から急に日差しが強く気温が上がった日。総司と一緒に練兵館に稽古に出た。道場は蒸し風呂のように熱く、昼過ぎに稽古を終えた時には、二人とも汗だくだった。総司に誘われて近くの湯屋に直行した。寛永寺に向かって大通りから道をそれたところで、袴着の男達に囲まれた。

「のう、誰かと思ったら。右差し先生に田舎侍か。練兵館もこのような者たちに剣術を指南させるなど」

 楊枝を咥えた男が、皮肉な表情で笑った。

「へえ、軟弱さんは、どこのへぼ道場にお通いですかね」

 総司はそう言いながら、首を少しだけ動かして合図を送って来た。咄嗟に、総司が左側に立った。二人で背中を合わせた。 「総司、一気に行くぞ」 そう口にする前に、相手は襲いかかって来た。

 総司が抜刀した。自分が先に斬り込んだつもりだったが、背後で激しくバタバタという音が聞こえる。一人目、二人目を打って倒れたところを振り返ると、総司は抜いた刀を仕舞わずに、肩に載せたまま、地面に伸びた男達を、足で蹴りながら数えていた。

「さーんにん、よにん、っと。峰打ちだよ。血は出てないからね」

 最後の男が顔を上げたところを、足の先で顎をひっかけて向こう側に倒した。刀を仕舞って自分の袴の埃を払うと、

「行こうか」

 笑顔で言って、総司は歩き始めた。狭い通りには人だかりが出来ていた。

「汗だくな上に、土埃って最悪。着物も洗ってしまいたいね」
「ああ」
「この先の、燕湯。僕、留め桶してあるんだ」
「はじめくんもそうしなよ。ひと月で三文。高いけど、漆の塗ったいい桶を置いてくれる」

 漆塗りの桶。そんな代物。生まれてからこのかた見たことがない。総司は、鼻歌を歌っている。さっきまで刀を振るって荒ぶっていたのに、落ち着いたものだ。

「僕ね、こう見えても。綺麗好き。清潔なものにお金の糸目はつけない」
「はじめくんも、そうだよね。随分几帳面だし」
「褌も真っ白だもんね」

 自分の褌を見て几帳面だという総司が不思議だった。確かに、褌は真っ白なものを身につけている。それは普通であろう。

 そんな話をしている内に、広小路の燕湯についた。総司は自慢の留め桶を持って、湯殿に入ると汗を流した。汗だくな上に埃まみれだった身体に湯をかけて流すと、すこぶる気持ちが良かった。総司は、隣に座る男から、へちまを受け取ると、気持ち良さそうに背中をこすっている。

「これ、いいね。たっつあん」

 笑って話す総司の声を聞いて、となりの男の名が「辰」だとわかった。辰は気前よく、「旦那もどうぞ」と自分にも【へちま】で身体を擦れと勧めてきた。背中をこすると、ざらざらした感触で気持ちが良い。一通り、身体を洗うと、親切な辰は、湯をたっぷり掛けて背中を流してくれた。

「ありがたい。気持ちがよい。礼をいう」

 そう言うと、「いつでも、どうぞ」と辰は満面の笑みを浮かべた。

 総司は手拭いを持って、湯船に浸かった。

「あー、気持ちいい」

 そう言って、湯を掬って顔に掛けて頬をぱんぱんと叩いている。湯船はちょうどいい深さで段ができていて腰掛けられるようになっていた。この湯屋は、気が利いている。湯も熱くてよい。そんな風に思いながら寛いでいた。

「ねえ、たっつあんとこんな時間にここで会うのも珍しいね」

 総司が、湯船に浸かりだした辰としゃべり始めた。

「いやねえ、旦那。もう、あたしはね、今日で十六日目。休みなく店出してんですよ。仕込みで夜中まで。湯屋にも来れねえ。いい加減にしやがれってね。さっき、かかあの奴に文句言って、店を放り出して来たんですよ」
「へえ、随分忙しいみたいだね。縁日でもあったの」
「いんえ、若様。かいつまんで話すと、店に【おみお】が来たからですよ」
「おみお?誰、それ」
「今月に入ってから、うちに手伝いに来てる【おみお】って女ですよ」
「これがね、まあ別嬪で、色っぽい。いい女が団子屋にいるってんで、噂になったらしくて」
「へえ、【おみよちゃん】も看板娘なのに、そんな女のひとが来たんだ」
「それが、若様。おみよはね。先月いっぱいで故郷に帰ったんですよ。船橋村へね」
「おみよのおっかさんが病で亡くなりましてね」

 総司の顔から笑みが消えた。

「うちのかかあも、おみよには頼りきりだったもんで。手が回らなくなっちまいやして。急遽、口利きで谷中に暮らす【おみおさん】に来て貰うことになったんです」
「なんでもね、元は商家の妾の娘で、器量の良さから、日本橋の大棚に正妻にって見初められたそうで。ですが、その旦那が一年もしねえ内に亡くなって、子もいなかったから追い返されましてね」
「独り身で、働く当てもないってんで。うちに来て貰ったんです」
「それが、まあ。水もしたたる【いい女】なんですよ」

 辰はそう言うと、総司の顔を覗き込んだ。

「若様、聞いてます? あたしの話」
「うん」
「初めて、うちに顔を見せに来た日もね。こう、畳に手をついて、【おみお】と申します、ってね」

 辰は手拭いを頭に被って、両手を付く真似をした。総司は、小さく吹き出しながらその様子を見ている。

「さんずいに、雨に、令と書きます。なんていってね」
「宙に名前を書くんでございますよ。その動かす時の、手が白魚のようでね。あたしゃ、字が読めないでしょ、んなもんで、その指に見とれちゃいやしてね」

 辰は、ぐふふふ、と破顔している。

「かかあの奴は、こんな器量良しが、うちみたいな団子屋に来て貰えるなんて滅多なもんじゃない。そう言って喜びましてね」
「うちは、おみよが居た時でも繁盛してたんですが。この【おみお】目当てに来る男衆で、客が途絶えない。行列まで出来る始末で」
「へえ、凄いね」
「するってえと、変な噂に尾ひれがついて。うちの団子屋が【おみお】の客引きで、話がまとまれば、裏の家でお相手を頼めるなんてね。新手の『水茶屋』呼ばわりでございますよ」
「これには、うちも困っちゃいましてね。行列を作って待ってるお客様に、「え、お宅様は、お団子で?、それとも【お澪】でございますか?」なんて、訊けやしません」
「じゃあ、【お澪さん】って注文できるの?」
「まさか、旦那。出来るわけございやせんよー」
「うちは、団子しか出しません。【おみお】は、お茶くみでござますからね」
「なーんだ。てっきり、そういう商売を始めたのかと思った」

 総司は、湯船の縁にに両腕を伸ばして掛けて、ふんぞり返った。

「この後にでも、どうぞお立ち寄りください。腕に縒りを掛けて団子をご用意しますんで」

 辰は、会釈しながら笑顔で湯船から上がって行った。自分達も、一旦湯船を出て、水を頭からかぶってから上がった。

「ねえ、はじめくん、これ」

 総司が桶の裏底を返してみせた。小さな木刀がしまい込まれている。なんのために。訝しがる自分に、総司は湯屋で絡まれる時に役立つと教えてくれた。時々、他道場の者と、ここでも鉢合わせするらしい。仕舞い刀か。留め桶に用意できるなら。自分もここに置こうと決心した。

 湯屋から出ても、まだ日が高かった。うだるように熱い。それに腹も減った。総司が、ねえ、たっつあんとこへ行こうよ。そう言って、寛永寺に向かって歩いていった。境内に入って、すぐ左手に行列が見えた。

「あれ、ほんとうだ。あれだよ。団子屋。見事に男衆ばかりの行列だね」

 総司は、指さして笑っている。二人で歩いていった。ちょうど日陰になったところに行列ができていて、思ったほど暑くもない。そのまま列に並んで、団子屋の中を遠目に眺めた。

「ねえ、はじめくん。あれ、あそこにいるの新八さんじゃない?」

 総司の眺める先に、新八が居た。茶屋の店先で丁度、外の椅子に案内されて腰掛けた新八が見えた。総司に誘われて、列から抜けると、新八に声を掛けた。新八は驚いた様子で、「お前らか」と笑っている。

「うん、僕らは出稽古の帰り。一旦湯屋に寄ってから、お団子を食べに来た」
「そうか、今日は練兵館の日か。俺は、今日は非番だ。賭場は夜からだしな」
「へえ、じゃあ、寛永寺にお参りに?」
「ちげえよ」

 大きな声で否定すると、総司と自分に頭を低くさせて耳打ちした。

「俺は、あれよ」

 そう言って、椅子の後ろで給仕をする女を顎で差した。

「すっげー別嬪だろ?」

 横目で、そっと見てみた。すらりとした女が、襷掛けでお盆を持っている。白粉を塗った首筋が細くて、こっちを向いた時に見えた顔が確かに、妖艶な感じで美しかった。

「お前等も、ほら、ここに掛けろ。見たか?見たか、山口?」
「さっき、団子を頼んだから持ってくる。その時にな、これをな」

 そう言って、新八は、袂から小さな点袋を取り出した。桃色の和紙で出来ている美しいものだった。

「ここに五十文いれてある。これをよ、『お駄賃だ。とっときな』って渡す。どうよ?」
「いいんじゃない?お駄賃にしちゃあ、随分気前がいいね」
「まあな、ここでけちっても仕方あるめえ」
「ふうん。でも、お茶くみのお駄賃でしょ。それとも、新八さん」

 そう総司が言いかけた時に、新八は、「来た、来た、お前ら、黙っとけよ」、そう言って、身仕舞いを正した。お澪が団子の載った皿を置いて、総司と自分にも湯飲みに入ったお茶を置いた。総司はお団子四つと注文した。新八が、俺の奢りだと御代を払った。自分は総司と一緒に礼を言った。

「ねえさん、これを」

 新八は、気取った声を出して、お澪に点袋を渡した。

「とっておけ」

 いつもより低音の威厳を持った雰囲気で。隣に座った総司と自分は吹き出しそうになるのを堪えるのに必死だった。お澪は、「もう、御代はさっき頂きました」、そう言って、受け取るのを拒否した。いいから、とっておけ。あくまでも、新八は、気取った雰囲気を纏い続けるつもりらしい。しばらくの間、押し問答が続いた、すると、店先から、女将が出てきて、新八の点袋をお澪から受け取ると、「どうも有り難うございます。またのお越しを」と言って、大仰に頭を下げた。その後ろで、お澪も頭を丁寧に下げていた。

 新八は、お澪にすっかり鼻の下を伸ばしている。お盆を持って下がっていく女の後ろ姿を眺めながら。

「小股の切れ上がったいい女だ。ありゃあ、いい」

 しきりに感心している。総司と自分は女将が持ってきた団子を食べた。美味い。確かに、辰の作る団子は絶品だった。お茶を注ぎに来た女将が、総司に挨拶をした。

「若様、本当にご無沙汰でございますね。おみよがね。先月、船橋村の国元に戻りましてね。最後まで、若様がお見えにならない、って残念がっておりました」
「これをね。若様がお見えになったらって預かったんですよ。やっとお渡しできます」

 女将が総司に渡したのは、浄名院のお守りだった。【へちま様】で有名な、咳封じのお守り。総司は、手渡されたお守りをじっと見詰めている。

「春先にお見えになった時に、若様が咳が続いてたって、お帰りになった後も、おみよは心配しましてね。へちま様のお守りを貰ってきたって。若様がお見えになったら、渡すって言っておりましてね」
「先日急に国に戻ることになったんで、若様がお見えになったらって言付かったんでございますよ」

 じっと手のひらのお守りを見詰める総司に、女将は言った。

「ほんとに、心根のやさしい、いい子でございました。わたしは、おみよを実の娘みたいに思っていましてね。傍に居ないのが、寂しゅうございますよ」
「若様、どうか。そのお守りをお大事にしてやっておくんなさいませ。あの子は、若様のことをね、ほんとうに大切に気遣ってましたからね」

 そう言って、笑うと「どうぞ、ごゆっくり」と挨拶をして女将は下がっていった。

「若様って」

 新八が笑っている。

「ここのご主人の辰さんが。なんでか、初めて僕がここに来たときに、お大名様のご子息がお忍びで見えてるのは伺っておりやすよ。若様。あっしの口は堅うございます。若様の事は、口が裂けても誰にもってね」
「誰かと勘違いしてるみたいでね、面白いからそのまま僕はずっと、辰さん夫婦からは、大名息子がお忍びで市中で遊んでるって事になってる」
「なんだ、いいだせねえのか。正体を。いいじゃねえか、そこの道場で剣術教えてる士分だって、堂々としてればよ」

 新八は、笑って団子の櫛を楊枝がわりにしている。総司はずっと微笑んだままでいる。

「ま、おみよちゃんには、若様って慕われてたみたいだからな、今更引き返せねえか」

 そう言って、新八は笑うと。これから浅草まで足を伸ばさねえかと誘って来た。

「どうだ、もう日も暮れてきた。ちょいと仲をのぞいて、いい子がいたら茶屋に上がってよ」

「僕は、今日は帰るよ」

 総司は、草鞋の紐を結び直した。明日も早いからね。そう言って、立ち上がった。

「山口はどうだ?一緒に行かねえか?」

 自分も気乗りはしなかった。直ぐに帰って、刀の手入れをしたい。そう言って、断った。

 新八は、「じゃあ、俺は伝馬の道場に顔だして、平助でも誘うか」と言って、そのまま境内の入り口で別れた。



***

「ねえ、一緒に行ってもよかったんじゃない?」

 そう言って振り返る総司に、自分は何も応えずに黙っていた。

「さっきみたいに、人と渡り合った後はさ」
「気持ちが高ぶって、夜眠れないって。よく左之さんが言ってるよ」
「喧嘩や争い事の後に、飲む酒と抱く女は格別だってね」
「僕は、どんな手合わせや喧嘩をしても、そんな気にはならないんだけどね」

「俺もだ」

 自分が同意すると、総司は笑った。「へえ、そうなんだ」そう言って嬉しそうにしている。

「じゃあ、さっきの綺麗な後家さん見ても、なんとも思わなかったの?」

 総司は、自分の顔を覗き込むように尋ねてくる。

「ああ」

 そう応えるしかなかった。総司は「ふううん」と言って、笑っている。

「なんだ?」

 総司の揶揄するような笑い方が気になって訊きかえした。総司は、暫く歩くと、僕は吉原の女があまり好きじゃないと呟いた。

 白粉の匂いが嫌い
 真っ赤な紅も
 けばけばしい格好もね

 ほんのりと桃色の唇が好き
 うなじもそのままの肌の色がいい
 えくぼが出来る
 笑顔がかわいい
 瞳の大きな女が好み
 お日様の下で眺めていたい

「はじめくんは?」

 一通り、女の話をすると、総司は自分に好みの女はどんなだと尋ねて来た。自分は、総司の好みの女の話は、さっきの団子屋に居た【おみよ】という娘のことだろうかと、ぼんやりと考えていた。

「ねえ、はじめくん聞いてる?」

 総司は、しつこく尋ねてくる。

「俺は、女子はよくわからぬ」
「へえ、でも女は知ってんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、どんな子がいいとかないの」
「ああ」
「じゃあ、さっきの後家さんは?」

「いい耳をしていた」

「耳?」
「ああ」
「まともに見てはおらぬが、綺麗な耳だった」

「……はじめくんって、助平だね」
「なにがだ」

 総司は笑いながら、「さあね」というと前を向いたまま歩いた

 総司に団子屋のおみよのことは詮索はしなかった。おみよは、きっと総司と恋仲だったのだろう。




******

文久二年六月

日野への出稽古

 六月に入ると、近藤先生から日野の佐藤道場に出稽古に出るように言われた。

 多摩では十日ほどの泊まり稽古になる。家の者に十日ほど留守にすると伝えた。御家人とはいえ、実家はさして裕福でもなく、次男である自分は穀潰し。試衛館に通うようになってからは、自分の食い扶持はぎりぎり賄えているが、この先もずっと家に居座るのか。そんな態度を取る親兄弟の視線は冷たかった。八歳上の兄、廣明は父と同じ鈴木家の御家人として仕えているが、やっと今年から公用廻りにつけた。兄上は幼少より大人しく、剣術より和算を得意としていた。やんちゃで腕白だった自分とは違い、実直で家の長たる責任を持って生きていた。自分とは似ても似つかぬ。だが自分には剣術があった。父親からは、剣術で身を立てられるよう励まされた。

 精進さえすれば、いつか部屋住みに。

 だがそれもただの叶わぬ望みだと思い知らされた。元服して間もなく、唯一の剣の師が病で他界した。門弟は年老いた浪人、そのほかは自分だけだった。道場を継ぐものは誰もおらず、そのまま閉鎖されることになった。その後一年の間、剣術の練習の場を探し求めたが、どこも門前払い。鈴木家からも声が掛かる事はなく、どこにも出仕のあてのない鬱屈した日々。

 だが漸く、今年の春から試衛館で修行が出来るようになった。出稽古に遠出する事は、そんな実家から離れられる気楽さもあった。試衛館に昼過ぎに向かい、稽古後にそのまま泊まり、翌朝早くに総司と日野へ出立する。そういう予定だった。

「じゃ、はじめくん。明後日の稽古には、褌三日分持って。旅装束で来て」

 総司は試衛館の門まで見送りに出て来た時にそう言った。翌日は旅支度をして道場に向かった。

 多摩へ向かう朝、まだ暗い内に起きて道場を後にした。日野の佐藤道場へは、二日がかりで向かう。夏の間は土方さんはずっと多摩に居る。土方さんの実家は石田村にある豪農で、古くから【石田散薬】を作って売っている。土方さんも薬の行商をやりながら、道場で稽古をつけていた。夏場は、その散薬の原料の薬草の収穫時期で、土方さんは大層忙しくしているらしい。

「駆り出されるよ。どうせ僕らも、薬草摘みにね」

 総司はうんざりとした表情で隣を歩いている。道場を出て、緩い下り坂をずっと行くと合羽坂の下に着いた。通りを渡って、荒木横町に向かって今度は上り坂。ここらは美濃国高須藩の松平摂津守の上屋敷があった。この津の守坂は急な坂だが、登りきると四谷大通に出た。これが街道。平坦で大きな通りは視界も広がり歩いていて気分がよかった。道場を発って四半刻。足早に歩く総司と、大木戸を過ぎて内藤新宿に辿りついた。

 ここは宿場町で昼間は賑やかだが、まだ朝日が上がったばかりの時間は、夜半から開いている岡場所に行灯が灯っているだけで閑散としていた。道に時々歩きでているのは、鶏ぐらいなもの。足早に歩き抜けてすぐに追分に着いた。

 生まれてから西方面へは、せいぜい此の追分ぐらい迄しか行ったことがなかった。遠出は自宅から南方向に東海道、品川宿を過ぎた辺りまで。芝の浜や品川で海を眺めるのが好きだった。

 追分を過ぎると、街道の両側は田畑だけになった。時折建屋が見えるが、どれも百姓小屋だった。街道をどんどん西に向かって歩いて行った。陽が昇って明るくなってきた。総司は欠伸をしながら、寝る前にこさえた握り飯があるからと言って、道端の丁度良い石に二人で腰掛けて握り飯を頬張った。日野の道場まで八里。総司は親戚が日野に住んでいることもあり、小さい頃から馴染みの土地柄だという。斎藤は生まれも育ちも本郷。多摩には縁がなかった。田圃ばかりで、人より蛙の数のほうが多い。そう言って、総司は笑う。
道中、総司はいろいろな話をした。総司の生まれは江戸の白河藩下屋敷。御徒身分の親とは小さい頃に死に別れて。唯一の肉親は、十歳上の姉のみ。その姉の【みつ】が婿をとって家督を継いだ。僕は次男で家がない。そう言って笑った。総司と自分は似たような境遇だと思った。

「試衛館は貧乏道場だけど、日野の名主の佐藤彦五郎さんが本陣の庭に道場をこさえてね。随分援助してもらってる。今日も彦五郎さんに会うよ」
「あとさ、出稽古だけじゃなくてね。土方さんの実家にも連れて行かれるからさ。それも覚悟しておいて」

 土方さんの実家は日野の豪農で、この時期は薬草摘みに駆り出される。これが重労働。僕は大嫌いなんだけど。いい小遣いになるから、毎年行ってるけどさ。

「石田散薬。知ってる、はじめくん?」

 そう訊ねられたが、「寡聞にして知らん。それは何か」と訊くと、打ち身に効く万能薬だと説明された。

 眉唾ものだけどね。

 総司はそう言って笑う。総司は薬のたぐいは小さい時から大嫌いで。姉上には、金平糖と引き替えじゃないと薬は飲まないと言ってある、といって笑った。姉上は必ず、薬と一緒に僕に金平糖を口に放り込んでくれる。

「薬より高いのにね。金平糖を工面してきてくれるんだ」

 総司は、姉の話を嬉しそうに話す。自分にも姉がいるが、確かに優しい。唯一、自分の事を気に掛けてくれるのは、二つ年上の姉上だけ。自分もそんな風に思っていた。総司は、月に一度、姉が道場に訪ねてくるのが楽しみだという。総司の身の廻りや道場、母屋の掃除など、一通り世話をして帰るらしい。

 ひとかどの武士になるように励みなさいってね。
 僕ならきっと立派な武士になるって。

 そう話す総司は嬉しそうだった。

 総司は、日野まで幼少の頃から何度も行き来していて目を瞑ってでも歩いていけると笑っていた。街道にはところどころに欅や桜の並木があって、総司は木と木の間を駆けて競争しようと勝負を持ち掛けた。自分が返事をする前に、総司は草鞋の紐をさっと掛け直すと、先に走り始めた。総司は足が速い。自分も走ることにかけては遅れるつもりはなかった。勝負に三回負けたら一文を相手に渡す。総司が勝手に決めて、木々が途切れる道にでたところで、三文を要求した。そこに丁度茶屋があって、団子を奢ることになった。総司はちゃっかりしている。

 昼過ぎには布田に着く。天然理心流原田道場に立ち寄る。

 近藤先生の兄弟子が開いた道場だ。原田先生のところにいる門弟は三人。午後は道場稽古だよ。総司はそう言って、団子を頬張った。

「お姉さん、ところてん二杯。それから醤油つけた餅もだして」

 総司にしては沢山食べる。財布の持ち合わせが気になった。総司は、茶店の女主人が運んでくると、気前よくお代を払った。

「道場着いたら、日暮れまで稽古。いっとくけど、道場で振る舞われる夕餉は腹の足しになんないよ。だからここで、しっかり食べておいて」
「原田先生は、僕らが夜道場抜け出してもとやかく言う人じゃないけどね」
「近藤先生にバレると、お小言貰う事になるから」

 総司は、出された皿の餅を食べながら湯飲みを片手に遠くを見た。少々満腹を過ぎていたが、街道を急ぎ足や総司との駆けっこを繰り返している内に、苦しい腹も落ち着いた。布田の道場には直ぐに着いた。道場主の原田忠司は上背のある大きな男だった。精悍な体躯で、眉が太く自ら木刀を振って、門人に稽古をつけていた。
一息ついて、道着に着替えて稽古を始めた。皆、本気で打ってくる。楽しい。稽古はずっと仕合形式で進められた。気が付くとすっかり陽が落ちて辺りは暗くなり始めていた。井戸端で汗を流した後に夕餉の膳が並んだお勝手の板の間に通された。ひえ、粟が混ざった飯は食べ慣れているが、ほとんど麦飯で、申し訳ないぐらいの量の昆布の佃煮と漬物がついていた。出された御櫃には殆ど飯が残っていなかった。一緒に席を並べている門人はもっと少なくよそったものを黙々と食べていた。総司の言う通りだった。昼に餅を食っておいてよかった。翌朝早く出立すると道場主に挨拶をして、総司と一緒に早めに客間の布団で横になった。

 翌朝、日の出と共に道場を出て、府中に向かった。街道沿いの谷保で美味い蕎麦を食べた。総司は普段、あまり食事をとらないが、甲良屋敷を出てから自分と同じぐらいよく食べる。自分がそう云うと、「そう?たぶん、水が合うんじゃない」と笑っている。総司は亡くなった母方の親戚のある日野に幼少の頃より過ごす事が多く、多摩には里帰りする気分だと笑う。義兄もこっちの人だからと聞いて意外に思った。総司は江戸者だと思っていたが、近藤先生や土方さんと同じか。どちらにしろ、総司は楽しそうだった。

 府中は大きな宿場町だった。人出も多く賑やかだ。総司は「はじめくん、こっち」と言って、街道から逸れた道をどんどん進み神社に立ち寄った。大國魂神社。大きな鳥居だ。

「ここは、必ず立ち寄るようにしてる。ほら、参るよ」

 総司は勝手を知っている。参道を本殿に進みながら、横道にある小さな祠にも手を併せる。巽神社、瀧神社、稲荷神社。自分も総司に従った。境内は人出が多いが、清々しい空気に満ちている。総司は、瀧神社の湧き水を飲めとうるさい。

「これ、力水。道場に着いたらすぐに稽古だからね」

 そう言って総司が柄杓に汲み上げてくれた水は、確かに美味しかった。喉が潤う。本殿に参ってから街道に向かった。

「大きい神社でしょ? 姉上がね、必ず立ち寄れって。無病息災を願えって煩くてね。さっきの水も。必ず飲むようにって約束しちゃってるから」
「聞いてる? はじめくん」
「ああ」
「ここは毎年五月に【くらやみ祭り】がある。知ってる?」
「いや、聞いたことがない」

 総司は斎藤の傍に寄ると、手で隠すようにして耳もとで囁いた。

 よばい。
 夜這いし放題。

 自分の驚いた顔を見て、総司は笑った。

「提灯の灯りもない真っ暗闇でね」
「御神輿渡しを真っ暗な中でやる。喧嘩も起きてね、賑やかだよ」

 不可解な表情を見せてしまったのだろう。総司は、「なに、はじめくん。夜這い行きたいの」と顔を覗き込んで来た。道行く人にも聞こえているだろう。やめろ。

「なに、赤くなってんのさ」
「やったことないの? まだ」
「なにをだ」

 よ、ば、い、

 総司は再び耳元で囁いた。からかわれておる。やったことないんなら、やってみる?はじめくん。

 日野には暫くいるんだしさ。ねえ、聞いてる?

 総司は一度言い出したらしつこい。

「俺は、日野には出稽古に来た。近藤先生のお言いつけだ」
「それ以外のことは、するつもりはない」
「あっ、そう」
「でもね、日野に居る間は、剣術以外の事、いろんな事手伝わされるよ」
「近藤先生には、彦五郎さんや土方さんの言いつけを守るようにって言われてんだから」
「それはわかっている」
「じゃあさ、土方さんに夜這いに誘われたら行かなきゃね」

 急に総司は噴き出すように笑いだした。自分が絶句した顔が余程可笑しかったのか、「そんな、青くなる事?誰もとって食おうって訳じゃないんだし」

 逆に、頂いちゃうんだから

 また、総司が耳元で囁く。「いいでしょ?」と確認するように顔を覗き込んで、さも可笑しそうに、くっくっくと笑っている。ほんと、はじめくんって。赤くなったり、青くなったり、忙しいね。総司は楽しそうだ。さぞ楽しいのだろう。人をからかいおって。自分はずっとだんまりを決めた。




******

佐藤道場

 それから府中を出て、数時間で目的地の日野宿本陣に到着した。よしずの壁の向こうが佐藤道場だと知らされた。通りから御影石が敷かれた上を歩いて、道場の入り口に廻った。目の前は立派な玄関構えの本陣屋敷。大きな池があって、外の通りは暑かったが、気持ちのいい風が吹き抜けて行った。

「御免、試衛館道場より参りました」

 総司が、大きな声で道場の入り口で挨拶をした。ちょうど稽古の休憩中だったのだろう。道場の奥で床に腰かけていた誰かが振り返って出て来た。

「やあ、いらっしゃい。宗次郎。今着いたのかい?」

 笑顔で近づいてきた男は、小柄で人の好さそうな男だった。男は丁寧に自分に会釈をして自分から名乗った。

「井上源三郎と申す。山口殿であったな。今、道場主の佐藤彦五郎さんは外出中で、夕方まで稽古をしておいて欲しいと頼まれていましてな」
「山口一と申す。宜しくお願いいたす」

 深く頭を下げて挨拶した。井上さんの案内で、道場の棚の前で荷物を解いて、着替えた。その間、井上さんはお茶の用意をして出してくれた。一息ついて、道場を改めて見回した。立派な檜作り。壁には「一心精進」の書。開け放たれた入り口から反対側の戸口に気持ちのよい風が吹き抜けていた。斎藤達が、素振りで身体を温め始めた頃、昼餉をとって来たという門人がぞろぞろと戻ってきた。総勢十名。皆、近隣の農家の者たちだという。総司が、井上さんに「源さん」と声を掛けた。

「今日、土方さんは来るの?」
「ああ、歳さんは、夕方に来ると言っていた」
「今日は、ずっと河原だろう」
「やっぱり?たぶん僕らも明日は河原だね」
「ああ、今が一番の収穫時だからね」

 井上さんはそう言って、「僕、ここで稽古してたいよ」とうんざりした顔でいう総司に微笑みかけた。

「宗次郎と山口君は石田村で大歓迎を受けるだろう。今夜はここに泊まるのかい?」
「うん、たぶんね。土方さんもじゃない」

 そうかい、そうかい。と井上さんは嬉しそうに笑うと、早速門人に声を掛けて稽古を始めた。総司と手分けをして、五人ずつの組を作って仕合いを行った。陽も傾きかけた頃、道場の入り口から、「おい、総司」と大きな声で呼びかける声が聞こえた。土方さんが仁王立ちで立っている姿が見えた。眉間に皺を寄せて、怒りの表情を見せていた。

「今日は、石田村に直接来いって言ってあっただろう」
「昼餉も用意して、お前らが来るのを待ってたんだ。なんで、来ねえんだ」
「僕ら、午後は稽古つけるつもりで来ましたから。ね、はじめくん」

 いきなり、話を振られて困った。頷こうにも、土方さんの厳しい視線を見ると、相槌も打てない。

「近藤さんにも、お前らにこっちの手伝いを頼むって許可はとってあるんだ」
「半日でも無駄に出来ねえ時期だ」
「それは、あくまでも、土方さんの都合の話で」
「僕もはじめくんも、近藤先生からは日野に稽古に出るようにって言われてんだから」

 そういう総司を土方さんは黙ったまま思い切り睨みつけていた。そこへ、土方さんの背後から誰かがやってきて声を掛けた。

「歳三、来ているなら、おとくに声をかけねば。あとで叱られても知らんぞ」

 声の主は、佐藤家の人のようだった。堂々とした様子は、名主らしく、外から戻ったままの羽織姿。総司が自分を手招きして呼ぶので、木刀を置いて入り口に挨拶に向かった。道場主でもあり、日野本陣を預かる寄場名主である佐藤彦五郎さんに紹介された。

「よく来られた。宗次郎と互角にやりおうた御仁だときいておる。是非、手合わせをお願いしたい」

 丁寧な様子で自分のような者にも深々と頭を下げた。「是非、こちらからもお願いします」と頭を下げるのが精いっぱいだった。

「おい、山口。日野は初めてだったな。今晩はここの母屋に泊まって行ってくれ」

 土方さんは笑顔で話す。ちょいと、姉貴に挨拶に行ってから直ぐ戻る。そう言って、土方さんは彦五郎さんと一緒に屋敷の玄関に向かって歩いて行った。それから、土方さんが戻るまでの小一時間、仕合の続きをやって稽古を終えた。門人たちは、皆丁寧に挨拶をして帰って行った。総司と一緒に道場の片付けをした後に、持って来た荷物をまとめた。

「今日は、僕もここに泊めてもらえるか訊いてみるよ」

 総司がそう言って微笑んだ。そうか、総司は親戚の家があると言っておった。この近くなのだろう。

「ここにいる間は、白米を思う存分食べられるよ。ひもじい思いはしないから安心して」

 そう耳打ちするように総司は云うと、井上さんに挨拶をして道場を後にした。日野本陣の母屋は立派な造りで、このように大きな式台のある玄関構えの屋敷に足を踏み入れるのは初めての経験だった。土間も自分の弓町の建屋がそっくり入るぐらいの広さがあった。上り口で、この屋敷の女主人である、佐藤とくさんを紹介された。

「俺の姉貴だ」

 土方さんが自慢そうに話す隣で、おとくさんは優しそうな表情で微笑んでいた。

「さあさあ、こちらへ。稽古の間は、この控えの間をお使いください」

 通された部屋は随分立派な書院づくりの部屋で、流石に緊張してきた。でも、総司はそんな自分を構うまでもなく、荷物を土間に放り投げるように置くと、どかっと仰向けになって寝転んだ。

「あー、疲れた」
「朝に布田を出て、着いてすぐに稽古したんだもん」
「何言ってんだ、今日は俺の家に来て、稽古は明日からだった筈だ」

 また土方さんは怒り出した。そこへ、おとくさんがお茶を乗せたお盆を持って戻って来た。

「おとくさん、今晩、僕もここへお邪魔していいですか?」

 総司はおとくさんが差し出すお茶をうけながら尋ねた。おとくさんは「ええ」と笑っている。「歳三も今夜は泊まっていくのだろうから」と言って、立ち上がった。それから、夕餉の支度が出来るまで風呂に入ってくるように言われた。立派な内風呂に驚いた。甲良屋敷を出てから風呂に入ったのは二日ぶり。気持ちが良かった。風呂から上がると、土方さんが子供と広間で相撲を取って遊んでいた。おとくさんの子供たちで、歳は七つの男の子と五つの女の子。土方さんは本気で子供を相手に遊んでいた。大声で笑い子供をかわいがる姿は、普段江戸で見る土方さんとは違う。身内だけに見せる姿なのやもしれぬ。そう思った。

 それから、夕餉の膳が並べられたもう一つの広間に呼ばれて、皆で食事を食べた。豪勢なおかずに白米。総司の言う通りだった。お腹いっぱいに食べた後は、彦五郎さんに勧められて、酒も飲んだ。土方さんは「明日も朝から、河原に行かなければならねえから」と言って、総司を促すと玄関に近い控えの間に自分の布団も用意させて、ごろんと横になった。総司と厠へ行ってから部屋に戻ろうとすると、既に広間も片付けられ行灯が消え、家中がひっそりと静まり返っていた。部屋に戻ると、土方さんが起きていた。

「それで、土方さんは。どこへ?」
「ちょいと、やぼ用だ」
「ふうん。それで?」
「姉貴が、俺がどこへ行ったと聞いてきたら。石田村に用を思い出して帰ったとでも言っといてくれ」
「朝までに戻れたら戻ってくる」

 状況を見る限り、土方さんはこれから出かけるようだった。少しそわそわとして見える。最後の行灯の灯を吹き消すと、「じゃあな」と暗がりで囁くような声が聞こえた。障子がそっと開く音がして、土方さんは出て行ったようだった。

暗がりの外に虫の声がする。
きりぎりすの声。もう夏だ。そう思った。

「はじめくん、起きてる?」
「ああ」
「土方さん、どこへいったと思う?」
「わからん」

総司が寝返る音がした。

よ、ば、い、

「夜這いさ。あれは行く宛てがあるね」

 囁くように顔を近づけて話す総司の声を聞きながら、さっきの土方さんの様子を思い出した。そうか、そうなのか。

「これからさ、過酷な河原での薬草摘みをさせられるけど。あんまりこき使うなら。今夜土方さんが夜這いにでかけたって事、おとくさんに告げ口するよ」

 くっくっくと暗闇に総司の笑い声が聞こえた。総司の悪だくみ。土方さんを脅す。恐ろしい奴だ。だが、総司がここまで言うのなら、薬草摘みは難儀な作業なのだろう。明日からか。それにしても、土方さんは家業の手伝いをして、道場稽古も行い、夜は、夜這い……。強い。強くて何よりだ。そう思った。隣で、総司が「河原に這いつくばって草取りなんて」「積年の恨みだよ、まったく……」などとぼやいている。

螽斯の声が聞こえ、心地よい風が庭から入って来る。
日野はよいところだ
江戸を離れての出稽古
明日からが楽しみだ

総司の声を聞きながら、だんだんと意識が遠のいた。




つづく

→ 次話 大股開き その2

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