ブログ【虚構と現実のはざまで⑤】汗青を照らさん

ブログ【虚構と現実のはざまで⑤】汗青を照らさん

毎年会津おもてなし企画によって開催されている洞門くぐりは白虎隊士の辿ったルートを歩いて追体験するガイドツアーです。猪苗代湖を水源にしている会津盆地。江戸時代初期に作られた戸ノ口堰を現在も活用しています。この堰の水門を一時的に閉じて水を止めて、洞穴をくぐり抜けて飯盛山中腹に向かうのがメインのイベント。9月の会津まつりの頃に開催されているこの催しは斎藤一忌と重なるため参加を逃していました。ようやく念願が叶い昨年10月に参加してきました。水路(洞窟)を歩くので長靴と懐中電灯は必須です。

旧暦8月23日(白虎隊士が戸ノ口原から飯盛山に辿り着いた日)に近く、気候的に当時の状況を感じられることを期待。昨年は残暑が厳しくて気温27度。汗だくを覚悟して半袖軽装で飯盛山のふもとから滝沢本陣を過ぎ白河街道を裏山に向かって登っていきました。


旧街道はとても勾配がきつく狭くて参勤交代の苦労を思いました。昔の人は本当に健脚です。水門堰を通り飯盛山の裏側にまわって山に分け入り堰洞穴の入り口へ。

現在の洞穴はコンクリートで固められています。途中、江戸時代の状態のままの通路が見られる場所もありました。子供がしゃがんで通ることができるぐらいの狭さです。白虎隊士が通った時は胸の高さまで水嵩があったので筒袖や袴は全て濡れたまま。水路に流れる水は冷たく触ると氷水くらいに感じました。白虎隊が落延びた慶応四年八月二十三日未明から明け方にかけて気温は10℃以下。敵兵に見つからないように火を起こすこともなく暖をとることもままならない状況。丸二日間は食事もとれておらず極限状態であったと伝わっています。

洞門を抜けると飯盛山の中腹にでます。木々に囲まれた熊野神社の社があり厳かな雰囲気。さざえ堂の前を通って、白虎隊士が祀られているお堂やお墓、自刃の地から鶴ヶ城の位置を眺めました。現在は墓地となっている丘陵部分ですが、自刃の地とされている場所よりもう少し下の林の中で、隊士たちは斥候を送り城下に向かう相談をしたと伝わっています。

郷土史研究家の方がガイドをしてくださり、自刃するに至った経緯や途中はぐれた隊士が居た事から自刃した人数は二十名より少なく自刃の指揮をとった篠田儀三郎は隊長ではなかったこと。現在の感覚におきかえると「学級長」程の責務だったこと。会津戦争の悲劇として伝わる隊士の集団自刃は、お城が燃えていたのを悲観してではなく、敵軍の捕虜となるより武士として生を全うしようと考えたからだと生き残った隊士飯沼貞吉が証言したと言っていました。ガイドさんは詩吟を嗜む方でした。

自刃の際に篠田が吟じた文天祥の「零丁洋(れいていよう)を過ぐ」を披露してくださいました。文天祥は南宋時代の詩人です。元のフビライハンに南宋に降伏するよう書状を出すように命令されたことを拒み「零丁洋を過ぐ」を書いて抵抗しました。

人生古自り 誰か死無からん

丹心を留取して 汗青を照らさん

 人は誰も皆死ぬものだ。

 それより私は、真心を留めて歴史を照らそうと思う。

この結びを篠田は三回詠唱し自刃したと伝わっています。
ツアーの終わりにガイドさんに隊士たちが仮埋葬された場所のことを尋ねてみました。妙国寺の仮埋葬墓地は隊士たちの亡骸を近くの部落の庄屋吉田伊惣次利貞の妻の左喜(サキ)が憐れに思い妙国寺に運んで弔ったと伝わっています。

ガイドさんによると大正時代に一度、仮埋葬地が掘り起こされて遺骨(大腿骨の一部など)が残っていたそうです。その写真が長く妙国寺の御本堂に置かれて弔われてきていましたが、現在はその写真自体が不明でお寺に問い合わせても所在が判らなくなっているそうです。

毎年、会津市の観光史観がネットで取りざたされています。会津の悲劇として白虎隊の集団自刃が語られ飯盛山などが観光地として成り立っていることが大きな要因だと思います。当時の新政府軍の中心であった薩摩藩と長州藩を目の敵のように語る風潮など根強く怨恨の感情が。根拠としての情報は実際には違っていることが明らかにされているのに、いまだに会津が降伏したあと長期に渡り遺体埋葬を禁じられたと信じて悲しんでいる人も多い。

おかしな情報(信憑性のない思い込みや虚構)はネットなどでどんどん広まります。そして事実は周知されにくい。会津の観光史観が批判されてしまうのも仕方がないです。

白虎隊士たちの遺体については、妙国寺に仮埋葬をしたことで開城後に庄屋吉田伊惣次が黒羽藩(会津近隣の小藩、早くに新政府軍に恭順協力)の役人に咎められます。妙国寺から掘り起こされた遺体を再び飯盛山に戻し、妻の判断で埋葬したことが証明できたため軍監の中村半次郎(薩摩藩)により釈放されたと伝わっています。

このお咎めの理由も実際はハッキリしていません。可能性として考えられるのは、

会津藩による命令での埋葬はダメ。
死体の埋葬は賤民がしなければならない。
無許可の弔いはダメだった。
どのような理由があったのかは不明ですが、冬を迎えると降雪で遺体の収容は困難になることから降伏開城後遺体埋葬について会津藩と新政府軍の軍務局で協議はされていました。これは城下で亡くなった新政府軍の兵士たちについても同じで話し合われそれぞれの埋葬地が決定しています。

憐れみの気持ちから庄屋の妻が弔った遺体をまた掘り起こし飯森山に戻す。これはなかなか非道な行いだと現代の感覚では思うし、白虎隊士たちを不憫に思う気持ちもわかります。でもガイドさんが数十年前に妙国寺でみた写真にある通りだとすれば、大正時代に実施された仮埋葬地の確認作業で遺骨が残っていたことから遺体を全て山に戻したという伝聞もどこまで正確な事実なのかは疑問に感じます。現在も妙国寺境内にある仮埋葬地は整備され弔われ続けています。白虎隊士の遺体の一部が埋葬されている可能性は高いです。

2019年だったかしら、降伏翌月の10月には埋葬指示が軍務局からでていたことが判明しました。

旧藩御扶助被下候惣人別』『戦屍取仕末金銭入用帳』

遺体の様子や埋葬場所費用について記されている文献、会津藩士による記録です。開城後の十月初旬に567体の遺体が埋葬されています。

これらの文献が発見されたと会津地方紙に掲載されたにもかかわらず、長州藩による「遺体埋葬禁止令」があったために翌年の春まで遺体が放置されていたと未だに信じている人が全国的に多いです。誤情報です。


私は斎藤さんが戦った白河口の闘いから降伏、越後高田での謹慎生活を薄桜鬼の二次創作で書きました。実際に会津に攻めてきた新政府軍の中心は土佐藩、薩摩藩です。これに長州藩と恭順した小さな藩が無数に加わりました。降伏後の会津藩への処遇に関しては、かなりの厳封と国替えが行われたこと。朝敵賊軍としての不名誉を挽回したのは、明治期にはいって何十年とたってからです。確かに会津藩は敗戦で苦汁を強いられました。

戦争と降伏後の苦しみや悔しさ。この部分だけを見て会津の悲劇(ドラマ)を語るのも少し残念な気がします。会津の人々は先人の苦労を思い、会津人としての誇りを忘れないように伝統や風土を守ってきています。生真面目で少し頑固で我慢強い。東北人全般に通じる気質。私は個人的にとても好ましく思っています。

会津若松は美しい城下町の面影も濃く訪れる人は沢山の史跡や美しい風景に魅了されます。ずっとおそらく幕末以前からそれは続いてきていて現在の私たちにもその歴史は繋がっています。幕末から明治にかけて一年以上もつづく内戦。敵と味方に分かれて壮絶な戦いがあった。その出来事を「点」と捉えて、そこだけで「良し悪し」を語るのは残念なことです。

人々の営みはずっと続いて繋がっている。実際、会津戦争で会津兵を攻め捕らえ功績をあげた黒羽藩は廃藩置県で斗南藩と同じように藩は廃止になります。藩主の大関家は会津松平家と同じように華族に列せられ存続します。一方で薩摩藩や長州藩の新政府のリーダーたちは暗殺やその後の反乱(西南の役)で命を落としていきます。私たちの現在はこういった明治期の新しい中央集権国家へ移行していった歴史の上に成り立っています。先人たちは皆悲喜こもごもの時代を辿ってきました。だから私は新しい世の中を作ろうとした新政府軍のことを短絡的に酷いとは言えないです。

白虎隊士のことに戻ります。

汗青(かんせい・歴史という意味)を照らさん
武士の誇りを失わず歴史に名を残そうと自刃した若者たちのことを忘れずにいることはとても大切です。会津人の武士道。わたしは自分の創作の中で、斎藤一と藤田五郎として生きた半生にしっかりと武士道が生き続けていることを描きたいと思っています。

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