五月闇
戊辰一八六八 その15
慶応四年閏四月二十一日未明
白河城下から北に丘陵地帯を行くと大谷地がある。
この大谷地を通って更に北、飯土用宿が奥州街道の会津への分岐になる。北上すれば二本松へ。西側の山に入れば、勢至堂峠を抜けて猪苗代湖南。その更に北西が会津城下に繋がる。
飯土用に辿りついた永倉新八と原田左之助は、間道にそれた岩場の影で野営した。白河で久しぶりに再会した新選組の面々と城を羅刹兵から奪う為に刀を振るった。雪村鋼道の羅刹隊。思えば、京での駐屯の日々から、新選組の羅刹開発は、永倉たちの心に暗い影を落としてきたものだった。新選組の暗部。この秘密の為に、どれだけの犠牲を強いてきたか。永倉や左之助の中で、それはずっと自責の念となっていた。白河で雪村鋼道の最期を確かめた事は、羅刹問題に一つの区切りをつけた気がしていた。
二人は互いに言葉を交わす事なく、武器を胸に抱いたまま岩に凭れ掛かって眠りについた。数時間の仮眠。夜が明けて、小便に行きたいと起き出した新八は川辺に下りて行った。左之助は、無言のまま荷物をまとめると肩に担いで河原に下り立った。
「ここから、川づたいに上っていけば、上小屋だ」
川の水で顔を洗った新八は、脇から取り出した地形図を取り出して位置を確かめている。そして、上流の方をずっと背伸びをするように眺めた。今から歩けば、勢至堂の峠を越えて三代宿まで辿り着ける。仲間にも落ち合える。新八は、荷物を背負って、直ぐに出発しようと左之助を促した。
「新八、すまねえが。こっから先は一人で向かってくれねえか」
「俺はやっぱり引き返す」
新八は驚いたように振り返った。
「引き返すって、白河か」
「いや、江戸だ」
「気になることがあってな」
「なんだ、いまさら江戸に何の用があんだ」
「……世話になった人がいる。無事を確かめたいだけだ」
「江戸は荒れている。今戸にいる先生が気になってな」
「さっきも、長屋が焼けちまう夢をみた。嫌な予感がする」
「今戸って、松本先生か?」
「赤ひげ先生だ」
「赤ひげって、あの爺さん先生か」
「関所は通れねえかもしれねえぞ」
「まだ大丈夫だ。棚倉から廻ればな」
「江戸で用が済んだら、直ぐに追いかける」
白んできた辺りは、水流の音が響いていた。暫く黙っていた新八は、「わかった。じゃあ、俺は先に行って待っている」と言って、河原を先に進もうとした。左之助と新八は互いに「気をつけろよ」と言い合って別れた。左之助は、そのまま来た道を引き返すように街道に戻ると、辺りを警戒しながら急ぎ足で南下していった。白河を過ぎてからは、間道を通って北上して来る新政府軍から身を隠しながら、棚倉経由で江戸に戻った。
左之助の江戸までの道のりは決して順風なものではなかった。長物を三本も肩に抱えた男が街道を歩けば、すぐに捕らえられて役人に通報されただろう。天気も悪かった。丸二日間雨が続いた中を左之助はひたすら走った。山の中で野宿しながら、時折出逢う猟師や山奥で暮らす身分のない者たちに助けられた。左之助は人との出会いにおいて強運を持ちあわせている。江戸に向かう道中でも、左之助を見つけた者は、最初は警戒こそすれ、直ぐに左之助の人柄を見て警戒を解き、食事を与え匿った。そして江戸に向かおうとする左之助を、人目に付かない移動方法で送り出してくれた。
こうして、左之助は無事に江戸に戻る事が出来た。今戸を訪ねると、赤ひげ先生は娘と無事に暮らしていた。この年老いた蘭方医と娘は、江戸を引き払うどころか、戦が起きたら怪我人を助けるつもりだと言って薬草や晒しを集めて歩き長屋で待機していた。
「先生、心配はいらない。戦は止めてみせる」
左之助は、今戸の長屋を出る時に医者父娘に約束した。直ぐに上野五軒町通りに向かい井吹龍之介の住まう長屋に身を寄せた。井吹は数日のうちに宇都宮に向かうと言って、家財の整理をしていた。新政府から戦の様子を描くように注文が入ったらしく、大急ぎで旅仕度をしていた。
「ここは借り受けたままにしておく。布団は要り用じゃなければ、質に預けてくれてもいい」
龍之介の話では、小鈴は月変りに早々に郷に帰ったという。昼間に出掛けて帰って来た龍之介から、新政府軍兵士の狼藉ぶりを聞いた左之助は憤った。
「下谷坂本の知り合いの家の前を通って来た。また騒ぎだ。まだ五つにもなっていない子供が通りかかった武士に斬られかけた。錦切れを肩につけた官軍兵士だ」
「子供は道で偉そうに立つ薩摩者に、『坊は会津だ、坊に従え』と囃し立てたらしい」
下谷は将軍様のおわす寛永寺に近く、五つの子供でも「錦切れ」をつけた者が官軍で会津と敵対している事を知っていた。
——官軍の兵士も兵士だ。年端のいかぬ子供を相手に刀を抜くなんてな。
そこに大勢の町人が止めにはいった。子供相手になんだって、皆呆れていた。独りで居た堪れなくなったんだろう。その侍は草履をひっくり返すような勢いで、無様に走り去ろうとした。
すると、誰かが石を投げたんだ。
「奴さんは、これに逆上して引き返してきた。刀を振り回したところを止めに入ったのが彰義隊だ」
市中は物騒だというが、俺は彰義隊がこの界隈をしっかり守ってくれると思っている。官軍兵士の狼藉ぶりは酷いもんだ。江戸をわが物顔で歩き回っているのは俺だって気に入らない。このまま江戸が新政府のものになるなら。
「そいつはわからねえ。龍之介。だが江戸が戦になるなら、俺は彰義隊に加勢する」
「新政府軍の狼藉をこれ以上許してはならない」
左之助は遮るようにきっぱりとそう言った。龍之介は、溜息をついて頷いた。
「そう言うと思った。俺は、侍でもなんでもない。ただの絵師だ。新政府にも幕府にもつくつもりはない」
「だが俺は、あんたらが命をかけて闘う姿をちゃんとこの目で見たいと思っている」
「闘うあんたらをそのままの姿を、ちゃんと描きたい」
それが俺の仕事だ。龍之介は、行灯の油がだんだんと減って、殆ど灯りのなくなった部屋で笑った。龍之介は、「このまま、暗い内に江戸を発つ」と言って、最後の荷物をまとめて長屋を出て行った。
「龍之介、必ず生きていろよ」
「あんたもな」
戸口で龍之介は笑って振り返った。左之助は龍之介を送り出した後、隠れ家に一晩だけ身を置いて、翌日の朝上野に入山した。
*****
東叡山寛永寺
左之助が彰義隊に入隊の意志を伝えた日の朝、江戸は数日前から続いていた曇り空がどんどんと暗くなり昼前には土砂降りの雨となった。寛永寺の中堂から離れた本坊に通された左之助は、頭取に目通りした後、武器庫に連れて行かれ、一通りの部隊編成の説明を受けることになった。
本隊は一番から十八番まであって既にどの隊も満員。左之助は正式な人員として付属隊にまわされることになっているとだけ説明を受けた。それから広間のような大部屋へ案内された。
暗い部屋の壁には卍が書かれた幟が立てかけてあり、そこにいた【萬字隊】に紹介された。十名ほどの浪士のような出で立ちの兵士たちと左之助は挨拶を交わした。そのまま待機するように言われ、左之助は関宿藩の藩士で結成された「卍隊」と行動を共にすることになった。
関宿は、左之助が江戸を離れて宇都宮に向かった時に通った。佐幕派を名乗る関宿藩は、靖共隊を従えていた左之助たちの通行を認め人夫の手配を速やかにしてくれた。左之助は、直ぐに卍隊の兵士たちと打ち解けた。隊長は頭取並の近藤武雄だと知らされ、左之助はその夜に近藤武雄と顔合わせをした。眉が太く眼光が鋭い男で、左之助が鎗使いだと名乗ると、「それは心強い」と凛然たる態度で頷いた。
左之助は翌日から、大広間で卍隊と一緒に稽古を始めた。「乱闘斬」の型を何度も浚う隊士たちの流派は「鏡心流」だという。抜刀型も鋭く、左之助はその稽古のやり方を見て、新選組の斎藤を想った。腕の立つ者との稽古はつい夢中になって時が経つのも忘れる。蒸し暑い道場の中で全身がずぶ濡れになるぐらい汗をかいていても、左之助は鍛錬を止める気にならなかった。思えば、江戸の新選組屯所での稽古はどこか身に入らず、鬱憤ばかりが溜まっていた。憂さ晴らしに新八と飲み歩くしか術はなく、酒を飲んではくだを巻く日々。ほんの三月前の事だが、左之助は鍛冶橋の屯所の事をもう遠い日々のように感じていた。
——ここで、新政府軍が攻めてくるなら。しっかり徒党を組んで闘う。
江戸を火の海にだけはしてはならない。
左之助は、槍を振りながら龍之介や今戸の医者親子、長屋の住人たちの姿を思い浮かべていた。
雨で見廻りに出られない間、ずっと稽古を続けた。頭取たちはずっと大部屋に籠って軍議を重ねているらしく、特に指示が下りる様子がない。左之助は夕方になると、隊長の近藤武雄に誘われて卍隊の隊士たちと寛永寺を出て吉原まで出掛けた。仲に馴染みのいる者、居ない者。早々に相方と奥座敷に消えて行く。左之助は自分の馴染みがいない夜は、座敷に残った。他に酒を飲んでいるだけの隊士たちは皆、明るく酒を酌み交わしているが、どこか今夜が最後という覚悟をしている風情があった。左之助は、ゆっくりと酒を呑みながら心の中で奥州路を北上している新八や靖共隊の仲間を想った。
五月十日を過ぎた頃、既に幕府から警護の任を解かれ、解散を言い渡されていた彰義隊は、市中見廻りにも出られず、本隊隊士たちはそれを不満として、命令に背いては町に繰り出し、錦切れを見つけては自分たちから斬りかかるという暴挙にでていた。頻繁に起きる諍い。隊内では明日にでも、薩長兵が報復に来るのではと緊張が高まっていた。
ずっと土砂降りだった雨が止んだ。風が止まり蒸し暑さでじっとしていても汗がだらだらと流れた。午前中の稽古を終えた左之助は汗を流しに境内の井戸端へ向かった時に、中堂前から畳が次々に運び出されて行くのを見た。門前に砦が築かれ始めていた。通りかかった隊士から、新政府総督府から彰義隊討伐の動きがあるとの報せがあったと聞いた左之助は、「いよいよ、おっ始めるか」と覚悟を決めた。それにしても騒々しい。廊下をバタバタと武器を抱えて走る者。鉢金を巻き、具足を抱えて大勢が戦の準備を一斉に始めている。
「頭取たちは、我らを解散させるよう説得に来た幕府の役人を追い返した」
「将軍家をかくまでに悲しみに落とし参らせた恨み、今晴らす時」
中庭で大声を張り上げている者がいる。廊下の向こうでは、「えいえいおー」と鬨の声が上がっている。左之助は、卍隊の元へ戻り槍を取り出した。暫くの雨で、刃先に曇りが見えた。素早く手入れをして、障子から入る光で切れ具合を確かめた。
兵士たちの機運は高まっていたが、夕方になり陽が落ちると隊長の近藤武雄がひょっこりと部屋に顔を出した。「まだ日がある。身内との暇乞いをして参れ」と外出の許可を言い渡された。左之助はいささか拍子抜けがしたが、念のために再び今戸の蘭方医の長屋を訪ねた。長屋には怪我人が何人も寝かされていた。
「一体、何があった」
うめき声を上げて苦しむ者たちを見て左之助は長屋の上がり口に立ったまま大声をあげた。辻斬りが横行し、昼間に道を歩いているだけで町人が斬られている。斬られるばかりか、めった刺しにされる事件が頻発しているが、幕府の役人に訴えても一向に下手人を捕らえるようすもない。戦も恐ろしいが、刀を振り回している侍が一番怖いと言われ、左之助は愕然とした。
沸々と怒りが湧いてくる。何の咎もない市井の者に手を掛ける。
どこのどいつだ。御上が取り締まる気がねえなら……。
憤った左之助が再び寛永寺に戻る途中、再び低い雲が垂れ込め雨が降り始めた。翌日になっても雨は止まなかった。左之助は戦に備えて、身仕舞を整えることに専念した。手首に黒い金巾を巻き、合切袋に全ての荷物をまとめておいた。夜に一度外を確かめに出た。黒門前に張り巡らされた畳楯は敵の侵入を許さないように見えた。
上野山内に集屯する心得違いの者を誅閥する——
大総督府がそう書かれた制札を掲げたのが翌日の五月十四日。宣戦布告を受けた彰義隊は、軍議を続けていた。悪天候が続く中、新政府軍は一斉攻撃をしかけるのに数日を要すると判断した頭取たちは、上野山に厳重に立て籠もる作戦を立てた。
卍隊は上野山の山王台に陣を布いた。雨よけの下で筵の上で胡坐を掻いて座っていた左之助は、傍でこっくりこっくりと首を前後に揺らしている仲間を見ていた。およそ、戦を始めるようには見えねえな。目の前に真っ直ぐに落ち続ける雨粒を眺めながら、左之助は立膝に抱えた槍を肩に立てかけたまま、あと一刻は、事が動くことはないだろうと思った。だが、まだ夜が明けて間もないうちに、敵軍が怒涛の勢いで攻めて来た。
新政府軍が発砲して戦が始まった。不意打ちに慌てて立ち上がった卍隊は、隊長の近藤の指示で、黒門前の攻防を助けるように砲撃を開始するように指示をした。砲台を敵の横腹を狙うように向けて、応射を続けた。激烈な攻防に敵は後退するかのように見えた。しかし、昼近くになって兵力を増強した新政府軍が今度は、山王台をめがけて斬り込んできた。左之助は最前線に出て敵を次々に突き倒して行った。なかなか敵を押し返すことが出来ないまま、黒門が突破されたのが見えた。
味方が総崩れになっていく。背後から近藤武雄の「退却せよ」という叫び声が聞こえた。仕方なく左之助は味方の隊士たちと陣を捨てて、上野山を逃れた。増水した墨田川を何とか渡たり落ち延びた。卍隊は死傷者五名。動ける者だけで関宿を目指した。左之助は上野一帯が火の海となっていたのが気になった。だが、小岩に辿り着いた時、橙色に明るかった江戸の空が暗くなっていた、後から駆け付けた味方の兵士から戦火は間もなく鎮火したと報せがあって。胸を撫で下ろした。
*****
小岩関所
左之助がなんとか味方の兵士達と関所近くまで辿り着いた頃。
上野一帯は焦土と化していた。細い雨粒が真っすぐと落ちる中、黒煙の上の空は濃い鼠色に鈍色が混じるように広がっている。累々と折り重なる彰義隊の遺体は放置されたまま。人肉が焼け焦げる匂いが充満していた。その風景は地獄の果てのよう。
官軍はとっくに兵を引いて、辺りは焼けた土から燻る煙が雨音とともに時折、じゅっという音をたてていた。人が逃げ去り焼け野原のような風景が広がる中、暗がりを進む者たちがいた。黒い陣羽織に伊賀袴、肩に銃を掛け、黒い韮山帽を深く被った軍団。丸に三つの柏の紋。数は三十から五十ばかり。この黒い軍団は異彩を放っていた。帽子の下に不気味に赤く光る眼。先頭に立つ者は、小さな少年。黒いレキションにマント、頭巾を深く被っている。腰には短銃を下げて、大太刀を佩き革の編上げ靴で足早に歩いている。暗い中を提灯も灯さずに、奇妙なまでに整然とした様子で走る軍団の足音だけがどっどっと辺りに響いていた。
左之助が小岩の関所の様子を見に行った時、そこに長州の旗が見えた。篝火がゆらゆらと木々の間から関所の門の前を照らしているのが見える。門番の数、ひいふうみい……。敵の影は少なくとも二十名。味方の数は十名か。怪我をしている者は、まともに戦えない。七名ぽっちか。卍隊の連中がいくら手練れでも、全員で関所突破は難しい。左之助は勝算が低いことに強行突破は出来ないと諦めかけていた。
「関所以外の抜け道に回ろう」
「それは無理です」
今は、小岩の関は奥州路への人の流入を防ぐ為に厳重に竹塀が貼られていて、崖口も防がれている。関所を通るしか道はない。
「陽が昇ると、隠れようもござらん」
諦めたような力のない声で誰かが呟いた。ここまで来て、無理とは言わせない。左之助は槍を持って立ち上がった。
「いいや、俺が出る。門前で敵を引き付けている間に、そこもと達は正面から突破しろ」
皆が頷いた。左之助は覚悟を決めた。先頭を切って林を抜けて関所の入り口に躍り出た。
「何者だ、通行証を見せろ」
門衛が「小岩関」と書かれた提灯を掲げて前に出て来た。左之助は、懐の中に手を入れて書類を出す振りだけをして前に進み出た。相手が近づいたら、左肩に載せた槍の柄で、相手の手を払いのけた瞬間に腹をめがけて思い切り突きを入れた。すぐに別の門衛が「曲者」「曲者だ」と叫ぶ声が聞こえた。群がる相手を威嚇するように、左之助は派手に槍を振り回した。
「上等だ。束になって掛かって来い」
左之助は相手に啖呵を吐いて挑発した。剣を抜いて斬りかかってくる相手を、次から次に薙倒して行く。五人、七人。まだいるか。左之助は、相手を蹴散らしながら、背後から卍隊の仲間が加勢しながら、うまく関所の門をくぐり抜けて行くのを確認した。
(二人は、行けたか……。よし)
自分も、適当なところで切り上げようと身を翻した時、突然銃砲音が響き、銃弾が自分の耳の横をかすめて飛んで行ったのを感じた。
半軒先で、仁王立ちで銃口をこっちに向けて立つ男。
長髪を高く結わえ、褐色の肌に鋭い眼光。肘を高く上げるように銀色の短銃を構えたまま、口角を上げている。
「そこまでだ。随分と威勢がいい。新選組の原田。だったな?」
聞き覚えのある声。長州の鉄砲使い。不知火か。鬼の連中がここに居るのか。左之助は、槍を構えて辺りを警戒した。既に、門衛の連中は不知火の背後に陣を組むように立っている。
「新選組の残党が、こんな所で燻ってたか」
警戒する左之助に不知火は銃を指の上でくるりとひと回りさせると、再び銃口を左之助に向けて照準を合わせるように片目を瞑っている。
「生憎だが、貴様を通す訳には行かねえ」
「なら力づくで通るだけだ」
左之助は不知火が銃の引き金を引く前に、一気に間合いを詰めて剣先を不知火の喉もとに突きつけた。一発触発。お互いに睨み合いながら牽制しあう。いつかの夜と全く同じだ。不知火は、篝火の炎が左之助の瞳にゆらゆらと焔が立つように揺れているのを見た。
「俺様がズドンと撃てば、てめえは終いだ」
「どうかな。俺の剣先がお前の喉元を突く方が早い気がするがな」
左之助は余裕の表情で相手を挑発した。じっと同じ態勢のまま睨み合った。生ぬるい空気がまとわりつく。その時だった。背後に足音が迫ってきた。大勢で駆けこむような。何かが迫る。不知火の背後の長州兵がざわざわと騒ぎ始めた。不知火は銃口を左之助に向けたまま、目線だけを動かして左之助の背後の様子を見ると、ゆっくりと顎を左之助の背後に向けるように闇の向こうを睨んだ。
「原田、一旦勝負はお預けだ」
「貴様は後で、片を付けてやる」
不知火は原田と組み合うように立っていた姿勢を解いて、一歩暗闇に向かって進んで行った。左之助は振り返って自分の背後を見た。無数の赤い眼。なんだこれは。黒い韮山帽を被った連中。羅刹か。土佐藩紋。新政府軍か。黒い軍団から一歩前に進み出た者がいた。白い小さな顔。大きな黒い瞳。
左之助は驚いた。どこかで見たような顔。篝火の光の前で。断髪した少年のような洋装の男が懐に手を入れた。こいつも銃を持っているのか。左之助は一瞬警戒したが、少年の黒い瞳は千鶴を想わせ、千鶴が断髪して立っているのではないかと思った。
(おい、千鶴……か……)
引き込まれるように左之助は、一歩一歩と少年に近づいていた。もし千鶴なら、なんでこんな所にいるんだ……。
「ここに土佐藩の通行証がある。今市の東山道総督府軍に合流する為、ただちにここを通し給うよう申し上げる」
少年はその幼い女のような顔とは違い、しっかりとした男子の声で通行証を掲げて前に進み出た。
「通す訳にはいかねえな」
不知火の声が響いた。
「南雲、貴様も貴様の羅刹隊もこの先へ通す訳にはいかねえ」
少年は、ぐっと睨みつけるような瞳を不知火に向けた。歯ぎしりをしながら、右側の頬が持ち上がり同時に右目が細まって悔しそうな表情が篝火の灯の中に浮かび上がっていた。
「陸奥の地にお前ら鬼の紛い者が通る道はどこにもないってこった」
不知火が「南雲」と呼び掛けた少年は、マントの中から大太刀を抜き出すように出すと、鯉口を切った。そして、背後に蠢く羅刹隊に「かかれ」と声を掛けた。黒い羅刹たちは奇声をあげながら襲い掛かって来た。すかさず、不知火が発砲した。
一歩前に構えながら連続して撃つ鉄砲玉は、全て羅刹の眉間を貫通し、次々に倒れて行った。中には、貫通した弾がそのまま背後に駆けて来た羅刹の顔の正面にのめり込み、二人同時に折り重なるように倒れて行く者もいた。大挙で襲い掛かる羅刹に、いつの間にか原田も槍を振るっては、脳味噌を真っ直ぐに突くようにして一人、二人と倒していった。背後では、長州兵が数名の羅刹隊に襲い掛かられ、生きたまま首元の肉を食いちぎられているのが見えた。羅刹隊の奇声と恐怖の声を上げて苦しむ長州藩兵たち。鉄砲を持ち出して応戦している者がいたが、撃たれた羅刹兵は、不気味に笑いながら再び立ち上がって襲い掛かってくる。
不知火は、鉄砲玉が無くなったのか、腰の短剣を抜いて次々と襲い掛かる羅刹の心臓を突いていた。左之助は、どんどんと前に進み不知火と背中を合わせるようにして相手に斬りかかった。
「しぶとい奴らだ」
斬っても斬っても、直ぐに立ち上がって奇声を上げて襲い掛かる土佐藩の羅刹は強靭で、全員を倒すには、長州藩兵では全く手が足りない。背後の門衛は、もう数名しか残っておらず、目の前の林の暗闇に数十名の羅刹が蠢いているのが見えた。マントを翻しながら、大太刀を振り回す南雲と呼ばれた少年は、銀色の髪を振り回し、目は深紅に輝いている。不気味に笑うその表情を見て、不知火は舌打ちをして溜息をついた。
「おい、原田。ここはお前と共闘したい」
「ここで羅刹どもを全て片付ける」
左之助は、目の前の羅刹の心臓を一突きし、足で倒れた羅刹から槍を引き抜きながら「わかった」と答えた。
「俺の合図で亥の方向に走り抜けろ。関所の建屋の前にある荷車に火薬が仕掛けてある」
「奴さんたちをそこに引き連れて、おれが鉄砲で荷車を撃つ」
「こいつら全員木っ端みじんだ」
左之助は頷いた。羅刹を引き寄せながら、左之助は建屋に向かって後退していった。一気に走り抜け、建屋の横の竹塀の隙間に身体をねじ入れた。槍をそっと抜き取るように関所の向こうに出た瞬間、発砲音がして脇腹に弾を受けた。息が止まった。振り返ると、塀の向こうで南雲が銃口をこちら側に向けて笑っているのが見えた。
痛え。撃たれたのか。
自分でも実感のないまま。痛みを感じる場所を手で抑えた。ゆっくりと前に進んだ。背後で大きな爆発音がした。前に吹き飛ばされる。不知火。無事か。
——うまく火薬に火をかけられたんだな。
奴さんたち、一溜りもねえだろうよ。
左之助は、なんとか身体を起こした。重く感じる自分の足を引きずるように前に進んだ。前に手を伸ばす。草か。指に草の感触を感じた。一生懸命掴んで前に進んだ。膝をつき、両手で草を掴んだ。ちょうどいい。木があるな。そこへ腰かけよう……。いい按排だ。ここで休んで。休んだら。北へ向かおう……。庄内へ……新八のところへ。行かねえとな……。
*****
戸隠の鬼女の秘術
八瀬の千姫の下へ式鬼が送られてきたのは、夜も更けてからのこと。
母屋の中庭に紫の光と共に黒豹が浮かびあがった。
巫女の姫さんの力を乞う
数刻の内に参上仕る
結界を通して貰いたく
お願い奉る
千姫は何事かと思った。東国で戦が起こっていることは把握していたが、不知火がこうまでも八瀬の力を頼って来るとは。余程の怪我を負ったのか。それでも不知火程の強靭な力を備えた鬼が葵を頼るなどとは。千姫はもう就寝の準備を整えていたが、従女を呼び身仕舞を整えて、葵を呼びにやった。
結界に不知火が近づいたと報せがきたのは、間もなく。千姫の屋敷に不知火は人間の男を連れてやって来た。瀕死の原田左之助を見て、千姫は驚いた。深い銃の傷に夥しい量の出血。虫の息の人間を不知火は生き返らせろと葵に懇願している。
葵の術式は、戸隠の鬼女だけが使う秘術。鬼の力で生き返らせた者は、人ではなくなる。鬼でもなく、人でもない存在。術式の命は通常の人と同じぐらいの長さで続くが。人の世で、表にでて生きることは出来ない。だがその秘術をもって、この深い傷を消し去れば、原田左之助は死なずに生きながらえるだろう。
「なんでもいい。こいつが生きていられるなら、そうしてくれ」
不知火は葵と千姫の足元にひれ伏して、床に頭をつけて頼んでいる。「頼む。この通りだ」必死に頭を下げる不知火に、葵は「わかりました。不知火様」と返事をした。
直ちに葵は術式を執り行った。丸二日の間。左之助は生死を彷徨った。一命をとりとめたが、暫くは深い眠りにつく必要があると三日目の朝に葵は、祭壇の間から出て来て術式が成功したと皆に伝えた。
不知火は、安堵した様子で深々と頭を下げた。数日は眠ったままと聞かされた不知火は、祭壇の間で静かに眠り続けている左之助を見舞った。
「こいつは、新選組の仲間が待っている庄内に向かうと言っていた」
「戦える身体になったら、送り出してやって欲しい」
千姫に頼む不知火に、千姫は首を横に振った。
「人間の戦に、この者が加担することは出来ません」
「術式の命は、人とは関われないわ。不知火。よくて」
朝陽が射す客間で、背筋を伸ばした千姫が静かに不知火を諭した。それまで胡坐を掻いて話を聴いていた不知火は、背筋を伸ばして正座するともう一度丁寧に頭を床について懇願した。
「頼む。こいつは武士だ。仲間と一緒に闘うために鎗を振るっている」
「千姫、その力で……頼む」
「お頼み申す」
千姫は静かに首を横に振り続けた。もう、彼の命は鬼の理の中にある。千姫の力をしても、それをその範疇から出すことは出来ないと言って、千姫は不知火に謝った。不知火は首をうなだれたまま意気消沈としてしまった。
「不知火、あなたが南雲薫から取り戻した大通連ですが。このまま八瀬でお預かりします」
「本来なら東国に。雪村の郷に戻すのが道理でしょう。ですが東国が戦火に見舞われる中、持ち主が定まらぬ太刀を東国に持ち込むのは危険です」
「風間は、大通連を持ち寄り鬼塚の結界を解けと言うでしょう」
「ですが、それはなりません」
「たとえ風間でも、いま雪村の郷に入ることはなりません」
千姫は頑なだった。鬼塚の結界に風間が近づくことで、雪村の郷に新政府軍が押し寄せる恐れがあると言う。
「一度、人の手にかかり荒らされた郷を再び人間の手に渡してはなりません」
「雪村の守り太刀は、仙台田村家の末裔でもある私がお預かりします。八瀬の結界の内に大切に保管しておきます」
——いずれ、東国の主にお返しする時が来るでしょう。
「それと、南雲薫の遺品に関しては。そなたが責任を持って東国に持ち寄ってくれれば」
「分かった。風間が雪村鋼道の亡骸を東国で葬ったと聞いている。風間に会って南雲の弔いもしておく」
「千鶴ちゃんに代わり、深くお礼をいいます、不知火。風間にもそのお礼を伝えて貰えれば。感謝していますと」
千姫は丁寧に両手を床について深々と頭を下げた。
「この戦が終わって。いつか千鶴ちゃんもご両親や兄弟の弔いが出来るようになればいいのだけれど……」
千姫は、中庭に目をやって遠い陸奥の地で戦火の最中にいる千鶴の無事を祈った。そして、一旦、東国の戦の様子を見に行くという不知火に、くれぐれも風間千景が暴走しないように、東国の鬼塚の結界を荒らさないようにと何度も念を押した。
不知火は、また原田左之助の様子を見に来ると言って、その日の内に東国へ向けて八瀬の里を後にした。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その16へ
(2020/05/02)