鬼の思惑

鬼の思惑

濁りなき心に その14

慶応元年四月

 月が改まると、元号が元治から慶応に変わった。

 薩摩の国、西国の鬼の里に不知火の式鬼が顕れた。風間邸の中庭に暗闇に蒼く浮かぶ眼光。黒豹がゆっくりと語り出す。風間が開け放った障子の向こうで脇息に凭れて静かにそれを聴いている。

 無事に高杉と四国に着いた
 船の手配の礼を
 必ず貴殿の恩義に報いる
 土佐藩邸で南雲家の頭領にあった
 雪村綱道という蘭方医と南雲が行動を共にしている
 雪村綱道は羅刹開発の盟約を薩摩と結ぶ為に土佐から薩摩に下る
 羅刹開発とは、一体なんだ
 教え乞う

 黒豹はゆっくりと暗闇に溶ける様に消えた。

「不知火は土佐まで無事に逃げ果せたようですね」、天霧が呟く。

「自藩からも追われている高杉とやらに関わる不知火の気が知れぬわ」、風間は呆れる。

「長州の内乱に不知火は不干渉。高杉と海を渡って西洋に行くつもりだったようです。長州の俗論派は高杉率いる正義派に一掃されました。もはや藩論は倒幕一色になったと」

「人間の諍いが愚かな事に変わりはない。薩摩もいずれは幕府に楯突くようになるであろう」

「薩摩藩は羅刹兵を開発するつもりです」

「羅刹兵?」

「西洋渡来の食人鬼の血から出来た変若水を使います。呑むとヒトは羅刹に一瞬で変化し、我々鬼同様の特性を持つように成ると。雪村綱道は変若水を独自に改良しているようです。薩摩藩は羅刹で軍隊を造り、国事に備えるようです」

「変若水で作る羅刹など所詮は紛い物。獄卒を鬼と並べるとは。雪村綱道はとんだ酔狂者と見える。奴は会津藩とは縁を切っておるのか?」

「いいえ、会津藩預かりの新選組が秘密裡に雪村綱道の羅刹開発を引継いでいます」

「新選組?洛中を警備するあの浪人集団か」

「はい、池田屋で会った彼の者達です」

「愚かな犬どもが。会津に汲みする綱道が、薩摩と盟約を結ぶとは考えられぬ」

「文久三年以降、雪村綱道は会津藩と接触を絶っています。新選組は雪村綱道の行方を捜しています」

「会津から土佐、薩摩に鞍替えか。所詮人間、裏切りは常套手段」

「風間、雪村綱道は人間では有りません」

 風間は其れを聞くと、持っていた扇子を閉じた。

「綱道は鬼なのか」

「はい、東国の雪村家の末裔です」

「貴様、何故其れを先に云わぬ。東国の雪村は滅んで久しい。生き延びた者が居たのか」

「はい、雪村の里が焼き討ちにあった十二年前に。雪村綱道は江戸に逃げ延びたようです」

 風間は金煙管に火をつけると、ゆっくりと煙を燻らせた。開け放った障子の向こうの暗闇をじっと見詰めている。

「風間、申し遅れました。雪村綱道にはご息女が居ります」

 風間の眼光が鋭く光った。

「雪村綱道の娘は父親捜しの為に新選組に身を寄せています。名は雪村千鶴。私は蛤御門の変でお会いしました」

「千鶴。その名は確かなのだな」、と風間は静かに問う。

「はい」

「千を名に冠するのは直系の子孫のみ。雪村の高貴な血を引く女鬼が生きているとは」

「はい、確かに。雪村千鶴は小通連をお持ちです」

「其方なぜその事を隠していた?」

「不確定な情報しか無かった所以。征長の戦で京を離れなければならず、雪村千鶴について詳査出来ずにいました」

「新選組に身を寄せて居ると言ったな。幕府に汲みする会津に囚われておるのなら、雪村綱道の元へ連れて行くのが道理であろう」

「土佐南雲家に身を寄せる雪村綱道の動向も押さえる必要がありましょう。羅刹を土佐に持ち込んでいるやもしれません」

「不知火が土佐の動きを見ている。土佐も倒幕に流れるか。 幕府が将軍を上洛させるのを渋っているようだが、薩摩が朝廷で動いているのも解せぬ。我等が人間と縁を切るのも近い。上洛して薩摩の動きも探らねば成らぬ」

「はい、薩摩藩から我々に上洛するよう御達しが有りました。風間、明日此処を出発する手筈は整っています」

「今夜の内に、不知火へ式鬼を送って雪村綱道の動向を報告させろ。必要なら不知火も上洛するよう。恩義に報いる機会だと言っておけ」

「承知」



***

祇園 井筒屋

 薩摩藩主御側役が朝廷工作をした結果、江戸幕府に将軍家茂の上洛の確約を得た。

 こうして薩摩藩は幕政改革を進めるために朝廷で実権を握って行く。列強の軍艦が兵庫や大坂に入港し、開港を迫る中、朝廷、幕府、諸藩の力の均衡はとれず、長州藩主処分の意見が一致しないまま、長州藩は表面は幕府への恭順、その背後で武備し倒幕に向けて動き出していた。

 祇園井筒屋の一室に、風間より数日遅れて不知火が現れた。

「雪村綱道は幕命で変若水を造ってるみたいだが、幕府の変若水は、列強の軍艦が持ち込んだものらしい」

 不知火は部屋に腰掛けた早々、情報を報告し始めた。

「清国の阿片戦争は変若水が大量に西洋から流れたのが原因だ。俺が上海にいた頃は銃と大砲の売り買いが盛んだったが、変若水も闇取引で長崎に渡ってたって話だ。まさか、その変若水を造り変えてるなんてな。 日の本も清国みてえになるぜ」

 天霧はそれを聞くと、自分の調べた情報を話始めた。

「雄藩は列強諸国より開国を迫られた時から、羅刹の実験を進めていたようです。幕府は江戸の石川島の人足寄場を使っていましたが、羅刹が暴走した為に廃止。治安の悪い洛中を取締る会津藩に幕命で羅刹の実験をさせたようです。朝廷寄りの京都守護職を牽制する思惑もあった事でしょう」

 不知火は差し出された脇息にもたれ掛かると、足を組み替えた。

「雪村綱道は改良型変若水の研究成果で雄藩には知られているらしい。文久三年の秋に土佐藩が典医にするって話を雪村綱道に持ち掛けた、その時に南雲家が動いたそうだ」

「不知火、その南雲家の新しい頭領というのは」

 天霧が問いただす。

「南雲薫だ。生意気なガキで、薩摩との武器取引の仲立ちに高杉を使おうとしやがった」

 天霧は少し驚いた様子を見せた。

「南雲家は世継ぎが無く重臣だけで、山内に仕えて居ると聞き及んでいました」

 窓辺に座る風間が、口を挟む。

「元々、南雲家は関ヶ原では長宗我部に加担した古い血族だ。南雲薫の素性は判らんが、若い頭領を立てて山内の庇護の元から一族の再興を狙っているやも知れぬ」

 天霧はそれを聞いて頷いた。

「雪村綱道が京で行方を眩ました際、南雲家が動いていたという情報が入っています。雪村綱道は幕府や守護職、新選組から身を隠し伏見土佐藩邸に潜伏していたと」

 雪村綱道の名前が出たところで、風間が窓の外から視線を天霧に移した。

「雪村の娘は無論、綱道が会津藩や幕府を裏切っている事は知らぬのだろう」

「はい、おそらく」天霧はそう返事をした。 

「なんだ、雪村の娘って?」

 不知火が脇息から起き上がって訊ねた。

「雪村千鶴。東国の雪村の女鬼だ」

 風間が良く響く声で応えた。

「千鶴、って事は雪村の直系か。俺のご先祖は代々雪村家に仕官してた。雪村家が焼き討ちにあった時、俺は俺の親父と東国に助けに向かった。でも俺らが駆け付けた時は雪村本家の屋敷も里も何もかも無くなっちまっていた」

 不知火は胡座をかいて肘をつき暫く考え込んだ。

「俺が元服する前の事だ。俺が大陸に出奔したのも、あの惨状を見たってのがあったんだ。雪村綱道がまさか東国の雪村だとは。でも、本当かよ。雪村綱道に会ったが、俺はあいつは純血の鬼とは思わない。綱道の娘が直系ってのも、俺は信じられねえな。雪村の里は跡形も無く焼け落ちたんだ。生き延びた者は居ねえ筈だ」

「不知火、雪村千鶴は洛中に居る。新選組の元に」

 風間が遮るように不知火に向かってそう言った。

「新選組って、あの浪人集団か。禁門の時に十番組の原田って槍使いにあったぜ。あいつらは今長州が目の敵にしてる。なんで新選組が雪村の娘を?」

「雪村綱道の羅刹開発を新選組が引き継いでいます。新選組は雪村綱道の行方を捜す娘を利用して綱道を見つけ、羅刹開発を進めようとしているかと」

「君菊から得た情報では、雪村千鶴は新選組幹部と行動を共にしています。新選組屯所の西本願寺北集会所で隊士の様に生活。外出時は必ず新選組幹部が護衛に付いています」

「へえ、囚われの姫さんか。でも雪村の直系の娘なら、腕一本有れば新選組ぐらい簡単に捻り潰せる筈だぜ。風間、その娘本当に女鬼なのかよ。綱道自体、俺は鬼って事を疑ってる」

 不知火は、畳の上に寝転がりながら風間に問いかけた。

「確かめるには、一度その娘に会わねばならぬ。我々が西本願寺に攻め込むのは、薩摩藩と会津藩に軋轢を生む」

 風間が小さくあけた扇子を閉じながら応えた。

「来月、家茂将軍御上洛の際、必ず新選組が将軍警備に付くでしょう。それが好機かと。雪村千鶴は禁門の変でも新選組隊士と一緒に男の格好で帯刀して現れました」

 そう伝える天霧に、不知火は皮肉な笑顔を見せた。

「随分勇ましい姫さんなこった。将軍上洛は来月って話だぜ。長州へ軍を送れって勅命が下りるなら、俺は直ぐに高杉の元へ戻るつもりだ」

「不知火、高杉へのとんだ熱の入れようだな。何故、其処まで人間などに構う」

 風間が呆れながら不知火に問うと。不知火は笑いながら応えた。

「高杉はヒトにしては面白い野郎だ。彼奴に出逢ったのは上海。同郷って事で一緒に酒を飲んだんだ。夷狄と戦って大和国家を護りたい、長州男児は列強に負けないと、いけしやあしゃあとぬかしやがった。俺が知り合いの武器商人を紹介してやったら、その場でスナイデル銃を千丁分取引して、俺と一緒にリボルバーも手に入れた。これから日の本でひと暴れする。俺に萩に戻って来いってな」

 不知火は笑顔でそう言いながら、腰のリボルバーを抜いてくるくると指でひっかけて廻す。

「俺の親父の代で長州藩への恩義は返した。幕府にも朝廷にも関わりねえ俺には倒幕だの尊王攘夷だのどうでもいい事だ。だがな、高杉の大和魂って奴は護ってやりてえ。それだけだ」

「フッ、大和魂か。今の日の本に誠の武士が居ないように、大和男子など絵空事に過ぎぬ」

 風間が、再び金煙管に火をつけて煙を吐き出した。

「風間、高杉を馬鹿にするんじゃねえ。もし、雪村綱道が薩摩で羅刹を造って長州を攻めるようなら、俺は高杉と徹底抗戦する」

「薩摩藩は長州征討には参加しないでしょう。新しい御側役の大久保様は征長での財成悪化を訴えておられる。諸藩も同様。不知火、土佐藩は如何です」

「山内のご老公さんは、今の所、兵を出す気は無さそうだ。ま、土佐に変な動きがあれば、俺は高杉と四国を出て長崎に行く。長崎で軍艦を購う手筈を取っているんだ。それで関門に乗り入れる」

 不知火は、土佐藩の動きを見ているようだった。

「不知火、雪村綱道と南雲の動きを報せて貰えれば、助かります。我々は大阪と兵庫の港の列強軍艦の見張りを命じられていて、将軍御上洛まで此処を動けません」

「お安い御用だ。俺はまだ暫く土佐で潜んでる必要がある。来月また京に戻る」

 そう言って立ち上がると、不知火は去って行った。



***

 風間と天霧は翌日、八瀬の里へ向かった。

 尋常ではない強い結界が張られた里の境で、風間と天霧は君菊に足留めされた。

「千姫様にお伝えしたい儀が有りまかり越しました」

 天霧が丁寧に挨拶をする。

「今般の薩摩藩の朝廷工作に千姫様は憤られております。今日の処は御引取りを」

 君菊は頭を丁寧に下げて、千姫の意向を伝えた。

「八瀬の主人に訊け、雪村綱道の動向を知りたくはないのかと」、風間が呆れたように言い放つ。

 君菊は傍にいた側近に託けをした。

「葵、風間様を扇の間に御通しすると、姫様に」

 葵と呼ばれた女は、結界の向こうに消えて行った。風間は間も無く、千姫の御殿の客間に通された。千姫が現れ、天霧の挨拶を受けた。

「雪村綱道の情報があると」、千姫は単刀直入に問う。

「はい、今は土佐藩南雲家に身を寄せています。近々薩摩に移り薩摩藩で羅刹開発を進めるようです」

「雪村綱道が薩摩藩で羅刹を造る目的は?」

「目的は判り兼ねます。財力では、薩摩藩、長州を頼るようになるでしょう」

「長州は軍艦を増やし、武器を入手するのに躍起になっていると聞きます。薩摩藩が幕政改革を謳って、朝廷で近衛などに取り入っているのも、天子さまの意に反するもの。長州同様、薩摩が軍勢を強めるのは朝廷も幕府も警戒せざるを得ません」

 風間が痺れを切らした様に千姫に向って、声を荒げる。

「何度も言っておるが、我ら西国の鬼は薩摩に恩義があるため加担しているだけだ。朝廷や幕府、諸藩のまつりごとには干渉しておらん」

「風間、貴方方西国の鬼が薩摩に付く事で大きな影響があることを忘れてはなりません。風間家に倣い南雲家のような弱小の血族が雄藩の庇護のもと台頭して来ています」

「南雲家の台頭とは、片腹痛いわ。八瀬の主人ともあろう者が、何を恐れる必要がある」

 風間は皮肉な表情で笑った。

「私は雪村綱道の造る羅刹が幕府諸藩、そして敵の長州に拡がる事を恐れています」

「雪村綱道が薩摩と盟約を結んだら。風間家で綱道の身柄を保護しよう。決して羅刹開発を長州に拡げさせず留め置く事は可能だ」

「その暁には、雪村千鶴を我が西国に迎え入れる」

 千姫が目を見開いた。

「勝手な事は言わないで。雪村千鶴は八瀬の里に迎え入れる準備をしているわ」

 千姫が立ち上がった。傍の君菊が懐剣に手を掛けて構える。

「雪村千鶴は父親を探す為に洛中に居ると聞いた。雪村綱道を風間家で預かるなら娘を連れて行くのは当然の事であろう」

「雪村綱道は分家筋、直系の雪村千鶴を連れ去り育てただけの者です。不干渉と言って、薩摩藩の配下として動く貴方に東国の鬼の血を引く彼女を渡すわけには行かないわ」

「ほう、雪村綱道が分家筋であったとは」

 風間が口角を上げて揶揄するような表情を見せた。

「その雪村千鶴とやら。益々興味が湧いてきた。どの様な娘か確かめるのが楽しみだ」

「何を言って居るの? 雪村千鶴は新選組に護られているわ。京都守護職に楯突くことは朝廷を敵にまわすこと同様」

「フッ、新選組など赤児の指を捻るようなもの。我々はいつでも攫いに行ける」

「今日は良い情報を互いに共有出来たのだ。一つ教えておいてやろう。次の征長の戦は、長州が勝つ。幕府諸藩は戦う士気もなく大敗する」

 風間はそう言って、天霧を連れて立ち去った。

 千姫は怒髪天で結界から風間が出るまで、あらゆる式鬼を放って攻撃した。

「風間、この様な無礼な訪問は今後控えられますよう」

 天霧が式鬼を跳ね返しながら風間を庇う。

「相変わらず、気の強い女だ」

 風間は袂で式鬼を払いながら笑う。新選組に身を寄せる雪村の娘も、八瀬の姫の様に強情なのだろうか。高貴な生まれ故気位が高くなるのは致し方ないが、頭領風を吹かす千姫の様な女鬼は辟易。

 風間は雪村千鶴がどの様な娘か想像した。

(人間に囚われた滅びの里の姫君、比興なりか……)

 風間は天霧に気付かれぬよう、背中を向けると自嘲を込め静かに笑い声をたてた。



******

闇の鍛錬

慶応元年閏五月

 将軍家茂公の上洛に伴い、新選組が二条城の警備をした夜、風間千景、天霧九寿、不知火匡の鬼の三人が襲来した。新選組の幹部が対峙したが、鬼と名乗る三名は異常なまでの俊敏さで斎藤達の太刀をかわした。同時に奇妙な発言もしていた。

 将軍家茂公を襲うつもりはない。我らの目的は、雪村千鶴だ。
 その者は、貴様等人間には過ぎたる者。

 警備に追随していた千鶴は酷く驚き怯えていた。幹部全員で、鬼と名乗る不審な男達を追い返したが、夜の暗闇に軽々と二条城の石垣を飛び越えて姿を消した三人は、薩摩藩の者と思われ。今後も警戒をするようにと土方が指示を出した。

 そして、その翌日の夜中のこと。

「斎藤くん、こんな時間に。今夜は巡察は早く切り上げですか」

 屯所の北集会所の離れにある山南の部屋を斎藤は訪ねた。

「いや、違います」

 暫くの沈黙の後。

「山南さん、もし差支えなければ、俺と手合わせをお願いしたい」

 山南は文机に向い書き物をしていたらしく、部屋の奥に行灯が灯っていた。

「ええ、よろしいでしょう。これから私も道場に行こうと思っていましたから」

 斎藤は、山南の後に続いた。山南の向かう道場は、通常斎藤達が使う稽古場とは違い別にある。境内の裏方にある古い御堂で、昼間も誰も近づかない。山南は、日没から明け方までこの御堂に手偏部屋の羅刹隊士を集めて、剣撃の稽古をしていた。

 締め切られた空間は、埃臭く蝋燭の炎が奥に灯っているだけで薄暗い。道場に入ると、既に数名の隊士が手合わせをしていた。山南の姿に気がつくと、隊士たちは一旦手を止めた。

「この中は、貴方には暗いでしょう」

 山南が静かに斎藤に語りかける。

「我々は夜目が効くので、灯りは必要無いのですが、御堂を使う限り蝋燭を灯す必要があって」

 山南は奥まで進むと、木刀をとって斎藤に渡した。

「暗い中で稽古出来るなら、好都合です」

 斎藤はそう言うと、位置についた。山南も木刀を持って位置につくと、静かに構えた。

 斎藤が先に攻め込んだ。全力で斬りつけるように前に出る。山南は、斎藤の動きを躱しながら下がる。

(早い)

 斎藤は、一瞬で消えるように身を躱す山南の動きに驚く。まさにこの素早さは奴等と同じ。二条城の警備中に現れた風間達。自ら鬼と名乗って、将軍でも会津藩でもなく、雪村を襲い連れ去ろうとした。
 雪村は身に覚えが無いと言っているが、風間達は薩摩藩の者。おそらく綱道さん絡みであろう。あの様な手練れが束になって来たら……。

 雪村を奪われてはならぬ。

 土方は幹部を集めて、屯所の警備の強化と千鶴の護衛に引き続き三番組がつく様に命じたが、斎藤はそれだけでは不十分だと感じた。あの人離れした者達を制圧するには、己が腕を磨くしか無い。斎藤は居ても立っても居られなくなり、こうして山南に手合わせを頼む事になった。
 山南は漲る力で斎藤の太刀を跳ね除ける。自信に満ちた気迫で次の一手を打って来る。斎藤は受身に徹した。にじり下がりながら、山南の一定の動きの癖が出て来るのを待った。羅刹の動きは、俊敏に見えるが良く動きを捉えると、単純な動きを繰り返す事が多い。

 揺れ。斎藤はそう呼んでいる。
 相手の動きの「揺れ」を突くと、隙が出る。その瞬間に一撃を打つ。

 山南にも「揺れ」が見えた。そこだ。斎藤は打って出た。一瞬で山南は身を翻したが、斎藤は次の動きが見えたので先手を打った。山南の木刀は弾き飛ばされた。斎藤は山南の眼孔が赤く輝き、白髪になっているのに気が付いた。山南の羅刹姿に斎藤は息を呑んだ。
 山南はいきなり素手で斎藤の木刀に掴みかかって来た。剛力で太刀ごと斎藤を跳ね返すように押すと、そのまま後ろににじり下がり、木刀を拾って、襲いかかって来た。斎藤は体勢を整える間も無く一太刀受けた。これが、羅刹の力か。斎藤は、初めて変若水の効力を実感した。
 山南は元々剣の腕があった。そこに羅刹の力が加わった。勿論、日々の鍛錬もあるだろう。だが、この俊敏な動きと怪力は今迄の山南とは違うものだった。

 斎藤は全力で戦った。二人の荒々しい勝負を他の隊士は手を止めて眺めていた。半時打ち合って、双方とも木刀を下ろした。斎藤は息が上がり、山南も両手を膝について肩で息をしていた。次第に銀に輝く山南の髪が黒く元に戻った。

「斎藤くん、今晩は此こまでで」、山南は漸く立ち上がると笑顔で一礼をした。

 斎藤も一礼をして下がった。

「山南さん、また明日もお願いしたい」

 斎藤は、道場を後にする時に頼んだ。

「喜んで、お相手しましょう」

 山南は微笑む。黙礼して、北集会所に向かう斎藤に向かって山南が呼びかけた。

「長州はそんなに強いのですか、斎藤くん」

 斎藤は振り返りながら答えた。「長州ではありません。薩摩藩士に二条城で襲われました」

「薩摩藩ですか」

「はい、かの者達は池田屋にも禁門にも現れました。自らを〈鬼〉と名乗っています」

「その者達は、人離れした強さがあるのですか」

「はい、力と動きの早さは羅刹に通じるものが」

「それで、今夜は手合わせに見えたのですね。解りました。明日から、日没後此方でお相手をしましょう」

「有難う御座います」、斎藤は深々と頭を下げた。

 山南は歩き去る斎藤を見つめながら、二条城に現れた〈鬼達〉を想像した。

 我々羅刹に通じる強さ。薩摩藩にも羅刹が存在する。おそらく変若水が出回っているのだろう。山南は、羅刹の副作用を抑える術を探す必要を感じた。

 今の隊士では不十分。もっと隊士を増やさねば。

 山南は、道場に戻って隊士の鍛錬を再開した。



******

鬼の思惑

 時は、一日前の夜に戻る。

 風間達は二条城で千鶴を確認した後、大坂に向かった。

 家茂将軍が京から大坂城に入城し、長州藩の処遇が決まるまで進軍を控え待機する事になった。薩摩藩はこの時期、公武合体派として積極的に幕政改革に取り掛かっていたが、将軍後見役の一橋慶喜の暗躍に手を焼き、次第に幕府への不信感を募らせることになった。

 風間達は薩摩藩家老の命で、大坂と兵庫の港の見張りを続ける事になった。征長の戦がいつ始まるかも明確でなく、風間は薩摩藩との決別の目処が立たない事に苛立ちを抱えていた。薩摩藩への恩義さえ返せば、西国の鬼の里を人間の手の及ばぬ場所に移し平和に暮らせる。

 それにしても、あの女鬼は自分が鬼である事も知らない様子だった。

 風間は二条城で確認した千鶴の事を思い返した。年の頃は、十四、五。雪村の里を追われた時はまだ幼な子であったのだろう。身を護る為に人間として育てられたのか。自分の出自さえ知らぬ様であった。

 高貴な血を引く者が、憐れなものだ。

 あの様に男の格好をして、幕府の犬どもと行動を共にしているとは。田舎侍風情が必死に刃を向けて来るのが失笑ものであったが、例え髪の毛の先でも、我が身に刀で触った人間も珍しい。

 新選組か。腕自慢の浪人集団が武功を上げる為に洛中で人を斬っていると聞いてはいたが、所詮は人間。弱く、目先の利潤で平気で裏切り、浅慮であざとい。

 薩摩藩に雪村綱道が移ったら、早々にあの女鬼を連れ帰ろう。

 風間は、傍らに居た天霧に大坂港で船を待つ不知火を呼ぶ様に命じた。

 不知火は将軍が大坂城で長州への進軍準備を開始した事で、一刻も早く腹心の友である高杉晋作の元へ戻ろうと躍起になっていた。

「不知火、土佐行きの薩摩藩の船が明日出る事になりました」

 天霧が船の手配に成功した事を伝えると。

「有難い、恩にきるぜ。俺ら鬼は陸路は走って行けるが、海をひとっ飛び出来ねえのが難儀だ」

「今宵は、川口の我々の宿にお越し下さい。風間がお待ちです」

「なんだ?風間はまだ大坂に居たのか。 俺はてっきり兵庫に移ったと思ったぜ。今朝早くにでっけえ軍艦が三隻通り過ぎて行った。何処の船か判らねえ。英吉利、和蘭陀、仏蘭西、亜米利加あたりじゃねえか」

 此れを聞いて、天霧は不知火と急ぎ川口の風間の元へ戻った。風間は軍艦が大坂を通り過ぎたのは、恐らく川口が狭く入港出来ないからだろうと落ち着いた様子で、事を荒立てる必要はないと言った。

「風間、土佐行きの船の手配は恩にきる。夷狄(いてき)が兵庫を開港させるとなると、長州は黙っちゃあいねえ。俺は高杉と四国を出て長崎へ渡る」

「土佐に戻ったら、雪村綱道の動向を報せるよう頼むつもりであったが、それも叶わぬか」、と風間が呟く。

「あの蘭方医か。土佐を出る前に山内のご老公に挨拶に行く、その時に判った事は報せる」

「そういえば、二、三日前に備前藩の船が天保山に入って、南雲薫が降りて来たのを見た。供を引き連れて、直ぐに籠に乗って消えちまったが、間違えねえ」

「雪村綱道は?」

「いや、俺が見た限りでは一緒じゃなかった。二条城の雪村の女鬼だが、南雲薫とよく似てるぜ。年の頃も同じじゃねえか」

「俺はもうちょっと色っぽい姫さんを想像してたんだが、まだガキだったな」

 不知火が胡座の上に肘を載せて顎に手をやった。

「男の格好をしているからでしょう。南雲家の頭領が上洛。土佐藩の動きも最近は活発と聞きます。開港派は朝廷にも幕府にも居ます。列強に開国を迫られれば、朝廷も幕府も長州征討どころではないでしょう」

 天霧が土佐藩の様子と開国派についてそう言うと。

「攘夷を掲げる孝明天皇が何処まで抗うのか見ものだ」風間は皮肉を込めて呟く。

(雪村綱道の動向が明確にならぬ内は、雪村千鶴を西国に迎える事も出来ぬか)

 風間は心中で残念に思った。列強の軍艦が兵庫に入った事で暫くは港から動けないであろう。上洛して新選組屯所に出向くのは先になる。それまで、雪村千鶴をあの犬どもに護らせておくか。

 あの武士気取りの田舎侍たちも、番犬代わりにはなるであろう。

 風間は微笑しながら窓の外を眺めた。

 浅葱色の羽織の連中に護られ、大きな瞳で真っ直ぐに自分を見つめてきた千鶴の事を思い返した。

 いずれは、我が里に

 風間は本気で千鶴を鬼の郷に迎え入れようと思い始めていた。




 つづく

→次話 濁りなき心に その15

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