府中村 若松 関田家

府中村 若松 関田家

文久二年六月二十八日

 まだ梅雨明けがはっきりしないまま、雨が数日続き江戸へ戻る日取りを先延ばしにしながら数日が過ぎた。

 雨で野良仕事が休みになった門人たちは、一日道場で汗を流した。稽古が終わると、雨上がりに総司に連れられて、近隣の知り合いの家へ行くこともあった。総司の遠縁の関田家もそのうちの一つだった。府中村若松にある大きな農家で、庄太郎さんと呼ばれる主人はとても人の良さそうな笑顔で総司と自分を迎えた。総司は玄関で挨拶をすると、荷物を置いて裏庭に廻った。そして薪に使う木を運んで、鉈で割り始めた。総司に言われて、自分も隣の切り株を使って、どんどん薪割りをした。

 関田の家の母屋の裏側は大きな原っぱになっていてその向こうには田端が広く多摩川の河川敷まで広がっていた。大きな五右衛門風呂が設えてあって、薪割の後は総司と一緒にぬるめの湯に浸かって汗を流した。遠く品川街道が見える先を眺めながら、風に吹かれて夕涼みをした。総司の祖母はまだ存命で、谷保に住んでいるが滅多に訪ねることがないと云って笑っている。そして、小さい時からこの関田の家に来ることが多かったと話した。主の庄太郎は総司を孫のように可愛がっていた。

「宗次郎は、こうにこんまかった頃から裏の原っぱを駆けずりまわって」と総司の小さな頃の話をして笑っている。ずっと居間の板間で横になったままの総司は、完全に警戒を解いて寛いでいる様子だった。総司のこういった姿は江戸でもあまり目にすることはない。ここは、多摩での総司の家のような場所なのだろう。自分はそう思った。

 その日はそのまま府中に泊まって翌朝早くに日野に戻った。昼からまた雨が降り出した。大雨がバサバサと振る中、暫く顔をみせなかった土方さんが道場に顔をだした。その夜、佐藤家の母屋で、三人で布団を並べて横になっていると、土方さんは八王子の連中と決闘をしなくてはならねえと話始めた。

「馬庭念流の奴らだ」

 土方さんは昔から近隣に住まう者と喧嘩に明け暮れているらしい。馬庭念流とは道場同士仲違いをしていて、道で出遭おうものなら睨み合いや喧嘩はお決まり。そう総司から聞いていた。

「兄貴にこれを借りた」

 そう言って土方さんは刀を一振り持って見せた。それは樫木で出来た模造刀だった。土方さんは士分ではなく帯刀は認められていない。喧嘩はもっぱらこの木刀で行い、真剣を振ってくる相手を打ちのめす。土方さんは命を張って喧嘩をしていた。

「助太刀なら、夕方からじゃないと無理ですよ」

 暗がりで総司の返事が聞こえた。もう眠っているのかと思ったら、総司はじっと土方さんの話を聞いていたようだった。

「いいがかりをつけて来た奴は、ひとり。あいつをやれば済むことだ」
「どうせ大勢では来やしめえ」

 土方さんは余裕のある声音で呟いている。自分はずっと黙ったまま土方さんと総司の会話を聞いていた。明日は、晴れたら行商にでかけると土方さんは決めていた。八王子での決闘。馬庭念流。一対一の勝負。市守稲荷。街道……欅の大木、助太刀……。土方さんの声を聞きながらそのまま眠りに落ちてしまった。




*****

八王子での助太刀

文久二年六月二十九日

 翌朝は小雨がぱらつく中を土方さんは早朝から行商に出て行った。道場で稽古を終えた頃、土方さんが戻って来た。道場の入り口で、「総司」と大声で叫ぶと、そのまま荷物を母屋に置いて草鞋の紐を結び直していた。自分は道場を飛び出して母屋の玄関から控えの間に上がって、刀を掴んだ。多摩に来た時に履いてきた足袋と草鞋を履いた。ゆっくりと道場から出て来た総司の傍を過ぎて、先に街道を八王子に向かって走って行った。

 後ろからすぐ土方さんと総司が追い付いてきた。敵は十人。二本差しだという。総司は腰に大小、肩に道場の木刀を二振り持って不穏な表情で微笑んでいる。外は陽が傾き始めていた。うだる様な暑さの中を半刻ほど歩き続け、浅川を渡っている間、土方さんの指示で決闘場所には二手に分かれて近づく事に決めた。総司と自分は先廻りして、神社の北側を通る田んぼの畔を抜けて決闘場所の反対側に出た。背中に当たる夕日が熱い。蝉の声が煩いぐらい辺り一面で聞こえていた。欅の大木の前で、先に街道を駆けて行った土方さんが相手と打ち合った。総司と一緒に、土方さんを取り囲むように立った敵陣を背後から撃った。土埃と男たちの罵倒する声。背後を振りかえると、土方さんが相手に押しやられて欅の大きな根本に踏ん張った踵が引っかかっていた。もう一人の敵が振りかぶって、土方さんの左側から真剣を振り下ろそうとしていた。自分は踏み込んで抜刀した。峰に返しながら相手の胴を思い切り打った。土方さんは膝をついた瞬間片側の手で地面を掴むと石と砂を相手の眼にめがけて思い切り投げて、相手が怯んだ隙に脛を力いっぱい木刀で打ち突けた。それから足蹴にしながら何度も相手が伸びるまで、木刀で背中や腹を打ち続けた。この人は容赦がない。完全な喧嘩剣術だった。
 総司は、既に抜刀して五人を打ち負かしていた。呻き声をあげて這いつくばって逃げようとする者に、思い切り走って飛び上がるように馬乗りになった総司は、相手の髷を掴んで持ち上げると、真剣の刃先を男の耳の上にあててそぎ落とそうとした。男は悲鳴を上げた。

「耳を削ぐとさ、音が聞こえなくなると思う?」
「聞こえるんだって、もっと良くね。耳の穴だけになるから」

 総司は脅える男にそう云うと、「もっと良く聞こえるほうがいいんじゃない?」と友達に話しかけるように笑った。相手は目を剥いたまま震えていた。総司は男の耳に当てた剣をゆっくりと離すと、相手の頭を地面に打ち付けるようにしながら立ち上がった。

 十人の男たちが境内の前でぐったりと伸びている前で、土方さんは腕組みをして仁王立ちになった。

 日野を通る時は、俺たちが居ねえ時にしろ。
 顔をみたら、次は容赦しねえ。

 返事も覚束ない相手にそう云うと、そのまま踵を返して引き返した。もう完全に陽が落ちていた。土方さんに誘われて、街道沿いの呑み屋に入った。そこで冷酒に目刺しと茶漬けを食べた。少々物足りなかったが、財布も持ち合わせもなく、土方さんも船の渡し賃を残すともう有り金はないと笑っている。

「明るくなるまで、横になれる場所がある」

 そう言って、土方さんは街道からそれたあぜ道を歩き始めた。月夜は空を覆う雲をぼんやりと照らしている。暗い蒸し暑い夜。土方さんは大きな土塀の裏戸を開けて中に自分たちを招き入れた。
暗がりに自分たちは大きな屋敷のある敷地に居る事はわかった。土方さんは、母屋の裏側に廻ると離れの陰から、足元の小石を拾って廊下の向こうに何度か投げた。暫くすると、障子の向こうから誰かが現れた。

「としぞう様、まあ」

 女の声がした。離れの廊下の柱から顔を出した女は、そっと草履を履いて庭に降り立つと。辺りを警戒するようにきょろきょろとしながら近づいてきた。土方さんは朝まで納戸の中で休ませて欲しいと女に頼んだ。女は静かに頷くと、裏手の納戸小屋の引戸を開けて自分たちを中に押し込むようにして戸を閉めた。暫くすると、小さな燭台を灯したものを手に持った女が再び小屋の引き戸を開けて入って来た。お盆に手拭を掛けたものを土方さんに渡すと、自分たちに会釈をして足早に小屋から出て行った。お盆には握り飯が三つ載った皿と湯飲みと麦湯の入った茶瓶。三人で握り飯を頬張って腹が膨らむと、土間の簀の子の上で筵を被って横になった。自分は眠った振りをしていたが、夜更けに土方さんが納戸の引き戸を開けて出て行った後ろ姿を見た。土方さんは明け方に戻って来て、ふたたび半刻ほど横になっていた。暗い内に納戸をでて土塀の戸を開けて畔道に戻り街道にでた。街道から振り返ると、一晩の宿を借りた小屋のあった土塀はとてつもなく広い敷地であることが判った。土方さんの知り合いの女は、あの大屋敷に住まう誰かなのだろう。




*****

大和田の渡し

文久ニ年六月三十日

 帰りの大和田の渡しに着いてみると、川は一晩で水嵩が増していた。上流で堰が切れたらしく昨日の緩やかな流れが打って変わって激しい流れになっていた。渡し夫はそれでも舟を出すと言う。土方さんから総司、そして自分が舟に飛び乗った。案の定舟は下流へ流されていく。

「おい、親父。こんな様子じゃ流されちまって向こうには着かねえんじゃねえか」

 土方さんはどんどん離れる向こう岸の渡し口を振り返りながら叫んだ。渡し夫は黙ったままそずっと櫓をこぎ続けて、少しずつ向こう岸に近づいて行った。なんとか岸部に近づいたが。舟の先は五尺近く砂地から離れていて、そこも砂が巻き上がるぐらいの水の流れになっていた。渡し夫が竿を川底に差すようにして舟を留めている間、土方さんは勢いをつけて船から飛び降りて砂地に着地した。総司は、舟の後方から走って勢いをつけて飛び降りた。その瞬間、渡し夫の竿が川底を離れて船が揺れた。舟の縁に立っていた自分は振り落とされそうになった。何とか縁に掴まって立っていた。川の激流が舟を揺らした。渡し夫がもう一度竿を入れて舟を固定させたとき、既に六尺以上は岸部と離れていた。

「旦那、今のうちに飛び降りておくんなせえ」

 踏ん張る渡し夫の悲痛な叫び声が聞こえた。自分は頷いた。飛び越えられるか。ごうごうと濁った水が白い泡を立てる中、岸部まで目算を立てた。そこへ、土方さんが走って岸部を下ってくると、尻まくりをして河の中に入って来た。

「駄目だ、山口。待ってろ」
「親父、そいつぁ、かなづちだ」
「水に落としちゃいけねえ」

 轟轟と響く水音の中、土方さんの叫ぶ声が聞こえた。総司が「はじめくん、刀投げて」と叫びながら水に入って来た。自分は下げ緒で縛った大小を総司に「たのむ」と云って投げた。総司は、大小を受け取ると。水に濡らさないように頭の上に上げながら岸部に上がって行った。

「こっちだ、手を伸ばせ」

 土方さんが手を差し伸べた。もう、水は土方さんの股の高さまで上がってきている。

「いいか、大股を思い切り開いて、船の先を蹴って飛べ」
「俺がお前の手を掴んで岸部に投げてやる」

 自分は頷いた。

「山口、今だ。飛べ」

 そう言われた瞬間に舟の先から飛び上がった、手を思い切り伸ばした土方さんの手が自分の左手を掴んだ。向こうに見える砂地。あそこへ思い切り足を開いて。

 強い足裏への衝撃と同時に、川の濁流がふくらはぎに当たった。冷たい。なんとか川岸に足が着いた。総司が前から手を引いて川から引き揚げてくれた。そして背後から、腰から下が水浸しになった土方さんがやれやれといって川から上がって来た。渡し夫は竿を操って徐々に舟を岸から離している。器用にまた流れに乗りながら舟の向きを整え始めた。そして振り返りながらお辞儀をするようにまた向こう岸へ舟を戻し始めた。

 土方さんは、着物の裾を絞って水気を切ると、そのまま尻まくりをして川岸を歩き始めた。総司は自分に刀を返すと、自分の荷物を持って再び街道に向かって歩き始めた。

「ありがとうございました」

 自分は二人に向かって頭を深く下げた。総司と土方さんは二人で同時に振り返ると、笑顔で頷いた。街道に出ると、さっきの河の轟音は段々と遠ざかり、陽が高くなるにつれ道行く人も増えた。肩に木刀を担ぎ、追い掛けあいをしながら走る総司と自分を、土方さんは仕方がないなという表情で微笑みながら眺めていた。

 この翌日、自分と総司は日野を旅立って江戸に戻った。もう既に月は変わって七月。江戸を離れて多摩での十五日間の出稽古だった。




つづく

→ 次話 大股開き その4

コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。