緑の森の中で
FRAGMENTS 11 冬
初釜
ヨーロッパから戻って初めての正月。雪村鋼道は、ゆっくりと自宅で過ごした。三日の午前中に、風間千景の邸宅で開かれる初釜に呼ばれていた為、 鋼道は大島紬の羽織を纏い、 千鶴も母親の形見の振袖を着て一緒に出掛けて行った。
風間邸は広大な敷地の一角に茶事の為の茶室と庭園が設えてあり、多くの門人が華やかな着物姿で集まっていた。千鶴たちは、天霧の丁寧な出迎えを受けた後、茶室から離れた小さな庵に案内された。静かに主人の風間千景が座って二人を出迎えた。千鶴たちは、床の軸や結び柳に蓬莱飾り、点前座を鑑賞した後に座すると、風間千景が黙礼の後、お祝いの挨拶を行い、流麗な様子で初炭のお点前を披露した。その見事な振る舞いに、雪村鋼道は感心し千鶴は緊張しながらお茶を飲んだ。風間に促されて、庵の隣に設えられた部屋に案内され懐石を振る舞われた。
父娘二人きりの座敷に、門人の女性が静かに運ぶ茶懐石は、料理も器も見事だった。強肴が振る舞われた時に、風間が自らお酒を雪村鋼道にすすめ、その後に千鶴にもすすめた。朱塗りの杯に口をつける千鶴を風間は目を細めて微笑みながら、正面から見つめていた。ゆっくりと黙礼した風間は、次に運ばれてきた主菓子を振る舞うと静かに退席していった。
「もう長く茶事には出ていなかったが、実に見事だ。日本に戻ってよかった。こうして、晴れやかな席で千鶴と一緒に初釜を祝えるのが」
「母さんが居たら、どんなに悦んだことだろうね」
鋼道は感慨深い様子で、隣に座る千鶴に微笑みかけた。千鶴も母親を思い出していた。まだ千鶴が幼かった頃、母親はいつも着物姿で和室に座っていた。とても綺麗だった母さま。懐紙の上で小さく切った菓子を千鶴の口に運んで、「美味しいね」と優しく笑っていた。茶道を愛した母親は、千鶴が大きくなったら、一緒にお点前を楽しむのが夢だと生前語っていたと父親から聞いて育った。
母さまの事を忘れないため。
10歳になって、千鶴はお茶のお稽古を始めた。試衛館道場での剣道と同じぐらい稽古に励んでいた。高校生になってからは、週に一度しか通えなくなったが、茶道はずっと続けたいと思っている。去年は受験があったため、お稽古先での初釜には出られなかった。父親と茶事に出る事など今までも一度もなかった。千鶴は、忙しい父親がこうして時間を割いて一緒に過ごしてくれることが嬉しかった。本当に、母さまが居たら。どんなに楽しかっただろう……。
花びら餅を頂いた後、風間の門人に呼ばれて再び庵に入った千鶴たちは、風間の点てたお濃茶を飲んだ。まだ緊張の解けない様子の千鶴に風間は優しく微笑みかけた。
「この庵は、家の者だけで寛ぐために設えた。ゆったりとしているとよい」
風間の声は、優しく千鶴を包みこむように静かに響いた。雪村鋼道は、「素晴らしいお点前だ。風間さん、日本に戻って来られた事を嬉しく思います」と改めてもてなしへの礼を述べた。風間は、ようやく雪村父娘を邸宅に呼ぶことが出来たのが嬉しいと応えた。
「研究センター設立は、四月だが。センターが開設すると忙しくなる」
「その前に、婚約の儀を結ぼうと思っている」
風間は美しい所作で道具を仕舞いながら、鋼道を見詰めた。雪村鋼道は、背筋を伸ばしたまま、「はい」と答えた。千鶴は、二人が何の話をしているのか全く理解できていなかった。
「風間さん、千鶴はまだ学生の身。お約束は悦ばしい事ですが、嫁ぐには」
「障りがあると」
風間は落ち着いた様子で尋ねた。雪村鋼道は「いえ、そういうわけでは」と言葉を濁している。そして、そっと隣に座る千鶴を見ると、「まだまだ子供でして」と苦笑いをするような表情を見せた。
「私は、そうは思ってはいない。春先に婚約の儀を結んで。婚儀は卒業まで待ってもよい」
「お嬢さんは学業にも非常に励んでおられる」
千鶴は優しく自分に微笑みかける風間を見て、口を開いたが言葉が出て来ない。一体、父さまも風間さんも何を言っているのだろう。婚儀。婚儀って、結婚のこと? 余りの驚きに、目の前の光景全てが、現実の事とは思えない。自分の背後から射す障子紙越しの柔らかい光も、薄暗い一角に座っている風間も、畳や茶釜、茶道具、全てが悪い夢の中の風景のように思えた。
「風間さんのような立派な方のもとへ、そのような事が叶うなら。こんなに喜ばしいことはございません」
雪村鋼道の声が聞こえて来た時、千鶴は、「待って」とようやく言葉が口から出て来た。
「待って、待ってください」
「なにの話をしているの。とうさま」
「千鶴、風間さんは、以前からお前を伴侶に迎えたいと仰っておいでだ」
優しい父さまの声が響く。「これは、母さんも望んでいたことだ。千景君が宗家を継ぐことになったら、お前が嫁ぐことを、千景君の御母堂と約束をしていたのだよ」
千鶴は、父親が何の話をしているのか全く理解ができない。母さまと風間さんのお母様との約束。そんな話、初めて聞いた。一体何のこと? 父さま、わたしには、わからない。どうして、風間さんと私が勝手に決められた約束で。
千鶴は、いつのまにか腰を上げてしまっていた。着物の袖を捌くような恰好で、急に立ち上がると、立ったまま頭だけを下げて座敷を横切った。作法も礼儀もなかった。ただ頭が混乱している。
「すみません、失礼します」
これ、千鶴。戻りなさい。そう叱責するような父親の声が背後で聞こえたが、千鶴は、立ったまま障子を開けて庵の外へ出た。急いで草履を履いて庭を横切り、茶室の玄関に駆けこむと、クロークからショールと荷物だけを受け取って、走り去るように玄関門に向かった。天霧が後を追って引き留めたが、千鶴は深く頭を下げて、もてなしへの礼と、途中の退席の非礼を詫びると踵を返すように走り始めた。
「お待ちを。今車を用意いたします」
「千鶴様」
天霧の声が聞こえたが、千鶴は「いいえ、結構です」と振り返って頭を下げることしかできなかった。涙をみせて、取り乱している様子の千鶴を見た天霧は、それ以上追いかける事を止めて、ただ立ち尽くしていた。草履で一生懸命に走ってその場から離れようとしている千鶴を、天霧は気の毒に思うしかなかった。一体、庵で何が起きたというのだ。風間と共に天霧は、周到に雪村鋼道親子を迎える準備を重ねて来たというのに。何が起きた。天霧は、急いで邸宅の中に戻った。そして、庵で雪村鋼道が風間の振る舞う薄茶を飲みながら語らっているところへ、「お嬢様が、邸宅を出て行かれました」と報告した。
「お車でお送りしようとしましたが、千鶴様は、その必要はないと仰ったので」
「日を改めて、また顔合わせをする」
「車の用意をすぐに。雪村先生をセンターまでお送りした後、俺も立ち寄る場所がある」
風間は落ち着いた様子で天霧に車を準備させた。雪村鋼道は、千鶴の非礼を詫びながらも、急な話で驚いているだけだろうと、笑いながら風間にもてなしへの礼を言って邸宅を後にした。風間は着物姿のまま、一緒にリムジンに乗り込んだ。そして、雪村鋼道を研究センターまで送った後、赤坂に向かった。
****
千鶴は、地下鉄の駅まで歩き、切符を買ってホームについて、ようやく気持ちが落ち着いてきた。さっきまで止まらなかった涙も、今は頬に跡が残っているだけ。ようやく正気に戻って来た。父親が自分を風間さんに嫁がせようとしている事。その事実に衝撃を受けた。やっと、数年振りに一緒に暮らせるようになった父さまが、急にそんな話をしてきたことに、ただショックと驚きしか感じない。そして、何よりも心に大きな穴が空いたように感じるのは、父親が千鶴の恋人である斎藤の存在を完全に無視している事だった。はじめさん、はじめさん。会いたい、はじめさん。どうして、こんな事が起きてしまったのだろう。
千鶴は、バッグからスマホを取りだして、斎藤に電話をかけたが繋がらなかった。
はじめさん、今、出先から新宿に向かっています。
どこにいるの。道場で稽古中?
逢いたい。とっても。
地下鉄に乗っている間、何度も確かめたが、千鶴の送ったメッセージは既読にならなかった。斎藤は剣術の稽古中かもしれない。お正月の間は、ずっと沖田先輩と手合わせをすると言っていた。千鶴は、地下鉄を乗り継いで試衛館道場に向かおうと思った。もしかしたら、はじめさんに会えるかもしれない。千鶴は道場に辿り着いたが、斎藤は不在だった。
夕方五時から斎藤と総司の稽古が始まると知らされた千鶴は、もう一度斎藤に連絡を取った。でも電話はつながらず、メッセージも既読にならない。仕方なく、千鶴はとぼとぼと独り家路についた。
その頃、斎藤は総司と試衛館道場の道場主である近藤と一緒に赤坂に居た。前日の夜に、斎藤は近藤に呼び出されていた。「稽古の事で大切な話がある」と言われて、総司と一緒に赤坂まで出向く必要があると云われた。赤坂見附の駅前の喫茶店に入って、近藤の前に座った総司と斎藤は、近藤が封筒から取り出したパンフレットのような資料をテーブルに広げてそれに目を通すように言われた。
究極のKARトレーニングマシーン
黒いスタイリッシュなデザインのボディトレーニング機器の説明と、もう一つの資料はトレーニングジムの施設案内だった。場所は紀尾井町。高層ビルの140階にある高級フィットネスクラブだった。
「先生、これ。僕が駅前のジムで使っていたマシーンと同じものです」
総司がパンフレットを覗き込みながら、マシーンを指さした。近藤は「そうみたいだな」と微笑んでいる。
「今日呼び出したのは、この機械の件だ。このフィットネスクラブで君たちがマシーントレーニングを受けてみたらと思ってな」
「君ら二人に特別にトレーニングが受けられるようにと、風間さんが会員権を用意してくれるらしい」
「私も年末に連絡を受けて、初めてこの場所の紹介を受けたんだが、素晴らしい施設なのは確かだ」
「それに、このKARマシーンは都内では、この一台しかない」
「総司が、以前使っていたものより更に新しい進化したものらしいぞ」
「なんで、風間が急にトレーニングなんて言い出したんですか?」
総司は、フィットネスクラブのパンフレットを手にとって、パラパラとめくりながら近藤に尋ねた。
「風間さんは、総司のアメリカでの試合に向けて、壮行仕合を都内で開催すると言い出してな」
「全世界から剣士を招待して、親善仕合を開くそうだ」
「このマシーンで鍛えて米国に渡る前に腕試しが出来る」
「試衛館にも箔がついて、門人も増えると云っている」
「僕の壮行仕合に、なんで風間がそこまで躍起になる必要があるんだろうね」
「あの人、試衛館の門人が増える事。そこまで気にしたことがあった?」
総司は、自分のアメリカでの試合の為に風間が関わってくることを疑問に思っているようだった。斎藤は、ずっと静かに近藤と総司のやり取りを聞いていた。確かに総司の言う通りだ。薄桜学園の理事である風間グループは、確かに試衛館道場への出資をしているが、道場運営に関して資金援助をしているだけで、門人の増加や、仕合開催について干渉してくることはなかった。
「風間さんは、道場の多角経営を視野に入れていると言っている」
「親善仕合と総司のアメリカでのトーナメント参加で、海外での天然理心流道場を広げる足掛かりになると言っている」
「道場が国際的に認知されるのは、私の長年の夢だ」
「総司がアメリカで仕合にでるのも、海外から優秀な剣豪を招くのも、私は大賛成だ。出来れば実現していきたい」
「風間さんは、総司がトーナメントで優勝すると言って」
「当たり前じゃない、僕は最初からそのつもりですよ」
総司は自信に満ちた表情で近藤に笑いかけた。
「ああ、そうだな」「総司、俺も大いに期待している」と近藤は笑顔で頷いた。そして、テーブルのパンフレットを手に取ると、改めてフィットネスクラブの施設説明のページを開いて、テーブルに置き直した。
「折角、風間さんが手配くださった。ここでアメリカに行くまで、トレーニングしてみないか。総司と斎藤くんが二人で通って、このマシーンを使えるようになっているそうだ」
「二人で試してみるといい。決して悪い話ではないのは確かだ」
「ここは、完全会員制のクラブだ。トレーニング内容やプライバシーも守られている」
「風間さんも会員で、君らとトレーニングを受けるつもりらしい」
「あの人も来るの?」
「それなら、僕やめておこうかな」
総司は、テーブルのアイスコーヒーにストローを挿して、一気に飲み干した。
「風間さんも、剣術仕合に出る気でいる」
近藤のこの一言に、総司の動きが止まった。総司は、まだ中学生だった頃に、風間と公式試合で戦ったことがあった。風間千景の剣術の腕は確かだった。どこの流派にも属さず、さまざまな剣術の師を全国から招いて、個人指導を受けて育った。薄桜学園に在籍中も、総司達剣道部員の成績に風間は常に気をかけていたらしく、総司や斎藤が卒業した後は、剣道部の全国大会での成績が振るわないのを「なんとかしろ」と理事会で声を上げているらしい。
「そんな風間さんだ。総司や斎藤くんがマシーントレーニングで強くなることを望んでいる」
「彼も、KARマシーンの威力を試したいそうだ」
総司はずっと黙ったまま思案しているようだった。近藤は、「斎藤くんはどうだね」と尋ねた。斎藤は、「俺は受けてみたいです」と答えた。「俺はアメリカには行きません、でも壮行仕合で勝ちたいです」と背筋を伸ばして答えた。その隣で、総司は右の口角を上げながら斎藤の横顔を見ていた。
「いいですよ。はじめ君が受けるなら。僕も一緒に」
「風間千景の財力に頼るのが、気に入らないけど」
「あの人が、何を好き好んで僕らにお金を使うのか、わからないけどね」
総司は「わからないけどね」という部分を強調するように言うと、斎藤に向かって「いいの? ほんとに」と確認した。斎藤は、憮然としたまま頷いた。
「はじめくんが、納得しているなら。僕はいいですよ」
「風間と顔を合わせることになるのも」
総司は付け加えるように言うと、近藤は「それなら話は決まった。これから風間さんとフィットネスクラブで会う。一緒に施設利用の説明を聞こう」と言って、腰を上げた。斎藤は、これから始まるトレーニングと近藤との剣術稽古に胸が高鳴った。何度か、ポケットのスマホの通知音が聞こえたが、そのまま近藤について総司と一緒に紀尾井町に向かって歩いて行った。
****
緑の森の中で
自宅に戻った千鶴は、静かな玄関を見てまだ父親が家に戻っていないと思った。
草履を脱いで上がると、そのまま台所で水をコップに汲んで飲み干した。静かな家の中だが、診療所に繋がる廊下で物音がしたような気がした。千鶴はお勝手口から渡り廊下に繋がるドアを開けて診療所に向かった。
エレベーターホールに白衣の後ろ姿が見えた。八郎先生かしら。今日は診療お休みなのに。そう思いながら千鶴は、「先生?」と声を掛けた。振り返った八郎は、千鶴の姿を見て驚いていた。
「やあ、千鶴ちゃん」
「とても綺麗だ」
八郎は、「明けましておめでとう」と言いながら優しく笑っている。傍には、車いすに座った男の子がダウンジャケットを着て微笑んでいた。千鶴は「おめでとうございます」と言って、二人に近づいて行った。
「屋上に富士山を見に行くんだ」
「こちらは、武くん」
「はじめまして、武くん。私は雪村千鶴です」
「武くん、鋼道先生のお嬢さんだ」
少年ははにかむような表情で笑っている。車いすに備え付けられた点滴の管は患者の腕にそのまま繋がっていて、伊庭は管をひっかけないように少年の上着のジッパーを上げた。外は寒い。千鶴は、袂から自分がつけていた手袋を取りだして少年の手に付けてあげた。携帯の使い捨てカイロも懐から取り出して少年に持たせた。伊庭は、「ありがとう」と千鶴に優しく微笑みかけた。
エレベーターに車いすを載せて、千鶴も一緒に屋上に上がった。西に美しい富士山が見えた。真っ白な頂きに、快晴の青空。空気は澄み切って光が眩しい。少年は嬉しそうに空を眺めていた。伊庭が少年を抱き上げて、富士山が見える場所で高く掲げるように景色を見せた。子供は感嘆の声を上げて喜んだ。
「武君、君は背がうんと伸びる」
「君の骨格から診ると、身長が180センチ以上になる」
「元気になったら、今度は君が僕を抱っこして富士山を見せて」
車いすに再び座った武は嬉しそうに笑った。千鶴は嬉しそうに二人を眺めていた。診療所の屋上に上がったのは、数年振り。伊庭と一緒に幼い頃、ここで遊んだ記憶がある。懐かしい、遠い日々。あの頃は母さまも生きていて。屋上から見える風景は、あれから周りに建物が増えて変わった。そして、こうして別人のように大人になった八郎が目の前に居る事も不思議な気がした。優しい八郎兄さん。昔も、わたしと遊んでくれた。とても楽しかった。
屋上をぐるりと車いすを押して一周してきた八郎は、「そろそろお部屋に戻ろう」と言って、再びエレベーターに乗った。千鶴は、202号室の入り口まで二人について行った。ベッドに武を寝かせ介助する看護師の姿が見えた。千鶴は新年の挨拶をして、自宅に戻った。
着物を着替えて、台所に行ってお茶を用意した。花びら餅と一緒に診療室に持っていくと、伊庭がカルテを書き込んでいた。
「さっきはありがとう」
「武君、お正月に自宅に戻れないままでね。御両親は、今日も昼間は忙しくて夕方まで面会に来られないから」
「容態は安定しているんだ。心配ないよ」
八郎は、千鶴が心配そうな表情を見せたのに気付くと、そう言って微笑んだ。そして、千鶴が用意した菓子とお茶を「ありがとう、頂きます」と言って喜んで食べた。千鶴は、伊庭の診療机に飾ってある写真に目が行った。緑の中で微笑む女性と小さな女の子の写真。
「これは、僕の先生。スリランカの」
「スリランカ……」
八郎は微笑みながら、写真を手に取って語り出した。
「僕はドイツに居た頃、ホリスティック医学の研究をしていてね。これはその時の先生だ。インドのアーユルヴェーダを実践している先生で、今はスリランカでリトリート施設を開いている。これはそこで僕が研修を受けた時の写真」
千鶴は、八郎が師と仰ぐ女性の顔を見た。顔に刻まれた皺と眩しい程の笑顔。八郎が抱っこをする少女は、末期がんからこの施設で生還したと説明した。伊庭は、「雪村診療所でもホリスティックなケアをするのが僕の目標だ」と静かに話した。千鶴は頷いた。千鶴が小さな時から鋼道も同じような事をずっと言っているのを聞いて育った。西洋医学だけに拘らず、東洋医学、インド医学、さまざまな方法を取り入れて、患者が治療を受けられるように。
私も、食を通して健康になれるように。今勉強しています。千鶴はそう言って、学校の授業で「医食同源」について習っていて、卒論はその方向で進めるつもりだと話した。八郎は、それは興味深いねと感心した。千鶴は、八郎のお仕事の邪魔をしてはいけないからと、席を立とうとしたが、引き留められて八郎の煎れたコーヒーまでご馳走になった。八郎が話すスリランカの美しい自然やリトリート施設の様子、そこで自然治癒で健康になっていく人々の話はとても興味深く、八郎がドイツだけではなくアジアやアフリカのあらゆる場所で医学を学んできたことを初めて知った。気づくと、もう夕方遅くになっていて、千鶴は邪魔をしたと謝りながら自宅に戻った。夕餉の仕度をして、父親が戻ると八郎が加わって三人で夕食を食べた。初釜での一件について、雪村鋼道は話す様子もなく、千鶴からも何も触れなかった。父親の鋼道がどう思っているのかは、推しはかりかねたが、八郎と過ごした午後で、すっかり千鶴の気持ちは落ち着いていた。
夜になって、ベッドに入る時間にようやく斎藤から連絡があった。
すまん、メッセージに気付いてなかった。
今日は総司と昼間に赤坂でトレーニングをしてから稽古に行った。
これから、マシーントレーニングをする。
二月の下旬に都内で親善仕合がある。それに出る。
そのために鍛える。
一方的に話す斎藤は、いつもと違い興奮しているのか饒舌だった。生まれて初めてパーソナルトレーナーが斎藤の為だけに特別にトレーニングメニューを組んでくれた。総司と一緒にトレーニングをするが、メニューは総司とは全く異なる。
一か月で身体と筋肉、神経全てがビルドアップされる。
竹刀で人を斬れるぐらいの力がつく。
千鶴は驚いた。「人を斬れる」という斎藤の言葉にどこかで聞いたような、以前に同じ言葉を聞いたような気がする。前にもあった。デジャブ。なに。この不思議な感覚は……。
ぼんやりと話しを聞いている千鶴が返事をしないのが気になったのか、「どうした」とスマホの向こうで尋ねてくる。「ううん、なんでもない。今日は忙しかったんだね」と千鶴は応えた。
ああ、赤坂で近藤先生と総司と一緒に風間千景に会った。
紀尾井町のジムは、風間の紹介だ。
親善仕合には、風間も出場する。
俺は絶対に勝つ。
千鶴は風間の名前を聞いて息が止まる様な気がした。身がこわばる。再び、午前中の衝撃を思い出して、鳩尾にどーんと穴が空いたように感じた。全てを忘れてしまいたい。はじめさん。忙しいのはわかっている。でも逢いたい。
はじめさんに逢いたい。
逢いたいの。今日も会いたかった。
(ひとめでも、顔を見れさえすれば)
「ああ、俺も逢いたい」と斎藤の声は熱を持ったかのように聞こえてきた。でも、斎藤の予定の話を聞くと、赤坂でのトレーニングが新たに加わり、以前にもまして自分と逢う時間がないのが判った。斎藤が赤坂まで来てくれたら、そこからバイト先に行くまで時間がとれると言って笑っているが、紀尾井町に風間も現れると聞くと、千鶴は赤坂に出向く気にどうしてもならなかった。それでなくても、大学に行くと風間さんと顔を合わすことになる。
「いつもの駅前のカフェで逢いたい」
「礫川公園でもいい」
千鶴がここまで何度も逢いたいというのも余程の事だと思った斎藤は、翌々日に千鶴と駅前で逢う約束をした。千鶴は不安な気分が薄れて行き、「おやすみなさい」と落ち着いて電話を切ることが出来た。
それからベッドに入った。夢の中で斎藤といつものように礫川公園で手を繋いで歩いていた。噴水、ベンチ、それは新緑の風景。でも途中からそれは、深い森に変わった。いつの間にか隣にいた斎藤がいない。生暖かい風が吹く中を歩いていると、白い籐の椅子があって、招かれるようにそこに座った。
ティーテーブルにお茶が入れられ、向かいに微笑んで座るのは老婆。褐色の肌で、白い歯を見せて優しく微笑む。いい香りのハーブ。そして、大きな手が差し伸べられた。さっきまで斎藤の姿が見えなくて不安に思っていた。見上げると八郎が笑っている。深い緑の瞳。八郎兄さん。
「ずっと待っていたよ。千鶴ちゃん」
「逢いたかった。ずっと」
ずっと
逢いたかった。
繰り返し響く優しい囁きに、千鶴は微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
*****
朝霧の中をジョギングから戻った八郎は、マンションに戻るとミネラルウォーターを飲み干した。
年末から、医大病院と雪村診療所の当直を終えて久しぶりに自宅に戻った。
ふと、リビングのテーブルに置いてあった郵便物の束に分厚い封筒が挟まってあるのに気付いた。汗をぬぐいながら、封を確かめると。国際剣道連盟からの招待状だった。
伊庭八郎殿
貴下、ますますご健勝のこと御慶び申し上げます。
来たる二月十六日、東京都綾瀬市東京武道館にて剣道国際親善大会が開催されることが決定いたしました。各国を代表する優秀な剣士が一同に会し、親睦を深め剣道の益々の国際的発展を目指すことを目的としています。
試合は年代別勝ち抜きトーナメント戦で、優秀者は国際仕合への出場権を獲得できます。
つきましては、国際剣道連盟から貴殿の出場を大いに期待しております。参加要項を同封いたしますので、是非ともご参加いただけますよう。
宜しくお願い致します。
国際剣道連盟会長
申込期日は明日迄となっていた。八郎は微笑んだ。こういった親善仕合は大学にいた頃に出場したきり。参加要項を見てみると、自分は国際大会優秀者枠として申し込むことになっていた。連盟会長の手書きの追伸で、出場者が少なく困窮していると書かれてあった。伊庭は手帳で自分のシフトを確認して、日程的に問題はないと判断した。
参加申込書を鞄に仕舞って、壁にある木刀を手にとった。そして、マンションの屋上で出勤間際まで木刀を振り続けた。気持ちがいい。
伊庭八郎は、帰国してすぐに昔通った道場に挨拶に向かった。大先生は快く迎い入れてくれて、時間をみては直々に稽古をつけてもらい鍛錬を続けている。ドイツでは、日本の事を忘れない為に父親が剣道の稽古に通わせてくれた。剣道は伊庭にとって、友のような。異国の生活の中でも、己の軸を見失うことなく、日本人として、国際人としてどう振る舞うのかを教えてくれる長き道。医学と同じぐらい、伊庭にとっては大切なものだった。ひたむきに打ち込む八郎の剣術の腕は、めきめきと上達し、ヨーロッパ大会で主席をとるぐらいまで成長した。
日本で大会に出るのは、小学生の時以来だ。懐かしい。他道場との交流仕合。ふと、小さい時の記憶が蘇る。そうだ、市ヶ谷の試衛館に挨拶に行こう。急に懐かしく、道場主の近藤や門人の顔が思い浮かんだ。皆さん、お元気だろうか。もう、十年も経つのか。伊庭は、リビングに戻って、試衛館道場の連絡先を探して、近藤に連絡を取った。電話口で、挨拶をした近藤は、伊庭の事をよく覚えていて、国際大会に出場していることも知っているようだった。
翌週に道場に訪ねていく約束をした。近藤は、快く面会と手合わせに応じ、会うのが楽しみだと言ってくれた。伊庭は電話の向こうの、大らかに笑う近藤の姿を想像すると、ただただ懐かしくて、「ありがとうございます。では」と電話を切った時に、お辞儀をしている自分が、部屋の窓に映っていて、その日本人らしい仕草に自分でも噴き出して笑ってしまった。
こうして、試衛館道場に伊庭八郎が現れることになった。
つづく
→次話 FRAGMENTS 12へ
(2020/02/15)