薄明薄暮
戊辰一八六八 その1
慶応四年一月九日
年明けに勃発した京での戦いは三日間で終結した。後に鳥羽伏見の戦いと呼ばれるこの戦は、その後一年以上続く戊辰戦争の幕開けとなった。
京での戦いの後、大坂に敗走した新選組。無傷で動く事が可能な隊士たちは、先に天保山沖から【順道丸】に乗船して江戸に向かった。この前軍隊は、新選組幹部、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、山南敬助、島田魁を含む。千鶴は、永倉たちを見送った翌日、疾病負傷者と伴に翌日の十日に【富士山丸】に乗船した。後軍は、新選組局長の近藤、副長土方、監察方山崎烝、幹部の沖田総司、斎藤一。富士山丸は、天保山沖から神戸に向かって、一日碇泊したのち、紀州由良へ向かった。そして、由良港で一晩碇泊した後に江戸へ向かった。負傷した隊士たちは、怪我の深刻な状態の者と軽傷の者とに振り分けられた。伏見での戦いが始まる前に、銃弾で肩に複雑骨折を負っていた近藤は、床上げして起き上がれるようになってはいたが、依然被弾した肩は動かすことは出来なかった。一緒に大阪に移送された総司については、小康状態が続き、意識はあるが衰弱が激しくずっと寝たきりになっていた。
「今朝、紀州を発ちました。あと二日で横浜に着くそうです」
目を覚ました総司に千鶴は優しく話しかけた。窓をしっかりと締め切った部屋には、洋灯が灯されて、総司の横たわる寝台の向かいでは、斎藤が仮眠をとっていた。総司は、うっすらと眼を開けたまま、千鶴に頷いた。息が浅い。咳込む体力もない様子で時折、苦しそうに胸から続けて息を吐く。もう何日も熱が上がったり下がったりを繰り返している。息が落ち着いたところに吸い飲みを口にもっていくと、総司は水を飲んだ。続けて薬湯を飲ませることも出来た。
よかった。
再び眠りについた総司の唇を濡らした晒しで湿らせるようにして、千鶴は総司の傍を離れた。隣の寝台の斎藤は深い眠りについているようだった。無理もない。羅刹となった身だからと、夜間に土方から預かった幕府への報告書の清書、資料の整理を精力的に行っている。それでいて、夜明けと夕闇が迫る時間帯に、隊士たちに軍議の報告も行っている。負傷者の手当てと看病に忙しい千鶴とは、夜明けと夕暮れ時に甲板や通路で顔を合わせるだけだ。千鶴は、斎藤が明らかに疲労の様子を見せている事が気になっていた。
「斎藤さん、体調はいかがですか」
「斎藤さん、随分とお疲れの様子です」
「どうか、お休み下さい」
「沖田さんの隣の寝台を開けてあります」
「斎藤さん、どうか、船室のほうへ」
千鶴の言う言葉はいつも同じだった。休息をとるように。斎藤の顔色が優れないと心配をしている。
「心配には及ばぬ」
「大丈夫だ」
「大事はない。時間がないから行く」
夕方に、いつもの様にそう返事をしてすれ違うように通路を進んだ斎藤は、心配する千鶴に振り返った。由良港で近藤局長は幕府から伝令を受け取った。江戸に帰還したら、すぐに登城するようにという命令だったそうだ。東から薩長軍が攻めてくる。江戸で敵を迎え撃つことになる。戦はこれからだ。
千鶴は黙ったまま頷いた。斎藤はそのまま踵を返すように通路を急いで土方のいる船室へ向かって行った。そして朝方に戻ってきて倒れ込むように寝台に横になった。昼も夜も起きているのだから無理もない。千鶴はそう思った。
その日の夜中、千鶴は総司の寝台に凭れ掛かるように突っ伏してうたた寝をしているところを相馬に起こされた。
「先輩、雪村先輩」
「土方副長がお呼びです」
相馬は酷く心配するような表情で千鶴の顔を見ていた。
「先輩、わたしが代わりに副長にご用件を伺ってきましょうか?」
「酷くお疲れのようです」
覗き込むように千鶴の様子を確かめる相馬はそう言った。千鶴は首を横に振った。
「ありがとう。私は大丈夫。相馬君、私が土方さんのところに行っている間、沖田さんをお願いします」
相馬は頷いた。沖田さん、今は熱も下がって良く眠っていらっしゃいます。何かあれば、呼んでください。千鶴は、そう云うと通路を走って土方の部屋へ向かって行った。相馬は、千鶴の腰かけていた椅子に座って、静かに眠る沖田の様子を眺めた。
(もうすぐです。沖田さん。江戸にすぐに着きます)
相馬は心の中で総司に話かけた。江戸に着いて、医者に診て貰えさえすれば、近藤さんもすぐにお元気になられる。沖田さんも。早く元気になってください。
****
神田和泉橋医学所
千鶴が土方の船室に行くと、そこには斎藤が椅子に座って待っていた。洋灯の元で見る斎藤の顔色は依然として悪かったが、隊服を脱いで新しい長着に着替えていた。黒八丈の袷。千鶴が仕立てたもの。戦火に焼かれずにちゃんと持っていてくださった。千鶴は背筋を伸ばして座る斎藤を見て嬉しかった。土方に促されて斎藤の隣の椅子に腰かけるように言われた千鶴は、会釈をして腰かけた。
「ありがてえ事に、海は凪ぎでな。思ったより早く横浜に着く予定だ」
土方は壁に設らわれた文机から振り返りながらそう云うと、手に書類を持って身体をこちら側に向けて座り直した。
「横浜港で傷の酷い者を降ろす。医療所に直行して入院させる。横浜の医療所には西洋人の医者がいて、魔法のように傷を縫って直すそうだ」
「そこで、近藤さんの肩も診て貰いてえが、近藤さんは先に江戸で登城しなきゃならねえ」
厳しい表情で土方は考え込むような顔をしたが、「近藤さんは一旦品川へ俺らと一緒に向かう」と話した。
「千鶴、お前に横浜で船を降りる者の準備を頼みたい。それと、品川に着いたら総司に付き添って医学所に行って貰おうと思っている」
土方はそう言って、手に持っている書類を千鶴と斎藤に見せた。それは、松本良順によって書かれた医学所への入院申付けだった。【奥田庄司】とあるのは、総司の偽名らしい。一緒に入院するのは他に四名。この者たちは比較的軽傷だから治療が終われば直ぐに戻ってくるだろう。土方はもう一枚の申し付けを見せた、そこには入院する者として、【山口次郎】と書かれてあった。【山口次郎】は斎藤が表向きに名乗っている名前だった。斎藤は驚いた。
「お前にも和泉橋に行ってもらう」
「千鶴の護衛にあたれ、良順先生に診て貰ってこい」
「先生は、お前が変若水を飲んだ直後だって事を気にしている」
「羅刹の発作を抑える手立てに先生は長く取り組んでいる。助けになってくれるだろう」
「千鶴、お前には医学所で総司と斎藤の世話を頼む」
千鶴は頷いた。土方は、斎藤に顔を向けた。
「薩長軍が東行して来ている。風間がいつ江戸に現れるかもわからねえ。新選組のいる場所へ現れて千鶴を襲う可能性が高い」
「俺と近藤さんは、江戸に着いたら直ぐに城に出向かなければならねえ。前軍の連中と合流するのは暫く後になる。それまでの間、和泉橋で千鶴を守っていて貰いたい」
「わかりました」
斎藤は即答した。医学所のある場所、神田和泉橋。斎藤は土地勘があった。江戸に最後に帰ってからもう二年が経つ。町は様変わりしているやもしれぬ。隊が落ち着く先が見つかれば本陣を張って戦に向かう。斎藤はいつでも出陣できるように心構えが出来ていた。手に持っていた申し付けを土方に渡して、隣に座る千鶴を見た。顔色が悪く見えるのは、暗い船室にいるせいだろうか。京の戦火を逃れてから、精力的に怪我人を介抱し、総司の世話に忙しい千鶴はもう体力の限界に来ているのでは、そう心配になった。
「副長、雪村は早朝から再び怪我人の世話があります」
「ああ、ご苦労だった」
土方は斎藤に言われて気づいたように顔を上げると、千鶴と斎藤に下がるように言った。斎藤は千鶴と一緒に総司の船室に戻った。そして、相馬と変わって総司の傍についた。千鶴は、昼間に斎藤が横になっていた寝台に小さく丸くなるように横たわって眠り始めた。斎藤は、千鶴にそっと毛布をかけた。
*****
山南さんの様子がおかしい。
これは、さっき千鶴が土方の部屋に現れる前に聞いた報告だった。山南は変若水の改良に【鬼の血】が必要だとずっと訴えているらしい。
「血に狂うことが抑えられる。そう山南さんは言っているが、たとえそうだとしても、【鬼の血】を使うってことは」
そう言ったところで、斎藤が遮った。
「山南さんは。雪村の血を使うつもりですか」
山南さんは正気を失くしている。斎藤は衝撃を受けていた。変若水を飲んだことで、山南さんが狂っているのだとしたら。いずれ己も正気を失くし、血に狂うのか。言葉が出て来ない。
「ずっと言っていなかったが、お前が天満屋に詰めている間。山南さんは刀を抜いて千鶴に迫ったことがあった」
「少しだけ、血を分けて貰うだけだと言っていたが。あいつに刃を向ける山南さんは、狂っているとしか思えねえ」
「今は平助がずっと見張っているから大丈夫だ。安心しろ」
憤る斎藤の表情を見て土方がそう言った。そして、山南さんの事は他言はならねえと云った。特に千鶴にはな。そう言った時に、千鶴が入室してきて、そのまま話は途切れた……。
斎藤は、千鶴の寝顔を見ながら土方の部屋で聞いた話を思い出していた。羅刹となった身の上は己も同じ。あの冷静な山南さんが血に狂うのなら。自分の行く末も、いずれは。斎藤は気分が沈み込んだ。だが、千鶴の安らかな寝顔を見ると、決して自分の選択は間違っていなかったと思う。
この者を守るため
守る為であればこそ。羅刹の力を身に付けた。それならば、最後まで守り通そう。
必ず、守り抜く。
そう誓うと山南の事は気持ちの片隅に追いやることが出来た。あと二日で江戸だ。次の戦までに備える。そう思うとまた士気が湧いてきた。総司も千鶴も落ち着いて眠っている。今のうちに。斎藤は、再び土方から受け取った幕府への報告書の束を取り出し、清書にとりかかった。
******
松本良順
富士山丸が横浜港に到着したのは、それから二日後の夕方だった。
千鶴は負傷者が船外に下ろされて、横浜診療所に移送されるのを手伝った。負傷者の数はおよそ五十名。富士山丸に乗った隊士の半数。残りの隊士はこのまま品川に向かう。江戸に、やっと江戸に着く。千鶴は不思議な気がした。江戸を離れて四年。父親を捜すために小石川の自宅を出てから初めて戻る。これから戦になると云われている江戸。診療所は無事だろうか。気になるが、今は沖田さんを看病することが先決だった。これから向かう和泉橋の医学所は昔、幕府の種痘所だった。父さまに連れられて何度か行ったことが。立派なお医者様が沢山いた場所。あそこなら、沖田さんの容態もきっと良くなる。それに、松本良順先生に斎藤さんが診て貰えるなら。それが一番いい。千鶴は早く和泉橋に向かいたいと気が逸った。
富士山丸は翌日の朝に品川港に到着した。港に上陸した千鶴は、用意された荷車に総司を横たえて、神田に向かった。江戸は寒かった。荷車の上の総司には薄い布団が掛けられているだけ。千鶴は、自分の羽織を脱いで総司の首元を覆うように掛けた。斎藤が自分の隊服を脱いで総司にかけて、襟巻をとると千鶴の首に巻き付けた。寒さで小鼻が赤くなっている千鶴は、白い息を吐きながら斎藤に微笑み礼を言った。
曇り空だった空から、太陽の光が出て来た。陽射しが身に焼け付くよう。全身が痛い。心臓が押しつぶされる。斎藤は歩が止まった。苦しい。千鶴が振り返り駆け付けて来た。
「斎藤さん、どうか」
一緒に歩いていた三番組の部下が、斎藤を抱えた。総司と一緒に荷車に寝かせられた斎藤は、全員の隊服を掛けられ、日差しを遮るようにさらに筵を上から被せられた。斎藤は荷車の上でようやく息が出来るようになった。三番組の隊士は、荷車をひっぱると申し立て、全員で走るように神田に向かった。土方も一緒に走り、その後に近藤を載せた籠も続いて急いだ。医学所では、松本良順が待ち受けていた。申し付けを提出すると、一番に診療に回して貰えた。
「先生、恩にきる。有難うございます」
土方は深く頭を下げた。総司の診療をした松本は、厳しい表情を見せながら近藤と土方に長期で療養が必要だと告げた。京都守護職に関係のある者は全て新政府軍に捕らわれる。医学所は守られるが、いつ薩長の者がここにいる者を連行するかは判らない。そう言ってため息をついた。
「江戸の知り合いに頼んで、匿ってもらおう」
「市中から離れた場所なら、戦火に遭う心配もない」
「移送の手配をする。それまで暫くここへ」
土方と近藤は松本良順の言う通りに総司を医学所で入院させて、移動先が決まったら速やかに移送する手配をすると約束した。近藤は自分の肩も診て貰った。松本の見立てでは、肩の治療には添え木と針金で固定をさせる道具が必要だということだった。
「横浜診療所がいい。紹介書を書こう。少し遠いが加療に向かうことをお勧めする」
近藤は良順に重々に礼を言った。それから奥の土蔵の中に運ばれた斎藤を診断した松本は、羅刹の毒が全身に廻っていると土方に告げた。陽の光に当たる事は極力避けて、日中は休息させる必要がある。このまま暫く医学所で様子を見よう。そう言う松本に土方は、必要なものがあれば何でも用意すると申し出た。
「羅刹の発作は、これからだ。吸血衝動。血を飲みたくなる。ここは怪我人も多い。血の匂いに敏感になる者には辛い場所だ。土蔵で様子を見る。発作を抑える薬はある。藤堂君に渡してあるものと同じだ。症状が落ち着いたら、藤堂くんたちと生活を共にできるだろう」
松本の表情はずっと厳しいものだった。土方は、覚悟を決めた。平助達同様に斎藤には極力昼間の活動は控えさせよう。そして、松本に新選組の駐屯場所が決まるまで、千鶴を診療所で預かって貰うように頼んだ。
「総司の身の廻りの世話は、一番よくわかっている。斎藤の事も一番に看病ができる。ここは千鶴にとって一番安全な場所だ」
「先生、よろしくお願いします」
土方は深々と頭を下げた。松本は「お引き受けしよう」と頷いた。それから土方は近藤と一緒に医学所を後にした。先に江戸へ到着していた永倉たちは、品川の釜屋に宿陣していた。近藤と土方は、品川に立ち寄り、新しい屯所が決定するまで待機するように指示すると、和田倉の会津藩上屋敷に向かいそこに滞在した。
*****
医学所にて
医学所の千鶴は、日中は総司の看病を行い。合間に土蔵に斎藤の様子を見に行った。斎藤の発作は医学所に着いてからは起きていない。昼間はずっと暗い土蔵の中に置かれた寝台の上で静かに眠っていた。深い眠り。千鶴は、静かに眠る斎藤の顔を眺めて、何も変わっていないと思った。昼と夜が逆になっているだけ。
逆に……。
夜に目が覚めて、動けるように斎藤さんの為に何が出来るだろうと思った。食事を夕暮れ時に用意する。真夜中にしっかりと食べられる物を、そして明け方に消化の良いものを。ゆっくりと眠りにつくことが出来るように。
千鶴は良順の許可を貰って医学所の台所を使って、食事の支度をした。食の細い総司の食べやすいもの、怪我をしている隊士には、なにか精のつくもの。そして、斎藤さんには夕暮れ時、夜更け、明け方に温かい食事。斎藤さんの好きなものを。献立を帳面に書いて、良順に見て貰った。造血に良い食材を医学所が調達して使ってよいと台所にふんだんに用意してくれた。有難い。
医学所に来て一週間が過ぎた頃、土方から新しい駐屯所が決まったと報せがあった。
鍛冶橋門外の秋月右京亮邸。元日向高鍋藩主の広大な屋敷だった。近藤も土方も、多摩で新しい隊士を募って隊員を増やすと言っている。西からの知らせで、薩摩軍が京を出立したことが判った。これから戦になる。千鶴は覚悟を決めた。翌日に医学所に現れた土方に、
「松本先生は、沖田さんをお知り合いの家の離れで療養させると仰っています」
千鶴が報告すると、土方は「わかった」と頷いた。「一両日中に総司を移動させる」と言った。
「ここも危ねえ」
「秋月邸に隊士全員を集めたら、皆でお前を護衛できる」
「夜間に斎藤と一緒に鍛冶橋に移って来い。必要なら籠を用意させる」
安心しろ。そう言って笑った。千鶴は久しぶりに土方の笑顔を見た気がした。
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千駄ヶ谷池尻橋
二日後の一月二十二日、前日に降った雪が道の表面に残る中、総司は神田和泉橋の医学所を出て、千駄ヶ谷に移送された。池尻橋の傍にある静かな屋敷で、主は植木屋。人の良さそうな兵五郎と呼ばれる男は、自宅の離れを総司の療養の為に提供し、自分の母親を日中総司の世話にあたらせた。離れからは、綺麗に刈り込まれた植木が良く見え、庭の向こうには水車小屋があり、ずっと水が流れ水車がごっとんごっとんと規則正しく動く音が聞こえていた。総司のいる離れは日当たりのよい縁側から入る光で、部屋は暖かく療養には最適の場所だった。
総司が移送された日の夕方に、総司の姉のおみつが訪ねてきて甲斐甲斐しく世話をした。総司はおみつに甘え、どんどんと具合が良くなって行った。おみつは、これから戦になる。幕府をお守りするのに、剣を振るえるように早く良くなれと励ました。
「勇さんも、横浜で西洋人の医者に肩を診て貰って、再び剣を振るえるようになると、笑っていました」
「あなたも、ここで療養すれば直ぐに良くなります」
「私がついています、総司」
洗濯ものを畳みながら、ずっと話しかける姉を布団から眺めながら総司は微笑んだ。
「姉上、今度はいつ来るの?」
「明後日です」
「朝、それともお昼?」
おみつは、洗濯物を行李にしまって総司の布団の傍に座ると、上掛けを綺麗に整えた。そして、総司の肩に布団を掛け直しながら応えた。
「朝に来ます。泊まりで来られるように準備してくるから」
覗き込むように話すおみつに、総司は嬉しそうに微笑んだ。さあ、お休みなさい。眠るのが一番の薬です。そういっておみつは微笑んだ。
「姉上、」
「……ありがとう」
総司は目を瞑ったまま、そう云うと静かに息をついて眠りに落ちたようだった。
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鍛冶橋門外秋月邸
秋月邸に移った斎藤と千鶴は、再び幹部と一緒に屯所運営の中心になって生活するようになった。隊士の鍛錬や世話に忙しい、永倉や原田と違い、斎藤は日中部屋で土方の事務方として届け出の清書や資料の整理をする任務に就いていた。
土方は殆ど毎日のように登城や会津藩上屋敷へ出向き、屯所に不在だった。そのため、書類の準備や報告書は全て斎藤が請け負うことになった。夜中に作業をする間は仕事も捗るようだが、千鶴が何度止めても、日中も起きたまま作業を続ける。合間に仮眠をとるぐらいで、千鶴が目を離すと、再び起き出して文机に向かう斎藤の姿を目にした。
千鶴は斎藤の眼の廻りに黒い影が出来ているのが気になった。睡眠を十分にとれていない。疲労がたまっている筈。せめて、日中は奥の間の襖を締め切って眠ってもらわねば。そう思って、一番奥にある薄暗い部屋に布団を敷いて準備をした。斎藤の手を引いて奥の間に連れて行っても、斎藤は鼻先で笑って、「眠くはない。心配には及ばぬ」と再び自分の部屋に戻ってしまう。千鶴は途方に暮れた。
ずっと曇り空と粉雪が降る寒い日が続いた。千鶴は、夕暮れ時に、斎藤が仮眠から起き出したのを見計らって、温かい鍋に入ったおじやを持っていった。
「今日は、私も一緒に作業します」
「昼間に仮眠をとったので、夜更けも起きてられます」
千鶴は、斎藤と一緒に作業をすると言い張った。斎藤は、仕方なく書類整理の手伝いを頼んだ。夜更けに、夜膳を用意した千鶴は、傍で給仕しながら斎藤に話しかけてくる。
「新しく入られた隊士さんたちを永倉さんがよく屯所の外に連れ出されてます」
「先日も、品川まで歩いて出られて」
「途中、大通りで【豊年踊り】に囲まれたそうです」
「永倉さんも原田さんも、出られなくなってしまって」
「それが、見ず知らずの女のひとがいきなり、徳利に入ったお酒を突きつけてきて」
「お二人とも一気に飲んでしまわれたそうです」
千鶴はくすくすと笑っている。
「そうしたら、永倉さんも【ええじゃないか】って躍り出されて」
「仕方ないから、原田さんも一緒になって【ええじゃないか、ええじゃないか】って」
そうやって騒いだ振りして、ずっと通りを練り歩いて踊りながら品川に向かったそうです。一緒に出掛けた隊士さんたちとはぐれてしまって、仕方ないからお二人で、品川で茶屋に上がって一晩過ごして戻られたって。
「けっきょく、左之と二人で【ええじゃないか】だった」
「なんの為に、平隊士の連中を屯所の外に連れ出したのかってな」
「【チョイとさ】だぜ、まったく」
そう言って原田さんも笑ってらして。千鶴は口元に手をやってずっとくすくすと笑っていた。斎藤は、人々が半狂乱になって騒ぐ豊年踊りは遠巻きにしか見た事がない。江戸の町は、これから戦が起きる様子には見えないが、辻斬りが横行して治安は京の市中と変わらないぐらい物騒だった。それでも、新八や左之助は町に繰り出して楽しもうとする余裕があるのだなと斎藤は思った。
そうして、夜更けの膳を片付けた後、静かになったなと傍を見ると、千鶴は書類の束を手に持ったまま火鉢のそばで倒れるように眠っていた。斎藤は押し入れから布団を出して火鉢の傍に敷いて千鶴を寝かせた。千鶴の部屋は隣だが、このままの方が温かくて良いだろうと思った。ぐっすりと眠る千鶴の寝顔を暫く眺めて、斎藤は微笑んだ。早朝から日中と忙しく動き回る千鶴が、このような夜更けまで起きていられる筈もない。
斎藤は、千鶴に文を書いた。
薄明薄暮の膳
それで十分
夜間は眠ったほうがよい
気遣いは無用だ、雪村。
そう書いて千鶴の枕元に畳んだ文を置いておいた。そして、三つを過ぎてから明け六つまで、邸内の道場で、斎藤は平助と山南と思う存分手合わせをした。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その2へ