小姓指南

小姓指南

慶応元年十月

「相馬君、野村君、ちょっといい?」

 道場稽古を終えた二人が廊下を歩いていると、勝手口から顔を出した千鶴が声を掛けてきた。二人がお勝手に入ると、千鶴は湯飲みに冷たい水を汲んだものを二人に差し出した。

「二人ともお疲れ様です」
「私は、これから土方さんと黒谷に行かなければならなくて」

 千鶴は台所の流しから上げた籠の水を切ると、それを軒先に吊るして干した。

「相馬君と野村君に、午後は近藤さんのお部屋の片づけをお願いしたくて」
「はい、俺たちやっておきます」
「ありがとう。もう昼餉の準備は終わっていますから」
「もし、二人がよければ、今、近藤さんのお部屋に行って教えておきたいことがあります」

 千鶴は濡れた手を手拭で拭いながら、土間の上り口で草履を脱ぐと、そのままいそいそとお勝手口から渡り階段に出て行った。相馬と野村は湯飲みを流しに置いて千鶴を追いかけた。廊下の先に白い足袋が跳ねるように歩いている。ゆさゆさと左右に、千鶴の元結から垂らした髪が揺れていた。小さな雪村先輩。とても、急がれている。そう思った相馬は、同じように廊下を駆けて行った。

 近藤は不在だった。今日は別宅に一日居ると前日に報せを受けた相馬たちは、その間に近藤の部屋の書庫の虫干しと布団干しをして、綺麗に掃除をする予定を立てていた。有難いことに、朝から快晴で、早い時間から布団を干し終えた相馬は、書庫から書物を日当たりの良い廊下に広げてから剣術稽古に向かった。

 近藤の部屋に入った千鶴は、床の間の脇にある物入れから大切そうに、煙草盆を取り出した。大振りな煙草盆には、伊万里の灰受けが両側の木の枠で抑えるように嵌まっている。美しい模様の陶器の器を千鶴は着物の袖で挟むように指で取り出すと、手拭で底を包むようにして膝に載せた。

「今日はこれを磨いて貰おうと思っています」

 そう言って、千鶴は灰の入った器を二人に見せた。相馬と野村は千鶴の後をついて行った。千鶴は自室の中に二人を招き入れて。畳の上に丁寧に陶器を置くと、物入れから古布の入った籠を取り出して、野村に持たせた。それから、北集会所の北側の柱の傍にある、掃除道具入れの中の灰入れに煙草の灰を捨てて、麦藁の束を取り出すと、一掴みを引っ張り出して、くるくると結んだものを相馬に持たせた。大浴場の傍を通る時に、三人は風呂焚き人夫の「銀爺さん」の傍を通った。銀爺さんは、竹椅子の上に片足胡坐をかいて煙管を吹かせていた。野村と相馬は、抜き足差し足で爺さんの背後に近づくと。
「わっ」
  と突然、大きな声をたてて銀爺さんを驚かせた。小さな銀髪の髷がびびびっと立ち上がったようになって、小さな銀爺さんは立ち上がって振り返った。「ふあっ」という声にもならないような変な音を喉から出した爺さんは、手に持っていた煙管から煙草がぽろっと落ちるのを見て、残念そうに溜息をついた。

「こんにちは」「お疲れ様です。銀三さん」

 野村と相馬は肩を揺らせながら、小さな老人に挨拶した。銀爺さんは「ああ、こんにちは」と挨拶を返して、ゆっくり竹椅子に座り直した。千鶴は、二人がまたお爺さんに悪戯をしていると呆れながら勝手口の戸の中に入って行った。

 千鶴は流しの中に煙草の灰入れを置くと、竃から灰を一掴みとって伊万里焼きの中に振りかけるように入れた。相馬と野村が台所の土間に立って、千鶴のやっている事をじっと見ている。

「こうして、少しだけ水をかけて。灰がまんべんなく器の内側に行き渡るようにして」
「相馬君、麦藁を束にしたものをください」

 相馬は手に持っていた麦藁を束にして千鶴に渡した。千鶴は藁を小さく畳んで結ぶと、束子のようにして器の中を磨き始めた。

「煙草入れの中は、煙草の煤がこびりつくから、こうして磨きながら綺麗にします」
「薪灰を使うから煙草の匂いも消えます。やってみて」

 相馬は、千鶴に云われる通りに陶器の中を磨いた。確かにこびりついた汚れが綺麗になって行く。相馬は、一通り磨いた後に水で灰を流して器の外側も綺麗に洗った。千鶴は、野村に古布で綺麗に水分を拭きとって、磨くようにと教えた。

「こうしておくと、とても気持ちがいいものです」
「近藤さんは、屯所ではめったに煙草を呑まれません」
「それでも、次に煙草盆を取り出された時に、こうして綺麗な灰入れだと、落ち着いた心持で煙管を手に取られるから」

 千鶴の小さな指先が大切そうに取り扱う伊万里の器を相馬と野村はぼーっと見とれるように眺めていた。

「相馬君と野村君、煙草は?」
「俺は煙草はやりません」
「俺も」

 二人は首を横に振りながら応えた。千鶴は「わたしもです」と微笑んでいる。そして再び三人でお勝手口から出て近藤の部屋に戻った。丁寧に煙草盆に灰入れを戻して、引き出しの中を綺麗に掃除してから片付けた。

「小姓の仕事って大変ですね。煙草盆を磨くなんて。俺、生まれて初めてです」

 相馬が千鶴に云うと、千鶴も大きく頷いた。

「これは、私は土方さんに教わりました。土方さんは、江戸で奉公に出られていた時に、毎日煙草盆を磨いていらしたそうです」
「土方さんは、灰入れの中がぴかぴかでないと駄目だって仰います」
「なので湯飲みも、茶渋がついたものは、土方さんには、決してお出ししません」
「さっきのやり方で磨くと、湯飲みも綺麗になります」

相馬と野村はずっと頷きながら話をきいている。

 小姓指南 その一、煙草盆の灰入れは灰で磨く
      その二、湯飲みに茶渋は残さない

 千鶴は手際よく台所を片付けると、濡れた藁束を解いて軒先に結ぶように吊るした。

「これは、また何かを磨く時に使って」
「ボロボロになったら、銀爺さんの所に持って行ってください」
「お風呂炊きに使ってもらえるから」
「なんでですか、竃があるのに」
「麦藁は、よく燃えるけど煤が立つから、お炊事には向きません」
「竈には、焚き木と炭しか使わない事」

 あとこれ、と言って千鶴は、古布を竹串の先に巻いて見せた。相馬と野村にも同じものを作らせて、手拭に包むように持つと再び近藤の部屋に戻った。

「これで障子の桟や、床の間の隅の埃をとってください」
「水拭きの後は、最後に乾いた布で拭きとって」
「終わったら、竹串は台所に、古布は洗濯桶に入れて置いてもらえれば」

 昼八ツには戻ります。今日はお豆腐を買って戻りますから。そう言って、千鶴は土方と一緒に黒谷に出掛けて行った。昼餉の後に、相馬と野村は千鶴に云いつけられた通りに近藤の部屋を隅々まで掃除した。虫干しした書物を書棚に戻し終わって、掃除道具を片付けて塵入れを仕舞うと、再び二人は銀爺さんに悪戯をしようと大浴場の裏に回った。

 銀爺さんは、風呂を沸かすために薪をくべる作業をしていた。首に巻いた手拭で、時折流れる汗を拭っては、腰を下ろし火加減を見ている。一生懸命な様子に、相馬と野村はちょっかいを出すことを止めて、崩れた薪を拾って積み直した。

「ちょうど沸き上がったところや」
「どなたもはいってはらしまへん」

 銀爺さんは、野村と相馬に一番風呂に入ってくればいいと勧めた。二人は、用事も終わったところだし、ひと風呂浴びようと云って浴場に向かった。広い湯船にたっぷりの澄んだ湯の中に飛び込むと、野村は尻を水面から出して泳ぎ始めた。相馬は、ばしゃばしゃと湯を掬って顔にかけ肩まで身を沈めて大きく伸びをした。あー、気持ちいい。野村が手で水鉄砲を作って、水をかけてくる、相馬も同じように応戦した。

 二人で身体を洗って、背中を流し合っていると、浴場の戸が勢いよく開いて二番組の隊士たちが入って来た。巡察が終わったらしい。相馬と野村は、隊士たちに洗い場を譲るように立ち上がると、再び湯船に浸かった。湯船に次々に入ってくる隊士で、ぎっしりいっぱいになった。多少窮屈に感じながら、相馬と野村は膝を抱えて肩まで湯につかってじっとしていた。

「おまえ、確か局長の小姓だったな」

 傍にいた隊士が、相馬に声を掛けた。相馬は「はい」と応えた。野村もその隣で頷いた。

「あの雪村って奴、あれは、副長の茶坊主かと思っていたら、近藤局長の落とし種だってな」

 またか。そう相馬も野村も心中で思った。新選組の隊士の中では、雪村先輩の事を局長の落胤で表に出せない身柄だと陰で噂している。それにしても失敬な。なにが茶坊主だ。相馬は、内心で憤っていた。

「わたしはその様な事は知りません。雪村さんは良い指南役。教わることは多いです」

 相馬は、きっぱりとそう言うと立ち上がって湯船を出た。野村もそれに続いて湯桶まで走って行き、二人で上がり湯を頭からかぶった。

「小姓指南たあ方便だ。お前らも受けてんのか、どっちがどっちだ」
「むらゆきの菊門は副長の占有だもんな」

 野村が先に駆けだした。手桶を振り上げて思い切り湯船の中の隊士の頭を打った。

「今言ったことを取り消せ」

 野村の声が浴場に響いた。隊士たちは湯船から立ち上がると、塊になって野村に襲い掛かった。相馬が必死に手桶で背後から隊士たちを叩き、中を掻き分けるように割って入った。野村は隊士に両頬を殴られ、横腹を蹴られていた。相馬も背中を手桶で打ち突けられて背骨が折れるかと思った。激痛を感じながらも野村を庇うように四つん這いになって耐えた。

 浴場の戸を開いた音がして、一瞬で隊士たちの動きが止まった。二番組伍長の川島が入って来た。相馬は、野村を助け起こすと逃げるように浴場の外に出て行った。二人で部屋に戻って、身仕舞を整えた。野村の顔は、両頬が腫れあがって口の端が切れて血が流れていた。相馬は手水場で手拭を濡らすと、野村の頬に載せて冷やした。

「あいつら、許さねえ」

 野村は、悔しそうに手拭を左手で押さえ、右手で拳をつくって畳を腹立ち紛れに叩いた。相馬は、背中の痛みを堪えながらゆっくりと息をしていた。両手を畳について前のめりになると、少しは痛みが和らぐ気がした。

「俺の事は陰で何を云われても構わねえ」
「でも、先輩のことを悪く言うのは駄目だ、許せねえ」
「俺もだ」

 相馬は頷いた。新選組に入る前から相馬は雪村千鶴が新選組の小姓役だという事は知っていた。男にしては線が細すぎて、どうやって新選組のような場所で事が務まるのだろうかと思っていた。だが、入隊して小姓指南を受け始めてから、雪村千鶴ほど細やかな事に気が付き、大きな所帯が立ちゆくように駒が回るように働いている隊士は幹部の中にさへ居らず。新選組局長の近藤はもとより、副長の土方、幹部の面々、そして小間使いや人夫、西本願寺の僧侶たちに至るまで、雪村千鶴は皆からの信頼が厚いことを知るようになった。

 屯所内の雑務は、朝から晩までやってもやっても終わらない。それでも文句ひとつ言わず、自分から率先して隊士たちの世話を買って出て、一瞬たりとも休もうとしない。雪村先輩の言う事やる事全てに道理があって、創意工夫が凝らされている。その上、学に通じ四書五経は全て諳んじることが出来るという。才気煥発。あの小さくて華奢な男子が、もし身体が大きく剣の腕が立てば。幹部筆頭として重きを置かれ隊を任されるだろう。局長の話では、出自が複雑で表沙汰にはできない。事情ありの身の上ということだった。相馬も野村も、詮索することはしなかった。それは、武士として恥ずべきもの。そして、自分たちを熱心に誠実に指南してくれる雪村先輩を裏切る行為だと思っていた。

 二人は、夕七つの鐘の音が聞こえると、立ち上がって勝手口に向かった。

 既に、千鶴が井上と一緒に台所で夕餉の仕度に取り掛かっていた。二人が、手を洗って手伝いを始めると、千鶴が野村の顔を見て驚きの声を上げた。

「野村君、どうしたの。酷い怪我」

 千鶴は、野村の顔を両手で優しく包み込むようにして、口元の傷口を取り出した手拭の端で拭った。

「わたしの部屋に来てください。井上さん、ちょっとお願いします」

 井上は、快く引き受けたと返事をすると、隣に立つ相馬にも、一緒に千鶴の部屋に行くようにと云って、相馬の背中を押した。井上の手を掛けた場所は、ちょうど怪我をした場所で、激痛に思わず声をあげてしまった。

「相馬君も怪我をしているようだね。早く手当てをして貰いなさい」

 井上は、それ見た事かという風に顎で渡り階段を指すようにして相馬を促すと、手際よく夕餉の仕度を続けた。

「酷い打ち傷。話さなくていい。頬や唇を動かすと痛むでしょう」

 千鶴は、濡らした手拭で丁寧に野村の口の中の傷も拭き取るようにして、手に膏薬を取るとそっと塗っている。そして、横たわる野村の顔を覗きみるようにして、身体にも傷を受けていないか確かめたいと訊ねた。野村は、ゆっくりと頷いた。

 相馬が千鶴と反対側に正座して、ゆっくりと野村の着物を開いた。脇腹に黒々とした打撲の跡がついていた。千鶴は膏薬を塗った晒しをあてて丁寧に包帯を巻いた。

「暫く横になって、頬と脇腹を濡れ手ぬぐいで冷やします」
「今晩、お風呂に入っても湯船には浸からないでください」
「野村くんがよければ、全身を拭くだけのほうがいい。夕餉の後に私が、お着替え手伝うから」

 野村は首を振って断った。

「先輩、有難うございます。さっき、風呂には入りました」

 千鶴は、「そう」と言って再び、冷たい手拭を野村の頬にあてがった。優しく野村の頬や額にかかる髪を指先で梳かすように動かすと、そっと額の汗を拭った。野村は、嬉しそうな表情で目を細めている。相馬はその様子を見て、何故か急に腹が立って来た。

 なんだ、嬉しそうに、野村の奴。

 そんな風に思っていると、千鶴は相馬の方を見て、「相馬くんは、怪我をしていない?」と訊ねた。相馬は首を横に振った。

「なんでもありません」

 千鶴は、心配そうな表情でずっと相馬を見ている。ふと相馬の着物の袖から見えた腕に青痣が見えた。千鶴は、立ち上がると相馬の隣に移動して「失礼します」といって、腕をとって袖をはぐった。青痣は上腕にもあって赤く血が浮いていた。

「相馬君、お願い。着物を脱いでください」

 千鶴は冷静に言うと、相馬の手をとって立ち上がらせた。相馬は観念したように着物を脱いだ。全身に打撲の跡。そして、背中に大きな黒い打撲と表面の皮膚が裂けていた。下着に血がついている。千鶴が触ると、一瞬身じろぐように全身が揺れた。酷く腫れあがっている。何で撃たれたのか。こんなに幅が広い打ち傷。木刀とも思えない。なにか鋭利な物で打ち付けられたのだろう。それも背後から。それにしても酷い。

 千鶴は、そっと濡らした手拭で傷口を洗ってから膏薬をつけた。相馬は痛みに耐えているようだった。油紙を挟むようにして晒しで押えて、晒しを胴に巻いていった。相馬は、恥ずかしそうに瞳を伏せている。千鶴の小さな手は、指先も細く、華奢でまるで女の手のようだ。優しく繊細な雪村先輩。医術の心得もあって、新選組隊士が病や怪我をしたら、丁寧に手当てをして世話をしている。本当に何から何まで行き届いた。小姓の鑑のようなお人だ。

「すみません。お手を煩わせてしまって」
「ありがとうございます」

 着物を丁寧に着せかけて手伝う千鶴に頭を下げて相馬は礼を云った。

「どういたしまして。背中の骨には障りはありません」
「私の留守中に、二人がこんな怪我をしてしまって……」

 千鶴は悲しそうな表情で相馬の帯を結ぶのを手伝った。

「立ち入るようだけど。何かあったのですか」
「二人とも、屯所内での私闘は禁じられているのは知っていますね」
「私闘ではありません。風呂場に人が沢山いすぎて、場所の取り合いになっただけです」
「お風呂場で?」

 千鶴は驚いた表情をしている。何かを云いかけて、やめた千鶴は、「二人とも、怪我をしたら、直ぐに手当てをしに来てください」といった。

「放っておくと、治りが遅くなります」
「剣を振られるあなた方が、怪我のせいで刀を持てない事があってはなりません」

 頷く二人に、千鶴は「必ず。必ずですよ。相馬君」と念を押した。そして、夕餉の仕度が出来るまで、千鶴の部屋でこのまま休んでいるようにと云って、行灯に灯をともすと、台所に戻って行った。

「なあ、相馬」

 仰向けのまま天井を見詰めながら野村が相馬に呼びかけた。相馬は、その隣でうつ伏せになったまま首だけ動かして野村を見た。

「雪村先輩は、本当に局長の御落胤なのか」
「俺はそうは思わない。近藤さんは江戸に居るお子さんの話を一度してくれたことがある」
「まだ小さくて、女のお子さんだそうだ。初めての子供だと言っていた」
「近藤さんが先輩の父親だとしたら、十四、十五の時の落とし子だ」
「いくら何でもな」
「先輩の実家は医者の家だって」
「鍼灸院じゃねえのか」
「ああ、そうかもしれない」

「じゃあ、あれは。松平中将様の御落胤ってのは」
「それは、俺も考えたことがある」
「先輩は士分じゃないといっているが、立ち居振る舞いは士分そのものだ」
「品性がただ者じゃねえよな。家柄や血筋かな」
「江戸育ちだって言ってた。譜代の上屋敷とか」
「だから医者の家だろ」
「そうか」

「黒谷の茶坊主だったって話は」
「茶坊主って言うな」

 相馬は肘をついて起き上がると、「いてて」と呟きながら身を起こした。

「雪村先輩のこと、絶対に茶坊主なんて言うな」

 相馬は怒りの表情で野村を睨んだ。野村は、頬の上の手拭をとって目だけを動かして相馬を見た。

「俺、この前偶然見たんだ」

 相馬は、ゆっくりと野村の手拭を桶の水につけて搾ると、野村の頬に載せた。そして、本願寺の門の前で、【土方さんと雪村先輩】が出先から歩いて戻ってくるのを見た時の話を始めた。

 

 

*****

覚悟と決心

 朝からずっと雨が降っていて、雨間に出掛けた二人が戻ってきたんだ。土方さんが前を歩いて、その後ろを先輩が傅くようにな。土方さんが、ふと立ち止まって、後ろを向いて手を伸ばして、先輩の手を引いて、足元の水溜まりを飛び越えさせたんだ。先輩は、上手に飛び越えた。すると、土方さん、そのまま先輩の腰に手をやるようにして背後にまわって。

「大丈夫だ。泥は跳ねてねえよ」

 そう言って、先輩の袴の裾を確かめるように眺めて笑っていた。

「お前、土方副長の笑った顔、見た事あるか?」

 野村は「ない」と答えた。俺はあの時初めて見た。そう相馬は言って、真剣な顔でとつとつと話しを続けた。

「雪村先輩は、振り返るように自分の足元を見て、土方さんに礼を言っていた。凄く嬉しそうな笑顔だった」
「そのまま門まで、二人で並んで歩いて来る姿が、本当に楽しそうで」
「夕日に二人が……」

 相馬は言葉を続けずに黙ったまま、しーんとなった。

「なんだ、二人に。なにがあった」

 痺れを切らしたように野村が声をあげた。

「お似合いに見えた」
「馬鹿、何言ってんだ」
「お前に男と男のことが判るのかよ」
「お前は、衆道の心得があんのか?」
「ない」

 きっぱりと相馬は応えた。野村も「俺もないよ」と云うと、大きく溜息をついた。

「俺がこれから云う事。これは、俺とお前の間の秘密だ」

 突然、相馬が声を潜めて野村の顔を覗き込んだ。野村は強く肩を掴まれて、驚いた。

「もし、先輩から衆道の御指南があれば。俺は受けようと思っている」

 野村は、目を見開いたまま生唾を呑み込んだ。真剣な相馬の表情。

「ただし、雪村先輩だけだ」
「俺は、雪村先輩なら受け入れられる」
「……あの方だけだ。大丈夫なのは」

 思い詰めたような顔で告白をした相馬は、自分で己の言った事に納得するように頷いた。

「俺もだ。俺も、先輩なら」

 野村も大きく頷きながら自分の決心を告白した。野村は、とうてい断るのは無理そうだけれども、土方副長は勘弁してもらいたいと思っていると白状した。

「俺もだ」

 相馬は泣きそうな顔で首を縦に振って頷いた。絶対無理だよな。そう言って同意した。

 ——おい、でも衆道って。どうすんだ。何をすればいい。

「俺は、女の事もよく知らない。廓は一度行きたいと思っている」
「それな、年の暮れに貰う給金は多いそうだから、その時行こうぜ」

 相馬は、「そうだな」と笑顔になった。野村は「俺は登楼したことがある」と言っていたのに、裏を返してみると自分と同じで一度も行ったことがないことが判った。そうか、俺とおんなじか。相馬はなんだか愉快な気持ちになった。笑うと背中が痛いが、覚悟が決まった。これですっきりだ。

 二人は、この秘密を絶対に守ろうと誓いあった。

 暫くすると、千鶴が二人を夕餉に呼びに来た。起き上がった二人は、廊下を千鶴の後について歩いた。二人で目を見合わせて、前を歩く小さな先輩を、全面で受け入れようと頷き合った。それは、不思議といやらしさや性的なものとは真逆の感覚で、二人の身の内に強い正義感のような、目の前の優しく懸命に生きている存在をずっと守りたい、付いて行きたいという、強い想いを起こさせるものだった。

 その日、特別に小姓役見習いの二人は幹部たちと広間での夕餉の席についた。それは千鶴が事前に土方に許可を取って実現した。千鶴が留守中に、二人が些細な事で喧嘩をしたらしく、早く仲直りをさせたい、口元に怪我をした野村に豆腐なら楽に食べさせることが出来る、そう頼む千鶴に、土方が仕方なく折れて了解した。幹部は、野村の腫れあがった顔を見て、「なんだ、殴られっぱなしか」と揶揄した。

 平助が、顔を殴られた時は、こうやり返すと拳で相手を仕留める方法を教え始めた。新八は、そのやり方じゃあ駄目だと言って、「足を使え」「喧嘩のやり方なら、今度みっちり教えてやる」と言い出した。土方は、黙って聞いていたが、「屯所で私闘は厳禁だ。刀は絶対に抜くな」と釘を刺した。

 千鶴は食事中もくるくると甲斐甲斐しく、皆のご飯のお代わりをよそい、お茶を煎れて配り、自分のおかずを小皿に分けて、そっと相馬と野村のお膳に置いた。

「沢山食べて、早く傷が良くなりますから」

 菩薩のような微笑みに、相馬と野村は心から感謝の念が湧いて自然と深く頭を垂れてお礼を言った。

 そして、この日以降二人は一層小姓役に励むようになった。

 

 

 

 

 

(2020/07/17)

コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。