果し合いの末
大股開き その9
小石川関口 石切橋袂
昼八つ、家をそっと出た。
家には母親しかおらず、「出掛けて来る」とだけ伝えた。朝の内に甲良屋敷から戻って、刀の手入れをしてから井戸端で身を清めた。昼餉はとらないでおいた。腹の中に何かがあると、集中できぬ。万が一、斬られた時に腹には何も入っておらぬ方がいい。
真剣での試合。
勝てば、橋本信三郎からの執拗な恨みに終止符を打てるだろう。自分も全てを忘れ、これまで通り、上野の練兵館での稽古を続ける。年が明ければ、浪士御集りで江戸を出る。後腐れなく上洛できるだろう。春日の通りに出て、牛天神を通り抜けた。高台から、遥か向こうに富士が見えた。空は曇っているが、西は明るく見える。手水場で、身を清めた。人気のない静かな境内で、全てが上手く行くようにと心中で願った。
小石川関口は江戸川にかかる石切橋があった。河岸には砂利が敷かれて、橋の袂は道からは一歩下がり、人目につくことはない。小石川から駒込の通りを廻って橋に着くと、既に橋本新三郎が待っていた。取り巻きが三名。橋本は、灰色の袴に襷がけをしていた。取り巻きも同じく。白い鉢巻きをして立つ相手を前に、袂から襷を出して、準備をした。
脇差を差し出すように言われた。腰には、打刀だけ。橋本の取り巻きの一人に、脇差を渡した。
「これが、果し合いの証拠だ。預かる」
そうぶっきらぼうに言われた。「助太刀も証人も立てておらぬ」、そう伝えると、相手は鼻先で笑うような声を立てた。
橋を背にした場所で、瞑目をして待っている橋本の前に、ゆっくりと進んで立った。一礼をしてから、刀を抜いて構えた。互いに青眼でじっと相手を見据えた。風は止んでいる。砂利を踏みしめる音だけが耳に聞こえた。相手は間合いを十分にとって、少しずつ河岸に向く様に右足を寄せている。自分は待った。心は静かだ。相手が先を撃って出て来たら、一撃で仕留める。ただそれだけを思っていた。
橋本の右足が勇み出て来た。青眼から上段に振り上げるように打って出た相手の初太刀を左にいなすように除けて、相手の背後から撃とうとした時、不意に右側から取り巻きの一人が斬りかかってきた。剣で払って、相手の水月を峰で撃った。呻き声が聞こえて相手が膝をついた。次に正面からもう一人の取り巻きが、叫び声を上げながら真剣で撃ってきた。自分は低く構えたまま、剣を真横にして相手の剣を峰で受けた。大柄な男だ。何ゆえ、この者たちは。そう思っている内に、証人として立っていた男も斬りつけてきた。咄嗟に思い切り打刀を押し切って相手を振り払い、後ろに下がった。四人がかりか。
二人の取り巻きが同時に斬りつけてきたが。自分の動きの方が早かった。一人目の二の腕を強く下から掬うように打った。腱の断絶。もう一人は、八双のまま突進してきた。峰を返して胴を思い切り打った。膝をついた相手を背後から左足で踏みつけるように抑えた。動くか。動いたら、斬る。切っ先を相手に向けた瞬間、背後から砂利を蹴る音が聞こえた。三人目が真剣の剣先を真っ直ぐに向けて、上段から突いてきた。しゃがんでいる相手を蹴りつけるように、振り返りながら橋の真下の影に飛び下がった。水辺の砂利に踵が埋まった。剣を引いたまま相手を睨んだ。相手は左ににじり寄ったと思ったら、おろおろと右に身体を揺らすように足を引きずっている。へっぴり腰が。一気に前に出て、相手の小手を撃って剣を振り落とし、しゃがんだまま相手の脛を思い切り真一文字に撃った。
「おのれ、手討ちにしてくれる」
橋本がそう叫びながら、倒れた相手の背後から剣を振り上げて来た。自分は、低い姿勢から逆袈裟懸けに相手を斬った。切っ先は相手の肩の下で身から離れた。橋本はうめき声を上げたが、一歩前に出て横向きに剣を振り回してきた。残心のまま振りかぶり真剣に持ち変えた。狙うところは一点。人迎。
ここには、一番太い血の線が通っている。
そうだ、喉仏から、一寸隣。指二本の場所を縦にな。
左之助の言う通りだ。血が噴き出して、相手は両手を垂らしたまま倒れた。自分は肩で息をしていた。身が震えている。取り巻き連中は、砂利の上を這うようにして橋本の傍に駆け寄った。
「死んでる」
「し、しん、ざぶろう」
おろおろとしている三人に、真剣の先を向けたまま睨みつけた。刀を取って向かって来るならば、斬る。自分は覚悟を決めていた。身体の震えが止まらない。取り巻き連中は、刀を手にしながらも、腰が立たない様子でわなわなと震えていた。一人は橋本を抱き起して、血だらけになった着物の胸を擦って、「信三郎、信三郎」と呼びかけている。もう一人は、尻もちをついた状態で足を広げたまま、持っている刀を振り回して、「来るな、来るな」と叫んでいた。無様な奴だ。証人の男が、膝をついた姿勢で青眼に構えたが、震えた手で持つ剣先は、ぶるぶると揺れていた。
剣を構えたまま証人の男の前に出た。強く相手の剣先を払って、相手の刀を地面に振り落とし、その上を足で踏みつけた。
「刀をよこせ」
相手の男は、震える手で自分の脇差を砂利に投げた。打刀を懐紙で拭って、橋本の遺体の足元に投げた。血の付いた紙がひらひらと砂利の上で風に揺れている。砂利の上の脇差を拾い上げて、腰に差し直し、草履を履いて足早に河原を去った。
人を斬った。
この事実に、もう引き返せないと思った。正式の仇討ちでも果し合いでもない。ただの私情のもつれ。相手は旗本の次男。自分は足軽の身。鈴木家に仕える父親や兄に迷惑はかけられない。ひっ捕らえられて、打ち首になるぐらいであれば。自刃して責任をとる。
——責任。
なんの責任であろう。橋本の恨みは、道場で剣を打ち合って負けたことによるもの。今日の決闘でもそれは証明出来た。真剣で打ち合えば、死ぬのは当たり前。斬られれば死に。斬れば相手を殺めることになる。剣とはそういうもの。己が剣を振るうのは、強くなるため。そのために精進してきた。
では強くあることとは。
強くあることで咎めを受けるなら、剣を振るうことに何の意味があろう。
己が剣を振るう意味。
人を斬り、そして全てを失うのか。
家に着いてから自室に座ったまま、ずっと考え続けた、もうすっかり陽は落ちていた。姉の勝が夕餉の仕度が出来たと呼びに来た。何も応えずにいると、病気にでもなったかと尋ねられた。様子がおかしいと訝しがる勝に、じっと黙ったままでいた。
家の中で自刃すれば畳を汚す。
裏庭で。
出来れば母上や姉上に自分のそのような姿は見せたくない。
介錯を父上に……。いや、兄上に頼むべきか。
行灯も灯さない暗い部屋でじっと考え続けた。そして、覚悟を決めた。
経緯を父親と兄に話すことにした。既に夜遅い。父親は黙ったまま、兄はなんでそのような事をと項垂れている。私恨を決闘で晴らそうとした。自分は奉行所に訴え出るつもりはない。慮外への手打ち。相手はそう言って証人をたてていると言うと、父親は静かに応えた。
「果し合いであれば、相手も斬られることは覚悟のこと」
「旗本の次男であれ。仇を返しにくることは必至」
「だがここでお前が切腹したとて、相手は徳をもって恨みを報ずることがあろうか」
父親は、じっと自分の眼を見詰めていた。
——お前を探しに来る者がいても、知らぬ存ぜぬで通す。
父の言葉に驚いた。顔を上げた自分に、父親は静かに言った。
「事は急ぐがよい。今すぐ出立し江戸を去れ」
父親に促されて、急ぎ部屋に戻り身支度をした。合切袋に全てを入れて刀を持った。父の部屋に行くと、行灯の傍で文机に向かって書状をしたためていた父親が振り返った。
品川宿の境橋を渡って右に貴船明神がある。
境内には暖をとる場所もあろう。旅籠には寄り付かぬがよい。
街道を西へ向かい。
京の吉田房之介殿の元へ
上京にある太子流道場だ。
ここに事情を書いた。
父親は吉田殿と書いた書状と金子を包んだものを自分に渡すと。母に挨拶をしてから行けといって廊下から自分を見送った。
廊下で兄に呼び止められた。兄上は、打ち刀を自分に持たせた。
「これは、父上から山口の家長である者が持てと言って渡された」
「とても古い刀だ。国重の銘がきられておる」
「道行で身を守る必要もあろう」
「金に困ったら、これを売ればよい」
兄は勘定方として勤めている。幼い時から剣術の稽古を嫌い、部屋に座って算術をすることを好んだ。「わたしは刀を使わない。これはお前が持っておればよい」そう言って、兄は山口の家宝でもある打刀を自分に渡した。
母は姉の勝と一緒に奥の部屋に居た。父にと縫っていた上綿の黒い長着を急遽自分用に袖を直していた。姉の勝も正月用に用意していた新しい肌着一式を小さく畳んだものを用意した。合切袋に薬や御守りと一緒に詰めると、そっと自分に差し出した。姉は袖で涙を拭っている。母は何も言わずに、握り飯を包んだものを自分の手に持たせた。そして、奥の間の衣文掛に掛けてあった黒八丈の羽織を手に取ると、自分に丁寧に着せかけてくれた。旅草鞋にはばけ、黒い手甲をつけて玄関に立つと母は襟巻を巻いてくれた。
「道中、決して無理はなりません」
ずっと何もいわなかった母が最後にそう言った。自分は提灯も持たずに家の裏を廻って裏通りを通って品川に向った。
*****
江戸を離れて
家を離れて一刻。品川宿の通りは、灯りが眩しいぐらいに感じた。
裏通りを足早に過ぎた。さっきまで吹いていた風は幾らか止んでいる。すぐに南品川の境橋を渡ることができた。橋の向こうは閑散としていて、橋の袂を右に曲がると、そこは参道で暗がりに大きな赤い鳥居が見えた。この辺りは、ずっと昔幼い頃に両親に連れられて歩いたことがあった。境内はひっそりとしている。社の奥の本殿に頭を下げて、廊下に上がった。本殿の裏の影に腰を下ろした。ちょうど社の木に囲まれて風除けになっていた。そこで初めて一息ついた。真砂町を出てから、ほぼ一刻半。もう丑三つか。懐から母親が持たせてくれた握り飯を取り出した。朝から、何も食べていなかった。身が冷えるのを防ぐためにも食べよう。そう思って、握り飯を口にした。ほんのりと温かい。美味い。こんなにうまい飯は初めてだ。暗がりに白く浮かぶ米を口に入れては噛み締めて味わった。生きている。
生きておる。俺は。
米を噛み締めながら、昼間の光景が頭の中を駆け抜けた。次々に襲い掛かる敵。真剣が振り下ろされ、空を切る。身を除けるのに懸命だった。やらねばやられる。相手を倒すことばかりに気をとられ、間合いを取ることも、峰で打ち留めることも忘れてしまっていた。無我夢中だった。だが、最後だけは斬るつもりで斬った。殺めた。斬るしかなかった。人迎を切り裂くと人は死ぬ。初めてわかった。居合の二刀目で狙う場所。決して忘れぬ。
握り飯を一気に食べた。空腹だったことも忘れていたのに……。身が温まってくる。ありがたい。眼をつぶって、何も考えないようにしよう。あと数刻の内にここを発つ。江戸を出来るだけ早くに離れなければならぬ。身を柱に預けて腕を組むようにして暖を保った。考えまいとしても、再び決闘の断像が頭の中を巡り続けた。
いつの間にか、眠り込んでいたようだ。気付くと、空は白んでいた。明け六つ。慌てて本堂の廊下から荷物を抱えて飛び降りた。そのまま境内を横切ったが、誰にも姿は見られた様子はなかった。社務所から白い湯気が立っているのが見えた。あそこに誰かが居るのだろう。手水場で顔を洗って、水を飲んだ。竹水筒に水を入れて、境内を後にした。
街道をひたすら歩き続けた。まだ朝が早く行商や荷車を押す者が数間先を歩いているだけだった。背後を気にしながら歩いたが、気になる影や追っ手が近づく様子はなかった。一度、念のために裏通りに出たが、水溜まりが多く、道が悪いので再び表の通りに出て歩き続けた。陽が昇って来た。空気は冷え込んでいるが、陽の光が射すだけで背中が温かく感じる。己の中で、「生きている」という声がしていた。俺は生きている。斬り合いで死なずに生きている。そうだ。死なずに。
俺は引決しなかった。
剣をとって相手を斬ったことへの責任。果し合いで人が死ねば、町奉行への申出は必須。怠ればお縄になる。死んだ橋本も同じだ。残った取り巻きが証人として奉行に訴えれば自分はひっ捕らえられる。私闘の下手人として処罰は免れぬだろう。
では何故弱き者は罪には問われず、強き者が咎められる。
父上は引決したとて、相手は徳を報ずることはないと断言した。
——私恨を晴らす為、
その目的を遂げてそなたは生き残った。
相手はその目的の為に切られ死んだ。
それまでのこと。
切腹したとて、それは犬死に。
父上からそのような言葉が出てくるとは思わなかった。幼き時より、剣を極めろと教えられた。出仕が叶わずとも武士らしく生きよと。
武士らしく。
死をもって己の潔白を訴えるも道。命を惜しむは武士の恥。そのようにお前は自刃して事を片付けるつもりであろう。己が身が潔白なら、刀をとって生きる道を生きよ。
家の事は案ずるな。
其方が恥じ入ることは何もない。
父は出仕先の鈴木家に迷惑がかかることは何もないといって、自分を安心させた。だが、本当はどうなのだろう。己のような厄介が家に居たばかりに。こんな事であれば、剣術の師が亡くなった時に出奔しておればよかった。今更ながら後悔する。自分に甘えがあったばかりに。
陽の光は、己の心の内に光を当てているように感じた。剣術で精進し、強くなることだけを目指していた。だが強くなることの意味とはなんだ。剣を振るうのは人を斬ること。人を殺め、己も人に斬られれば死ぬ。ただそれだけのこと。では、何故、俺は罪に問われ江戸を追われる。
歩を前に進める力は、胸の中から沸々と湧き上がる憤りだった。己の足は、ざくざくと大きな音を立て、砂埃を上げながらどんどんと街道を西に上って行った。通りの人々は、自分の歩の勢いに道を開けるように避けている。気づくと、ずっと先に道が開け、川が見えて来た。立札に「六郷の渡し」と書かれてあった。河原には、竹の長椅子が置いてあって、そこに既に数名の客が待っている様子だった。渡し賃を払って四半時ほど待った。客が八人に増えたところで、ようやく舟が出る事になった。街道に自分を追って来る者がいないかとそればかりが気になった。土手の街道に繋がる道を振り返っていると、船頭に呼ばれて、ようやく舟に乗り込んだ。
ゆっくりと舟が進む。川の流れは早くて船頭は棹でその流れに逆らいながら、向こう岸に付けようとしているようだった。川の上流に目をやった。多摩から流れるこの川を渡ると江戸を離れることになる。陽の光が背中にあたっていた。風もなく、今日はずっと先まで進めるだろう。追っ手が来ぬうちに。そんな事を思ってふと振り返ると、六郷の土手の上に、臙脂色の着物を着て背伸びをするように立つ者が見えた。母上。母上か。思わず立ち上がった。舟が揺れて、均衡を失いかけた。傍にいた男が自分を支えるように手を伸ばした。なんとか舟の一番後ろに立った。
母上は、六郷の土手の上で舟を追うように歩くと、立ち止まって袂から何かを取り出した。白い手拭を振っている。居ても立ってもおられず、思わず持っていた菅笠を大きく振り返した。何度も手ぬぐいを高く掲げている。母上。一体、このような場所まで、独りでどうやって。早籠で来たのか。母上の苦労を思った。母親を不憫に思うのと離れていく寂しさで、どうしようもなく。遠い姿に向かってただ頭を下げた。
舟は江戸を離れていく。母親の姿はどんどんと小さくなって。白い手拭だけが小さく見えて居た。
*****
母の姿をみたのは、あれが最後だ。
千鶴が両手で顔を覆って肩を震わせて泣きながら聞いている。もう夜は更けていた。千鶴は火熨斗を置いたまま、ずっと斎藤の話に聞き入っていた。
(初めて聞いた。そんな事が……)
千鶴が上洛して初めて斎藤と出逢った時、すでに斎藤は新選組幹部として京に住まっていた。江戸の本郷出身で千鶴より早くに上洛して来たことは知っていたが、同じ江戸から土方さんたちと一緒に京に出向いたと思っていた。斎藤が昔の話を滅多にすることはなかった。夫婦になって斗南から東京に戻る時に、初めて小石川近くの本郷真砂に山口の実家があると聞いて驚いたのを覚えている。実家のある小石川近隣の事も良く知っていて、千鶴の実家近くの萬屋で売られていた「ちりちり」という名の麦こがしが好きで、よく買いに来ていたと教えてくれた。それを聞いて幼い頃に顔を合わせていたかもしれないと互いの縁を思った。
「もう遅い、寝よう」
斎藤は静かに言って、千鶴が立ち上がるのを助けた。千鶴は、簡単に片づけを済ませて寝間に入った。泣き止み顔のまま、千鶴はそっと斎藤の腕の中で寄り添うように目を瞑っている。斎藤はじっとその寝顔を見詰めていた。長い年月が経っても、この寝顔は変わらぬ。そんな風に思った。ずっと遠い昔の話。自身でも忘れていたような光景を、今日は沢山思い出した。
「はじめさん、山口のお母さまに見送られた後、どうされたんですか」
腕の中の千鶴は、眼を瞑ったまま囁くように尋ねた。まだ起きておったのか。千鶴は、話を聞きたい、もっと話をしてほしい。そうねだった。斎藤は、千鶴の背中に布団を着せかけて、しっかりと腕に抱きしめ直した。
****
西行
年の暮れに、西に向かう道行は「伊勢詣」だと言えば、誰にも怪しまれずに通ることが出来た。
突然の出奔で、通行手形は一切用意できず、金子四十両を晒しに巻いたものを腹に結び付けてあるだけだった。箱根の関所を通れば、なんとかなるだろう。俺は、上洛に不思議と一切の不安も感じていなかった。六郷を過ぎてから、戸塚宿では寺の境内に潜りこんで暖をとって休んだ。晦日は旅籠も寺も、年を迎える準備に忙しく。部外の者が立ち入っても気に留める者はいなかった。道行きの途中、荷馬車が立ち往生しているのを助けたら、礼にと次の宿場まで運んでくれる者がいた。この傳馬から西行きの道程を聞く事が出来た。
順調良く進めば、十二、三日で京には着く。箱根の関では、旅の理由を「お伊勢に詣でる」と言えば男子なら不問。今切の関所では、士分であれば刀検めがあるだけで通ることが出来ると云われた。有難いと思った。平塚、二宮、街道は道が良くて歩きやすかった。左側に海を臨む風景は、どんどんと己の気持ちを開放的にしてくれる。西へ、西へ。背中に置いてきた江戸のことは、このまま打ち捨ててしまおう。そんな風に考えた。それでも、これから先、俺はどうするのかと考える事を止めることができない。約束していた日野への出稽古も無断のまま出向く事は叶わなかった。総司は独りで多摩に向かったのだろうか。逃亡した俺に追っ手がついたら、試衛場にも町奉行の同心が来るやもしれぬ。迷惑をかける。そんな事を考えながら、近藤先生や仲間の顔が胸をよぎった。
門人の名簿から名を消して貰えばよかった。
浪人御集まりからも除名を願っておれば。迷惑を掛けずに済んだものを。これは大きな後悔だった。同時に心にぽっかりと穴が空いたように感じた。将軍様を護衛しながら上洛する事は俺の夢でもあった。同じ上洛でも、浪士募集と今の状況では、天と地の差がある。そんな風に考えると、どんどん気が滅入って行った。
道端の茶屋の呼子が、休んで行けと愛想よく声を掛けてくるが、何を云われても、団子を見せられようとも、何も食べたいとは思わない。ただひたすら西へ向かいたかった。日が暮れても歩き続けて、二宮の外れに来た。小さな寺の境内に立ち入って、本堂の影に身を寄せた。ここで夜を明かそう。冷えるが仕方がない。風よけになる筵を探そうと、立ち上がった時に住職に見つかってしまった。間が悪かった。無断の侵入を詫びると、和尚は笑顔で「これから檀家衆と除夜の鐘を突くから」と、本殿の離れに上がるように言われた。そこで熱い茶を出された。ありがたい。冷え切った身が温まる。
不思議な気分だった。見ず知らずの人間が三十名。本堂で和尚と一緒に読経をした後、順番に鐘楼に上がった。俺は修行僧に促されるまま鐘を打った。鐘楼の周りで、和尚は人の心にある煩悩を祓うために突くものだと説法をしている。百八つ。そんなにも煩悩が人の心にあるのか。驚きながら、己の抱える心の闇を思った。鐘を突き終わると、本殿の離れに檀家衆と一緒に座って、茶や精進食が振る舞われた。新年の祝いだと云われて恐縮した。周りの者はみな町人のようだ。人柄の良さそうな者ばかり。話をしているうちに俺がこれから西に向かうと言うと、箱根の関を越すには、丈夫な旅草鞋が必要だと云われた。旅立つ前に届けてやろうと言う。有難い。檀家衆が寺から帰ると、和尚はゆっくり休むようにと布団を出してくれた。数日振りに、布団の中で足を伸ばして眠った。
大きな音がして目が覚めた。木の板を叩く音。寺は禅寺で、修行僧も和尚も三つ半に起床する。除夜の鐘の後の食事からたった数刻。もう起き出すのか。俺は慌てて起きて顔を洗いに手水場に向かった。小僧が出て来て、小さなお堂で和尚と修行僧と一緒に座禅を組んだ。結跏趺坐は前の道場の師に教えられた。剣術の心得として続けている。無心になること。剣を振るときに役立つ。俺にとって、このような寺のお堂での作法は初めてのことだった。粛然とした空気の中、ずっと己の心を消し去ろうとしたが、やはり巡るのは剣の事ばかりだった。
どれぐらいの時間が経ったのかわからぬ。鐘の音がなって座禅を終えた。歩く禅でお堂の中を廻り、本堂で和尚と一緒に読経をした。和尚は普段は作務をするが、今日は新年だから作務はなく食事が用意してあるといって微笑んだ。離れの間に粥と精進食が用意されていた。無言のまま頂いた。俺が和尚に重々にもてなしへの礼を言うと、和尚は「人に逢うことは御仏に逢う事なり」と説かれた。そして、ただひたすらに「只管打坐」をすることが道元禅師の教えだと言って微笑んだ。しかんだざ……。寝起きに行なった座禅を思った。余念なく、ただひたすらに座ること。
身支度を整えて、本堂の階段から下り立つと朝陽が昇っていた。清々しい。山門で深くお辞儀をしてから駆け寄って来る者がいた。手には藁草履を持っている。会釈をした者はゆうべの檀家衆のひとりだった。旅の無事を祈っているといって、握り飯と一緒に草鞋を二組を腰に下げてくれた。俺は礼を言って見送られるように寺を後にした。
一刻ほど歩いて行くと、大きく視界が開けた。河原だ。海に近い河口は広い。辺りを見回してから、暫く上流に向かって歩いて、河を渡る場所を探した。「酒匂川の渡し」の立札が見えてきた。大きな丸い石が広がる河原を足元に気を付けながら下りて行った。川辺に辿りつくと、【徒歩渡し】だと気が付いた。桟敷を頼むと、人夫ひとり七十八文。肩車で五十二文。川札二枚を買って、肩車で人夫二人をつけた。しめて百四文。悪くはない。これから関を二つ超える。無駄遣いは控えよう。
人夫の話では水嵩は低いということだった。だが、河の水は凍るように冷たい。十間ほどの距離だが、人夫がいうには、「お武家様、この時期は金玉も凍りつきまさぁ」と言って、俺を肩に乗せる前に何度もしゃがんでは伸びて飛び上がり、準備をしていた。
「難儀をかける」
そういって、肩に掴まった。急に視界が広がった気がした。目の前に見える箱根の山々が近く見えるような。気持ちがよい。そう言えば、いつか道場の屋根の上に投げられた草履をとるのに、左之助に肩車をしてもらったことがあった。あの日は、総司と平助に悪戯をされて草履を取り上げられた。肩車など、あの日以来だ。この人夫は左之に比べると背は低いが、逞しく俺のことを軽々と抱えると、ひょいひょいと河の中に入って行った。川面には青空が映り、清々しい空気に満ちていた。
「お武家様、じっと腹に力をいれて掴まっていてくださいよ」
人夫は、随分早く足を進めているようだった。どんどんと向こう岸が近くなる。隣を歩く人夫は荷物をまとめた風呂敷を頭の上に抱えている。俺はこの男に大小を預けていた。もし万が一、この男が河を流れたら、河に飛び込んで大小だけは救わねば。勝手にそんなことを考えている内に対岸に着いた。大きな焚火の前の台に下ろされて、身体も着物も足先もどこも水に濡れていない事に驚くと共に、人夫の腕に感心した。
「よくやってくれた。礼をいう」
「かまやしません。旦那のような持ち上げ易いお客人ばかりなら、願ったり叶ったりなんですがね」
人夫は背中で焚火の暖を取りながら濡れた身体を拭うと、足元を手拭で払うようにして送り出してくれた。
「旦那、暮れに珍しく、ここいらだけ霙が降りましてね」
「御城下に行くまでの道行は、ぬかるみや水溜まりが多い。馬車泣かせだって傳馬が言ってました」
「どうか、足元をお気をつけなさって」
渡し場から人夫に見送られて土手をずっと歩いて街道に向かった。
前方には海、真っ白な水平線が広がるのが見えた。大きく吸い込む海風。潮の香りがする。土手を真っ直ぐ進んで、街道に戻ろうと思った。ちょうど街道の手前に大きな水溜まりが出来ていた。周りを見ると、先に行く人々は、一旦土手の草むらを迂回して街道に出ているようだった。陽の当たらぬ土手を皆が苦労しながら下りている。
上を見上げると空は真っ青な快晴。大きな池のような水溜まりに、空が映り青い海のように見えた。荷物をしっかりと身体に結びつけた。草鞋の紐も結び直し。水溜まりから下がって構えた。
いいか、山口。お前なら、ここを飛び越せる。
俺の手をとれ、思いっきり股をかっ広げて飛び上がれ。
そうだ、大股で。俺が向こうに飛ばしてやる。
耳に土方さんの声が聞こえるような気がした。俺は頷くと、地面を蹴った。思い切り助走をつけて水の畔で飛び上がった。土方さんが向こう岸から手を伸ばしているような気がした。その手をとって、大きな一歩で飛び越えた。水面が俺の通った勢いで揺れている。振り仰ぐと、遠くに相模の平野が見えた。
さらばだ。
大きく空気を吸い込むと、俺は高揚した心持のまま、前を向いて街道を西に向かい駆け出して行った。
完
(2019/01/19)
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