ブログ【旅、ゆかりの地巡り】斎藤さんと阿弥陀さまのこと

ブログ【旅、ゆかりの地巡り】斎藤さんと阿弥陀さまのこと

【斎藤さんと阿弥陀さまのこと】

こんばんは。もう師走ですね。早いものです。

今年は幕末から150年が経つ記念の年で、各地で様々な催しがあって忙しい一年でした。

巷では明治150年のロゴが目立ちますが、さばっきーな私は【戊辰150年】という会津を含め東北地方の記念ロゴに心惹かれています。

1868年の戊辰の年。斎藤一は会津戦争で戦い抜き、その後の半生を会津藩士として生きました。京で浪士集まりに加わり、その後新選組として士分の身分となったのも会津藩が後ろ立てとなったもので、斎藤一は、その後ずっと会津藩より恩恵を受けて生き続けました。

明治時代以前の日本は階級社会でした。特に江戸時代は身分制度が厳しく、素浪人(元御家人とはいえ足軽以下ぐらいの身分)、それも仇持ちの身の上は立身出世の志さえ持つことは許されなかったと思います。そのような境遇で、近藤勇や土方歳三をはじめ、試衛場の知遇との縁で、京で壬生浪士に加わってから、斎藤一の人生は開いて行きました。

薄桜鬼のゲームでも描かれているように、斎藤一の土方歳三や近藤勇への恩義は並々ならぬものがあったと思います。そして、その気持ちは会津藩への想いにも繋がっていきます。主君の松平容保への忠義と同時に広義の【会津】に微衷を尽くす。生涯を通して実行しました。真の武士の心。誠と義。それは伝統的に培われた御恩と奉公の精神以上のもののような気がします。

斎藤一が会津人として半生を生きたのは、高木時尾と結婚したことも大きかったと思います。時尾と一緒になったことも含めて、「五郎は、会津には恩恵を受け感謝し続けて生きたのでは」と、藤田家のご子孫の方が以前話されていました。

藤田時尾は、阿弥陀寺で戦死者の遺体を弔う作業を精力的に行い、東京で会津婦人会の活動に永く携わりました。その功労を認められ、寺内に墓所を貰い受けました。阿弥陀寺には東軍墓地がありその一角に藤田家の墓が建てられ、藤田五郎は今もそこに眠っています。阿弥陀寺は浄土宗のお寺で、総本山は京都の知恩院。大本山は沢山ありますが、その内の一つが洛東黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)です。京都守護職が本陣を置いた寺院。ご本尊は阿弥陀如来です。本当に不思議ですが、これも阿弥陀さま繋がりです。

会津には新選組関連の史跡が多くありますが、斎藤一が奮戦した【如来堂】周辺は藤田家のお墓と同じぐらい、会津を守るために戦った斎藤さんの存在を強く感じる場所です。如来堂は現在鍵がかかり、お堂の中は薄暗く殆ど見ることが出来ません。奥の須弥壇に小さな阿弥陀様の木造が祀られているそうです。喜多方方面で少数隊のゲリラ戦を繰り広げていた斎藤さんは、部下14名で戦い、その内の4名を亡くしています。強者11名で烈戦の地を生き延びました。もしかすると、お堂の阿弥陀さまのご加護があったのかもしれません。

会津に行くと、斎藤一と阿弥陀仏との縁を感じます。

今年の会津新選組まつりでは、新選組愛好会主催の講演会で金戒光明寺のご住職のお話を聞く事ができました。会津藩との深い縁についてのお話で非常に感銘を受けました。以下簡単に覚えていることを書きだします。

新選組の後ろ盾である会津藩が京都守護職の本陣としたのが黒谷の【金戒光明寺】です。ご本尊は阿弥陀如来です。会津藩と「くろ谷さん」の縁は、幕末よりずっと以前、藩祖保科正之の江戸初期にまで遡ります。戦国時代からお寺は寺衛として城構えで造られていました。京では知恩院、同じ流れで金戒光明寺もそうです。この頃、まだ京都守護職の役は設けられておらず、幕府より会津の地を拝領して守っていましたが、名君として幕府に信頼を受けた保科正之は、有名な「会津家訓十五箇条」を定めます。1668年のこと。この家訓は忠実に歴代藩主に受け継がれ、200年後の幕末、九代藩主松平容保もこれを守り、最後まで徳川幕府を補佐し守り続けました。

幕府の命令で京都守護職に就いた時も、側近家老に容保は京行きを反対されましたが、この家訓を守って役に赴きました。ご住職は、当時のことを東北の人々がひと月をかけて上洛し、文化、言葉の違う地で、市中を警護するのは並々ならぬ任務だっただろうとその苦労が偲ばれると話されていました。会津の人々は上記の家訓通り、義を尽くし通した事を決して現代の私たちは忘れてはならないと思っていると、ご住職は仰っていました。ご住職は今でも幕末に京で命を落とした会津藩士たちを手厚く弔っていらっしゃるそうです。

この講演会を聴講した際、ご住職から記念品としてお数珠ブレスレットを授かりました。色は赤と青があったのですが、私は碧を選びました。このお数珠の親玉を覗くと、梵字の「キリーク」が見えます。この文字は干支の「戊辰(いぬ、いのしし)」を表し、「阿弥陀如来」がご本尊という意味です。まさに戊辰の年のご本尊が「阿弥陀さま」だったという、これまた素敵な偶然です。覗きの中には、キリークの両側を挟むように

戊辰戦争百五十年
会津人追善菩薩
洛東黒谷 西雲院

と書かれています。とてもよい記念の品で、お守りとして大切に身に着けています。

薄桜鬼の斎藤さんは公式のファンCDなどで犬に例えられる話があります。斎藤さんの生まれ年の干支が辰なので、裏側の守護神である干支は【戌】にあたり、このキリークがぴったり来るのも嬉しい偶然です。ちなみに、千鶴ちゃんは酉年生まれなので、守護神は【兎】です。雪うさぎのエピソードとぴったり合っていて、これも嬉しい偶然。もしかして、キャラ設定でこういった事も公式さんは設定されているのかなと思いました。

My想像で、斎藤さんが【戌】にちなんで犬モチーフのものをお守りに持っていたりするのも可愛い。千鶴ちゃんは兎グッズで。

先月の連休に京都のくろ谷さんに立ち寄りました。ちょうど秋の特別公開で本堂の「謁見の間」も見ることが出来ました。一度焼失したのを忠実に再現したもので、近藤勇や土方歳三が会津中将様にお目通りした様子が目に浮かびました。奥の間まで三段ずつ高く間地切られていて、とても由緒ある様子でした。

そして西雲院の「会津藩戦没者墓地」にお参りしてきました。「会津小鉄」のお墓を探しましたがどれか判らなかったです。小鉄は薄桜鬼には登場しませんが、実在した任侠で新選組の密偵もしていたという人物。苔むした墓地は、判読できる墓石に【會津】や【文久三年】などの文字が見られました。立派な墓碑が立ち、お線香や花が手向けられ、会津ゆかりの方々が沢山お参りに来られている様子でした。

くろ谷さんの阿弥陀さまは、とても可愛いです。螺髪が五劫の掏り切れで「アフロヘア」姿で、ポップなおばちゃんのようです笑笑。本当に可愛らしい石仏。また会いに行きたいです。

キリーク、アフロ阿弥陀さまが表紙の御朱印帳です。

くろ谷さんは、地下鉄東西線蹴上から歩いて30分。結構歩きますが、よいお散歩コース。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

私は仏教徒ではないですが、斎藤さん阿弥陀さま繋がりで完全に帰依してしまっている今日この頃。今回は仏教関連のスピ系のお話でした笑。

ログを読んで下さって有難うございます。

小説も書き続けているので近々アップしますね。

ちよろず

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