薬草摘み

薬草摘み

文久二年六月十八日

 土方さんは朝方、まだ暗い内に戻ってきた。

 開け放ったままの襖の向こうで、背中を向けたまま土方さんが着物を脱ぐ姿が見えた。褌一枚になると、浴衣を羽織ってそのまま布団の上で仰向けになった。直ぐに、土方さんの鼾が聞こえて来た。

 手前の布団の上で、総司が静かに眠っていた。上掛けを丸めたまま抱きしめるように抱えている。庭から湿り気のある生ぬるい風が吹いてきた。雨上がりか。そう思った。余程深く眠っていたのだろう。雨が降ったのに全く気付かなかった。六つまで、あと数刻。そう思うと、再び瞼が重くなって眠りに戻った。

 次に目覚めた時、総司も土方さんも起き出し布団を畳んでいる姿が見えた。自分も慌てて起きて、厠に行って顔を洗った。広間に用意された朝食をとると、直ぐに土方さんに連れられて、石田村に向かった。

 土方さんの実家は大きな屋敷だった。母屋は立派な茅葺屋根で、中庭に筵が沢山広げてあった。その向こうの離れの庇には目の粗い網袋が無数にぶら下げてある。総司が中庭から縁側に向かうので、その後ろについて行った。間もなく、土方さんが縁側に現れて、手に持った絣の着物を縁側に並べた。

「こいつに着替えてくれ、直ぐに戻る」

 土方さんはそう云うと再び廊下の向こうに消えて行った。総司と一緒に縁側で、紺絣に着替えた。短い着物で、一緒に紺地の股引も履いた。用意された地下足袋も履くと、土方さんが同じような出で立ちで縁側に再び現れた。そして、中庭に降り立つと、傍の納屋から道具を運び出し始めた。自分も総司と一緒に道具を運び出すのを手伝った。大きな木槌に杭、籠を荷車に積む。ちょうど下男が大きな樽を抱えて来たのを総司と一緒に荷車の奥に積み上げた。

「飲み水だ。朝の内の作業は数時間だが、炎天下で喉が渇く」

 河原に荷物を運んで、作業場の目印の杭を打つ。土方さんはそう云うと、轅をくぐって先端の横木を持ち上げた。それからゆっくりと玄関の門に向かって歩き出した土方さんの後について、総司と一緒に荷車を後方から押しながら歩いて行った。
 浅川の河原にはすぐに着いた。川辺までなだらかな斜面が広がっている。広大な景色。目の前の富士とその手前に拡がる山の稜線。浅川の水面に朝日が反射して眩しい。土方さんは荷車を坂の手前の広間に停めると荷物を下ろし始めた。この河原で薬草を摘む作業をするようだった。

「俺が今から教える場所にこの杭を打ってくれ」

 土方さんは大きな紙を広げてなにやらぶつぶつと独り言を言っている。総司が肩におおきな木槌を載せて歩き始めていた。自分も杭を抱えられるだけ抱えて総司に続いた。土方さんは縄を肩にかけて、数を数えながら歩き始めた。

「……百五、百六、百八、……百五十」
「ここだ、総司、ここに一本打て」

 土方さんはそう言って地面を指さした。総司が木槌を振って杭を打った後、再び土方さんが歩数を数え始めた。黙ってついて行くと、また土方さんから杭を打つように指示された。自分もそこに杭を打った。土方さんはずっと歩数を数えて杭を三十か所に打つと、今度はそこに縄を張り始めた。河原の斜面が四つの範囲に分かれている。土方さんは、懐から紙を出して杭に紐で結び付けた。それぞれの紙に、墨で【一】【ニ】【三】【四】から【十四】と書かれてあった。荷車に戻ると、河原の上には大勢の人がやってきていた。皆、手拭や菅笠を被り、首に手拭を掛けて手甲をつけている者もいた。

「みんな、よく来てくれた」
「今から呼ぶものは、前に出て一列に並んでくれ」

 土方さんが大声で皆に呼びかけた。

「【一】の組。庄助さんの組になる」

 土方さんは庄助と呼ばれる男を前に立たせて、名前を呼び始めた。ここに集まったものは、石田村周辺の百姓のようだった。男もいれば年老いた女もいた。庄助が組頭で、三十名から四十名の組。手に籠や麻袋を持った物たちは、庄助に連れられて、河原の斜面に下りていき、【一】と掲げられた杭の向こうに広がって、一斉に薬草を摘み始めた。同じように、【ニ】の組、【三】の組、【四】の組も呼ばれて、それぞれの配置についた。土方さんは、広げた紙を畳んで、自分も籠を持って、【三】の組と一緒に薬草を摘み始めた。自分は総司に誘われるまま、【五】の区域の斜面で薬草摘みを始めた。

「これ、これが牛革草。茎も一緒に摘んでも構わない」
「こっちのは【からし菜】ざらざらしてる葉っぱだから、区別つくでしょ?」
「これも食べられるけどね」
「牛革草の籠には他の葉っぱは混ぜないでおいてくれる」

 総司は薬草の区別の仕方をよく知っていた。陽が昇って背中に射す陽射しを感じ始めた。総司と一緒に菅笠を被ったまま、黙々と野草を積んだ。河原中一面に他の野草と一緒に、薬づくりに使う原料となる牛革草は生えていた。それにしても、もの凄い人の数だ。総勢三百名はいるだろう。近隣の百姓だと聞いているが、小作農には、今が一番忙しい時期の筈。そう思いながら顔を上げて、辺りを見回した。しゃがんでいる者、時々背を伸ばして次の摘み場に移る者、籠から麻袋に野草を移す者、みな手慣れた様子だった。その向こうで、土方さんが立ち上がり、皆に声を掛けていた。

「喉が渇いたら、荷車に水を用意している。自由に飲んでくれ」
「今日も暑くなる、作業は休み休みやってくれ」

 土方さんがそう叫ぶと、立ち上がって土方さんに会釈する者もいた。河原の斜面は大勢の人々で埋め尽くされていた。土方さんは音頭をとって、薬草の摘めていない場所に人びとを送っては、ぐるぐると杭と縄で仕切られたそれぞれの区域を見てまわっていた。途中、大量に収穫された区域につくと、「これは凄い、たいしたもんだ。ありがとう」と大きな声で礼を言っている声が聞こえた。振り返ってみると、大きな籠に溢れるぐらいの薬草が積んであるのが見えた。



*****

 それにしても地道な作業だった。牛革草は一面に生えていて、自分の周りに生えているものだけでも全て摘むのに骨が折れる。総司は手慣れたもので、ひょいひょいと摘んでは、腰をあげて伸ばし、「あーあ。終わらないな」と溜息をついて、また黙々と摘み続けた。自分はそんな、総司の後を追うのに必死だった。思い切って、両手を使ってみた。右手でも摘み、左手で二回、右手で一回、そして籠に放り込む。

 一、二、三、
 一、二、三、

 これはよい。どんどん摘める。籠の蓋を皿のようにして足元に置いて、両手で摘んだ草を放り込む。

 一、二、三、
 一、二、三

 夢中になって摘んだ。要領を得たら手はどんどん早くなった。無心に、ただ無心にやっていられる。どれぐらい時間が経ったのか、気が付くと杭と杭に張られた縄の前まで綺麗に摘み取ることが出来た。少しずれた場所で再び逆方向に進む。自分のいる【五】の区域は半分以上摘み取りが終わっている。いいぞ、どんどん行こう。総司も進んでいる。一、二、三、一、二、三、……。

「随分、手際がいいじゃねえか、山口」

 不意に頭上から声がした。振り返ると背後に土方さんが立っていた。逆光になっているが、菅笠を被った土方さんは笑顔で自分を見下ろしていた。首に巻いた手拭で、首の汗をぬぐいながら、「この組は、捗ってるな」と土方さんは嬉しそうに辺りを眺めていた。

「ほら、こいつを飲め」

 腰から竹水筒を外して自分に差し出し、傍に置いてある籠を覗いて尋ねた。

「こいつをお前が摘んだのか」
「お前がひとりでか」

 自分は「はい」と返事をした。

「てえしたもんだ。慣れたもんでも数時間でここまでの量を集めるのは大変だ」
「ありがとうよ。時々は、あっちの木陰に行って休め」
「根を詰めすぎると、この後の稽古にも出られなくなる」

 差し出された水筒の水を飲んで喉が潤った。生き返る。土方さんは、「頑張ってくれ」と言ってその先にいる同じ組の者に声を掛けながら進んで行った。ずっと向こうで、土方さんと総司が口論している声が聞こえたが、また草を摘みながら、一、二、三、と数えている内に風の音も、人々の声も何も聞こえなくなった。無心なまま、ただ無心に。土の匂いと草の匂い。気づくと、既に川辺に近い場所まで、全て摘み取りが終わっていた。

「ねえ、はじめくん。ちょっと根詰めすぎ。うちの組、早く終わった分、他の組にも行かなきゃ」

 総司が恨めしそうな顔をして縄を跨いで、隣の隣の組に向かって歩いていた。自分も総司の後に続いて作業をした。そこの区画もすぐに摘み取りが終わり、組頭に呼ばれて土手の上に登って行った。総司が薬草がいっぱい詰まった籠を運ぶのを手伝ってくれた。額から汗を流した総司は、菅笠を脱ぐと髪の毛が水を頭からかぶったように汗で濡れていた。組頭に作業は終わりだと説明されて、ほっとした。総司と荷車に向かって籠を運んで行った。

「そのまま薬草を運んでくれ」
「ご苦労、みんなご苦労だ」
「水を飲むのを忘れないように」

 土方さんが大声で叫んでいる。人々は行列を作って土手を歩いているが、中には土手から籠を落とす者もいた。人々が叫ぶ声も聞こえる。

「怪我人だ。お大尽さま」

 庄助が走ってやって来た。土方さんが血相を変えて走って行った。土手の上で人だかりができて騒然としている。その間も総司は涼しい顔をして、荷車の荷物を整理していた。自分が土手の人混みに向かって走って行くと。

「はじめくん、荷車の番をするよ」
「ここにいて」

 背後から総司が呼び止める声が聞こえた。

「毎年、摘み取った薬草が盗まれる」
「石田では、この薬草は高く売れるからね」

 荷車に腰かけた総司がそう言って、薬草の籠を荷車の奥に移動させた。ちゃんと、見張りしてないと、土方さんに後で大目玉くらうよ。それに。総司はそう言って、荷車の手前まで来てしゃがむように自分の顔を覗き込んだ。

「ああいった、怪我人や人の争いごとは薬草摘みでは日常茶飯事」
「あれを片付けるのが、あの人の仕事なんだから」
「僕らは、一日河原に這いつくばって力仕事して、貰えるお駄賃なんて、三朱貰えればいいとこ」

「割が合わないよ。僕らが一回出稽古したら、一分は貰えるんだから」
「道場で汗流してる方が百倍楽しいし稼ぎもいい」
「僕は、近藤先生のお言いつけだから、今日は手伝ったけどさ」

 総司の言いたいことは解った。確かにこの作業を毎日続けるのは苦労だろう。だが、自分は作業が無事に終えられて、河原の薬草がほぼ全部摘み終わっている光景を眺めているのが気持ちが良かった。それにしても、土方さんが消えた向こうで起きていることが気になる。

「土方さんは、薬草摘みは今日で終わりだと言っていた」
「午後の稽古の分は、力を残してある」

 自分がそう答えると、総司は鼻で「ふん」と返事をして、「やれやれ」といいながら荷台から降りた。「ほんとに、はじめ君は真面目だね」と総司は不満を自分に向けて来た。荷車の整理を終えたところで人混みが解かれ、再び行列が進み始めた。土方さんが向こうから走って帰ってきた。

「十番組の籠がひっくり返って、土手を駆け下りた若い奴が二人足を挫いた」
「もう大丈夫だ。怪我人は無事に家に運ばれていった」
「さあ、これを引いて帰るぞ」

 土方さんはそう言って、荷車を返すと土手の砂利道を半分駆けるように進んでいった。行列を蹴散らす勢いだった。総司が隣でつんのめるような勢いで荷車を押している。自分も思い切り走った。陽が真上に上がっている。暑い。だんだんと民家が見えてきて行列の先に土方さんの家の門が見えた。荷車を中に入れると、人々はどんどん中庭に薬草を運び入れて、籠を降ろして行っていた。縁側では、土方さんの義姉の【なか】が麦湯を振る舞っていた。そこへ土方さんが戻り一気に麦湯を飲み干すと、玄関際に立っている喜六の傍へ走って行った。

「兄貴、ご苦労さん。俺が代わろう」

 そう言って、紙の束を受け取ると、籠を降ろした者の名前と組名を確かめてから、札を渡して行った。

「はい、お疲れだったな。これは八月に持ってきてくれ」
「悟助さん、いつも有難うよ。今回の分はこれだ」

 土方さんは行列を作って並ぶ人たちに札を渡しながら労いの言葉をかけていた。庇の影で、少しは涼しい風が吹き、汗がひいてきた。総司に促されて、縁側の向こうに腰かけた。

「お疲れ、はじめくん」
「お茶飲んだら、母屋のお勝手でお昼を食べよう」

 総司はそう言って、もう一杯麦湯を貰いに行った。

「土方さんは、引き換え札配り終わるまでずっと庭にいるだろうから」
「僕らは、お昼よばれたら道場に戻るよ」

 総司はそう云うと、地下足袋を脱いで手拭で足の裏を払ってから奥の廊下に向かって行った。自分も総司の後についてお勝手に向かった。薄暗いお勝手には、昼餉が用意されていた。雑穀飯がふんだんに茶碗に盛られていて、冷たい豆腐に茗荷と葱が載ったものが出された。豆腐が丸々一丁。驚いた。それも味が濃くて美味い。総司は、豆腐を崩して茶碗に入れて醤油を垂らしたものに、胡瓜の薄切りも混ぜて、下女に頼んで胡麻や鰹節の削り粉まで出させて振りかけて混ぜていた。

「はい、はじめくんも御匙使う?」

 総司はまるで自分の家のようにお勝手で振る舞っている。下女も総司の事はよく知っているようで、「はい、はい、」と返事をしながら総司の要求するものを用意している。

「この豆腐ねこまんま飯。近藤先生も好きなんだ」

 ねこまんま飯。そうか、猫まんまか。言い得て妙だ。それにしてもこの豆腐は美味い。よく冷えていて最高だ。冷や飯がこんなに美味いとは。自分は夢中になって食べた。

「このお豆腐。石田で作ってる。美味しいんだよね。江戸でもこれは恋しいよ」

 総司はそういいながら、美味しそうに匙で飯をかきこみながら教えてくれた。それにしても、総司は江戸にいる時とは違って、随分大飯喰らいだ。総司本人が言っているみたいに、余程、ここの水が合うのか。そんな風に思いながら、機嫌よく食事をする総司を見ていた。お腹がいっぱいになったところで、風通しのいい縁側の影で総司と着替えた。土方さんの姉が着替えはそのまま縁側に置いておいておくれ、と言うので、そのまま礼をいって縁側から出て道場に戻った。土方さんは、自分が帰る時でもまだ玄関先で引き換え札を配っていた。行列は大通りまで続いていた。全員に札を配るまであと数刻はかかるだろう。

「あの引き換え札ってさ。八月のお盆過ぎに、天日干しした薬草を網に入れる作業するのに必要でさ」
「薬草の影干し。あれも重労働」
「そんで、また引き換え札配って、その次は九月に【薬草くずし】があって、その時にまた人が集まる」
「引き換え札はね、貯めれば全部お金になるんだ」
「ここいらの百姓には、繁忙期でも一日作業するだけで随分の実入りになる」
「石田散薬は、土方さんが江戸まで出て卸しているからね」

 土方さんから行商の話は時々聞いてはいたが、ここまで大きな家業だとは思わなかった。それにしても、あれだけの人数の百姓を独りで音頭をとって作業させている事が凄い。今朝は、「猫の手も借りてえ」「一年で一番大事な日だ」と言ってはいたが、本当に最も大きな作業の一日なのだろう。

「俺がどれ程役に立てたのかはわからんが、あの広大な河原に咲いている薬草をたった数時間で収穫するのは、余程段取りをうまくやらねばなるまい」
「道場でも、人に指示をするのが上手な方だが、土方さんは大勢の人を相手にしても同じように接しておられる」
「あれで?」
「さんざん、人をこき使ってさ。ま、昼餉も食べないでああやって札配ってるのは、大変だとは思うけど。あれがあの人の家業だからね」

 総司はあくまでも毒づき続けたいようだった。総司はずっと何年もこの作業を手伝って来ているのだろう。総司は、近藤先生と兄弟弟子の彦五郎さんとも幼少の頃から知り合いで、試衛場に内弟子入りしたのは、確か九つから。土方さんが試衛場の先代道場主の元に入門したのは総司が元服した頃ときいている。もう総司は何年も薬草摘みに借りだされているのだろう。

 佐藤道場に着くと、既に門人たちが稽古を始めていた。井上さんと佐藤彦五郎さんが皆に立ち稽古をつけていた。総司と自分も日暮れまで稽古に立った。纏わりつくような蒸し暑さの中で、門人も自分も汗だくになって稽古を終えた。その日は、夕餉の後に風呂に入って、布団に横になった瞬間、気を失ったように深い眠りについた。

 それから、三日間ずっと朝から晩まで稽古をする日が続いた。夜半から雨が朝方まで続く日が続いて、日中は蒸し暑い。三日目の夜遅くに、土方さんが佐藤家を訪ねて来た。薬草の天日干しが、夜中の雨で遅れているが仕方がない。明日からは雨が上がる。そう言って、今夜はここに泊まると言って、また控えの間の隣に布団を敷いてごろんと横になった。

「おい、お前ら。明日はうちに来い」
「稽古は休みだろ、いいな」

 そう言って、土方さんは眠り始めた。総司は、黙ったまま不貞腐れたように土方さんに背中を向けて、こっち側をむいたまま眠り始めた。庭の向こうから虫の声が聞こえていた。今夜は、雨は降らないようだった。明るい月明かりが庭先から部屋に射しこんでいた。明日は稽古が休み。そうか、確かここの道場は中休みがあった。井上さんも、家業は百姓である。繁忙期の子の時期は畑仕事に追われる。明日は石田村か。土方さんの家に行こう。




*****

鮎取り

文久二年六月廿二日

 翌朝、ゆっくりと起き出した土方さんは、朝食を食べると、甥っ子と庭で相撲を取って遊んだ。そして、出掛ける準備をした自分たちを連れて石田村に向かった。

「雨も上がった。一旦道具をとって直ぐに河へ行くぞ」

 土方さんがそう言いながら空を見上げた。総司がすかさず、「えーー」と不満の声を漏らした。

「なんだ、行きたくねえのか」
「もう薬草摘みはうんざりですよ」
「収穫じゃねえよ。今日は上流まで行く」
「鮎取りだ」

 驚いた。釣りに行くのか。土方さんは、自分に鮎取りをしたことはあるかと訊いてきた。自分は首を横に振った。

「今が季節だ。ここいらはな、仕掛けをして取るんだ」
「なあに、何も難しいことはねえ。川に入って仕掛けにかかった鮎を捕まえりゃあいいことだ」

 土方さんは驚く自分の顔を見て笑った。釣りはやった事はある。江戸川で鮒を釣って家に持ち帰って母親に甘露煮にしてもらう。小さい時は近所の者とよく神田の土手に座って釣りをしたものだ。

「上流に行って泳ぐのならいいですよ。暑いし」

 総司は河で泳ぎたいと云った。自分は黙っていた。土方さんの家について、再び縁側で釣り鮎取りの道具を並べて準備をすると、三人でずっと河原を土手づたいに上流にのぼっていった。だんだんと土手の道は狭くなって、途中で河原に降り立った。鬱そうと茂った葦の林を土方さんは手に持った鉈で切り倒しながら進んでいく。途中で、川辺が途絶えて一旦森の中に入って行った。

「ここを抜けりゃあ上流だ」

 そう言って土方さんが前を歩いていく。随分と山深い中に来た気がした。森の中の空気は新鮮で石田村を出た時より涼しく感じた。再び河原に出ると、そこは美しい丸い石が敷き詰められ、目の前の河は洲になっていた。その向こうには岩場のある場所が点在していて、ゆっくりとした水の流れで、透き通るように澄んでいた。土方さんは、荷物を河原に下ろすと、総司と一緒に着物を脱ぎ始めた。総司は、「はじめ君も、ほら」と言って、着物を脱ぐように言われた。

 褌一丁になった総司と土方さんは、玉網と魚籠を持って草履を脱ぐと、そのまま河に入って行った。

「冷てーーー」

 土方さんが囁くように震えながら水に入って行く。総司も抜き足差し足で続いた。どうも仕掛けに近づくのには細心の注意を払って物音を立ててはならないようだ。自分も水に足をつけた。冷たい。凍り付くぐらいに感じる。土方さんは既に腰近くまで水に浸かったまま岩場の傍に近づいていた。

「僕が、上手にまわりますよ」

 総司はそういってゆっくりと河の上流に向かって横向きに移動していく。総司は、水面をほとんど揺らさずに移動する。どうやっているのだ。魚籠を頭にのせて前に進む総司の背中をじっとみていた。自分はどのような策で魚をとればいいのかさっぱり分からなかった。上流に総司が回って、おそらく仕掛けの傍にいる土方さんが、手にもっている玉網で魚を捕まえるのだろうか。

 そんな風に考えあぐねている内に、総司が上流から土方さんの方を向いて進み始めた。

「いるよ、いるよ」
「土方さん、掴まえて」

 総司の囁くような声が聞こえた。それにしても水は冷たい。下半身が凍り付くようだ。土方さんは、しゃがんだかと思うと水の中に潜って行った。水面が大きく揺れた。総司がどんどんと前に進む。自分も慌てて、どんどんと前に進んで行った。

 岩場の傍で、水中の影を水面から探した。土方さんは水底から大きな長い籠のような仕掛けを取り出した。

「一匹、入ってる。総司、魚籠をよこせ」

 そういって土方さんは鮎を一匹魚籠に放り込んだ。

「もう一方の仕掛けにこのまま移動するぞ。山口、来い」

 土方さんは、もう一度仕掛けを岩場に沈めると、そのままゆっくりと上流に歩いていった。自分も腰の高さまでの水の中でゆっくりと歩いて行った。もう一つの岩場は、岸部から更に離れた場所にあった。総司はいつの間にか魚籠を頭にのせたまま器用に泳いで上流に移動していた。手で大きな輪を作って、こちら側に合図を送って来た。

「よし、山口。さっきと同じだ。総司が魚を追い込んでくる」
「岩場の底に仕掛けがある、そこに魚が入った瞬間、仕掛けを掬いあげるぞ」
「いいか、間がでえじだ。鮎はすばしっこい」
「掬い上げる瞬間に逃げられたらしまいだ」

 自分は頷いた。土方さんの傍に近づくと、もう首まで水が来た。ここは深い。そう思った時、気配を感じた。総司が、魚籠を頭に載せたまま、ゆっくりとこっちに近づいてきた。翡翠色の眼が光っている。水面から沢山の魚が見えているらしい。

「いるよ、いるいる。大群がいったよ」

 興奮してきた。一網打尽か。よし、土方さん。俺も掴まえます。

 一歩前に進んだ。だが、あると思った水底がそこにはなかった。どんどんと足が下に落ちて行く。もう水中の中にすっぽり全身が沈んでいた。空からの光で水面が天井になってキラキラとしている。目の前には確かに、茶色の物体が見えていた。あれは、あれが仕掛けか。

 慎重に近づいた。時折キラキラと見える。あれが鮎か。確かに何匹もいる。すいすいと早い。あれでは流れて行ってしまうではないか。仕掛けに入れ。手を伸ばして掴まえよう。よく見ると揺れている水藻は全て魚だった。なんだこれは。こんなに沢山の魚が。こんなに沢山いるってことは。大漁ではないか。よし、自分が手づかみにしてやろう。

 手を伸ばすが、なかなか自分の手は水藻に届かない。さあ、もっとだ。さらに手を伸ばした。魚たち。碧い魚。揺れている。揺れる水藻から手が伸びる。あれは魚か手のようだ。自分の手を取るように。伸びてくる……。……手が……。

 腕の下を思い切り掴まれた。痛い。明るい天上が見えた。きらりと眩しいのはなんだ。陽の光か。その瞬間、水面に顔が出た。

「おい、大丈夫か」

 土方さんの声だった。気が付くと、岩場に掴まった土方さんが自分の肩を持ち上げて顔を覗き込んでいた。「総司、手を貸せ」と叫んだ。直ぐに背後から総司に首から上を水面に上げるような態勢で引っ張られるようにして岸部に向かった。土方さんが後から泳いでくる。漸く水底に足が届くようになった。

「おい、大丈夫か?」

 土方さんの声が背後から聞こえた。浅瀬を歩きながら「大丈夫です」と答えると。「水底に沈んじまったまま、動かなくなってた。溺れたのか」と自分を追い越しながら岸に上がった。

「あんなに川底が深いとはおもいませんでした」
「あったりまえだ。岩場の周りは水底は掘られて深みになっている」
「なんで、沈んだまま上がってこねえんだ」
「……魚が沢山いるのが見えて」
「水底の水藻が皆魚で」
「水藻から手が伸びて来て……、掴まれそうに」

 土方さんは口を開けたまま驚いている。「おいおい、河童に尻子玉抜かれそうになったってか」と大声で笑うと、自分の頭をぐしゃぐしゃと撫でるようにして顔を覗きこんだ。

「ねえ、はじめ君って」
「もしかして、かなづち?」
 総司が土方さんを遮るように言いながら、川から上がって来た。
「だって、どんどん沈んで行くんだもん」
「もしかして、泳げないとか」
「なんだとお、泳げねえ? 山口、そうなのか」

 泳ぐ。生まれてからこのかた、泳いだことは一度もない。いつも水の底を歩く。水の中に入ったら、そうして過ごすことしか。海でもそうだ。水底を蹴って水面にでて息を吸う。それ以外は水底を歩く。皆は水面に浮かぶが、自分の身体は水には浮かばぬ。

「それって、かなづちだよ。はじめ君」

 総司は愉快そうに笑って河原の石の上で仰向けになった。焼けた河原の石が温かくて体が温まると言って悦んでいる。自分も仰向けになった。

「なんで、それを先に言わねえんだ」

 土方さんは厳しい顔をして隣で仰向けになった。「泳げねえ奴が、川に入るか」、「一歩まちがえりゃあ、あの世行きだ」と呆れている。

「水底を歩けばいいと思っていました。息は苦しくはありません」自分がそう云うと。

「そういう問題じゃねえんだよ。苦しくねえのは、もうお陀仏寸前ってことだ。あぶねえ」と土方さんは厳しい顔でそう言った。総司が、もしかして、はじめくん溺れた事ないの、と訊いてきた。

「赤子の時に、五右衛門風呂に俺を抱いて入った母が、手を離した途端どんどんと風呂底に沈んで行った俺を慌てて引き上げた事があったらしい」
「まだ幼い時に池にも沈んだままだったそうだが、その時も助けられる前に自分で水底を歩いて上がった」
「母親が心配して、医者に診せたら、骨が鉛のように重い身体だから、水には浮かばぬと云われた」
「息を吸い込んだまま、水底を蹴れば水面には上がることができる」
「泳ぐことは出来ぬが問題はない」

 ここまで喋ったところで、土方さんも総司も不思議そうに口を半分開けたまま自分を見ている事に気がついた。

「これからもう一つの仕掛けに行くが、お前は足のつく場所で魚籠を持って立ってろ」

 そう云うと、土方さんは再び起き上がった。そのまま、道具を持って水に入っていった二人の後について行った。胸までの深さの場所で立っていると、総司達がバシャバシャと水面を叩く音がした後に、「入ったぞ」と土方さんが叫ぶ声が聞こえた。それから魚籠を持って二人が水面を泳いで帰って来た。

 大漁だ。五匹。大きいのが入った。今晩は鮎の塩焼きだ。と土方さんが笑った。三人で河原に上がった。土方さんも総司もするすると褌を解いて脱ぐと、水を絞って近くの岩場の上に干して乾かし始めた。自分も褌を取って水を絞ってから岩場に干した。三人で河原で素っ裸のまま甲羅干しをした。ここは誰も通らない場所なのだろう。

「なあ、俺はいいが。お前ら都会のひよっ子どもは、そうそう素っ裸でお天道様に尻を焼かれたことはあるめえ」

 そういって腕の上に頬をつけてこちら側に顔を向けた土方さんが言った。

「日焼けも過ぎるといけねえ」
「なにか、覆いになるものでケツを覆っておけ」

 土方さんは笑っていた。総司はむっくりと起き上がると、「何か探してきますよ」と言って立ち上がった。総司に誘われて、自分も河原から離れた草むらに向かった。日当たりのいい場所に蕗の葉が茂っているのが見えた。大きな葉を茎から切って持ち帰った。

 土方さんは仰向けて大の字になって寝ていた。そこへ総司が、いいものを見つけましたよ。そう言って隣に横になると、自分の股間に蕗の葉を傘を差すように挟んだ。はじめくんもこうしなよ。と総司は笑っている。随分と間抜けだが、確かにそうすると股間の日除けに最適だった。

 ほら、土方さん。僕ら、いい感じでしょ。
 大事なところが守られて。
 いいでしょ、傘みたいに。

 自慢げに総司は土方に見せている。

「僕も、はじめくんも、ちょうどいい大きさの蕗を見つけてね」

 そうだ、土方さんにも持って帰ってきましたよ。

 そう言って、総司は脇から葵の葉っぱを取り出して土方さんに見せた。直径一寸ほどの小さな丸い葉っぱを、広げた傘のように茎を持って丁重に土方さんに差し出した。

「土方さんのは、これぐらい」

 くっくっくっと堪え切れずに笑う総司が差し出した葉っぱを、その手ごと土方さんは勢いよく叩いて払った。そして、思い切り総司を睨みながら溜息をついた。総司は、「痛いなあ、せっかく見つけてきたのに」と笑っている。

「はじめ君って、体格の割には、立派な葉っぱが必要だね」
「誰かさんと違ってね」

 くっくっくと笑っている。どこまでも総司は土方さんに逆らうつもりでいるらしかった。

 濡れた身体が温まると、今度は持って来た握り飯を食べた。素っ裸のまま胡坐をかいて頬張る飯は美味かった。土方さんがまわしてくる竹皮の上には沢庵と酢漬けの蓮が載っていた。うまい。土方さんは、小さい時からここで鮎取りをしていると言って、多い時は二十匹獲れた時もあると笑った。「今夜は初めて山口を泊めるからな、ご馳走を用意しねえと」と呟く土方さんの気遣いが嬉しかった。

 干しておいた褌も綺麗に乾いた。着物をまとって道具をまとめて家路についた。土方は、明日から午後は道場稽古に出るつもりだと話した。その夜は、鮎の塩焼きが夕餉にでて、白米を腹いっぱい食べた。それから大きな内風呂に総司と土方さんと一緒に入って背中を流しあった。肩や背中、尻、身体全てが日焼けをしている。総司も自分もここ数日で、色黒になったと思う。風呂場で土方さんの背中を流していた時、肩に傷があるのに気付いた。丸く小さな歯形のようになっている。首もとに赤黒く吸い痕もついていた。

 吸い痕は、遊女が気に入った客につけると左之助から聞いたことがある。土方さんの秘め事を見つけてしまった気がしたが、知らない振りをした。総司から土方さんは大層女にもてると聞いている。日野の女子衆。行商で顔も広い土方さんが、方々で出会う女に気に入られるのは容易に想像できた。だが、江戸の試衛場に顔を出す土方さんは、道場仲間の左之助や新八がどんなに女で騒いでいようが、いつも涼しい顔でそれを黙って聞いている。その姿は、女の話にひとつも気にも留めないでいるようにも見えた。平助が女の事で下世話に騒いでいても、鼻先で呆れたように笑って黙っているのが常。

「ああやってさ、興味なさそうにみせて、実は人一倍女が好きなんだ」

 いつも総司は土方さんが座敷を出て行った後に耳打ちしてくる。

「土方さんは、むっつり助平だから」

 自分は総司が悪態をつくのがわからない。確かに土方さんは女が好きなのだろう。興味のない振りをしているのではなく、実際女が沢山いて、皆と話題にするまでもないのだろうと思った。そして、土方さんを知る女は皆、この人に夢中になるのだろう。土方さんの首元の艶めかしい痕を見ながら、そんな風に思った。

 背中から湯をかけて流すと、土方さんは「気持ちいい、ありがとよ」と半分振り返りながら礼を言った。

 いいえ。

 自分はそう答えながら微笑んだ。




つづく

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