福良宿陣

福良宿陣

戊辰一八六八 その17

慶応四年六月

 牧野内村で休陣していた新選組の元に土方から伝令が届いた。

 喜徳公出陣につき
 福良まで赴き候
 依って直ちに転陣されたし
 土方歳三
 会津新選組小隊 山口二郎殿

 伝令の書状には、島田魁をはじめ、負傷している隊士四名を福良の千手院に入院させる手筈が整っていると書かれてあった。斎藤は隊を引き連れて、その日の内に牧野内を出立し、長沼経由で三代宿まで移動した。この時、再び土方から伝令が届き、喜徳公への拝謁が許されたと知らされた。斎藤は、新選組百名の名簿を急ぎ準備して隊士たちに演習披露の可能性があることを伝えた。

 福良に到着すると、斎藤は陣屋に相馬主計が早馬で駆け付けた姿を見た。

「隊長、お役目ご苦労様です」

 馬から下りた相馬は、深々と斎藤に頭を下げて挨拶をした。日焼けした相馬は、城下から駆け付けたらしく、早口で城下の様子と土方の容態を斎藤に報告した。

「土方さんは、立ち上がって数歩だけ歩けるようになりました。足を崩して座されています」
「喜徳公に随行すると、寸前まで準備されていましたが、輿の用意に手間取ってしまって」

 斎藤は、土方が野村と一緒に城下に待機していると報告を受けると、そのまま相馬と一緒に隊士を整列させて、喜徳公へ謁見する為に本陣に移動した。本陣の玄関に姿を現した喜徳公は、洋装の軍服に身を包み、新選組の善戦を労った。そして、負傷者を手厚く看護し次の戦まで福良で英気を養うようにと命を下した。隊士たちは、痛く感激して深々と頭を下げて本陣から下がった。

 相馬は千手院に馬で移動をして、千鶴が看護する島田魁の元に向かった。島田は肩の傷が全快するまで暫くかかるようだった。相馬は横になっている島田に、土方から養生するようにと伝言した。島田は、「戦に出られなくて忝い」と呟いた。

「土方さんも、足の傷を治されることに専念されています」
「数日のうちに、再び白河への出陣の命が下りるようです。会津より新たに三隊が出陣して参りました」

 相馬が千鶴と横になっている隊士たちに、「きっと同盟軍が白河を取り返します。安心してご養生ください」と声を掛けた。そして、斜め掛けしていた内飼袋から、包みを取り出し、「薬草を持って来ました」と言って千鶴に手渡した。

「有難うございます。これだけあれば、当分は大丈夫です」

 千鶴は、薬草の包みを確かめると、相馬に礼を言った。牧野内から薬草が不足していると千鶴が送った書状が無事に相馬たちの元に届いていた。相馬は、本陣の軍議に出なければならないと直ぐに席を立った。千鶴は、昼三つまで怪我人の世話をしてから、陣屋に戻った。隊士たちの夕餉の仕度をするつもりで、お勝手に行こうとすると、廊下で再び相馬に会った。

「良かった。先輩、これから千手院に行こうと思っていました」
「少し、よろしいですか」

 相馬は、きょろきょろと辺りを見回して、空いている部屋がないか探しているようだった。だが、廊下沿いの部屋はどこも人が居て、仕方なく相馬は、千鶴を手招きしてお勝手口から建屋の裏に出た。

「先輩、さっきあまり話せなかったので」
「土方さんのことで。足の傷のことを先輩に訊きたくて」

 相馬は、千鶴を見下ろすように立ったまま小さな声で話し始めた。

「実は、まだ良くなってはいらっしゃいません。中が膿んでしまっているようで……」
「長い時間、正座ができない状態です」
「薬草は? 敗醤根は飲ませてる?」
「はい、どくだみも」
「それなら、同じ分量を四回にして、朝昼夕と寝る前にも」
「東山では飲泉をしているって言っていたけど、どれぐらい?」
「朝に一度だけです」
「源泉に近い場所に連れていっても駄目かしら……」
「源泉ですか」
「うん、飲泉するなら。源泉に傷口を浸けて。湯上りにお湯を飲ませて」

「お医者様に、【蘇子降気湯】を出して貰った?」
「もし、手に入るなら、それも朝と晩に」
「食事も、鶏の水炊きを宿で出してもらえればいいのだけれど。傷にはとてもいいの」

「城下の寺屋町に放し飼いされてたでしょ。小ぶりだけど軍鶏が沢山。あれを絞めて羽を毟れば、その日の内に鍋にできるから」
「暑いから進まないかもしれないけど。出汁を冷ましたものも飲ませてね。土方さんは、お葱を浮かせれば喜ぶから」

「あと包帯を、重ねて巻かないように、空気が通るように」

 千鶴は、相馬を連れ立って急ぎ陣屋の奥にある自分の部屋に入って行った。千鶴は、紙と矢立を出すと、文机の前に座って、さらさらと薬草と手当て法を書くと、丁寧に畳んで相馬に渡した。そして、おもむろに自分の右足を立てて座り、「ここに、添え木をあてて挟んで、晒しで固定して、足をお布団から出して眠るようにしてください」と教えた。相馬は千鶴の小さな足や華奢な踝を目にして、初めてまざまざと千鶴の裸足を間近に見ていることに気付き狼狽した。

「通気が大切です。傷口が乾いているなら、中が癒えるようにもっと乾かす必要があります」

 千鶴は、丁寧に添え木と肌との間に隙間を作るようにと何度も念を押した。相馬は千鶴の肌を直視できないで、半分眼を瞑ったまま、あらぬ方を見て何度も「はい、わかりました」「はい」と繰り返している。そこへ、襖が勢いよく開いた。

「あれ、雪村君。ここに居ましたか」
「隊長、居ました。こちらに」

 吉田俊太郎が廊下に顔を出して斎藤を呼んでいる。暗い廊下から斎藤の顔が見えた。斎藤は、一瞬目を大きくしたと思ったら、そのまま固まったように廊下に立ちすくんでいる。

(なにをしている)

 相馬の膝の上に、裸足の足を載せて。
なにゆえ、そのような。

 千鶴は、吉田と斎藤がじっと立ったまま自分の恰好を見ていることに気付くと、慌てて足を袴の裾で隠すようにして引っ込めた。相馬は耳まで真っ赤になってじっと正座のままだった。

 気まずい沈黙。誰も何も言わない。一瞬だが、おかしな空気が走った。

「ありがとうございます。城下に帰ったら、早速土方さんの足に添え木をします」

 相馬が突然大声で叫んだ。素っ頓狂なその声は、廊下にも響き渡った。そして、そのまま勢いよく立ち上がった相馬は、大きな身体を二つに折り曲げるように深く頭を下げて「有難うございました」と挨拶すると、しゃっちょこばったように踵を返して、廊下に出た。

「それでは、失礼仕ります」

 そう言って斎藤達に頭を下げると、右足と左足、右手左手を奇妙に交互に出しながら廊下を進んで、そのまま陣屋から飛び出し、馬に跨って消えてしまった。

「あれま、なんなんでしょうね。相馬さん。随分お急ぎでしたね」

 奥の間に残った千鶴も、それを廊下から見下ろしたままの斎藤も黙ったままだった。吉田は、何も応えない斎藤と千鶴を放ったまま、隣の部屋に繋がる襖を開けて移動すると、鼻歌を歌いながら荷物を解き始めた。

「わたし、夕餉の仕度をして参ります」

 千鶴は立ち上がると、斎藤に頭を下げるようにして横をすり抜けて行った。廊下を曲がった千鶴の背中が見えなくなって、斎藤は千手院の怪我人の様子を訊ねようとしていた事を思い出した。だが、勝手口に千鶴を追いかける気にはならず。ずっと立ち尽くしたまま。

 さっきのあれは……。
 真っ赤になって。相馬は明らかに取り乱しておった。
 なにゆえ……。
 足に……触れておったのか……。

 斎藤は、踵を返すように、廊下を反対方向に歩いていった。玄関の上り口でそのまま草履を履いて外に歩いて行った。どこに行く当てもなく、ただ通りを歩いた。気づくと、集落の端まで来ていた。西の空は茜色に染まり、山影はずっと伸びて、少しずつ薄暗く広がり始めていた。

 一刻も早く、前線に出られるようにする。

 これが、軍議で伝えられた土方の意向だった。福良で土方に会えると思っていた斎藤は、土方の歩行移動がままならない状態を知って愕然とした。福良は一番大きな布陣先。だが、白河攻めには距離が離れ過ぎている。こんな場所でこまねいては居られぬ。出来るだけ早く白河を奪還して、新政府軍の進軍を止める必要がある。

(安心して土方さんに養生して貰えるように)

 心の中には、喜徳公からの激励の御言葉もあった。

 殿の命とあらば、明日にでも白河を奪い返して見せる。

 斎藤は、漸く気持ちが落ち着いてきた。陽が山の向こうに完全に落ちて、辺りは暗くなってきた。斎藤は、また来た道を引き返すように陣屋に戻った。千鶴は、既に広間に隊士たちの食事を用意していた。そして、廊下に斎藤の姿を見つけると、部屋にお膳を運んで給仕し、斎藤も膳の前に座った。二人とも互いに先刻のことは何もなかったかのように振る舞った。

「島田さんたちは、あと十日もすれば、刀を振るえるようになります。その頃には傷も完全に塞がっているので、荷物を肩にかけても大丈夫だと思います。」
「心配はありません。千手院はとても清潔で、風通しがよく涼しい場所でした」

 斎藤は黙って頷きながら、箸を進めている。

「心配なのは、ご城下にいる土方さんです」
「傷の治りが遅いらしくて……。先月、二度、発熱されたそうです」

 斎藤は、箸を止めて顔をあげた。千鶴は、湯飲みに冷たい麦湯を注いだものを斎藤の膳にそっと置きながら、話を続けた。

「相馬君に、必要な薬湯と、東山に行かれるなら、源泉に近い場所での湯治をお願いしました」
「飲泉もちゃんとされているみたいです。お薬の種類が足りないだけかもしれません」
「眠る時に、傷口にちゃんと空気が通るように、添え木をあてて……」
「相馬君と野村くんが、二人でお世話をしているので、心配はないと思うんです」

「明日、人馬を手配する」
「あんたには若松へ戻ってもらう。土方さんの世話をして欲しい」
「でも、あと数日で、行軍するって」
「ああ、俺等はたぶん馬入峠へ向かう」

「羽鳥から白河へ、西から攻める予定だ」
「それでしたら、若松へは戻れません」

 千鶴は即座に答えた。「わたしも羽鳥へ行きます」と言って。口をぎゅっと閉じている。これは、千鶴が何かを決めた時の仕草だった。

「行軍はせずともよい。いずれにせよ、ここに待機して千手院の怪我人の世話を頼むつもりでいた」
「土方さんの容態が悪いなら、若松へ戻って手当てを頼みたい」
「新選組の指揮に、土方さんには一刻も早く復帰してもらわねばならぬ」
「でも、もし行軍先で、怪我人が出たら」
「応急手当をしても、福良まで移動するには時間がかかり過ぎます」
「せめて、半日で辿り着ける場所に。でないと、手遅れになってしまいます」

 斎藤は、首を横に振ろうと思ったが、千鶴の言い分は最もだと思った。馬入峠は険しい。白河から羽鳥に辿り着くだけでも、山間を丸一日速足で進まねばならない。

「土方さんのお傍には、野村君と相馬君、ご城下にはお医者様もいらっしゃいます」
「ですが、隊の軍医は大谷様お一人。手当の出来る者は私しかおりません」
「昨日作った隊の名簿を見て思いました。今、行軍されるのは、七十二名」
「万が一、七十名の方が負傷されて、おひとりずつ手当をしても、半日以上かかります」
「それを、私が欠けて、大谷様だけですと、丸一日はかかるでしょう」
「縫い傷、銃創、銃弾が身体に入っている場合は、助手が必要です」

 ですので、私は会津には戻れません。隊に随行します。

 千鶴は、きっぱりとそう言って口を真一文字にギュッと結んでしまった。斎藤は首を縦に振るしかなかった。

「七十二名、全員が酷い傷を負うわけにはいかぬな」

 斎藤は微笑みながら千鶴にそう言うと、残りの飯をかき込むようにして食事を終えた。千鶴は、相馬から新しく薬草の補給もして貰えたと斎藤に報告すると、お膳を下げて部屋から出て行った。斎藤は、小さく溜息をついた。



****

 それから三日後の午後、新選組は福良を出発し、太平口へ向けて出兵した。

 馬入峠は険しく、本道でさえ荷車一台がやっと通るぐらいの狭さだった。行軍は二列で進んだが、時折岩場が続き往生した。隊列の殿を斎藤が荷車を押して、千鶴と一緒に進んでいたが、途中から間道進軍を行うことにした。五月の内に、二本松藩の十六ささげ隊、仙台藩の鴉組と開拓した秘密の獣道。更に道が狭くなるが、林の中で土の上を進むことが出来た。道標は、斎藤と歩兵指図掛かりが持っている秘密の道図を辿っていくと探すことが出来る。斎藤は、千鶴から離れて隊の先頭に立って、道案内をすることになった。斎藤は鬱蒼とした木々の暗闇から的確に道を見つけていく。皆は、足早に進む斎藤の背中の荷物に結んだ、白い襷を目印に必死に後ろを付いて行った。

 夜明け頃、ようやく羽鳥村に辿り着いた。山道が緩やかになったところで、隊列を三列にして一気に大平村まで進んだ。千鶴は、村落の空き家に待機することになった。斎藤達は、半刻の休憩の後に隊列を組んで村落の西側に出て、西の山の山道を一気に駆け上がって行った。山頂から山襞を柏野に下り、米村を通って白河城の西側を流れる堀川に辿り着いた。

 すでに陽は高くなっていた。河岸を金勝寺山めがけて足早に進み、山麓で薩軍と刀を交えた。阿武隈川と堀川の合流する州には、防塁が張りめぐされている。斎藤たちは、斬り込み隊として敵陣を攻めた、金勝寺山から攻める米澤藩兵の砲撃に対して、薩軍は砲弾で反撃を繰り返した。日差しが厳しく、形勢は不利だった。米澤兵が後退し始め、新選組と会義隊も徐々に金勝寺山に後退していった。午後も攻防が続いたが、敵の強固な西の台場を崩すことが出来ず、斎藤たちは陽が暮れ始める前に退却した。

 それから千鶴の待機する大平村で三日間休陣した。新選組に負傷者は一人もでておらず、千鶴は兵糧と食料調達の為に、隊長付きの吉田俊太郎、池田七三郎を連れ立って、羽鳥の山間部の集落を廻った。福良より伝令で、羽太口で待機するように命を受けた斎藤は、隊を整えて、会義隊と共に羽太村まで行軍した。それから二日後、後続で辿り着いた仙台、二本松、会津三隊と合流して大きな隊となった。

 翌日の六月十二日、新選組は、会津上田隊の朱雀三番士中隊の後方を会義隊と一緒に柏野村を進み、雷神山へ突入。敵兵と真っ向で斬り合い攻防を続けた。上田隊は、竜虎の如く敵を蹴散らした。雷神山の北側を占拠した会津兵は、後方の柏野村に敵軍が東側から攻め入っていると報告を受けた。ただちに斎藤は隊を引き連れて、会義隊と共に大熊川台場に向かった。柏野の村落は火の海となっていた。間道を東側から廻った斎藤達は、敵が大熊川沿いに築いた砲台に接近した。

「砲撃を止める。陣形を紡錘にとって斬り込む」
「敵の進行をこれ以上許してはならん」

 斎藤の掛け声とともに、一気に斬り込んだ。敵兵は斎藤の率いた小隊が飛び込んで来た時、怯むように砲撃を止めた。すると、抜刀兵が砲台の後方から飛び出し応戦を始めた。斎藤達が斬り合う背後から、会義隊大隊が支援に駆け付けた。有難い。一気に優勢になった味方の軍は、敵の防塁を崩す勢いで前に進んだ。遠くに喇叭の音が響いている。敵からの砲撃が再び始まり、斎藤たちは一旦川から離れて砲撃から逃れた。川を挟んで、互いに睨み合いが続いた。

「砲門の数からみて、敵の一小隊は援軍待ち」
「日没が近い」

 背後から会義隊隊長長の野田の声が聞こえた。斎藤は既に会義隊の隊列が背後の山に向かって退却の為に整えられている事に気付いた。野田は一歩前にでて斎藤に近づいた。

「先刻、東の山から聞こえた喇叭は薩摩軍の退却合図だで思われます」

 野田の判断は正しかった。間もなく砲撃が止んで、大熊川台場での戦いは引き分けとなった。新選組と会義隊は敵軍が退却していく様子を確認した後、羽太村の関屋まで退却した。

 この日から、小雨が続き、斎藤達は関屋での待機を命じられた。その間、仙台藩と二本松藩兵の小隊が進軍し、白河城の西の防壁で攻め続けたが、思ったような成果は得られなかった。



*****

芦野宿本陣 居語り

 白河で同盟軍と新政府軍の攻防が続く中、風間千景と天霧は芦野宿本陣に待機していた。

 新政府軍の侵攻で白河城下および周辺の村落は焼き討ちに遭い、薩摩、長州、土佐を中心に結成された東征軍が城を占拠している。風間は戦火を忌み、白河より五里離れた芦野に潜伏している。薩摩より再三にわたり東征軍への参加を命じる書状が届いているが、風間は返答さえせずにいる。

「白河の総督府より登城するよう伝令が参りました」
「援兵が続々と常陸の国より上陸しているそうです」

 天霧が報告をしても、風間はずっと沈黙したまま。ここひと月の間、風間は西国の鬼の郷に戻ることが叶わず、鬱積していることを天霧は十分に理解していた。東征軍として薩摩藩は既に北越を攻略しかけていた。藩命により風間は、越後以南の広い範囲での偵察の任に就いて居る。五月に起きた江戸上野の戦で新政府軍が勝利。その後、江戸周辺の諸藩は次々に新政府への恭順の意を表明している。薩長軍と同様、東山道から陸奥を征する為に、進軍していた土軍は今市で戦をした後、芦野を素通りし棚倉を目指していた。

「不知火は戻らぬのか」

 風間は天霧に顔を向けて訊ねた。これは、ここ数日で初めて風間が発した言葉。天霧は首をゆっくり横に振って応えた。風間は再び、考え込むような仕草で脇息に凭れたままでいる。天霧は風間が考えに耽る様子を見て、静かに部屋から下がって行った。

 江戸で起きた戦を見届けた不知火は、小岩の関所で土佐藩一小隊として羅刹を率いていた南雲薫の進軍を防いだ。だが不知火の懸念は、南雲薫の北上だけではなかった。

「今市の土軍は、あの迅衝隊が率いているが、破竹の勢いで進軍している」
「まさかとは思うが、棚倉に羅刹の別働隊が向かっている可能性もある」

 不知火がそう言って棚倉に向かったのは、三日前の夜。以来音沙汰はない。六月に入ってから、同盟軍の仙台、二本松、会津の合兵が果敢に白河を攻めていた。風間は、長岡城下に布陣する薩軍に伝令に訪れる度に、白河から会津藩境をゆっくりと偵察して廻った。

 白岩の鬼塚の結界は破られてはおらぬ。

 深緑の中を駆け抜けながら、風間は東国の鬼の郷が荒らされていない事を確かめていた。不知火が討った南雲薫は、雪村の直系尊属。南雲薫が生きて白河に来れば、鬼塚の結界を解くことも叶っただろう。

 不知火が持ち寄った南雲薫の形見。

 風間は鬼の仕来りに従って、南雲の黒々とした遺髪を白岩の山中に葬った。傍に雪村鋼道の墓もある。雪村薫。双極の星の命運。高貴な雪村の血を引きながら、鬼の力を持たぬ男鬼。それゆえ、その身を呪い、身内を呪い、己を滅ぼした。

 愚かな者。

 然れども十七年前、東国の里が人の手によって荒らされなければ、雪村の男鬼も平穏に生きることができたであろう。

 兄妹で手と手を取り合い、静穏で平和な郷を守った筈。

 夕暮れ前の驟雨で庭木や廂から雫が濡れた苔の上に落ちるのを、ただ風間は黙って見詰めていた。

 不知火が棚倉から芦野に戻ったのは、夜更けの事だった。

「土佐が棚倉を取った」

 どかりと足を投げ出して、座敷に腰かけた不知火は疲れた様子を見せていた。間もなく座敷の廊下から陣宿の女中が膳を用意したと声を掛けてきた。天霧が指示をして、軽い食事と酒の肴が運ばれた。風間は遅い食事を不知火と取りながら白河から常陸にかけての情勢を詳しく聞く事にしたようだった。

「迅衝隊ってのは、噂に聞いていたが強靭だ」
「長崎から仕入れた七連発小銃を大量に持っている」
「スペンサーカービンだ」

「棚倉は、城を包囲された途端直ぐに白旗を揚げた。棚倉が墜ちれば、浜側の藩はひととまりもねえ」
「常陸も平潟から新政府の援軍が白河に向かって来ていると聞いています」

 天霧が話すと、不知火は天霧の杯に酒を注いで、「浜側の藩を固めたところで、一気に北上するだろうな」と応えた。

「黒田の話では、庄内がなかなか墜ちぬ。仙台が援軍を送れば、二本松、会津が決戦地となるであろう」
「迅衝隊は、今どこにいる」
「土佐はまだ棚倉だ」
「仙台田村家はどうしている」

「全く動いていない。藩領一関は強い結界で守られている。たとえ迅衝隊が攻めても、近づくこともできない」

 鬼塚の結界。

 仙台田村家は古より東国の地頭を務める。東国の鬼塚を司る田村家は、その強い結界で雪村の郷と繋がっている。不知火は、仙台田村家の一関が荒らされない限り、鬼塚の結界は破られることはないと断言している。

「この地域一帯、浜側を新政府軍が占拠すれば、会津、米沢が孤立する」
「会津が焼き討ちに遭う」
「雪村の郷か……」

 それまで寛いでいた不知火の顔が真顔になった。子供の頃に見た鮮明な記憶。山里一帯が焦土となり、廃墟だけの無残の地となっていた。人が鬼にした仕打ち。郷も鬼も人に追いやられる。日の本に鬼の生きる地は無くなる。

 ならば鬼の生きる土地を探せばいい。

 子供心にそんな事を思った。元服と同時に出奔を決意したのは間もなく。不知火は日の本を発った。以来、世界中を飛び回わるようになった。諸国漫遊の士。風来坊。根無し草。風間は一所に落ち着かない不知火を皮肉るようにそう呼ぶ。だが不知火は日の本の鬼の郷が荒らされることを西国の鬼の棟梁以上に忌み嫌っていた。

「迅衝隊を監視する。奴らが白岩に向かうことがあれば阻止する」

 不知火は杯をぐいっと空けると、心を決めたように立ち上がった。腰に短銃と短剣を指し、上着を羽織ると身仕舞を整えた。

「土軍が白河に援軍を送れば、一気に会津を攻めるだろう。薩摩の残兵も江戸から北上している」
「薩摩の動きを知らせてくれ」

 不知火は風間と天霧にそう念を押すと、開け放った障子の向こうに風のように消えて行った。風間は、ずっと沈黙を続けたままだった。天霧は風間からの指示を待ったが、「今宵はもう休め」と言われ、そのまま部屋を下がった。

 翌日、風間は藩命に従い、ほぼひと月ぶりに白河城の東征軍参謀府に赴いた。



つづく

→次話 戊辰一八六八 その18




(2020/05/24)
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