池田長兵衛

池田長兵衛

濁りなき心に  その2

 それから十日経った昼近く、土方の伝令のため、斎藤は再び伏見へ独りで出向き、大黒寺で山崎烝と落ち合った。

 山崎から雪村綱道の出入りは未だ不明だが、寺田屋が薩摩や土佐藩士専用の旅籠となり、尊皇攘夷を唱える浪士の会合場所と情報を得た。大黒寺近くの長州屋敷が静かな一方、四条付近に長州藩士が潜伏している事も判った。土方の指示で山崎は四条に偵察に行く事になった。

 大黒寺を後に斎藤は研師のところに向かった。長屋の玄関をくぐると真五郎が、ちょうど斎藤の刀を仕上げていた。真五郎は斎藤が来たことに気付かずに一心に刀身を拭っている。

 最後の拭いか。

 あれほどの研磨を十日で仕上げる真五郎の腕と根の詰めように斎藤は毎回驚く。斎藤は邪魔をせぬよう、静かに裏庭に出た。社は外の雑踏とは別世界の静寂。

 祠の前に人の背中がみえた。斎藤は自然と気配を消して影から様子を見る。祠の前の石畳に刀を差した男が真っ直ぐ瞑目して立っていた。ゆっくり目を開くと腰の刀の下げ緒を解き、鞘に引っ掻ける。静かな動きの中に精神統一する気迫がみなぎる。一拍の間から構え、一気に抜刀すると逆袈裟に宙を斬った。そのまま後ろを振り返り鋭く突き、摺り足で滲み寄ると高みから振り下ろし流れるように鞘に剣を納めた。

 見事な残心。隙のない太刀筋に斎藤は舌を巻いた。

 男は以前見かけたこの工房の客人であった。十日前は顔に傷を負い、着物は破れ暴漢と激しく打ち合った直後のような怪我人であったが、今は顔の傷もすっかり癒えて、着物もこざっぱりとした藍の長着に兵児帯、白い足袋に草履。髪は後ろに束ねている。細身だが精悍な体躯は、斎藤のそれに似ており、斎藤より上背のある分、対峙すると不利かも知れぬ。だが、男は斎藤が是非手合わせをしたいと思う太刀筋だった。

 斎藤の気配に気付くと、男は一歩下がり一礼した。

「すまぬ、稽古の邪魔をするつもりはなかった。祠に詣りに来ただけだ」

 斎藤が前に進むと、男は黙って石畳から下りて道を開け。そっと片膝をついて一礼した。祠に手を合わせ終わると斎藤は男の前に立った。

「そこもと、顔を上げられよ。其れがしはここに預けた刀を取りに来た者。先刻はお見事な居合いを拝見した。無外流とお見受けしたが」

「我が主が手本でございます」、男は顔を挙げぬまま答える。男の声は低くよく響く。礼を心得たその振る舞いに斎藤は好感を持った。

「失礼つかまつった。某れがし、会津藩お預り新撰組の斎藤一と申す。そこもとの名をお聞かせ願う」

 斎藤は一歩下がって畏まった。

「某れがしは池田長兵衛と申す」

 そう言ったきり、男は斎藤の足元辺りを見つめている。

「何処の家人で有らせられるか、お聞かせ願おう」

(脱藩浪人か)

 斎藤は警戒しながら訊ねる。

「某れがしは主と伴に会津藩お預りの身、ここへは事情があり数日逗留して居ります」

 長兵衛は顔をあげて斎藤を見つめ返した。眼光は鋭いが、表情は先刻の緊張とは程遠い。恐らく伏見御堂の駐屯所で剣術指南をしている藩士やも知れぬ。

「そうであられたか。では機会があれば手合わせも叶うやも知れぬな」

 初めて言葉を交わす相手であるが、旧知の間柄の気がするのは何故か。胸の内では今すぐ一本交えたいと心が逸ったが、斎藤は真五郎に預けた国重を思い出し、長兵衛に挨拶を済ませると社をあとに工房へ向かった。

***

 工房へ戻ると、真五郎は斎藤に気づき、一旦手を止めて立ち上がった。あと半刻程で仕上がるという。真五郎は土間の反対側の奥から、盆に載った茶碗を斎藤の前に置くと。鉄瓶に入った茶を入れた。工房では湯を沸かせない故、冷えた白湯のようなものしか出せず申し訳ないと苦笑いする。
 斎藤は構わぬ様子で茶碗のお茶を飲んだ。こうして真五郎の刀を扱う手順を眺めるのが、斎藤の楽しみでもあった。
 真五郎は一心に横手を切っている。宝剣の類いを研磨してきたからか、真五郎の仕上げは刀身が黒い鏡のようになる。地沸は漆黒の闇に霞と千切れた真綿が重なりあうような。斎藤が愛刀を月明かりの下で抜くと蒼白く光ると総司は羨ましがるが、斎藤は実兄から譲り受けたこの鬼神丸国重を大層気に入っていた。

 人を斬る。単純にして明解な目的をそのまま表した刀というものが斎藤は好きだった。新選組に身を置く自分も、京を護るという目的、土方や近藤のため、会津藩に微衷を尽くし侍う、その為に己が刀身となって働ければと願って生きてきたそこには一寸の迷いもない。

 真五郎は斎藤が命の恩人ゆえ、人斬りの刀でも研いでいるのか。

 あの池田長兵衛の刀も研いでいるのやも知れぬ。此処で何度も研磨にかけているが、刀身が減る様子もないのが不思議だ。他の研ぎとは違い、真五郎に預けると国重は冴える。斎藤は独りつらつらと真五郎の研ぎについて考え耽った。

「斎藤様、大変お待たせ致しました」

 真五郎が神棚から国重を卸す。研の終わりに真五郎は工房の神棚に一旦刀も奉納してから祝詞で清める。宮司故であるが、斎藤はこの儀式も気に入っていた。斎藤自身もが浄められるように無心な状態になる。
 真五郎は、真っ白な絹の布地で国重を包み斎藤に差し出す。薄暗い工房の中に絹の光沢が輝きながら浮かぶ。その中に佇む愛刀。斎藤が刀を手に取り柄を握ると、刀身が振動するように共鳴した。斎藤はこの瞬間が好きだ。抜刀する時にも感じる鬼神丸独特の一体感。
 いつか千鶴も自分の小太刀の柄を握ると安心すると言っていた。小太刀に守られていると。護り刀か。斎藤は、屯所の中庭で千鶴の小太刀の稽古をした時を思い出した。

 あの小太刀も研ぎに出さねば。

 国重を握ったままぼんやりする斎藤を真五郎は訝しげに眺めていた。

「どうですやろ?」

 斎藤は、研師の声で我に帰ると、鞘から刀身を抜いて確かめた。地鉄に外からの僅かな光が当たり、板目の鍛えに沸が微塵に詰んでいる。この深みのある闇のような肌に互の目丁子が交じり刃紋の働きは冴え冴えとしている。以前より切っ先の返しが深くなっているのは気のせいか。

「返しが深いな」
「へえ、刃引で元の地が現れましてな。今回は石上の石を使いました」
「いそのかみ、それは土地の名か?」
「へえ、私の国のお社でございます。剣の神さんでして。宮司の私達も年に一度しか御本地の石には近寄れません」
「その石を使って磨くのか?」
「御本地には触れません。その周りの石を削って刃艶にします。今回は打ち粉も石上さんで作りました」

 真五郎は嬉しそうに答える。

「この刀を持って何年にもなるが、研ぎの度に違って見える」

 斎藤はもう一度じっくりと刀身を眺めると、ゆっくりと鞘に納めた。立ち上がって腰に差す。足元に置いていた替えの打ち刀を刀袋に仕舞うと、上がり口を下りた。懐から金子の入った袋を取り出し、主人に渡した。
「有難うございます。斎藤さま、此方を」
 真五郎は斎藤に麻袋に入った小さな木箱を渡す。
「石上さんの打ち粉です。お手入れにどうぞお使い下さい」
「ありがたく頂く。礼を言う」
「へえ、またのお越しを」

 斎藤は玄関を出るときに主人に向かって、

「さっき、社の境内でお客人に会った。会津藩の者のようだ」
「へえ、客人でございますか」
「ああ、池田殿だ」

 真五郎は合点がいった風に、

「池田様にお会いになられましたか。それはそれは」

 そう言って斎藤の腰の国重を眺めた。

「またお見えになられるでしょう」

 真五郎は笑顔でそう言うと、玄関の外に出て斎藤を見送った。




*****

 斎藤は研師の長屋から寺田屋を回って四条へ向かった。

 途中長州藩邸付近も偵察に立ち寄った。春も過ぎ日も長くなったにもかかわらず、市中は昼間でも人通りが少ない。不逞浪士が行き交い、商いが出ていても客が居らず閑散としている通りを歩きながら、斎藤は不穏な空気を感じていた。島田が潜伏している四条でも浪人の出入りが激しい。建屋の中から外の様子を伺っている輩もいる。斎藤は警戒を決して解かぬよう、足早に四条小橋に向かった。
 島田が播磨屋の前でしゃがみこみ、草履の紐を結んでいる。同じ軒下に佇んで、亥の刻に山崎が合流することを伝えた。
 そのまま壬生村に戻った斎藤は、屯所の庭で独り空を眺める千鶴を見つけた。手には物干しから取り入れたばかりの隊服を持っている。斎藤に気づくと、「お帰りなさい」と笑顔で駆け寄って来る。
「ただいま戻った」
 斎藤は応えると、懐から紙の包みを取り出す。紙の中には和紙で出来た小さな茶巾が入っていた。桃色地に手鞠の模様で赤い組み紐が結んである。千鶴の表情が明るくなった。茶巾を掌に乗せて下から横から上から覗きこんで喜んでいる。千鶴は茶巾を耳の傍で振ってみた。中からコロコロと小さな音がした。
「金平糖だ」
 斎藤は優しく微笑むと、刀袋を持ったまま草履を脱いでくれ縁を上がって行った。
「有り難うございます」
 千鶴は頭を下げて丁寧に御礼を言った。
「今、お茶をお持ちします」
「副長の部屋にいる」
 振り向き様そう言って、斎藤は廊下の角を曲がった。

 刀を部屋に置いてから、土方の部屋に向かうと、廊下で沖田が潜むようにしゃがんでいる。斎藤は気配を消して近づくと、総司は土方の部屋の障子に小刀で小さな穴を開けていた。片目をつむり、穿った穴に長い竹の棒を差しこむ。
 斎藤に気付くと、沖田は声を立てぬように目配せする。斎藤は呆れた表情でそのまま近づくと、「副長」と部屋の中に声をかけた。

「斎藤か、入れ」

 中から土方の声がした。総司は息を殺したまま障子の陰に隠れた。斎藤が障子を開けて部屋にはいると、土方は廊下に向かって怒鳴った。
「おい、総司。いい加減にしろ」
「なーんだ。あともう一寸だったのに」
 沖田は竹の棒をくるくる回しながら、土方の部屋に入って来ると胡座をかいた。
「何がもうちょっとだ。そんなもの振り回してねえで、部屋で寝ていろ」
 土方は総司を睨み付けた。

 はいはい、と返事しながら沖田は立ち上がり際に竹棒を伸ばして、文机の上の帳面を引っ掛けると、万事得たりと懐にしまって走りだす。
「おい、それは」と土方も飛び上がり、廊下を追いかけて行く。
 斎藤はやれやれという顔で開け放たれた障子の向こうを見ていた。

「失礼します。お茶をお持ちしました」

 盆を抱えた千鶴が部屋に入って来た。畳に盆を置くと、お茶を斎藤の前に差し出す。盆の上には桜の懐紙に載せた金平糖。

「土方さんのお茶は此方に置きますね」、そう言って文机にそっとお茶を置く。

 斎藤は茶を一服する。美味い。半日歩き廻った後には格別に感じた。千鶴は座って暫く斎藤を眺めた後、部屋を下がろうとした。

「雪村、今日は寺田屋に立ち寄った。あれから綱道さんらしき者は現れていないが、薩摩の出入りがあるのは確かだ」
 斎藤は静かに話す。千鶴の瞳は翳ったように見えた。
「有難うございます」
 斎藤に頭を下げて俯いたまま、膝の上の小さな手を握りしめている。
「監察方の山崎達も薩摩と綱道さんの繋がりを探っている。動きがあるのは確かだそうだ」

 暫くの沈黙のあと。

「父様は、無事なのでしょうか」

 小さな声で問いかける千鶴の思い詰めた表情を見ると、斎藤は返す言葉に詰まった。そこに土方が戻ってきた。

 まったく、あいつは、と呟きながら、取り返した帳面を文机に置いた。帳面の表紙に土方の筆で「豊玉発句集」と書いてあるのが見えた。

「茶の用意か。ありがとよ」

 千鶴に礼をいうと、土方は溜め息をついた後に一服した。それから振り返ると斎藤に向かって胡座をかいた。千鶴は、黙っている斎藤から視線を土方に移すと、一礼してから盆を下げて静かに部屋を出ていった。障子に消える千鶴の影を目で追った斎藤は、土方に向き直ると報告を始めた。

「副長、山崎に島田と合流するよう申し伝えました」
「ご苦労。島田だけでは、四条辺りはもう手が回らねえ。旅籠に山崎を客を装って潜伏させる。これまで以上に巡察も充分やってくれ」
「承知。今日は寺田屋周辺も行ってきましたが、雪村綱道の出入りは不明でした。長州、土佐、肥後など薩摩以外からも浪士が頻繁に上洛していると関所守から情報が。多くは下京の旅籠に逗留していると」

「夜の巡察は二番組と五番組だったな。夕餉の後に幹部に集まるよう伝えてくれ」
「それから明日の昼の巡察は総司の組と回ってくれ。総司は変な咳をしやがるから、今日は代わりに平助に一番組を持たせた。でもあいつは退屈すると、禄な事がねえ」

 土方はそう言うと、文机の金平糖を懐紙で包んだ。

「これは総司にやってくれ。あいつの好物だ。明日の昼に巡察に行かせる。それまでおとなしく横になっていろと言っといてくれ」
「御意」

 斎藤は土方の部屋を後にして沖田の部屋に向かった。




***

「総司、開けるぞ」

 障子を開けると、総司は部屋の真ん中で竹棒をぶんぶん振り回しながら、仰向けになっている。拡げた蒲団の上でいつもの不貞腐れ顔だ。
「入るぞ」
 斎藤が障子を後ろ手に閉めると、寝返りをうった総司が、いきなり竹棒で突いてくる。左に飛び退いた斎藤は足許にあった枕で、一瞬で二突き目をかわす。
「止めぬか」
 斎藤は、続けざまに打ってくる竹棒を払いかわす。総司の目が爛々と輝き出す。口許は不敵な笑みで、膝を開いて躙り寄り斎藤を追い込む。

 こういう事で興に乗ると、総司は厄介だ。

 斎藤は、一瞬の間で総司の脇腹をすり抜け、右の壁の刀置きに手を伸ばす。黒い影が斎藤の腕を掠めたと思ったら、右目のあと一寸というところで突きを止めた打刀の鞘の先が見えた。

「腕が長い分、僕の勝ち」

 逆手に打刀の鞘の真ん中を握って斎藤の右目を狙ったまま満足そうに笑う。

 斎藤は、鞘の先から目線を総司の顔に移すと。

「どうかな。俺は抜身だ」

 と、無表情で答えた。

 総司の脇腹には小刀が突き付けられていた。斎藤の利き腕で握られた小さな刃は鈍い光を放っている。

「狡いよ、はじめくん。いつの間にそんなの獲ったの?」
「枕の側に放ってあった」

 総司は興醒めした表情で刀を壁に掛けると、咳をしながら蒲団に寝そべった。

「土方さんの言伝だ。明日の昼の巡察は一番組と三番組で四条に行く。それまで横になって休め。これは土方さんからだ」

 金平糖の包みを蒲団の上に置く。総司は脇腹を下に肘枕でまた竹棒をとると、紙の包みを突つく。

「土方さんの付け文?」
「あんたの好物だ」

 総司は包みを開けて、「金平糖。土方さんが?今晩雪でも降るんじゃない」皮肉を言って笑った。
「今晩はよく休め。夕餉も部屋に運ばせよう」
 斎藤は立ちあがった。
「明日はあの子も来るの?」
 俯せながら金平糖を摘む。

「ああ、三番組で護衛する」斎藤は静かに答えた。
「一刻も早く綱道さんを探さねばならん。前川邸のかの者達の抑えが効かなくなる前にな」

 総司は金平糖をひとつひとつ頬張っている。

「綱道さんが見つかったら、あの子出て行くんだよね」

 ぼんやりと畳の先を見つめたまま呟く総司を、振り返りながらじっと見つめた後

「ああ、」とだけ答えて斎藤は部屋を出て行った。




 つづく




→次話 濁りなき心に その3

(2017.01.25)

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