池田屋
濁りなき心に その4
四国屋前で待ち続けて、半時。
「土肥、長州、ひーふーみー……」
土方が壁にもたれて指で数えている。
「京都守護職に助っ人を頼んだが、この辺りだけでも藩屋敷が四つはある。そっちに人が廻ってるとして……俺らだけでここを押さえないと」
「守護職のお役人は何を考えてんだか知れねえが、俺らが手が足りねえってわかってて、見廻組も寄越さねえ。正直、ちっとも当てにならねえ」
原田左之助は槍を肩から下ろしながら、吐き捨てるようにそう言うと。
「ま、俺らでこんだけ囲めば、おかしな事しようって奴等は全員仕留められる。だよな、 斎藤」
斎藤は黙って頷いた。
「それにしても、凄い風だ。呼び笛も聞こえやしねえ。こんな夜に火をつけられたら、御所どころか洛中全部燃えちまう」
「俺は江戸地震の火事の時、小伝馬町に居た。風が吹くと火が回るのはあっという間だ」
土方はそう言うと、辺りを見渡した。四国屋の灯りは変わらずにぼんやりと明るい一方、通りの半間先は闇。風が吹く以外は物音もせず、辺りに人通りはない。
「奴等が動くのが真夜中だとして、あと数刻で討ち入る」
土方が静かにそう告げると、斎藤は黙ったまま頷いた。建屋の中で撃ち合いとなると、斎藤と三番組が先に出るつもりでいた。その後ろに土方。原田は玄関先で建屋から逃げる者を槍で仕留める。暗黙の内に、それぞれの役割を考え、いよいよ攻め込もうとしていた矢先。道の向こうから行灯が動くのが見えた。攘夷志士か。斎藤はじっと目を凝らした。月明かりが殆ど届かない闇の向こうで、小さな灯りがどんどん大きくなる。
急ぎ走る様子にただならぬ気配を感じ、斎藤は鯉口を切りながら道の端で構えた。原田が反対側の道の端に立って様子を伺う。風の音に混じって人が走る足音が近づく。すると原田が腕を拡げて、走り寄る人影を留めた。
「なんだ、千鶴じゃねえか」
驚いた原田は、ふらついている人影に近づくと、その手に持っている提灯を取って、顔を照らした。斎藤と土方が駆け寄ると、千鶴は両膝に手をついて肩で息をしている。
「伝令。会合は池田屋」
と千鶴は息も絶え絶えの様子。
「なんで千鶴、おまえがここに。屯所を逃げ出して来たのか」
原田が驚きながら尋ねた。
「こいつが逃げ出す訳がねえ。伝令は山南さんからか?」
土方が訊くと千鶴は大きく息をついて頷いた。
「守護職はどうなんだ。池田屋に向かってんのか?」
千鶴は大きく首を振った。
「途中で……土佐藩士に……停められて、山崎さんが」
息を切らし千鶴は答える。斎藤は驚きながら千鶴を見た。
(土佐藩士と斬り合いになったのか)
斎藤は、枡屋での一件を思い出した。
「よし、池田屋に向かう。原田、裏の連中を呼んでこい。伝令ご苦労。お前は屯所へ戻れ」
土方は千鶴にそう言うと、提灯をもたせかけた。その瞬間、「副長」と斎藤が遮った。
「雪村を独りで返すのは危険至極」
土方は逡巡したあとに千鶴に向かって言い放った。
「それなら、千鶴。斎藤に付け。斎藤、こいつも池田屋に向かう」
そう言うと、腕組みをして皆が集まるのを待った。
***
井上率いる隊士達が集まると、斎藤たちは池田屋に走った。四国屋からおよそ一町先。
池田屋の前には、既に浪士が数人倒れているのが見えた。土方は、隊を二つに分けた。原田と井上は店の裏側に廻らせ、斎藤と三番組隊士は正面玄関から突入するよう指示を出した。
それから土方は、池田屋から半間手前の三条大橋近くまで戻ると、そこで遅れて伝令に来た山崎と合流した。山崎から守護職や桑名藩の役人が出発するのは亥の刻過ぎと報告を受けた。
「思った通りだ。後から来て手柄を横取りされちゃあ、こっちは堪ったもんじゃねえ。おい、山崎、此処で京都守護職を留め置くぞ。一歩もこっから先に通しちゃならねえ」
土方は不敵に笑うと、腕組みをして真っ直ぐ前を見た。
「なあに、近藤さんが攘夷の奴等をみんな仕留めるだろうよ。池田屋から逃げて来る奴は此処で斬り捨てろ」
こうして土方が山崎と外を守る間、先に討ち入った近藤隊を追って、斎藤は千鶴を死番の隊士と前後に挟む様にして池田屋の玄関に向った。
「雪村、決して前には出るな」
斎藤は後ろの千鶴に静かに念を押すと、隊士に目配せした。
「参る」
斎藤の掛け声で、どっと三番組は駆け込んで行った。
*****
玄関の上り口は暗く、近藤が浪士と斬り合っていた。近藤は斎藤に気がつくと、
「着いたか。心強い」そう言って笑顔になった。
斎藤は抜刀して土足のまま階段を駆け上がる。階下で永倉が、
「おい、斎藤。今晩は俺が先手取ったぜ」と自慢しながら浪士と斬り合う。その手から血が流れているのが見えて、千鶴は驚いた。
「今回は譲ろう」
静かに斎藤は答えながら、階上を見上げている。
「斎藤、二階の総司を頼む」近藤の叫ぶ声が聞こえた。
階段の上から、浪士が斬りつけて来るのを斎藤は一撃で薙ぎ払う。千鶴は小太刀に手を掛けながら身を竦めた。 階上から次々に斬られた浪士が傾れ落ちて来る。千鶴は階段を登りながら、抜刀した。
階段の手すりと倒れた浪士の間をすり抜けた瞬間、階上から刀を振り上げた浪士が斬りつけて来た。千鶴は肘を上げて小太刀で受けようとした、その瞬間斎藤は階段を駆け上がり袈裟懸けに浪士を斬りつけた。
「雪村、俺の前に出てはならぬ」
斎藤は厳しい口調でそう言って、千鶴の前に立った。身を竦めながら、頷く千鶴に、
「あんたに死なれては、寝覚めがわるいからな」
一言呟くと、斎藤は刀を振るいながら、前に進んだ。
暗い廊下の向こうに、刀を構えて待つ浪士が何人も居るのが見えた。斎藤はこれ以上奥に千鶴を連れて行くのは危険だと察した。
「雪村、一旦このまま下がる。味方に怪我人が出ている」
斎藤は後退りしながら、死番の隊士に目配せして階下に千鶴を誘導する。階下はほぼ制圧が終わっている様子だった。
「雪村、あんたは怪我人の手当てが出来るか?」
「はい、止血したり傷の手当てぐらいなら」
斎藤は微笑した。「十分だ、階下に新八がいる。怪我人を頼む」
そう言って、斎藤は千鶴が無事に階段を駆け下りて、永倉と玄関から出るのを確かめると死番の隊士とともに二階へ駆け上がった。
*****
池田屋二階
暗がりに目が慣れると、階上の廊下沿いの両部屋に潜む敵がどの手で出て来るのか、手に取るように判る。
斎藤は廊下をゆっくりと摺り足で進む。襖の陰から、突きで飛び出す浪士を躱し、平打ちにする。近藤は、二階に総司が居ると言っていたが、あの奥座敷か。斬りかかる浪士を次々に薙ぎ倒しながら、斎藤は廊下を突き進む。斎藤の背後では三番組が浪士と斬り合う。
「伐つのはやめて、捕らえろ!」近藤の叫ぶ声が聞こえる。
奥座敷の右側の襖から聞き慣れぬ声がした。
「壬生狼と宣う割にこの様か、その身体では盾にもなれまいに」
「何だと?お前ら全員討ち取ってやる」平助の声が聞こえた。
その瞬間、衝撃音とともに壁が揺れた。斎藤は刀を握り直すと、左脚で襖を開け放った。
奥座敷の窓際に男が立って居る。逆光で顔は見えぬが、髪は金色で浪士らしからぬ紗の派手な柄羽織に右手に太刀を持っていた。目の前の畳に膝をついて、息も絶え絶えな総司の姿が見えた。
「僕は、まだ戦える……ぼくは役立たずじゃない……」
総司は打刀を構えようとするが動けない。斎藤は、総司を庇うように前に進んだ。
「フッ、狗どもが。よほど群れるのが好きと見える」嘲笑うようなその声の主は、全く戦う様子もみせず、斎藤と総司を見下す。
左奥の床の間の前には大きな背中が見えた。壁からは砂埃が舞い立っている。その向こうに倒れているのは平助か。斎藤は刀を構えて窓ににじり寄った。
「我々は、薩摩藩の命で今夜の会合を偵察に来たまで。貴方新選組と刀を交えるつもりはございません。風間、それ以上の挑発は控えられますよう」
平助の前で背中を向けていた大きな男は窓辺の男にそういうと、斎藤に向き直り一礼する。
風間と呼ばれた男は、ゆっくりと刀を鞘に収めると、欄干に手を掛け跨ぐと窓の向こうに消えて行った。その後をもう一人の男が続いて窓から姿を消した。斎藤が窓に走り寄ると、建屋の下にその姿は無く、代わりに左之助が大奮闘する声が聞こえた。
背後で咳込む総司が、ドサっという音を立てて畳に倒れた。抱き起こすと、着物の前が血だらけだった。
「総司!」
斎藤は怪我の具合を確かめる、斬られていない、血が滲む口元が見えた。舌を噛んだか。斎藤は窓の明かりで総司の生死を確かめた。
息はしている。斎藤は総司をそっと寝かすと、傍らの打刀を取って鞘に収めた。床の間の壁に背中から打ちつけられたように倒れている平助は額が割れて、顔じゅう血だらけになっていた。
「痛え、何にもみえねえ」
と、平助の呻く声が聞こえた。斎藤は平助に意識がある事に安堵すると、助け起こし総司の隣に運んで寝かせた。敵が逃げた事と池田屋の制圧がほぼ終わったと伝え、救護の者を呼ぶまで総司と此処で動かず待つよう伝えた。
池田屋の残党は全て捕らえられた。
斎藤は池田屋の玄関に戻り、手隙の隊士に二階の総司と平助を運び、手当てをさせるよう命じた。玄関の外は、怪我をした隊士が集められていた、その中で千鶴が一心不乱に救護に当たっている。桶の水で傷を洗い布を当て、平隊士と一緒に傷の酷い者は戸板を剥がした上に寝かせ、直ぐに運び出せるようにしていた。
何処で見つけたのか、布切れのようなものを器用に裂いて包帯にしている。添え木をつけて脚を縛られている者もいた。まもなく、近藤の合図で隊士全員が池田屋の玄関に集まった。
闇討ちの恐れがある為、明け方まで会津藩邸で待機し怪我の酷い者は屯所に先に運ぶよう土方から指示があった。斎藤は三番組の隊士に負傷者が居ない事を確かめると、屯所への怪我人運搬と会津屋敷に向かう班とに分けた。怪我人と一緒に屯所に戻るよう伝えると、千鶴はキョトンとした顔をした。
「斎藤さんは会津屋敷に向かわれますか?」
斎藤は頷いた。
「斎藤さんから離れないようにと言われています。私も連れて言ってください」
今度は斎藤が驚いた。「一緒に行くというのか」
「はい、屯所には山南さんがいらっしゃいます。山崎さんも蘭方医を呼んで戻られると」
斎藤は山南が瀕死の隊士をどの様に扱うか予想した。その場に千鶴がいない方が良かろう。逡巡する斎藤をじっと見つめる視線に気付くと、斎藤は、はっきりと応えた。
「それならば、会津屋敷に向かう。三番組で護衛する」
千鶴は頷くと、運ばれて来た総司の手当てを再び始めた。腹部に強打の痕。千鶴は手を当てて骨の具合を確かめた。胸の骨は折れていない。内腑が原因で吐血した様子を見て、腹か肺の袋が破れてる可能性があると思った。総司の首を横にしたまま、静かに運ぶ様に救護班の隊士に念を押した。
平助の傷は心配なく、屯所で糸で縫う必要があると本人に伝えた。千鶴は怪我の酷い者を順番に並べてある事を救護班に伝えると三番組の隊について池田屋を後にした。
近藤達が最初に突入してから、討ち入りはおおよそ半刻で終わった。闘死者十名、捕縛者四名、新選組にも死傷者が出た。五番組伍長の奥沢、二番組の新田は裏庭で攘夷志士との死闘の末に果てた。明け方までに、池田屋周辺に潜伏する攘夷派の浪士二十名が更に会津藩、桑名藩により捕縛された。
会津藩邸の庭で待機していた新選組は、そのまま留め置かれた。待機している間、斎藤は土方と近藤に池田屋の奥座敷薩摩藩の密偵と思われる輩が潜んでいた事を報告した。総司と平助で対峙していた所を取り逃がしたと。
「大方、薩摩藩の尊王派の連中だろう」
「天子様に楯突く奴等を探ってるとすりゃあ、長州藩の敵ってところか」
「何れにせよ、密偵を取り逃がしたのは残念だ。薩摩の情報を訊く手立てが欲しい」
斎藤は池田屋の窓から忽然と姿を消した二人を思い返していた。総司と平助が二人で掛かっても、制圧できない程の手練れ。
***
近藤と土方が池田屋での経緯を松平容保公に直接報告し終わり、壬生村への帰路についた頃、陽が高くなり始めた。近藤を先頭に新選組の旗を掲げて街を行くと、沿道で多くの人集りが出来ていた。
池田屋での騒動は洛中で知れ渡り、新選組が名を上げた初めての出来事となった。隊の殿は何時もの如く、斎藤と死番の隊士。千鶴は、会津屋敷の庭で明け方に寝入り始めた。起こさぬよう、そのまま斎藤が抱えて屯所に向った。
「ゆうべの伝令から、余程気が張ってたんだろうよ」
スヤスヤと眠る千鶴の顔を見て、左之助が笑っている。
「ああ」
と、斎藤は微笑した。千鶴はくったりと斎藤の肩に頰を寄せている。
(小さくて、柔らかいものだな)
安心しきった様に眠るその顔を見ると、斎藤は千鶴の無事を心から嬉しく思った。
つづく
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