冬来りなば春遠からじ(前編)
FRAGMENTS 12 冬
平助が試衛館道場に顔を出したある平日の午後、上り口でスニーカーを脱いでいる平助の元へ、道場の廊下から道着姿の野村利三郎が血相を変えて走って来た。
「藤堂さん、すぐ道場に行ってください。すげえ試合やってます」
そう言って野村は飛び降りるように簀の子の上に乗っかると、雪駄をひっかけて走っていった。
「他道場の人と沖田さんです。俺、剣道部の奴ら呼んできます」
平助は何事かと思った。確かに道場から激しい木刀の打ち合いの音が響いている。床を踏みしめる音で建屋が揺れている。平助は、本気の打ち合いをやっていると思って、廊下を飛ぶ様に走って行った。
既に、道場では門人たち数名が壁の前で息を呑みながら仕合を眺めていた。近藤が自ら審判の旗を持って、仕合の行く末を見ている。その真剣な表情と緊迫した空気に、平助は辺りを見回した。丁度、西側の畳に斎藤が道着姿で正座をしていた。手合わせを見るというより、目の先の畳を見詰めたままじっと動かずにいる。傍に摺り足で下がった総司が揺らす空気で、斎藤の髪が風になびくように揺れているが、それでも一切が目にはいっていないかのように微動だにしない。
(すげえ、はじめくん。次にやんのか。気合の入れ方が半端ねえ)
平助は、斎藤の精神統一をしている姿に舌を巻いた。それにしても、誰だ。この背の高い奴は。どこのどいつだ。総司より振り上げが高い。あの剣筋、なんだよ、キレッキレじゃねえか。総司を追い込むように攻める相手の踏み込みと、打ち込みの正確さに平助は口が開いたままになってしまった。
突きあり。
近藤が東側に旗を上げて、総司が一本取られたことを知らせると。総司は珍しく、素早く元の位置に戻って、八相に構えた。相手も肩で息をするぐらい呼吸が上がっている。開始の合図で、一気に総司が攻めた。防具の奥で総司の眼が爛爛と輝き、上段から叩き斬るように相手を攻めた。ぎりぎりに相手を追い込んだ総司は、容赦なく面を打った。
面あり。勝負あり。
近藤は西に軍配を上げて、打ち合いは終わった。二人は互いに礼をして仕合を終えた。防具を取った相手の額と頬に光る汗が見えた。その精悍で美しい顔を見て、平助はどこかで見た顔だなと思った。道場の入り口に駆け付けた土方が、そのまま前に進んで近藤に声を掛けた。
「近藤さん、ご苦労さん」
近藤は振り返り土方に頷いた。それから道場に集まった皆に向かって、大きな声で話しかけた。
「皆、こちらは練武館道場の伊庭八郎くんだ」
「伊庭君は、国際大会の優勝経験もある。今は、小石川の雪村診療所に勤めている医師だ。今度開かれる親善仕合に、二十代の部で出場する」
「伊庭八郎です」
汗を拭きながら、伊庭は道場の門人や人だかりが出来た入口付近の人を見回して丁寧に挨拶した。平助は、薄っすらと記憶が戻って来た。そう言えば、うんと昔、練武館の伊庭って同い年の強い奴がいたな。たしか俺が三年の時に、四年生だっけ。平助は、他道場との交流仕合に出ていた小学生の頃を思い出していた。そして、総司との凄まじい手合わせをしていたこの剣豪と自分も手合わせをしてみたいと思い、急いで着替えに更衣室に走って行った。
五分間の休憩の後、直ぐに伊庭八郎は斎藤と手合わせをした。上段から攻め続けた総司と違い、斎藤はずっと陰の構えで自分に相手を引き寄せる。斎藤は、伊庭のリーチの長さに内心驚いていた。間合いでは相手が圧倒的に有利だ。総司より二寸は剣先が先に長く伸びている。斎藤はにじり下がる時、剣先を躱す時に細心の注意を払った。そして低い位置から、一気に相手の胴をとった。
冷静な斎藤の剣に、総司が顎を上げるように畳の向こうで合図を送ってくるのが見えた。
「はじめくん、右、ガラガラだよ」
総司の声が聞こえる気がする。昔から総司は、念を飛ばすのが得意だ。それは剣を打ち合う時に顕著で、耳元で囁かれるぐらい大きな声が心に響く。斎藤は、総司の指摘通りに右を警戒した。その瞬間だった。自分の視界より高い位置から思い切り、剣先が降り降ろされてきた、一瞬の遅れ。斎藤は翻しながら斜め袈裟に相手の一撃を受けたが、刎ね返す前に相手の剣先が自分の右肩を突いていた。
突きあり。
一本取られた。斎藤は瞑目した。いつもと違う相手。太刀筋を読めない。ならば、どうする。斎藤は基本に戻ることにした。もう一度、陰の構えから、出来る限り相手を引き付ける。自分の間合いに相手が入れば、そこで打って出る。心は静かだった。門人が息を潜める中、ずっと青眼で構える伊庭八郎と睨みあった。もう伊庭の剣先を見ない。いや、見つめる。心で。相手の足さばきも、にじり寄る方向も、どちらに向いても自分は次の一手を打つことが出来る。ただ、相手のリーチと木刀の長さだけ。己の内に引き込まねば。
斎藤の心の動きが判っているのか、伊庭はなかなか前に出て来ることはなかった。だが、一瞬の隙を見て、一気に青眼から上段で突きの姿勢のまま打って来た。斎藤は、それでも動かずに相手が自分の間合いに入る瞬間を待った。相手の剣先を振り払うと同時に、伊庭の水月を打つように突いた。
突きあり。一本。
そして、最後に素早く二人で位置に戻ると、壮絶な打ち合いになった。斎藤も下がらずに、伊庭の剣を受けたまま離れない。低い踏ん張り。斎藤は、自分の身体中の筋肉の動きが判っていた。そして己の限界も。だが、総司と同じで、伊庭も同じぐらい隙をついて、反対側を打ってくる。斎藤は小手を一本取られた。
——踏ん張りがまだまだだ。
そう反省しながら、仕合を終えた。伊庭八郎。初めて手合わせをしたとは思えない。いろいろな課題が見えた。キネティック値の調整が必要だ。礼をしながら、そんな事ばかり頭に巡っていた。門人や入口に出来た人だかりの皆が、斎藤と伊庭に賞賛の拍手をしていた。土方が、伊庭八郎に「八郎、久しぶりだな」と親しそうに声を掛けた。
「トシさん。お久しぶりです」
土方と伊庭は随分と親しそうだった。土方とは試衛館に通う前から、家同士で懇意にしていたらしく、試衛館に来たのも、土方が中学生の伊庭を道場稽古に誘ったのがきっかけだった。 以来、練武館と試衛館は交流稽古をするようになり、今も練武館出身の生徒や門人が試衛館に出稽古に来ている。伊庭は暫く土方や近藤と談笑してから、総司と斎藤に手合わせの礼を云った。
「君、武道館での親善仕合。国際連盟枠で名前を見たよ」
総司は、帰りかけの伊庭に声を掛けた。伊庭は、「はい、公式試合への出場は久しぶりで楽しみです」と笑顔で答えた。
「僕とはじめくんも出るよ」
そう言う総司の隣で斎藤が頷いた。伊庭は、それは楽しみです、と二人に微笑むような優しい笑顔で答えると、「それじゃあ、また。是非手合わせをお願いしたい」と言って、丁寧に頭を下げた。
「そうだね。僕たちの手が空いていたらだけど。ね、はじめ君」
総司は、随分と勿体をつけた言いまわしで、皮肉な表情をしながら相手に応えた。
「こちらこそ、是非お願いしたい。よろしくお願いします」
斎藤は、総司の隣で姿勢を正して深々と頭を下げた。伊庭は「有難う斎藤くん。沖田さん、それじゃあまた」と出入り口の人だかりが、さっと道を開けた中を颯爽と道具を肩にかけて帰って行った。平助は、伊庭と手合わせを出来なかったのが酷く残念だったらしく、その日はずっと不貞腐れていた。
総司と斎藤は、直ぐに道着を着替えて急いで赤坂に向かった。毎回、鍛錬の前に、筋肉量や細かいキネティック値の測定をしてからトレーニング成果の分析を行う。斎藤は、剣の打ち合いで下半身を中心に重心を取ることが出来るように運動連鎖を調整することにした。総司とは違い下半身トレーニングに重点を置かれた。そして、通常の全身トレーニングをこなした。
最後の一時間は、風間と一緒にトレーニングを行った。運動負荷は、風間、総司、斎藤の順番に重く課せられている。風間は筋肉量と瞬発力に優れていた。トレーニング後に三人でシャワールームに行くが、風間は必ず斎藤と総司をサウナルームに誘う。総司は一緒に行くのを嫌がるが、筋肉疲労の回復が早くなるぞ、と風間に諭されて、いつも「やれやれ」と小さな声で斎藤に聞こえるように呟きながら、通路をサウナルームに向かった。
じっと動かずに発汗しながら瞑目している斎藤の傍で、総司は足を組んだり、寝転がったりとリラックスしている。風間は自分専用のふかふかのシートを特等席のような広いスペースに用意させて、そこで気だるそうに座っていた。暗がりの中で、風間は斎藤の身体を眺めては、筋肉の突き具合や骨格の小ささを確かめて、「ふっ」と鼻先で一蹴した。この失礼極まりない態度を、斎藤は判ってはいたが、全く気にせずに受け流した。総司は、腰に巻いているタオルをとって、堂々と極めポーズで風間に挑んだ。風間は、自分のタオルを投げると、「どうだ」とばかりに自分の肉体美を総司や目を瞑っている斎藤に見せつけた。
確かに風間の骨格や均整のとれた筋肉質の肢体は見事だった。それでも、総司は自分の股間と風間のを見比べて、「僕のが勝ったね」と言わんばかりの笑顔でさらに決めポーズをして挑発した。風間は思い切り総司を睨み返していた。斎藤は、そんな二人の諍いには、全く気に掛けていないように立ち上がるとサウナから出て、シャワーを終えた。ずっと斎藤の頭の中には、道場での伊庭八郎との手合わせが巡っていた。
ジムから出て、凍るような空気の中を総司と斎藤は追いかけっこをするように一駅分ジョギングをして帰った。駅で総司と別れた後、斎藤は千鶴に電話をかけた。
いま、トレーニングが終わった。
二週間で筋肉量が五キロ増えた。
キネティック値は二倍だ。
「腹が減って、死にそうだ」
「これから夕飯なの?」
千鶴が尋ねると。斎藤は、このままプロテインだけとって、「ささみ」を食べて寝ると答えた。千鶴は、過酷な運動ダイエットだから気をつけてと言って心配した。
「トレーナーの指導を受けているから大丈夫だ」
「明日の日中は米も食べる。野菜や肉は普段通りに沢山食べている」
「そう、なら良かった」
「甘いものは、禁止なの?」
「ああ、糖質は制限がある」
「じゃあ、バレンタインのチョコレートも駄目?」
「チョコレートか……」
「チョコレートはだめだよね」
暫くの沈黙の後、斎藤は溜息をついた。
「千鶴が作ったチョコレートケーキ。美味かった」
去年のバレンタインに焼いたケーキ。はじめさん、一気に半分食べちゃった。そう言って千鶴は電話の向こうでクスクスと笑っている。
「今年は、食べられん」
「わかった。何か代わりになるものを作る」
歩きながらなのか、斎藤はそのまま暫く何も言わなかった。静かな時間。
「キスしたい」
突然電話の向こうで囁く声が聞こえた。「わたしも」と千鶴は応えた。逢いたい、はじめさん。
また暫く無言のまま。
「出来るだけ早く会える時間をつくる」
強い調子の声で斎藤が応えた。千鶴は「うん」と答えた後、「おやすみなさい」と言って電話を切った。斎藤が、家に着くと。千鶴からハートが飛び交う中、白うさぎが眠っているスタンプがスマホに送って来ていた。斎藤も「おやすみ」のスタンプを返した。
*****
伊庭八郎が試衛館に現れてから数日後。千鶴は午前中の講義を終えると、猛ダッシュでキャンパス内を横切ってバス停に向かった。遅いランチを駅前のカフェで。それが斎藤との約束だった。バス停には長蛇の列。今日に限ってバスは事故で二本遅れているらしく、千鶴の後ろにもどんどんと列が伸びて行った。千鶴は、時間を確かめる為にスマホを取り出した。通知のライトが点滅している。電話にボイスメッセージが入っていた。父親から着信が三回続いてあった。
千鶴、講義が終わったら連絡をしておくれ。
急用だ。
千鶴は直ぐに父親の携帯に電話した。雪村鋼道は、直ぐに電話に出た。ザーザーと音がして、聞こえにくい通信状態。「今から、新宿に出て来なさい。迎えの車を出した」という声が聞こえた。千鶴が「何? 今バス停だから」と応えると、「ああ、わかった。キャンパスの前だね。そこで待っていなさい」と途切れ途切れの声がして通信が途絶えた。千鶴は、何度も掛け直したが、ずっと父親は通話中で通じなかった。仕方なく、千鶴はメールを送信した。
父さま、急用ってなに?
わたし、今日はお昼に約束があって。
新宿に立ち寄るのは、その後でもいい?
二時過ぎには行けます。
千鶴
千鶴は、何度も電話を掛け直したが、ずっと通じないままだった。その時、目の前に黒いロールスロイスが停まった。そして、後部座席のドアが開かれて、中から天霧九寿が降り立ち、千鶴に向かって会釈した。
「さあ、こちらへ。お迎えにあがりました」
車のドアを開いて、千鶴に乗車するように促す天霧は、「さあ」と千鶴に手を差し出した。
「あの、天霧さん。父が天霧さんにお願いしたのでしょうか」
「はい、雪村先生は急用で、貴方に直ぐに来るようにと」
「父に何かあったんでしょうか?」
千鶴は心配そうな表情で尋ねた。「私も、何があったのかは存じ上げていない。貴方を新宿にお送りするようにとしか」と天霧も状況が判っていないようだった。千鶴は、戸惑った。だが、バスは一向に来る様子はなく、このままここで待つよりも車で駅まで送ってもらえるか天霧に頼んでみようと思った。
「あの、申し訳ありませんが。新宿ではなく、最寄り駅までお願いできますか」
「わたし、今日は用があって。二時過ぎには新宿に出向くことが」
「判りました。それでは、私から鋼道先生に連絡を致しましょう」
天霧は、千鶴を車に乗せると、そのまま駅に向かった。千鶴は天霧に礼を言って、駅で降りると急いで電車に乗って、斎藤との待ち合わせのカフェに向かった。いつもの窓辺の席に座ったが、斎藤はなかなか現れなかった。スマホで連絡をとると、「少し遅れる」とメッセージが入った。
斎藤がカフェに着いた時、もう既に午後1時を過ぎていた。息を切らして走って来た斎藤が席について、大学からずっと走って来たと云って笑った。数週間ぶりに見る斎藤の元気そうな姿に千鶴はずっと逢いたかった気持ちで胸が詰まって、何も言葉が出て来ない。良かった、会えて。
「遅くなった。すまん」
謝りながら座った斎藤は、すぐにテーブルに置かれたグラスをとって一気に水を飲んだ。一息ついて、千鶴の手を取るとそのまま自分に引き寄せるようにして、耳元に口づけた。冷たい唇の感触。はじめさんの匂い。千鶴は俯くようにじっとしていた。身の内が温かくなる。嬉しい、はじめさんに逢えた。
ウエイトレスがオーダーを取りに来て、二人で遅い昼食をとった。斎藤は食欲旺盛で、野菜とタンパク質を中心に摂ると言って大皿料理をぺろりと平らげた。「ずっとトレーニングをしている。力がついた」と言って、斎藤は、数週間の生活の変化の話をした。大学の講義、アルバイト、居合道、剣道の稽古以外は、ずっとトレーニングばかりだと笑っている。繋いだ手は、指を絡め合うように握っているが、その骨ばった指は、少し痩せたように感じた。心なしか、頬が引き締まったように見える。笑顔で嬉しそうにトレーニングで充実していると話す斎藤の横顔を見詰めながら、千鶴は、斎藤が親善仕合に向けて今は剣術に集中しているのだなと思った。
バッグのスマホから何度か通知音がしていた事に気付いた時、ふと窓の向こうに見える通りに、黒いロールスロイスが停まったのが見えた。中から天霧が降り立ち、通りに立って辺りを見回している。千鶴は、スマホに父親から数回電話が掛かっていたことを確かめた時に、再び鋼道から電話が入った。
「千鶴、さっきから何度も連絡しているのに。どうして電話にでない」
父親は怒っていた。ずっと新宿で千鶴が来るのを待っていると言って、「天霧さんが駅前に迎えに車を出してくれた。直ぐに来なさい」と千鶴が返事をする前に電話を一方的に切ってしまった。千鶴は唖然としたままスマホの通話が終わっている画面を見詰めていた。
「どうした。何があった?」
斎藤が心配そうに顔を覗き込んできた。千鶴は、首を横に振りながらスマホをバッグにしまった。
「はじめさん、ごめんなさい。これから急いで新宿に行かないと」
「父さまから、連絡があって」
千鶴が立ち上がりながらコートを羽織るのを見て、斎藤も立ち上がった。荷物を持って一緒にレジに向かうと会計を済ませてカフェの外に出た。斎藤は駅の改札に向かって、千鶴の手を引いて歩きだしたが、千鶴は「待って」と言って立ち止まった。
「はじめさん、迎えが来ているみたいなの。今日はこのままここで」
千鶴の表情はどこか悲しそうで、じっと見つめる瞳は何かを訴えているような。斎藤は、千鶴が離した手を見ると、千鶴は離した手を胸に握りしめるようにして、「わたし、行かなきゃ」と後退りをした。
「どこに行く」
急に離れた千鶴に咄嗟に問い詰めるように尋ねてしまった。千鶴は、「天霧さんが来ているから」と通りの方を向いた。斎藤は、交差点近くに停まっているロールスロイスの傍に立つ黒いスーツ姿の天霧を見た。風間の車。新宿に。
「はじめさん、今夜。稽古が終わった頃に電話する。ごめんなさい。もう行かなきゃ」
千鶴は斎藤が伸ばした手には触れずに後ずさるように離れると、足早に天霧に向かって走って行った。天霧は、通りから斎藤に会釈をしてから千鶴を車に乗せて走り去った。斎藤は交差点の向こうに車が消えていくのをただそこに立ってずっと見ているしかなかった。
****
二月に入ってすぐ、午前中の稽古を終えて、斎藤は更衣室で着替えを終えると総司の仕度を待ちがてらスマホを開いた。
今日からずっと春休み。
家に居ます。
今日も遅くまでトレーニング?
寒いから気をつけてね。
夜に連絡します。
兎が飛び跳ねるスタンプが押してあった。
いま稽古を終えた。
これから総司とトレーニングに
スマホで返信を打ちながら、数日前に千鶴に逢った夜を思い出した。アルバイトを終えた千鶴と駅で待ち合わせて診療所まで送って行った。ほんの少しの間の逢瀬。街灯の下で抱きしめ合った。あの日、駅の改札口から出た斎藤に千鶴は駆け寄って抱き着いてきた。小さな子供のように自分にしがみつく千鶴は、何も言わずにじっと目を瞑っていた。千鶴が急に新宿に行くと言って、駅前のカフェで別れてから、ずっと逢えずにいた。
二人で何も話さず、ただ肩を抱き合うような恰好で道を歩いた。別れ際、「3月になったら。遠出しよう。春になったら」と斎藤が話しかけると、千鶴は首を横に振って再び胸に飛び込んで来た。
——春にならなくていい。
小さな声が聞こえた。泣き声のような。すまん、もっと時間をとれるようにする。斎藤は、そう応えるしかなかった。
総司が着替え終わって、斎藤に声を掛けた時、斎藤は柱に凭れ掛かったまま眠っていた。手に持っているスマホはメッセージを途中まで打った画面のまま斎藤の膝の上で光っていた。総司は腕時計を見てから、そっと斎藤を畳に寝かし、棚から寝袋を取り出して上掛けのように斎藤に掛けた。そして、スマホと上着だけを持って外に駆けだした。腕時計のストップウオッチをセットして、インターバルランニングで、雪村診療所に向かった。
雪村診療所の玄関から敷地に入った総司は、手慣れた風に裏手の渡り廊下沿いの壁に向かった。ちょうど、診療所とお勝手口の通路のドアが開いたままになっていてそこに千鶴らしき後ろ姿が見えた。総司がドアの縁に手を掛けて、中を覗くと千鶴の前に伊庭八郎が立っていた。
「少し貧血気味だね。口を開いて」
伊庭は、千鶴の首に手を掛けてリンパの腫れがないか触診しながら口の中を覗いている。そして「喉は大丈夫」と優しく答えた。総司は、靴も脱がずに廊下に上がると、背後から千鶴の腰に腕を廻して自分に引き寄せた。千鶴は、びっくりしたような表情のまま振り返ると、そこに総司の顔が近づいた。
「せっ」
「先輩」と呼ぼうとした千鶴のこめかみに総司の唇が触れて、ちゅっと大きな音が聞こえた。驚いて目を見張る千鶴に、総司は優しい声で「どうしたの?」と尋ねて来た。先輩、と声にならない千鶴を更に強く自分に抱き寄せて、肩に顎を載せた総司は、まるで恋人のように千鶴の手をとって上から包み込むように指を絡めている。
「今のところ、風邪の心配はなさそうだ。千鶴ちゃん」
「あとで念の為に、血液検査をしよう」
「よく睡眠をとるようにするといい。大丈夫だよ」
伊庭は、優しい声で千鶴にそう伝えると、「やあ、沖田君」と声を掛けた。自分はこれから診療があるからと言って、渡り廊下を診療所に向かって歩いていった。廊下の向こうに伊庭が消えるまで、その後ろ姿を睨みつけていた総司は千鶴を腕から離さなかった。
「君、調子悪いの?」
総司は、靴のまま上がって悪かったと言いながら、一旦外に出るとぐるりと表玄関に廻って千鶴の自宅に迎えいれられた。総司は、ずっと不機嫌そうな顔のまま上り口で千鶴を見下ろしている。
「ちょっと出られる?」
総司は、すぐに道場まで戻るからと言って、千鶴に付いてくるように言うと、千鶴はコートを羽織って一緒に外に出た。ずっと前を黙って歩く総司に、千鶴は小走りでついて行った。途中、ひと気が途絶えた静かな通りで、総司は急に振り返った。
「ああいうところ!!」
急に怒鳴るような声を上げた総司に、千鶴は目を見開いて立ち止まった。
「伊庭先生か、誰か知らないけど」
「君のそういう、隙だらけなところ」
「簡単に触れさせちゃ」
総司は言葉を止めて、本気で怒っている顔を見せた。千鶴は何も言い返せない。さっき、勝手口で偶然に八郎兄さんを見かけたから挨拶をした。「顔色が悪い」と言われて明るい廊下に手を引かれた。八郎兄さんは、直ぐに脈をとりながら、「疲れていないか」と尋ねて来た。確かに、最近夜に眠れない日が続いている。風邪の症状が出ていないかを確かめられていた。そして、いきなり背後から先輩が現れて……。
目を開いたままずっと立ち尽くしている千鶴を見て、総司はまた前を向いて歩き始めた。
「はじめくんが道場で待っている」
「君に連絡をとろうとしたまま、気を失うように眠ってしまってね」
千鶴は愕然とした。一さんが気を失った。千鶴は総司に駆け寄った。総司は歩を進めながら、「心配はないよ。ただ眠くて、眠ってしまってるだけ」と言った。
「仮眠をとれば、大丈夫だから」
「もう目覚めている頃さ」
「トレーニングだから、仕方がないんだ」
総司は歩きながら、 千鶴に 斎藤の身体がどれぐらい急激に変化しているかを説明した。
「最初の三か月は、食事制限もある。筋トレはキツイ。キネティックトレーニングはメンタルもやられる」
「神経系も刺激されるから、夜もぐっすり眠れないんだ」
「僕は経験したから解かる。最初の一か月はトレーニングをこなすだけでヘトヘトになる」
はじめ君は弱音を吐かないからね。さっきも君に連絡をしようとしたまま眠っちゃったみたい。だから、代わりに僕が君を呼びにいった。総司は千鶴に、「少しだけでも道場に顔を見せて」と言って笑顔を見せた。千鶴は大きく頷いて、総司と一緒に走り出した。道場に着くと、既に斎藤は総司の荷物を一緒に持って、上り口で待っていた。総司の背後から急に飛びつくように自分の胸に飛び込んできた千鶴に斎藤は驚いた。
「先輩が迎えに来てくれたの。はじめさんが待ってるからって」
千鶴は満面の笑顔で斎藤を見上げた。斎藤は優しく微笑みながら千鶴を抱きしめると「ああ」と返事をした。
「はじめ君、ちょっと15分ぐらい。僕、野暮用があるから。駅で待ち合わせしよう」
総司は荷物を抱えると、30分後に駅前で落ち合おうと云って玄関から出て行った。斎藤は自分の荷物を持つと、千鶴と手を繋いで駅前に歩いていった。たった半時間の逢瀬。それでも今の二人には大切なひとときだった。駅ビルの窓辺で日向ぼっこをするように、斎藤は背後からずっと千鶴を抱きしめていた。
「再来週、府中の体育館で仕合をする。全部で四戦」
「見に来ないか」
「その日はトレーニングが休みだ。仕合は夕方に終わる」
千鶴は二つ返事で「行く」と答えた。早朝に道場を出発するという斎藤に、千鶴はお弁当を準備して一緒に付いて行くと言う。
「はじめさんの制限食に合わせたもの。仕合に精がつくもの。ちゃんと作ります」
千鶴は嬉しそうに「何が食べたい?」と斎藤に尋ねて来た。「千鶴のつくる物なら何でも美味い」と斎藤は呟いて思案しているような表情を見せた。それから、総司との待ち合わせに改札口に向かった。
「沖田先輩の分も用意しますね。先輩はささみの海苔巻きと甘い厚焼き玉子」
「俺は、千鶴の出汁巻が好きだ」
千鶴はくすくすと笑いながら、「わかりました。はじめさんには御出汁の塩っぱい卵焼きね」と応えると、斎藤は嬉しそうに頷いた。総司は、「寒い寒い」と言いながら、斎藤と千鶴が近づくと、「じゃあ、行くよ。それじゃ千鶴ちゃん」と言って、荷物を持つと、斎藤と二人で走り出した。
「一駅、走るよ」
斎藤と総司が笑顔で手を振って走っていくのを、千鶴はずっと手を振りながら見送った。
どんなに逢いたいと思っても、ずっと一緒に居たいと思っても……。
再来週まではきっと会えない。
しばらくは我慢しなきゃ。
自宅に向かいながら、強く抱きしめられた時のぬくもりと、深くかかった前髪から見えた優しい眼差しを思い出しながら、千鶴は胸がしめつけられる想いで歩き続けた。
つづく
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(2020/02/18)