雨宿り 斎藤一編

雨宿り 斎藤一編

 斎藤と雨宿りすることになった千鶴は、一旦大和大路に出て富永町にある旅籠に入った。部屋はほぼ満室だったが、斎藤の隊服姿を見て店の主人が普段は客間にしていない部屋をお使いくださいと斎藤達を案内した。それは北側の小さな部屋で畳も古く、どうみても使用人の部屋にしか見えなかった。千鶴はそれでも雨風をしのげて畳の上で休めることは有り難いと喜んだ。斎藤は店の女将に、着替えを借りることは出来ないかと頼んだ。へえと返事した女将は直ぐに着替えを持って来た。

「すみまへん。まだ火鉢を用意してまへんで」

 そう言って、季節は早うございますがこちらをと綿入りの丹前と浴衣を差し出した。丹前は少しかび臭かったが、冷え切った身体には有り難かった。女将は湯屋も用意してございますという。斎藤は有り難かった。千鶴に直ぐに湯に浸かって温まってくるようにと促した。千鶴は、急いで行って参りますと言って部屋を出ていった。

 女将は、急な雨で部屋が満室になってしまってと言っている。お茶を斎藤に差し出すと、早めに夕餉をご用意しますと部屋を出ていった。斎藤は、北側の窓をそっと開けて外を眺めた。雨は一旦おさまったようで、暗い低く立ち籠めた空から落ちる細かい時雨に変わっていた。斎藤は左之助が無事に三条大橋を渡れているかが心配だった。三条大橋の傍に雨具屋があった。あそこの紙合羽は良い雨よけになるという噂だ。旨くあれを手に入れていれば、問題なく屯所に戻れるだろう。そんな風にぼんやりと外を眺めていると、いつのまにか千鶴が部屋に戻っていた。大急ぎで入ってきたと、上気した顔で笑っている。浴衣一枚で手拭いを持って下ろした髪を拭いながら、千鶴は自分と斎藤の濡れた着物を衣紋掛けにかけて、風呂場で洗ったと言って斎藤の足袋と自分の足袋を窓辺の桟に載せた。

 斎藤は、左之助が戻ったら夕餉の時間を教えてやって欲しいと千鶴に伝えて風呂場に向かった。千鶴は窓の外をぼんやりと眺めて過ごした。川の増水は千鶴は生まれて初めての経験だった。鴨川のような大きな川に水が溢れかえり人が流される。おそろしいことだ。市井の人々が逃げ惑う姿を目にした千鶴はなんとも心苦しい気分になった。

 斎藤が風呂から戻って来た。千鶴は階下に行ってお茶の用意をして部屋に戻って来た。斎藤は左之助が戻って来ない様子に、三条大橋は通行出来て屯所に戻ることが出来たのかもしれぬ。そう思いながら、千鶴の煎れたお茶を飲んだ。千鶴は濡れ髪がしきりに気になるのか、しょっちゅう髪の毛に手をかけて、左側に流してまとめようとしている。背中を向けている千鶴が足を崩して座っていた。腰のあたりが丸くて、斎藤の方に向いている足は踵がほんのりと桃色をしている。斎藤は、自然と千鶴の足先からずっと視線を首筋まで向けていた。雪村はいつもと様子が違う。落ち着かぬ……。

 千鶴が振り返って、丹前を少し軒下で風に当てましたと斎藤に渡した。近づく千鶴から湯上がりの芳い匂いがしてきた。その時、急に窓の外が明るくなった。真っ白な光が障子を明るくして、その直後に大きな雷鳴が響いた。

 ひっ

 千鶴は小さな悲鳴を上げて、そのまま斎藤の膝に突っ伏すように頭を埋めた。丹前を握りしめたまま震えている。斎藤は千鶴が雷を異常に怖がることを知っていた。千鶴は雷の音も光も響きも全てが恐ろしいらしく、雷が鳴ると押し入れの中に潜り込んで雷が完全に去るまで出てこない。斎藤は振り返って部屋の押入れを探した。半間分の物入れが見つかった。あそこに逃げ込むか。そう思っている内に、また表が光った。間髪入れずに大きな轟きが響いた。近い。どこかに落ちたか。斎藤は、左之助が無事に屯所に辿りつけているかが心配になった。斎藤の膝にしがみついて頭を抱えて震えている千鶴を起こすと、そのまま抱えて物入れの戸を開けて中に入った。

 物入れの中は漆黒の暗闇だった。目を開けていても何も見えない。ただ抱きかかえている千鶴の感触で千鶴が斎藤の肩にしがみついているのは判った。そして斎藤が回した手の先には千鶴の細い背中と腰があった。斎藤は、千鶴と自分の身体が密着している事に気が回ってしまい一瞬どうしようかと焦った。千鶴は、外に時折響く雷鳴を聞いては、一層強く斎藤にすがり付く。斎藤は、後ろに倒れそうになるのを必死で堪えた。

 ようやく目が暗闇に慣れてきた。千鶴はじっと斎藤の胸に顔を埋めて震えている。斎藤の肩と右腕の袖をぎゅっと握りしめている。斎藤は、千鶴の腹部に自分の浴衣の裾がはだけたまんまの膝が当たってしまっているのが気になって体勢を変えようとした。その時、また大きな雷鳴が響いた。地響きが物入れの中にも響いた。千鶴はまた怯えて斎藤にしがみつく。斎藤は腕を伸ばして千鶴を抱きかかえようとした。丁度千鶴の腰から尻に掛けて左手でさするように撫でてしまった。触れた場所は、細い腰からは信じられないぐらいに丸みを帯びた形で腿の感触は跳ね返るようでありながら柔らかく。斎藤は自分の腕に抱いているのが女であることを急に意識し始めてしまった。

 雪村。

 呼びかけたくても、声が出ない。情けない。一度触ってしまった左手も引っ込みがつかない。千鶴はずっと動かない。物入れは本当に狭く、自分の伸ばした足はそのまま引き戸にあたっていた。そして背中には積まれた布団。斎藤はそのまま背中の布団にもたれ掛かった。一瞬、千鶴が顔を上げた。近い。千鶴が斎藤にしなだれかかるようになっている。千鶴の溜息が聞こえた。それは、あえぎ声にも似て。非常に艶めかしく。斎藤は息が止まりそうになった。

 ここは、どこ。

 千鶴の小さな声が聞こえた。斎藤から身を起こした千鶴がきょろきょろとしている。斎藤は我に返ると、たちどころに正座して、

 物入れだ。

 そう言って、千鶴の背後に手を伸ばして引き戸を開けた。部屋には行灯が灯ってあり、ちょうど女将が仲居と一緒に膳の準備を並べているところだった。千鶴と斎藤が物入れから出ると、女将は振り返って驚いた。

「まあ、お客様。どこに居てはりましたんかと思ったら。そないなとこにお籠もりでしたか」

 女将は袖で口元を隠すように笑うと、えらい狭いところに。そう言いながら、お膳を用意し終わると。

「どうぞ、ごゆっくり。お床のご用意もすぐにしますえ」

 そう言って、笑いながら手をついて挨拶をすると障子の向こうに消えてしまった。

 女将の冷やかしに、斎藤は耳まで真っ赤になってしまった。物入れの前に座った千鶴は、「お籠もり」も「お床の用意」についても理解には及んでいない様子だった。斎藤は、横目でそんな千鶴の様子を確かめて内心ほっとした。



*****


「左之は、きっと無事に屯所に戻れたのであろう」

 斎藤が手酌で杯を進めながら、千鶴に話しかけた。千鶴は、はい、と返事をして笑っている。宿の女将からは、通行止めになっているのは、四条と五条大橋だけだと伝え聞いた斎藤は、このまま雨が上がれば直に屯所から迎えが来ると思った。

 雷がおさまり、きつく降っていた雨も一旦止んだかのように見えた。女将が持ってきた火鉢で部屋も暖まっていた。食事を終えた千鶴は膳が片付くと、自分たちの着てきた着物を火鉢の傍に持って来て火にかざして乾かし始めた。斎藤は少し離れた所で、晩酌を続けていた。仲居が斎藤に酒のおかわりを運んだついでに、物入れの戸を開けて中から布団を取り出して寝間の準備を始めた。手際よく敷かれた布団は二組。

「それでは、どうぞごゆっくり」

 仲居がそう言って手をついて襖の向こうに消えて行った。斎藤は、仲居が本当にぴったりと布団を並べ枕を揃えて居たことに気づいた。千鶴は、気にした様子もなく窓の桟に干していた足袋を火鉢で焙るように一生懸命乾かしていた。斎藤は「どうしたものか」とじっと固まったまま考え込んでいた。

(このまま屯所から迎えが来ない場合、ここで一夜を明かすことになる)

 横目で並んだ褥を見ながら、火鉢の前で忙しそうにする千鶴の様子を確かめた。千鶴はいつでも着替えをして屯所に戻ることが出来るように、斎藤の襦袢を乾かしている。斎藤は、どうせならこのまま千鶴が何も気づくことなく部屋を出て迎えと共に屯所に戻るのが良いと思った。

 何も気づくことなく。

 斎藤がそう願っていた間、階下では騒がしい声がしていた。雨宿りで人がいっぱいの宿は

夜が遅くなっても落ち着く様子がなかった。斎藤は自分で階下に向かい、お銚子を二本貰って部屋に戻った。部屋の真ん中で千鶴が正座をして斎藤を待っていた。さっきまでと様子が違い、思い詰めたような表情をしている。さっきまで乾かしていた着物は、綺麗に衣紋掛けに戻されていた。

 斎藤が膳の上に銚子を置くと、千鶴はゆっくりと座ったまま斎藤に近づきお酌をした。そして、一歩下がると正座した膝の上に両手を揃えてじっと座っている。妙にかしこまったその態度に、斎藤は背後の寝間を千鶴が気にしていることに気づいた。

「雪村、階下で確かめたが今日は迎えは来ぬようだ」

 千鶴は静かに斎藤の言うことを聞いている。

「夜が明けたら、雨も止むだろう。明るくなるまで待って屯所に戻る」

 斎藤はそう言いながら、手酌で一杯あおった。

「今日は疲れただろう。奥に床の準備ができている。休め」

 一気にそう言って、また次の杯を進めた。千鶴は躊躇しているようにじっと動かない。斎藤は、もう一度、床に入って休むように言った。

「はい」と千鶴は答えた。

「夜明けまで、私も起きています」→ 斎藤一分岐ルート

「はい、そうします」       →斎藤一分岐ルート

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