寒椿
斗南にて その10
明治六年元旦 五戸の直家で
土間に立つことを許さない斎藤をなんとか宥めながら、台所から水で戻した芋がらを持って囲炉裏端に戻った千鶴は、丁寧にまな板の上で刻むと、ぐつぐつと煮る鍋の中に入れて微笑んだ。
「美味しそう。はじめさん、さあ、先に御酒を」
斎藤はにごり酒の杯を空けた。千鶴は嬉しそうに斎藤が飲み終わるのを眺めると、新しい年だと言って微笑んでいる。
二人で迎える元旦の朝。昨年の秋に千鶴の身に吉祥果が顕れた。それから暫くして子を宿していることが判った。この上ない悦び。二つ月を越した頃から始まったつわりは、朝に一番酷く、千鶴はだんだんと食が細くなり、今では一日一食を口にするのがやっとだった。斗南の冬は厳しい。秋にあった収穫はごく僅かなもので、米の支給は夏前にあったきり。千鶴は夏から秋にかけて作った保存食を工夫して、斎藤の食事を確保していた。ほとんど食べ物を口にしなくなった千鶴を斎藤は酷く心配し、「横になっておれ」と言っては、土間に立つことも、家の掃除に箒を持つことも許さない始末だった。つわりは辛いものだったが、子が出来た悦びはそれに勝った。それに千鶴は自分の食欲がない分、少ない食料を斎藤に回すことが出来ることを好都合だと考えていた。
囲炉裏の火で煮あがった鍋の蓋を開けると、なんとも言えない良い香りの湯気が広がった。小豆で炊いた粥。芋がらが入って量がたっぷりになった。お正月のご馳走。そう、確かに豪勢な食事だ。ここ数か月、米を食べることも控えなければならない生活だった。北区では飢饉で餓死する者も出てきている。なんとか春まで食い繋がなければ。斎藤は、雪深いこの土地で子を宿した千鶴が飢えながら過ごさなければならない事が辛かった。
「病ではありませんから」
「お腹に元気な子がいる証拠です」
つわりで顔色が悪い千鶴を心配する斎藤に千鶴は笑って答える。だが、年の瀬も近い頃から千鶴は水しか飲まなくなった。食べものは喉を通らないと言って笑う千鶴は、「大丈夫です」としか言わない。斎藤が「なんでも食べたいものを言ってみろ、町まで出て買ってくる」と言ってもただ微笑むだけ。雪解けまで到底町には出られない。千鶴は首を振りながら、「本当に何も欲しくない」、「はじめさんが代わりに食べてください」、そして優しく微笑みながら「お水だけが入りますので」と答えた。元旦は藩邸への出勤は休み。斎藤は今日こそは千鶴にゆっくりと食事をさせて楽にさせてやろうと思っていた。千鶴は早朝から起き上がり、僅かな米で粥を作る準備を始めたのを斎藤は自分が作ると言って炊事場に立とうとした。暫くの押し問答の後、ようやく斎藤は諦めて囲炉裏の前に座って、千鶴が食事の支度を終えるのを待った。
お椀によそった小豆の粥は格別に美味だった。芋がらも噛み締めるとほんのりと甘い。千鶴は、もっと食べろ、もっと食べろとおかわりをよそう。そんな千鶴は一口食べただけで、もうお腹がいっぱいだと言って笑う。自分が食べられない分、はじめさんが食べて下さるので。はじめさんが美味しそうに食べてらっしゃるのを見るのが好き。最後には、いつもそんな事を言い出す。
それでも日に日にやせ細って行く千鶴が斎藤は心配だった。腹の子の分も食べなければならぬだろうに……。斎藤は、食料に事欠く今の生活を恨めしく思った。千鶴が好きな物。甘味。そうだ、千鶴は甘いものが好きだ。京に居た頃は、団子や饅頭を好んで食べていた。屯所で留守番をする千鶴に巡察の帰りに土産に菓子を買って帰ってやると嬉しそうに食べていた。左之助や新八たちは、千鶴の喜ぶ顔を見るのが「なんか、こっちまで嬉しくなっちまう」といって、やれ蜜柑だ、団子だと買ってきては千鶴に渡していた。
斎藤は、なにか甘いものはないかと台所の物入れを漁ってみたが、見事になにもない。味噌、醤油、塩があるだけで、砂糖や蜜のたぐいは皆無だった。どうやって、どうすればよいのだろう……。斎藤は愕然とした。明日、藩邸に出向いた際、ご家老に頼んで糖蜜を分けて貰おうか。はて、ご家老が糖蜜をお持ちであるのかも判らぬ……。そんな事を考えているうちに陽も高くなってきた。斎藤は、翌日直ぐに出勤できるように準備しておこうと、雪かきをしに外へ出た。
辺りは朝の日の光を反射して眩しいぐらいだった。斎藤は、精力的に雪を掻いた。上着の上に巻いている襟巻も要らないぐらい身体が温まる。うまく道を造ることが出来た。振り返って母屋を見た時に、ふとその向こうに赤いものが見えた。家の裏手に咲く寒椿だった。降り積もった雪に埋もれるように枝を伸ばす先に一輪の花が咲いていた。真っ白な中の深紅。ふと、斎藤は思い出した。京の屯所、西本願寺に移って初めての冬に大雪が降った日の事を。
その日は、巡察もなく屯所の道場稽古を昼近くまで続けていた。稽古を終えて自室に戻ろうとすると、千鶴が部屋から綿入りの羽織を着て出て来た。廊下で出会った斎藤に、「お疲れ様です」と挨拶した千鶴は、お茶を用意しますが、その前にと言って中庭を指さした。
「あそこの寒椿。雪で花が落ちてしまう前に、蜜をいただこうと思って」
千鶴はそう言うと、草履を履いてそっと庭に降り立った。斎藤がじっと廊下から眺めていると。自分の背ほどの高さに咲いている寒椿の花びらをそっと摘み始めた。斎藤は、自分も草履を持ってきて庭に降りた。千鶴の傍に行くと、千鶴は一生懸命に背伸びをして高いところの花びらを摘もうとしていた。斎藤は千鶴の代わりに花を摘んでやった。
「まあ、斎藤さん。花を全部取られたんですか?」
そう言いながら、千鶴は両手でそれを大切そうに受けた。
「駄目だったのか?」
斎藤は尋ねた。千鶴は「いいえ、でも勿体ないです。こんなに綺麗に咲いているのに」
「蜜があるのだろう?」
斎藤は不思議そうに尋ねる。千鶴は「はい」と頷いて、手のひらの上の花からそっと一枚花びらをちぎって斎藤の顔の傍にもってきた。
「ここ、この花びらの根本の白いところ、ここに蜜が入っているんです」
斎藤は花びらの付け根の部分をよく見てみた。小さな袋になっている。千鶴は、斎藤の口元に花弁を持ってくると「ここを吸ってみてください」と言って斎藤に咥えさせた。確かに、ほんのりと甘い蜜が口の中に拡がった。花の香りと甘さが何とも言えない。
「甘いですよね。椿の蜜」
千鶴は嬉しそうに言って、また花弁をちぎると自分の口元にもっていって、花びらの根本をついばむように吸っている。真っ赤な花びらを咥える桃色の唇。伏し目がちな瞳には、長い睫毛が下りていて、唇をすぼめて、次々に花びらを吸う姿はいつもの幼い姿とは違って見えた。「斎藤さんも、どうぞ」と言って、花を差し出す千鶴は顔を上げて斎藤を見上げて来た。大きな黒い瞳と眼が合うと、斎藤は心の臓が固まるような感覚がした。また、千鶴は花弁を一枚そっと抜き取ったものを斎藤の口元にもってくる。斎藤はぼーっとしたまま、されるがままに口に含んだ。黒い瞳と花の香りと甘い蜜の味。何度か口に花びらを運ばれているうちに、千鶴がくすくすと笑っているのに気がついた。
「わたし、蜜蜂みたいですね」
こうして斎藤さんに蜜を運んで……。そう言って笑っている。斎藤は恥ずかしくなってきた。自分は何をやっておるのだ。
花の蜜ごときに呆けて……。
そう思ったが、千鶴が嬉しそうに頭を下げて高い場所から花を摘んでもらった事のお礼を言うので、斎藤は自分でも顔が赤くなっているのがわかったが、「ああ」「造作ない」とだけ答えて踵を返して廊下に戻って行った。千鶴がそのあとを追いかけて来て、すぐに熱いお茶を煎れて持ってまいりますと、台所に向かって走っていった。
(そんな事があった……)
斎藤は赤い椿の花をみながら、懐かしく思い出していた。家の裏まで半間、四半刻もあれば雪は掻けるだろう。斎藤は張り切って雪を掻いた、段々と我慢できなくなって、雪をかき分けて思い切り椿の枝に向かって飛び込むように向かって行った。柔らかい雪の中で、全身でもがいている内にやっと椿の花を手に取ることが出来た。そっと、両手で包み込むように花を持つと、転がるようにして母屋まで戻った。
「はじめさん、」
千鶴は、玄関の引き戸から雪まみれで入ってきた斎藤を見て驚きの声をあげた。いつもなら
庇の下で雪を落として入ってくるのに、両手で大事そうに何かを持ったまま、はあはあと荒い息をしている。千鶴は持って来られるだけ手ぬぐいを持ってくると、斎藤の雪を払って、頭の上から手ぬぐいで拭き始めた。
「椿だ。蜜をとってきた」
嬉しそうに笑う斎藤は、手のひらを開いて深紅の花を千鶴に見せた。千鶴は「まあ」と感嘆の声をあげた。そっと斎藤の掌ごと両手で抱えるように持って喜んだ。
「綺麗、この寒さの中、こんなに大きな花が咲いているなんて」
千鶴は嬉しそうに花を見詰めていた。斎藤は、花弁を一枚抜き取って千鶴の口元にもっていった。千鶴はついばむように花の蜜を吸うと、「甘い。とっても甘いです」と言って自分でも一枚花びらを抜き取って斎藤の口元にもっていった。斎藤は「俺はいい、千鶴が吸えばいい」と言って、花びらを手に取ると再び千鶴に咥えさせた。千鶴は、嬉しそうに蜜を吸い取ると、
「有難うございます」
そういって斎藤の濡れた髪や洋服を丁寧に拭き始めた。そして、手ぬぐいで丁寧に寒椿を包むと、囲炉裏端に置いて斎藤の着替えを手伝った。上着の襟の裏にまで雪が詰まっているのを見て、花を取るためにどれほどの苦労をしたのかが判った。千鶴は斎藤の優しさに心の底から感謝の気持ちが沸き起こった。千鶴を囲炉裏端に座らせ、もっと蜜を吸えと云う斎藤は、丁寧に花びらを抜き取っては千鶴の口に運んで、次々に蜜を吸わせた。
はじめさんも、吸ってください。とっても甘くて美味しい。
千鶴は自分でも花弁を斎藤の口元に持っていくが、斎藤は最後まで頑なに拒んだ。そして、最後の花弁も千鶴に吸わせると、優しく千鶴の両頬を温かい掌で包むようにして自分の方に千鶴の顔を持ってくると、その愛らしい唇にそっと口づけた。最初はついばむように。そして深く舌を絡め合わせて……。
千鶴は斎藤の背中に手を伸ばした。抱きかかえられるようにずっと口づけを繰り返しながら、甘い蜜の味を二人でじっくりと味わっていた。
温かい抱擁にほのかに薫る華やかな椿の香り
ささやかな、それでいて掛けがえのないこのひと時
子を迎えることになる年の元旦、斎藤と千鶴はこうして互いに二人で居られる悦びを感じながら囲炉裏端でずっと抱きしめ合って過ごした。
つづき
→次話 斗南にて その11へ
(2019.01.01)