ブログ【小説更新情報】六十九日の終わり
皆さん、こんばんは。
お元気にお過ごしでしょうか。
戊辰一八六八シリーズ最新話「六十九日の終わり」をアップしました。
第五次白河奪還作戦。新選組は羽鳥街道ふから白河城の西側(立石山)を攻めます。
白河口の闘いは、三か月に渡る長丁場でした。慶応四年五月一日に白河城を新政府軍に占拠された後、再び城を奪い返そうと何度も攻めます。大きな闘いは第七次戦線まで。その内、新選組が最後に参加をしたのは、七月一日の第五次白河奪還作戦までです。
百日戦争と言われる白河戦線ですが、厳密に日数を数えると、新選組が戦ったのは六十九日間でした。斎藤さんが白河の新政府軍を攻撃したのは、七月一日(新暦八月十八日)が最後です。
今回も立石山で敵陣を崩しますが、敵の援軍に阻まれて余儀なく退却。敵の大将は、「薩州第四番隊」隊長の永井盛弘。後に明治新政府陸軍少佐となって、藤田五郎となった斎藤さんと再会します。因縁の相手。(明治八年になってから斎藤さんは、警視局から得た永井少佐の身辺資料を見て、白河戦線で斬り結んだ相手だと確信します)
今回描いた戦場の立石山は現在もJR新白河駅の近くにある小山です。新幹線の駅から市街地の「白河駅」方面にタクシーで向かう時に立ち寄れます。今は、水道局施設があって山の中には立ち入り禁止。堀川(ほっかわ)は阿武隈川の支流で、その向こうに丘陵が広がりますが。今回描いた天神山と雷神山は、地名では残っていなくて、古天神は宅地開発で切り崩されて丘陵も残っていません。雷神山は、現在大字熊倉周辺の丘陵。今はゴルフコースになっています。ここの中山で、新選組は上総飯野藩兵と一緒に土佐藩兵の陣を攻めたと記録されています。
上総飯野藩は、現在の千葉県にあった領地で、保科家が大名として十六世紀に立藩。保科家のルーツは信濃の土豪で、関ケ原合戦後に徳川幕府から信濃国高遠藩を拝領されて保科正光が、二代将軍秀忠の庶子を養子に貰ったのが「保科正之」、のちに会津藩の藩祖となる偉いお殿様です。
保科正之から三代後に松平姓を名乗るようになったのですが、幕末の「容保」は九代目。そして、上総飯野藩の九代目藩主保科正丕の娘で親戚関係である照が8代目会津藩主松平容敬(容保の父)の養女となりました。照は一旦嫁いだ後離縁して、会津藩松平家に戻って、その頃にちょうど戊辰戦争が始まりました。容保の正室が亡くなって不在だったので、照が奥の最高位となっていました。会津戦争後は、照は妙国寺での謹慎後、江戸へ移ります。その後実家の上総飯野藩へ戻りました。飯野藩は会津藩とは藩主が親戚関係だったので、白河口にも協力派兵していたのでしょう。斎藤さんが、飯野藩の旗を見て、直ぐに刀を引っ込めたのも飯野藩と会津藩の繋がりが濃いことを知っていたからだと思われます。
斎藤さんは新選組隊士を率いて千鶴ちゃんと合流する為に羽鳥へ向かっています。新政府軍は白河以北で残敵掃討を本格的に開始します。西軍は容赦ないですね。殺生な事この上ない。
斎藤さんが千鶴ちゃんに無事に再会できることを願いながら、続きを書いています。
話が変わりますが、会津の鶴ヶ城が見学開城を再開したとテレビのニュースで知りました。入城者を二百人に調整しながらの見学になるようですね。早く他県からも訪れることが可能になりますように。
読んで下さってありがとうございます。
それではまた
ちよろず