冬来りなば春遠からじ(後編)

冬来りなば春遠からじ(後編)

FRAGMENTS 13 冬

「今日は、昼に会食の約束をしている」

 月曜の朝、ゼミの研究発表会に行く仕度をした千鶴は、ダイニングにいる父親が、日中出掛けるという声を聞いた。「わかった。夜は家で食べるでしょ?」と確認しながらコートを羽織った。

「ああ、千鶴は聴講が終わったらそのままホテルに来るといい」
「ホテルって」

 マフラーを巻いている千鶴の手が止まった。

「父さま、その話はお断りして」
「私は行かないから」

 父親の表情が一変したのが判った。「どうしてだね」と手に持っていた新聞を置いて、「ちゃんと話を進めているのに」と非難するような表情をしている。

「この前、風間さんにもはっきりお断りしたでしょ」
「私は、風間さんと結婚する気はありません」

 唖然とする父親に向かって、千鶴は、「この話はおしまいにして、父さま」ときっぱりと言い放った。踵を返すようにダイニングから出て靴を履くと、「行って参ります」と挨拶して出て行った。風が冷たい。千鶴は、手袋をはめながら足早に駅まで歩いて行った。

 久しぶりに大学のキャンパスに辿り着くと、入口近くの講堂に向かった。「医食同源」をテーマにしたゼミの研究発表を聞くのが目的だ。千鶴はレジュメを貰うと、席についてノートを準備した。聴講を終えると、先輩からゼミの引継ぎがあると言われて、研究室のある棟に移動した。全ての用事が終わると、もう昼過ぎになっていた。千鶴は先輩に誘われて、最寄り駅近くで昼食をとることにした。ゼミで一緒の友人とバス停で待っていると、そこに銀色の車が滑るように走って来て停車した。輝くようなクーペ。運転席のドアから、出て来たのは風間千景だった。

「迎えに来た」

 風間は真っすぐに千鶴を見つめてそう言うと、千鶴に手を差し出した。千鶴も驚いているが、一緒にいる友人も風間の姿を見て驚いていた。普段よりもっと上質のスーツを纏い薄いサングラスをかけて立つ姿。友人たちは、「Mr. Kazamaだよね」とひそひそと話している。

 後部座席のドアを開けて、千鶴に乗るように促す風間に、千鶴はきつ然と断った。

「乗りません。これから用がありますので」
「父親が待ちわびている。手を煩わすな」

 風間は千鶴の手を強引に引いて、車のシートに座らせると、ドアを閉めた。そして、千鶴の友人たちに「雪村千鶴とは懇意にしている。今日は急がなければならない。悪いがここで」そう言って微笑みながら会釈をして運転席に戻った。エンジンをかけると、銀のクーペは一気に加速して道の向こうに消えて行った。千鶴の友人たちは、驚きの声を上げて騒ぎだした。

「千鶴ちゃん、Mr. Kazamaと!!」
「びっくりーーー」
「付き合ってるってことだよね」
「彼がいるって、言ってたもの」

 女友達がバス停で騒然となっている間、千鶴は風間の運転する車の後部座席でじっと憤っていた。

「下ろしてください」

 運転席の風間に向かって千鶴は頼んだが、風間は前を見たまま返事をしない。車は高速道路を滑るように走って行く。

「ゼミの発表はどうだった?」

 ようやく、風間がバックミラー越しに千鶴に話しかけてきた。

「興味深いものでした」
「今年の研究発表は優秀なものだと聞いている。俺は自分の担当しているゼミのものしか目を通していないが、休み中に修士論文は全て読むつもりだ」

 それから風間はずっと黙ったままだった。千鶴は眩しい光が窓から入るのを見ながら、自分のバッグをずっと胸に抱いていた。

「もし、父のいる場所へ向かわれているのでしたら、父に伝えてください。会食には行かないと」
「わたしは、家に戻ります」

 風間はずっと前を向いたまま何も言わずに車を運転していた。首都高速を下りると、そのまま代々木方面に向かって進んだ。緑の木洩れ日が続く道は、明治神宮の参道か。千鶴は辺りを見回していた。ゆっくりと車を停めると、風間はコートを手に取って車から降りた。後部座席のドアを開いて、千鶴の手をとって下ろすと、まっすぐと道沿いに歩いて行く。

「ここで、失礼します」

 千鶴は立ち止まって、風間の背中に声をかけた。振り返った風間に頭を下げて挨拶すると踵を返すように歩いて行った。

「どこへ行く。最寄り駅ならこっちだ」

 風間のよく通る声が聞こえた。千鶴は、一瞬立ち止まったが、仕方がないと思い。振り返って風間が立っている方向に向かって戻って来た。風間は千鶴を道案内するように先に歩いて行く。常緑樹が生い茂る参道には、ちょうど傾きかけた陽の光が射して一本の光の道のようになっていた。暫く歩くと代々木乗馬倶楽部の建物が見えた。風間は公園の中を横切るように進んだ。大きな楠の前で立ち止まった風間は、千鶴が傍に来ると、前方を指さした。

 ——この先の公園で昔、一緒に遊んだことがある。

 幼い頃だ。白い仔馬に乗って、馬場を一周した。そう懐かしそうに話す風間は、持っていたコートを羽織ると、千鶴の手を引いて歩き始めた。

「覚えてはいないだろう。まだ、お前は四つだった」

 それきりずっと会わなかったから、覚えていなくて当然だ。風間はそう言って、ゆっくりと歩いていく。千鶴は不思議な気がしていた。そんな小さな頃に、風間さんと。それにしても、ここはどこだろう。駅に向かっているとしたら、どこかにサインが見えるはず。千鶴はきょろきょろと辺りを見回した。木の柵が見えて、その向こうに馬場が見えた。馬が一頭。しっぽを揺らしながら佇んでいる。風間は、芝生の上をずっと横切って行く。ちょうど道にでる手前で立ち止まった風間は、サングラスをとって千鶴に語り掛けた。

「結婚したい。ずっとお前を見て来た。妻にしたい」

 突然の言葉に千鶴は驚いた。繋いだ手は温かく、微笑みかける風間の瞳は優しく千鶴を見つめている。千鶴が知っている風間は、いつも強引で、突然どこかに連れ出そうとする。千鶴はいつも困惑していた。風間が寄せる好意を受け入れることは難しい。心に巡る想い。千鶴の心の中には常に斎藤への想いがあった。恋しくて仕方のない人。大好きなはじめさん。

 はじめさん以外の人と一緒になることは出来ない。

 千鶴は心の中で、自分の気持ちをしっかりと確かめた。

「結婚は出来ません。あなたと婚約もしません」

 そう言った時に、「千鶴」と呼び掛けられた。「今すぐ返事はせずともよい」と風間は優しく微笑むと、「これから忙しくなる」と千鶴の眼を見詰めて真剣な表情で語り掛けた。

「鋼道先生の研究センターは四月に開設する。一緒に併設される療養施設での診療。学会での発表の準備。年内のスケジュールは全て埋まっている」

「先生の事は、出来る限りサポートするつもりだ」
「千鶴の事も」

 千鶴は困った。父親の仕事の大きな支援者である風間には感謝をしている。研究センター設立は父親の長年の夢。それを叶えることができたのも、慈善事業として出資してくれる企業があるお陰だと、毎日のように父親は言っている。本当にありがたいこと。でも、風間千景が自分に好意を寄せてサポートをすると言ってくることは、どこか素直に喜べないものがあった。千鶴は、返答に困った。それがそのまま表情に出ているのか、風間は千鶴の顔をじっと見つめた後に、ふっと笑うと、そのまま手を引いて通りを横切った。道の先に地下鉄の駅の入り口が見えた。

「今月末の剣道連盟の親善仕合。あれに出場する」

 千鶴は突然の話に驚いた。風間さんが。剣道の試合に。そう言えば、在学中に、生徒会長の風間千景は剣豪だと噂になっていた。剣道部顧問の土方先生と大学時代に優勝争いをしたと。

「武道館に見に来るとよい。試衛館の門人も出る」

 千鶴は頷いた。漸く千鶴の手を離した風間は、ずっと立ったまま千鶴が改札をくぐるのを見ていた。千鶴は会釈してそのまま階段を下りて行った。

 それから数日後、再び千鶴は父親に呼び出されて、新宿のホテルに向かった。研究センターの開設祝いのレセプションの打ち合わせと聞いていた千鶴は、最上階にあるレストランの個室に通された。そこには風間と父親が待っていた。席に着くように言われて、運ばれてきた食事をしながら、千鶴は、この会合はレセプションの打ち合わせではなく、三人だけの会食であることが段々と判って来た。

 父親の鋼道と風間は、静かに語り合っている。話題は、仕事の事ではなくヨーロッパの治安の事、鋼道が学生だった頃の話など、千鶴が普段父親と話す事柄とは全く違う話をしていた。風間は博識で、千鶴にもわかりやすく物事を説明する。千鶴は不思議と、そんな風間を薄桜学園の土方先生ととても似ていると思いながら話を聞いていた。コース料理のデザートが出ると、風間は千鶴に美しいフラワーブーケを贈った。父親は嬉しそうに自分に微笑み、風間に礼を言っている。続けて、リボンのついた小さな箱を渡す風間に促されて、千鶴が中を開けると白いケースが入っていた。中にはプラチナにハート型のダイヤモンドの指輪。小ぶりなデザインは、千鶴の華奢な指に丁度良い大きさだ。風間はそう言って、千鶴に左の薬指にはめてみるよう促した。

 千鶴は困った。「こんな高価なものを。困ります」そう言って、首を横に振って。箱にケースを仕舞って風間に突き返した。

「なんだ、デザインが気に入らないのか」

 風間は微笑みながら千鶴に訊ね返す。千鶴はずっと首を振り続けていた。風間は、給仕を呼び寄せて、千鶴の突き返した包みをそのまま渡すと、給仕は綺麗に包み直したものを、帰り際に千鶴に持たせた。研究センターに向かう父親と別れると、風間はホテルの一階玄関で千鶴を見送った。千鶴は天霧が運転する車で自宅に戻った。家に戻った千鶴は大きな溜息をついた。テーブルに置いた美しい花束。花瓶を棚から取り出して、ブーケを飾った。もう一つの風間からの贈り物は、そのままリビングの引き出しに仕舞った。また折を見て、父さまに頼んで、風間さんに返して貰おう。

 千鶴は再びリビングに飾った花を眺めた。心に立ち籠る寂しさに、どうしようもなくなる。父親の怒った顔が思い浮かぶ。今日のホテルでの会食中の父さまは、優しい笑顔だった。いつもの父さま。なのに、とても怖い顔をする時がある。私が、はじめさんの話をすると……。

 千鶴は首を横に振って、頭から嫌な気持ちを振るい落そうとした。そのままリビングのテーブルに突っ伏した。じんわりと涙が溢れて来る。どうして。はじめさんの事が大好きなのに。どうして、解かって貰えないの。

 こんなにも逢いたくて、大好きな人がいるのに。

 千鶴は肩を震わせて啜り泣き続けた。

 

*****

全か無かの法則

 赤坂でのトレーニングの後、斎藤は試衛館道場に向かった。

 道着に着替える前に、総司は休憩しようと更衣室の畳の上でごろんと横になった。斎藤は、トレーナーから渡された計測値のグラフとAKRマシーンの専門書を膝に乗せて、柱に寄りかかったまま真剣に読み始めていた。

「20分でも横になって眠った方がいいよ」

 総司は仰向けのまま目を瞑って、斎藤に横になるように言うと、そこに平助がドアを開けて入って来た。

「よっ、お疲れさん」

 平助は、道具袋を投げるように床に置くと、滑り込むように畳の上に胡坐をかいた。

「トレーナーに夜眠れないのは、神経に刺激が残っているせいだと云われた」

 呟くように斎藤は、膝の上の資料のマシーンメカニズムのページを捲くりながら言うと、自分の神経系、呼吸器系の活性値を見比べている。

「キネシストレーニングの特徴さ。神経線維一本一本に電流が流れるからね」
「あのマシーンの凄い所は、最低限の刺激で最大限の効果をだすようにAIが計算して電流を流すんだって」

 総司は、身体を横にして腕枕をして説明を始めた。

「悉無律さ。生理学で習ったでしょ?」
「しつむりつ。なんだよそれ」

 いつの間にか平助は、コンビニのおにぎりを頬張りながら話を聞いていた。

「全か無かの法則。『All or nothing law』ってね。神経一本に対して刺激の強さが一定を過ぎると、興奮の大きさは変わらないってやつ」
「どんなに刺激を強くしても、興奮は変わらない」
「でも神経束は、刺激を強くしたら、より興奮は大きくなる」

「それって、ちんこの事かよ」
「確かにな」

 平助は独りで納得しながら、一気にペットボトルのお茶を飲み干した。

「そのマシーン使ってると、刺激が残るって?  夜も眠れねえぐらい興奮してんのかよ、はじめくん」
「興奮してるのかは判らん。眠りが浅い気はする」
「慣れるまでは仕方ないよ。最初の3ヶ月は」

「総司、あんたも眠れなかったのか」
「うん、どれぐらいだったかなあ。夜は1,2時間寝て起きてって生活が、2か月ぐらい続いたよ」
「神経系も筋肉も活性化が最大限になったままで持続する。普通筋肉は休息するけど神経系はそのままでね」
「でも慣れるよ」

 総司がそう言うと、平助が「へえ」と感心して応えた。

「じゃあ、抜いたらどうなんの? 興奮してんだろ。抜いちまえば、ぐっすり眠れんじゃねえの?」
「全身も脳も刺激が残るから、永遠に抜き続けるしかないね」、と総司は笑いながら答えた。
「なんだよそれ!!」

 平助は「ちんちん腫れまくりだな、はじめ君」と言ってケラケラ笑った。斎藤は、呆れたように平助を見たが、再びマシーンの資料に目を戻した。

「刺激っていえばさ。皮膚感覚の実験。一年の時に【生物I】でやったやつ」
「実験室で女の子とペアになって、ステンレスの針で唇を突くんだ」

 総司は自分の目を両手で覆って、「こんな風にして、肱を机について」と説明を始めた。

「相手の子は、長い針を二本持って、机の向こう側から僕の唇を『ツンツン』って突いて来る。最初は二本の針先を同じ場所でつついて、少しずつ離していく」
「唇ってさ、針先を離しても、触ってる感覚は一か所にしか感じない」
「触点が集中しているからね」

「でも何センチか離れると、2か所を突かれる感覚がする。その距離をゲージで測って、触点分布を実験レポートに記録して提出すれば単位が貰えたよ」
「なんだよ、それ。女の子の唇も『ツンツン』したのかよ」
「ううん、ペアで一枚レポート出せばいいから。楽勝案件」

「その子の唇は柔らかかったよ」

 斎藤が顔を上げて総司を見た。平助も動きが止まった。

「実験2は、自由研究でね。キスして確かめた。教科書に書いてある通り、顔には触点が集中してて、唇や目の粘膜が一番刺激を感じる」

 唖然としている斎藤と平助の顔を見て、総司はくっくっくと笑った。

「全か無かの法則さ。刺激を強くすれば、興奮は増大する」
「なんだよ、それ」
「めちゃめちゃエロい実験じゃん。俺も出てえよそんな実験」

「可愛いの? その子」

「みよちゃんだよ」

 みよちゃんって、あのみよちゃんか。平助が呟いた。総司の元彼女。久しぶりに総司の口から【みよちゃん】の名前が出た。去年のクリスマスに大喧嘩をして二人は別れた。以来、総司は剣術の稽古とトレーニングばかりに明け暮れている。アメリカでの大会に向けて。総司は、更に腕に磨きがかかり、今は手合わせで相手が出来るのは、門人では斎藤だけになった。

 二人の打ち合いは凄まじく、樫木の木刀が既に五本駄目になった。平助は、そんな二人の打ち合いを見取り稽古するのが日課になっていた。他の門人も同じだ。薄桜学園の後輩の相馬や野村も毎日のように、道場に立ち寄って二人の打ち合いを見て稽古している。

「ねえ、はじめ君。あと20分。僕も眠る」

 総司は、平助に20分経ったら僕らを起こしてと頼んで。今度は寝袋を頭から被って本当に眠ったようだった。斎藤も同じように柱の傍で身体を横にして仮眠をとった。総司の話のせいか、千鶴とずっと口づけあう夢を見た。柔らかい唇を感じながら、腕に千鶴の全てを抱きしめて。心も身体も全てが酷く興奮していた。

*****

 稽古を終えて、道場の外に出た時、夜十時を過ぎていた。

 総司はバイクで帰って行き、斎藤は平助と駅前まで一緒に歩いた。家に戻っても気持ちが昂ったままでどうしようもないと思った斎藤は、平助の家に向かって遠回りをして帰ろうと思った。平助は、親善仕合に出るつもりでいるらしく、ずっと稽古に出るつもりだと話した。手合わせの約束をして、平助の家の前で別れた。平助の家と千鶴の家は、通りを挟んだ距離にあった。斎藤は、街灯の下から千鶴に電話をした。

「はじめさん?」

 少し気だるい声が聞こえた。もう、寝ていたかと訊くと、「ううん」と言って、「今夜はもう声が聞けないかと思ってた」と斎藤が電話をかけて来たことに「ありがとう」と礼を言っている。

「今、家の前にいる。平助と歩いて帰って来た」

「千鶴の部屋の灯りが見えて居る」

「待って」

 千鶴の影が窓に見えた。電話の向こうで、窓を開ける音が聞こえた。「寒い」と千鶴がいいながら、「待って」と言うと、外から見える千鶴の影がスマホを振っているのが見えた。

「街灯の下でしょ? 待っててはじめさん」

 千鶴は一回切るねと言って電話を切った。暫くすると、千鶴は玄関から出て来た。コートを着て、マフラーをぐるぐる巻きにした姿で、思い切り腕の中に飛び込んで来た。

「逢いたかった」

 強く抱きしめてキスした。千鶴からはシャンプーの甘い香りと石鹸の匂いがしている。千鶴の匂い。舌を絡めあいながら何度も口づけあった。柔らかい唇。

 ——全か無かの法則さ。刺激を強くすれば、興奮は増大する。

 昼間の総司の一言がずっと頭の中を巡っている。その通りだ。一度、触れると全てになる。

 千鶴が全てに……。

 

*****

 千鶴が、斎藤と名残を惜しんで外で別れてから家に戻った時、既に11時を過ぎていた。

 玄関の上り口で、父親が立っていた。

「どこに行っていた」

 物凄い形相で千鶴を睨んでいる。

「少し外に、平助くんが道場稽古から戻ってきたから、立ち話をしてたの」
「斎藤くんも一緒か」

 千鶴は頷くしかなかった。父親は、「非常識な、こんな時間に」と憤っている。

「斎藤くんとは、二度と会うんじゃない」

 厳しい口調で「いいな」と念を押すと、「早く、休みなさい」と言って、千鶴を二階に追いやった。千鶴は衝撃で何も言葉が出て来なかった。どうやって部屋に戻ったのかも判らない。ずっと父親の真っ青な顔と鬼火のように光る眼が頭から離れない。

 斎藤くんと二度と会うんじゃない。

 さっきまでのぬくもりと、優しい口づけ、はじめさんの匂いに包まれて幸せだったのに、今は目の前が真っ暗になった。奈落の底に突き落とされるように。胸に冷たい氷が下りて、大きな穴が空いたように感じる。

 どうして。どうして、父さま。

 涙が溢れてきた。どうして……。はじめさんのこと。こんなに好きなのに。二度と会っちゃだめって、どうして。泣き崩れるようにベッドに突っ伏すと、ずっと泣き続けた。

 

*******

ナディ・ショーダナ

 それから数日が経った夕方、診療を終えた伊庭八郎が鋼道と一緒に夕飯を食べる傍で、千鶴は食後のコーヒーの準備をしていた。二人は、新しく雪村診療所で内科医として勤務を始めた米澤和也医師のシフト調整の話をしていた。三月から内科診療の担当から鋼道は完全に離れる体制になる。

「米澤くんには、日曜日から入って貰うように言ってある。私は、京都に12日から行くことになるからね」
「わかりました。当直は、僕の方で対応できそうです」
「ありがとう。シンポジウムには、Dr. Shakerが来る事になったそうだ」
「よろしくお伝えください」

 千鶴が台所で下げた食器を洗っていると、コーヒーカップを持って八郎が入って来た。シンクにそっと食器を置くと、「ごちそうさまでした」と礼を言った。

「明日の朝、診療所においで。この前の血液検査の結果がわかる」

 千鶴は、「はい」と返事をして頷いた。無表情のまま、食器を洗い続ける千鶴の横顔を暫く見ていた伊庭は、「それじゃあ、また明日」と声をかけて、鋼道にも挨拶をしてから帰って行った。

 翌朝、千鶴は朝の片付けを終えると、渡り廊下を通って診療所に向かった。診療室からは、ナースやスタッフたちの楽しそうな話声が聞こえていた。

「八郎先生、みんなで応援に行きますから」

「陽子さんの息子さんが、応援旗を描いてるんですって」
「ありがとうございます」

 千鶴が診療室に入ると、ナースが挨拶をしてカルテと検査結果を机に並べた。八郎は、手を消毒してから、千鶴の瞼をチェックして、リンパ筋を触診した。それから、脈を二か所でとった後に、舌や喉を確認した。

「この前の検査で、貧血が出ていてね」
「鉄剤を処方するから、朝晩に飲んで」
「それで様子をみるよ」
「深刻じゃないから、安心して」

 そう言いながら、もう一度千鶴の両手を取って掌を見ると、包み込むように温めた。

「夜に、眠れている? 貧血もあるけど、少し疲れているように見える」

 千鶴は、今朝は起きて顔を洗ったまま、リップクリームをつけただけだった。顔色が悪いなら、せめて頬紅ぐらい付けてくればよかったと後悔した。寝不足なのは自覚していた。ここのところ、ベッドに入っても眠りにつけない。気持ちが沈み込んでいるのはわかっていた。ずっと、心がどこか空っぽで、そこに冷たいものが少しずつ溜まっているような。

「今日は、診療は午前中だけだから」
「終わる頃に、声をかけるよ」

 千鶴は、頷いて診療室を出た。ナースが鉄剤を準備して、勝手口まで持ってきてくれた。千鶴は、礼を言ってから自宅の部屋に戻った。スマホを確認したが、斎藤に送ったメッセージは既読になってなかった。昨日の夜遅くに通話をした記録。その前のメッセージは三日前。父さまに叱られた夜。

 さっきは逢えてよかった。
 おやすみ。

 斎藤から「おやすみ」のメッセージが入ることは珍しい。千鶴は泣きながらメッセージを見て、嗚咽がとまらなかった。あの夜は、返事が出来なかった。喉に大きな塊が出来たまま。息をするのも苦しくて。翌朝、眼が腫れあがっていた。父親は何も言わずに、朝食をとって出掛けて行った。千鶴には、家に居なさいと一言念を押す。そのたびに、千鶴は息苦しくなったまま返事が出来ないでいた。

 インターフォンが鳴った。階下から八郎が呼ぶ声が聞こえた。いけない。お昼の仕度をしていなかった。千鶴は慌てて階段を下りると。伊庭は既に鞄とコートを手に持っていた。

「お昼に誘おうと思ってたんだ。今から出られる?」

 八郎は微笑みながら、コートを羽織ると、千鶴に車で待っているからと先に玄関から出て行った。千鶴は、急いで仕度をして診療所の駐車場に行くと、八郎は千鶴を助手席に座らせて車を発進した。伊庭は、ずっと黙ったまま車を走らせた。久しぶりの外出。光は眩しくて、外気の冷たさを忘れるぐらい暖かな春のような明るさだった。車は上野を過ぎて、繁華街に入ると、伊庭は駐車場を見つけて車を停めた。きょろきょとと辺りを見回す千鶴に、伊庭は「ここは浅草だよ」と教えた。

「平日でも人が多いね」

 そう言って、伊庭は行きたい場所があるからと千鶴を案内した。繁華街の裏にある古い洋食店。人が並んでいた。伊庭は、「少し待つよ」と言って千鶴を外のベンチに腰掛けさせた。

 直ぐに、シェフの恰好をした店員に呼ばれて席についた。壁の傍の二人席。伊庭は、メニューを見せて、千鶴が食べたいものを確認すると代わりにオーダーを済ませた。

「ここは、僕の祖父が大好きだった店。小さな頃に連れてこられて」
「日本に帰って来た時、懐かしくてオムライスを食べに来たんだ」

 間もなく食事が運ばれてきて、千鶴は久しぶりにしっかりと食事を摂ることが出来た。家での食事は喉が通らない。何も食べたいとは思わなくなっていた。伊庭は、そんな千鶴の様子が気になっていたのか、「好きなだけ、食べたいだけ、食べればいい」と優しく言うと、殆どの食事を残した千鶴に、「甘いものは欲しくない?」と尋ねた。千鶴は首を横に振った。

 レストランを出た後、八郎は通りを横切って千鶴を遊園地に連れて行った。

「懐かしい。僕は、下谷の家からここまでよく歩いて来ていた」

 そう言って、小さな頃に遊んだ思い出を話してくれた。千鶴も浅草には父親に連れられて昔遊んだ思い出があった。八郎に誘われて、ジェットコースターに乗った。光が眩しくて、ガタガタと振動しながら風を受けるのが気持ちよかった。

「狭い場所を走るから妙に怖い」

 八郎は下から乗り物を見上げて笑っている。本当にそう。千鶴も一緒に笑った。それからお化け屋敷や、射的も廻って一通り遊んだ。遊園地をでてから、裏通りを通って小さな店の前で八郎は中に声を掛けた。

「こんにちは」

 挨拶をした店員は、伊庭と千鶴を店の奥の上り口から家の中に招き入れた。小さな居間の真ん中に炬燵が置かれ、そこに白髪の小さな老婆が座っていた。

「おばあちゃん、八郎お坊ちゃんですよ」

 店員のおばさんが大きな声で老婆に声を掛けると、老婆は嬉しそうに会釈をして微笑み返した。

「坊ちゃま、よくいらっしゃいました」

 背中が曲がっている老婆は、綺麗に結い上げた髪の毛に袖なし羽織を纏っている。八郎は、「どうですか、具合は?」と優しく尋ねた。老婆は、「お陰様で」と笑っている。八郎は優しく、脈をとって、鞄から血圧測定器を取り出して測定した。

「安定していますね。この前処方したお薬を続けてください」

 解かり易く説明した八郎は、店員のおばさんに診察のことを伝えると、出されたお茶とお菓子を千鶴に勧めた。

「こちらは、小石川診療所の雪村千鶴さん。おじい様を診てくださっていた雪村先生のお嬢さん」

「まあ、そうですか。先生はお元気ですか」
「はい、とてもお元気です」

「おばさん」と八郎が呼んでいる人は、目の前の老婆の娘さんで、老婆は、もと八郎の祖父の家に暮らしていたと千鶴は教わった。こうして、時々往診に来ていると聞いて、千鶴は伊庭の実家が近くの下谷にあったことを思い出していた。

「とても美味しい」

 千鶴は、出された黍団子を食べて感動していた。香ばしくて、やさしい甘さ。温かい玄米茶と一緒に頂きながら、お代わりにもう二本とおばさんが運んできた。八郎は、美味しそうに団子を食べている千鶴を見て微笑んでいた。

 往診のお礼にと、黍団子をお土産に貰って千鶴と八郎は浅草を後にした。車で診療所に戻った。八郎は千鶴を車から降ろすと、「診療所に一緒に来て」と言って、病院の勝手口から中に入っていった。

 既に、スタッフは帰っていて、当直のナースもそこには居なかった。八郎は、千鶴を診察室の椅子に座らせて。再び脈をとって血圧を測った。

「good」と八郎は呟いて、カルテに書き込んでいる。

「食欲は徐々に戻ってくるだろうから。時々は外の空気を吸って」
「呼吸も大切なんだよ」

 ペン立てにペンを戻した八郎は、椅子を千鶴の方に向けて座り直した。

「こうやってね、中指と人差し指を曲げて、親指で右の鼻を抑える」

 八郎は千鶴の右手をとって、同じように指を折り曲げて鼻を抑えるように教えた。

「ゆっくり左の鼻から息を吐いて」
「口を閉じたまま、ゆっくり。そう」
「全部吐ききったら、ゆっくり吸い込む」

「今度は薬指で左の鼻を抑えて、親指を離して右の鼻から、息を吐く」
「そうゆっくりと。吐ききったら。右から吸い込む」
「次は、親指で右を抑えて、左鼻を離す。そう、ゆっくり左から息を吐いて」

 そう。続けるよ。僕も一緒にするから。そう言って、八郎は千鶴と一緒に片鼻ずつ深呼吸をした。

「とても上手だ。息を吐き出した時に、胸やお腹が引っ込んで、息を吸うと膨らむ。その感覚をよく感じるようにする」
「目を瞑って、ゆっくり。あともう一回ずつしよう」

 最後に右の鼻から息を吐き出して、普通の呼吸に戻った。八郎は、「上手に出来たね」と優しく笑っている。

「ナディ・ショーダナ。ヨガの呼吸法だよ」
「片鼻ずつ呼吸することで、自律神経のバランスが整う」
「右の脳と左脳に交互に酸素が取り込まれるから、リラックスしながらも集中力が増す」

 千鶴は、気分がスッキリとした気がした。息をゆっくり吐いて吸っただけで、こんなにも楽になるなんて。

「これをやると、夜はぐっすり眠れるようになる」
「八郎兄さん、眠る前にすればいいの?」
「いや、無理にすることはないよ。日中に一回でもやっておけばいい」
「朝でもいい、昼間でも、夜眠る前でもいい。いつでも千鶴ちゃんのしたい時に」
「どうしても、気分が塞ぐ時。疲れた時、悲しい時、気分が昂って落ち着かない時」
「どんな時でも、これをやるとリラックスして楽になるんだ」

「悲しい……とき」

 千鶴が小さく呟いた時、八郎は真っすぐと千鶴の眼を見詰めていた。深い緑の双眸。ゆっくりと瞳を閉じるように瞬きすると、八郎は優しく微笑んだ。

「辛い時はいつでもおいで。話すだけでも楽になる」

 千鶴は、頷いた。辛い時。そうなの。とても辛い。でも、我慢しなきゃ。

「八郎兄さん。ありがとう。ありがとうございます」

 千鶴は、ゆっくりと立ち上がりながら礼を言った。伊庭は、「どういたしまして」と言って笑っている。千鶴が、診察室から出ようとすると、当直のナースに確認したいことがあるからと言って、八郎は入院病棟に階段を上がって行った。

千鶴は、その日の夜、久しぶりに深い眠りにつけた。



つづく

→次話 FRAGMENTS 14




コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。