平助の覚悟

平助の覚悟

戊辰一八六八 その7

慶応四年三月十二日

 千鶴と斎藤が江戸に帰還した日、朝から暗い雲が立ち込め、秋月邸に辿り着く前には酷い土砂降りになっていた。

 ずぶ濡れで戻った斎藤達を、相馬と野村が大喜びで迎えた。二人は勝沼から敗走中、方々の宿で斎藤達の足取りを探し回ったという。斎藤たちの為に風呂を沸かすと云って、相馬たちはバタバタと走って風呂場に行ってしまった。千鶴は自分の部屋に入って驚いた。荷物は全て片付けられていた。開け放たれた襖。隣室の斎藤の荷物も全て無くなっている。部屋の真ん中に大きな行李が置いてあった。行李の蓋はあいたままになっていて、中に斎藤と千鶴の荷物が一緒に仕舞われていた。なんとか自分の着替えを取り出せた。斎藤が広間に帰還の報告をしに行っている間に、千鶴は相馬たちに呼ばれて先に風呂に入るように言われた。

「私はいいです。斎藤さんに入ってもらってください」
「でも、雪村先輩。斎藤さんはさっき、合議に出るから風呂は後だと仰っていました」
「すみません、わたしたちも合議に出るので。風呂場の見張りは出来ませんが」

 相馬と野村は、頭を下げて踵を返すように大広間に走って行った。千鶴は、風呂場に行って雨で冷えた身体を温めた。江戸に無事に戻れたことで安堵したが、屯所の様子を見る限り、直ぐに陣を移すのだと思った。江戸が戦場になる。千鶴は、勝沼での敗戦を思い出し、更に伏見での戦を思った。屯所が焼き討ちに遭うかもしれない。江戸の町が火の海に。なんと恐ろしいことだろう。千鶴は、不安な気持ちを止めるように肩を両手で抑えて湯舟に浸かっていた。

 千鶴が独り風呂場で不安を感じている間、広間では合議が開かれていた。前日の夜に、永倉と原田は、幕臣として江戸で敵が攻めて来るのを待つより新たに隊を作って会津へ向かい、そこで敵を迎え撃つことを皆に訴えていた。甲府への戦に参加できず、江戸で待機していた負傷兵たちの一部は、既に松本良順の計らいで会津で療養をする事が決まっていた。だが、近藤はあくまでも江戸で新たに隊士を募り、隊を大きくして戦う事にこだわった。

「永倉くん、君たちが私の家臣として働くなら、新たに隊を作る必要はない」

 私の家臣。そう言われた事に永倉は酷く憤った。試衛館時代から、永倉は近藤を尊敬していた。だが、あくまでも、剣の腕を鍛錬する仲間として、新選組の剣で国や民を守るという意思に賛同していただけだ。永倉や原田にとっては、近藤は同志であった。それが、何を急に近藤は親分風を吹かすのか。

「二君に仕えずってのが武士の本懐じゃねえか、近藤さん。俺はあんたの家来になるつもりはさらさらねえ」

 永倉はこう啖呵を切って、合議の席から出て行ってしまった。

 今朝、斎藤が無事に帰還したことで改めて合議が開かれた。一晩経っても、永倉の意思は変わらず。原田も一緒に離隊すると申し出た。新八と左之が近藤さんと袂を分かつ。斎藤は、衝撃で言葉が出て来ない。目の前の土方は眉間に皺を寄せ、厳しい表情で黙ったまま。平助は、部屋の片隅の影で膝を抱えたまま項垂れている。平助でさえも止め立てはできなかったのか。山南さんも、誰も何も言わないのか。近藤は、俯き気味にじっと拳を握りしめたまま畳を見詰めていた。「じゃあ、俺たちは出て行く準備をするから」、そう言って早々に永倉と原田は席を立った。

 陰鬱な空気のままの広間。沈黙を破るように、土方が斎藤に向かって勝沼での戦の報告をするようにと指示した。斎藤は、薩軍の新型羅刹について説明した。昼間の陽の光の下でも、動くことが出来るのが特徴だと教えると、それを聞いて一番に声を上げたのは、その場にいた山南だった。

「昼間に動ける羅刹ですか。それは鬼と言われる者たちと変わらぬ力と考えて良いのですね」

 山南の声には、どこか希望を持ったような響きがあった。斎藤は、山南の方に首を向けた。

「鬼と言われる者と薩兵の羅刹が同等の強さと俺は思いません。ですが、羅刹を止めるには一撃で殺傷するしかなく、大軍で攻めて来る場合、極めて不利かと」

 土方は厳しい表情で、羅刹の欠点が無くなった事は脅威が増えた事だと言って大きな溜息をついた。土方は近藤に「そうだろ、近藤さん」と同意を求めたが、近藤は土方に名前を呼ばれて、ようやく話題が敵の羅刹隊の事だと気づいたようだった。要領を得ない近藤の反応を見て、厳しい表情のまま土方は腕を組んでまっすぐ前を見た。

「すまねえが、みんな合議はこれまでだ。これから俺と近藤さんは和田倉で会津藩老中目付の神保様に会う。五兵衛新田への移動は明日だ。準備を進めてくれ」




*****

新八たちとの別れ

慶応四年三月十二日

 屯所の玄関に、左之助達の姿が見えた。千鶴が二人の前に立って話をしている姿も見えた。

 雨上がりにどんよりとした空の下。斎藤は息苦しさを感じながらも、門に向かって歩いて行った。振り返った左之助の顔は晴れ晴れとしているように見えた。

「千鶴、そんな顔をするな。何も今生の別れじゃねえ。俺らは俺らのやり方で、国を守る。またどこかで会えるさ」

 斎藤が、二人に行く宛てがあるのかと尋ねる前に、新八が答えた。

「昔の道場連中と上野の警護の時に会ってな。そいつらと組んで行こうと思っている。俺らの部下も何人かは付いて来るみてえだしな」
「会津へ向かう怪我人たちは、俺らが責任をもって、江戸から送り出す。まだ関所も通るのに問題はねえ。松本先生が、午後に隊士たちを今戸の宿に移す。これから護衛だ」

 千鶴は、頷いているが、その顔は今にも泣き出しそうだった。いつの間にか背後に野村と相馬も見送りに来ていた。二人も千鶴と同じぐらい目に涙を溜めている。

「おいおい、大の男が。なにしょぼくれた顔してんだ」

 左之助は、苦笑いをしながら二人の事を眺めている。二人は「原田さん」と呼び掛けたまま言葉が出て来ない。十番組組長。いつも大らかで頼りがいのある存在。

「お前ら、新選組を。近藤さんと土方さんをよろしく頼むぜ」

 左之助の大きな手が相馬と野村の肩の上に載せられている。新八が斎藤の目の前に立った。

「なあ、斎藤。お前はこれからどうすんだ」

 ——俺は今までと変わらずにずっと近藤さんと土方さんに従って行く。

 そうか。そう新八は応えた。上士である新八は、身分も城勤めも捨てて自由だと笑う。己の主君は己で決める。士籍を持ってねえからって、武士じゃねえってわけじゃねえだろ、斎藤。お前も自由に選べるはずだ。

 選べるはず。

 俺は選んだ。もうとっくに。己の信じる道を。

 黙って頷くしかなかった。肩に大きな新八の手を感じる。また、会おうぜ。暇の告げあいが、本当の別れを実感させた。おかしなものだ、足元の地面を見ていると、甲良町の道場での日々が目の前に過った。初めて新八と道場で手合わせした日。互いに強いと認め合い、笑いあい、酒を酌み交わした日々。

「じゃあな」

 左之助も新八も振り返ることなく、鍛冶橋を渡ってその向こうに消えて行った。

「斎藤さん」

 小さな声が聞こえた。伺うように心配そうな瞳で、背後で千鶴が自分を呼んでいた。曇り空から射す光だろうか、新八たちが去ったからだろうか、胸にぽっかりと穴が空いたような。抜け殻のような気分になった。自分の信じるものを分かち合えていた者たち。真の仲間。それを失ってでも。

 己の信じる事を
 ——それに尽くすこと

「戻るぞ」

 斎藤は、千鶴の傍を過ぎて、秋月邸の母屋に向かって歩き始めた。部屋に戻ると、奥の間に布団が敷かれてあった。斎藤はそこになだれ込むようになって横になり、気を失ったかのように眠りについた。




******

慶応四年三月十三日

 斎藤達が秋月邸を発って五兵衛新田に向かったのは、翌日の日暮れを待ってからだった。

 既に大きな荷物は昼間に運び出されていて、斎藤と千鶴は二人だけで屯所を出発した。暮れ六つに二人は日本橋を過ぎ、今戸の称福寺に立ち寄った。そこには、三番組の池田七三郎が和泉橋の医療所から移動していた。池田は負傷した足が完治するまで、会津で療養すると決まっていた。土方の話では、五兵衛新田で会津藩の付家老と軍議を重ねて、会津に出向く隊を結成する可能性もあるという。

 これから、新選組がどこに陣を張るのかも、おのずと明らかになるだろう。斎藤は、池田と近い内に合流する事になると話し、無事に会津まで移動をするようにと指示をして寺を後にした。池田たちを会津に送ると言っていた新八と左之助の姿はそこになかった。斎藤は、ずっと無言のまま墨田川の河岸を歩き続けている。桜の花は満開で夜空も明るい。千鶴は、独りで斎藤に話かけた。

「とても、美味しかったです。有難うございます」
「わたし、江戸で初めてです。藪蕎麦を頂いたの」
「江戸に住んでいた頃は、夜に家の外に出ることがなかったものですから」
「初めて、御蕎麦を外で頂いたのは、本願寺に居た時です」
「夜遅くに、原田さんに堀川通りの裏手に連れて行ってもらって」
「あれは、十一月でした。外は寒くて」
「温かいお蕎麦を食べて、そっと屯所に戻ったんです」
「原田さんは、京の御蕎麦はうまくねえ。うまくねえが食べてしまうって」
「原田さんは、お饂飩がお好きだそうです。伊予はお饂飩がおいしい土地柄だそうです」
「斎藤さんは、お饂飩とお蕎麦とどっちがお好きですか?」
「蕎麦だ」
「江戸の蕎麦もうまいが、信濃の蕎麦も美味い」
「そうですか。私はどっちも好きです」
「京の御揚げの刻んだものが入ったお饂飩が好きです」
「きざみか」
「はい、【きざみ】が好きです」

 他愛のない会話。今朝、皆が荷物の運び出しをしていた時に、台所にいた千鶴を見つけて確認した。

「あんたは小石川の診療所に用向きはないのか」
「何か、持っていきたいものがあれば、立ち寄ることも出来る」
「小石川でなくてもよい、市中に用向きがあれば、今の内だ」
「千駄ヶ谷に、沖田さんが居る場所に、お見舞いに行きたいです」
「総司は、どこか別の場所に移るやもしれん」
「確認をしておく」

 結局、千鶴は小石川には行く必要はないと言って、日中はずっと荷物を運び出した後の母屋を掃除し、残った隊士たちの食事作りをして終わった。平助が部屋に来たのはその間のこと。二人で、母屋の裏手にある土蔵へ行って暫く話をした。




*****

土蔵の中で

 はじめくん、ほんとうなのか。
 鋼道さんが昼間も動ける羅刹作ってるって?
 羅刹と戦った時、あいつら血を見て、おかしくなってねえのかよ?

 平助が、声を潜めるように矢継ぎ早に質問してきた。斎藤は、何度斬りつけても、直ぐに態勢を整えて斬りかかって来る連中だと平助に話した。

「あの者たちが返り血を浴びて、正気でいたとは思えぬ」
「狂暴であることには変わりはない」
「薩軍の羅刹兵は、鋼道さんの命令に従っていた。意思の疎通はあると感じた」
「なんだよ、それって。じゃあ、鋼道さんが羅刹隊を率いてるのか」

 斎藤は頷いた。

 平助は、悔しそうに壁を拳で叩いた。「んだよ、鋼道さん。なんで、薩摩の奴助けてんだよ」誰にでもなく壁に向かって文句を言って震えている。

「悔しいけど、はじめくん。全部、山南さんが言ってる通りだ」
「オレ、山南さんについて土佐藩の付役人に会ってんだ」
「土佐藩も変若水を使って羅刹隊を作っている。オレらみたいにな」
「山南さんは、土佐藩に改良変若水を作るって話を持ち込もうとしている」
「土佐藩は金を持っている。あそこは資金は沢山あるらしいんだ」
「山南さん、今朝も言ってただろう。土方さんに。上手く鋼道さんに交渉してみる価値はあるって」

 ——はじめくん、オレ。山南さんに手伝うって言ってんだ。

 斎藤が顔を上げて平助を見た。平助は壁に向かって背中を向けたまま呟くように話を続けている。

「山南さんの右腕みたいな振りしてさ、山南さんのやってる事。オレ、全部土方さんに報告してる。土方さんは、泳がせておけって」
「仲間を裏切るような事やってて。オレ、何やってんだろうな……」

 斎藤は黙ったままずっと平助の背中を見ていた。

「俺があんたの立場なら。きっと同じだ。平助」

 斎藤の声を聞いた平助は、「そうだな」と呟いた。ゆっくりと振り返った平助は、壁に背中をつけて一息つくように溜息をついた。そして、ずっと山南の傍を離れないようにしているのは、暴走するのを止めたいからだと語った。

 ——あの人に新選組を裏切らせたくない。オレ、守ってやりてえんだ。

 オレは一度裏切って後悔したから
 オレの事、救ってくれただろ。みんな。
 近藤さん、土方さんには感謝している。だから守りたい。新選組を。
 そのために、羅刹になって生きながらえているこの命を使いたいと思ってる。

 斎藤は、己も全く同じだという風にずっと深く頷いていた。

「はじめ君、千鶴を山南さんに近づけちゃ駄目だ」
「甲府で鋼道さんに会ったって事。山南さんが千鶴に直接話をするってきかねえ」

 斎藤が顔を上げて平助の眼を見詰め返した。平助は「大丈夫だ。今、山南さんは眠っている」

「オレが眠らせてんだ。あと一刻は目を覚まさねえ」
「眠り薬だ。良順先生に貰っている。これを飲むと掻い巻きにされて外に放り出されても判らねえ位、ぐっすり眠れるんだ」

「オレと山南さんは、ここを引き払って隣の酒井屋敷に移る。五兵衛新田に羅刹隊を置けるかどうかもわかんねえからさ」
「千鶴を連れて、はじめくんがここから離れるなら好都合だ」

 ——山南さん、ぜってえ鋼道さんと会うつもりでいる。

 土方さんから聞いた。鋼道さん、千鶴に薩摩に下れって言ったらしいな。風間やあの天霧っておっさんとこに。冗談じゃねえ。やっぱ、鋼道さん、狂ってるよ。

「夜、千鶴が寝ている間も。ちゃんと守ってやらねえと」
「薩摩の奴らが襲って来ねえように」
「一緒の寝所で休んでんだろ、はじめくん」
「いいよ、もう男だ女だなんて言ってらんねえし」

 千鶴を傍で守ってやって欲しい。

 土蔵の暗がりの中で、平助は頬を紅潮させて狼狽の様子を見せた斎藤の肩に手を掛けている。

「千鶴、鋼道さんがこんな風になっちまって、可哀そうにな」

 行くあてがねえんだろ
 母親もとっくに死に別れてるっていうし
 親兄弟もいねえんじゃな

 黙ったまま斎藤はじっと平助の云う事を聞いていた。

 これから西方軍が攻めてくるのに江戸に置いとく訳にもいかねえよ。

「なあ、はじめくん」

 千鶴、ぜってえ守ってやらねえとな
 安全な場所を見つけて
 こんな、こんな風じゃなくてさ
 いつかの夏の日みてえに、夕涼みにでた京の夜みたいに

 女の恰好で笑って

 そんな風にさせてやらねえと。

 千鶴は我慢強いから、文句も言わずにずっと居るけどさ。

 平助は、これから江戸に留まって山南を監視すること。新選組の新しい陣屋が決まったら羅刹隊も追いかけて行くと話した。二人で千鶴を守ろうと約束し合って土蔵の外に出た。日差しが強い。二人で陽の光を避けるように母屋の奥の部屋に戻った。




*****

五兵衛新田 金子邸

 五兵衛新田に到着したのは、夜も更けた頃。

 土塀の勝手門から敷地に入った斎藤と千鶴は、隊士たちの待機する母屋に向かった。ここ金子邸は大きな茅葺屋根のある数寄屋造りの建屋で、広間に小部屋中庭の周りに繋がる屋敷だった。鍛冶橋の屯所ほど広くはない。隊士百名余りの所帯でほぼ満員。斎藤が荷物を置く様に言われた部屋は、三番組隊士との共部屋だった。斎藤は、荷物の入った大きな行李で部屋の隅を間仕切り、千鶴にそこで休むように伝えた。既に合議は終わった後で、皆は寝静まっている。行李の向こうで、千鶴が布団に入って横になったのを確かめると、そっと廊下に出た。

 月明かりが明るい夜。

 千住の渡しで河を渡った時、千鶴は「江戸には、戻れるのでしょうか」と呟いた。後ろを振り返りながら、名残惜しそうに暗い河岸を眺めていた。

「これから駐屯する先は、ここからそう遠くはない。この渡しを通れば、いつでも江戸には戻れる」
「総司の元へ、見舞いに行く」
「千駄ヶ谷まで、舟で出ると近いだろう」

 舟の縁に手を掛けたまま、千鶴は振り返って頷いた。微笑むその顔は、久しぶりに見た千鶴の穏やかな表情で、ずっと目を離さないまま斎藤は見つめ続けた。舟はゆったり揺れながら進む。二人で互いにものを云わず。目を合せている間。沢山の事を話したような気がする。

 大丈夫だ。
 本格的な戦になる前に、必ず。
 安全な場所であんたが待機出来るようにする。
 だから、安心しろ。雪村。




つづく

→次話 戊辰一八六八 その8

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