ブログ【斎藤さんウォーク】斎藤さん@西南戦役出征散歩 その3

ブログ【斎藤さんウォーク】斎藤さん@西南戦役出征散歩 その3

【斎藤さん@西南戦役出征散歩 その3】

開設当時の新橋停車場跡。

博物館で江戸、明治期の旅についての展示が数年前にあったらしく、会津への旅の図録があったので購入しました。江戸時代はまさに、徒歩での旅です。日光から南会津へのルートが一般的だったようです。まさに土方さんが戊辰戦争で向かった道程。会津へは明治後半になってから鉄道が敷かれたらしく、当時車内販売されていた【お茶】土瓶の容器の写真など興味深い資料ばかりです。藤田五郎も妻の時尾と汽車で会津若松を訪れていたのだろうなと思いました。

右の写真は現在の停車場。左の明治期の写真と比べてみると、そのまま再現されているのがわかります。向きも位置も正確に当時のままだそうです。建物の裏側にある当時のプラットホーム、線路や煉瓦の跡も見られるようになっています。

「明暁に向かいて」を書くにあたって、参考にしている三十一人会編「斎藤一新選組論考集」の「藤田五郎警部補の西南戦争(河内貞芳著)」によると、藤田五郎の出征当日はひどい雨降りだったと記録されています。警視隊の中に【千葉束(ちばたばね)】という人物がいて、彼は千葉十太郎の養子で北辰一刀流千葉道場の最後の道場主。西南の役に従軍しています。一番小隊の分隊長で藤田五郎と同じ警部補です。この人は戦後無事に帰還し、千葉道場閉館後、千葉さな(坂本龍馬の許嫁)の継いだ灸治院を引き継ぎます。そして、後年明治36年に毎日新聞に取材をされています。

記事は「千葉の名灸」という連載もので、灸治療の事以外にも西南戦争の事が克明に描かれています。千葉束さんは、出征前に養父十太郎の指導を受けて【堀川國廣】を佩びて出征したと書かれています。別の話になりますが、警視隊出征時の隊員の帯刀資料として上げられている、六番小隊所属の小畔定太郎警部補心得の息子が後年記した「父のおもかげ」という書籍があります。父定太郎は【肥前忠吉】を佩びたとあるので、皆、愛刀を佩びて出征したと思われます。

束さんは、「千葉の名灸」の中で当日の新橋停車場の様子を次のように表現しています。

此出師の光景を見んとて沿道に集ふ者宛ら堵の如くなり

垣根のように人が集まっていた事がわかります。臨時汽車だったので、各駅には止まらずにそのまま横浜に向かいました。53分の道のり。ところどころ木造の橋の上を線路が通っていたので、恐ろしく揺れた事だと思います。

鍛冶橋→新橋停車場ルートでした。徒歩所要時間30分でしょうか。博物館を廻っていると、プラス一時間位。休憩するカフェやレストランはこの地域は沢山あります。停車場跡も、汐留地区なのでたくさん飲食店があり、地下街で新橋駅までつながっているので、雨に濡れずにお散歩も可能です。

今回の出征ルート、こうやってみるとただの銀ブラですね。 

平日でも人で混んでいますが、とても楽しい散歩コースです。警察博物館。西南戦役の資料、巡査のこん棒(一メートル以上もあってサーベルより長い印象でした)、カンテラ(とても機能的でおしゃれなもの、藤田五郎が持っていたと思うとなんとも言えない気分になるものでした)、明治期の手書きで作られた警察手帳など、貴重な品々を見ることができました。

長々と書いてしまいました。

最後までお付き合い頂き有難うございました。

ちよろず

コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。