夕涼みの夜【閑話】
濁りなき心に その25
慶応二年八月
千鶴と君菊を其々載せた輪違屋の駕籠に、斎藤が付き添って河原町通りを下っていったのを見送ると、左之助達は酔い覚ましがてら、大廻りして帰ろうと四条通りに向かった。
「いいよなあ、はじめくん」
平助が振り返りながら呟く。
「なんだ、平助。千鶴に付いて行きたかったか」
左之助が振り返りながら尋ねる。
「うん、千鶴嬉しそうだったよなあ」
「もっと早くにさせてやれば良かった」左之助が前を向きながら、行灯を持ち替えた。
「屯所を移ってからは、俺らも茶屋遊びに出る事も殆ど無かったからな。千鶴ちゃんが夕方から外に出掛けるって事もずっとなかった」
新八が団扇を扇ぎながら、左之助に頷いた。
「可愛かったよなあ、千鶴」
「おお、君菊も綺麗だった。別嬪連れての夕涼みってのがいい」
「今日の事は、最初に君菊が土方さんに千鶴を招きたいって言って来たらしい」
「へえ、何でまた」
「土方さんと君菊は旧い馴染みだ。近藤さんとこの【おわかさん】と君菊は仕込みの頃から一緒の置屋に居たんだってよ」
「深雪太夫は、輪違屋に居たのか」
「いや、三本木だ。君菊は、舞妓になった時に輪違屋に移ったそうだ」
「そんで、なんだって君菊が千鶴ちゃん誘うんだ」
「前に綱道さんが祇園や島原に出入りしてるって情報があっただろ。あれは君菊が芸妓仲間から聞いた情報だって報せて来たらしい」
「監察方に調べさせたが、結局見つからないままだったんだけどな」
「千鶴の事情を聞いた君菊は、それ以来、千鶴の事を気に掛けて、置屋に時々呼んでいる」
「そうか、それで今日も羽伸ばしさせてんだな」
「ああ、土方さんの労いもある」
「屯所移ってから、千鶴は朝から晩まで働き通しだったもんな」
「山崎の代わりに、平隊士の病気や怪我の面倒まで診てるもんな。最近はずっと屯所に籠りっきりだ」
「千鶴ちゃんが、屯所に来て、もう何年だ」
新八は、団扇を持ってない方の手で指を折って数えている。
「もう、そろそろ丸三年だ」
「そんなに経つか。そうだな、井吹と入れ違いに屯所に暮らす様になったもんな」
「娘らしくもなったしな」
「おお、今日の浴衣姿はいい女っぷりだった」
「普段も可愛い顔してるけど、なんて言うか。こう、浴衣の帯がこうあって、」
新八が団扇を持ちながら、両手で千鶴の浴衣姿を宙に描くと、
「何だよ、新八っつあん。いやらしい事言うなよ」
平助が声を荒げた。
「ああ、だがよ。普段とああも違うと、驚くぜ」
「総司が、千鶴は真夏でも晒し巻いてるってさ」
口を尖らせて不機嫌そうに平助が呟く。
「男の格好も大変だな」
「汗疹が出来るから、晒し取っちゃえばって、総司が千鶴の身八つ口に手を入れたら、すっげー堅く締め付けてあったって」
「総司は、何やってんだ」
左之助が呆れた。
「斎藤がそれ知ったら、斬られるぞ」
「斬られたよ。知らないの?ぱっつあん達は居なかったかあ」
「千鶴が、総司の布団を干してる時に、総司が背後から本当に取ろうとしたらしくて」
「千鶴の悲鳴聞いたはじめくんが、血相変えて飛んで来て、刀抜いたんだよ」
「本当かよ」
「俺が見たときは、物干しで、総司が千鶴を後ろから抱えて、こんな風に盾にしてた」
平助が左腕で人を抱え込む様に構えた。
「おお、それで」
「そしたら、はじめくん、本気で突き始めて。総司の眉間に一寸の所で止めて、【そのまま雪村を離せ】って凄んだよ、すっげーおっかねえ顔して」
「離された千鶴は、最初へたり込んでたけど。俺と一緒に直ぐにはじめくんを必死で止めて、総司は事無きを得たんだけどさ」
「おお、それで」
「総司は、晒し巻いてると暑いだろうから、取ってやろうとしただけだ。何なら、はじめくんが取ってあげればって」
「そしたら、はじめくんも千鶴も茹で蛸みたいに真っ赤になってさ」
「総司はあの調子だよ。そんなに堅く締め付けたら、折角のものが育たないでしょ。はじめくんも【柔らかい】方がいいってさ、ね、はじめくんって、からかった」
「ま、言い終わらない内に、はじめくん物凄い勢いで総司に襲いかかってって。総司は逃げ回って華池の向こう側まで走ってって。そのまま取っ組み合いになってさ。もう二人とも苔だらけで、無茶苦茶。本願寺の坊さんまで出てきて血相変えて止めに入ってさ」
華池は、広斉和尚が大層大事にしている。隊士にも清掃以外の用では近づかぬという新選組と本願寺の取り決めがあった。
「それで、どうなったんだ」
「そりゃあ、御咎めだよ。土方さんが、本願寺に謝りに行って。夏の間、本堂を平隊士の寝所にしたいって願い出てたのも、取り下げになったもんだから、土方さんもお冠で、大変だった」
「そんな事があったのかよ」
「そうなんだよ。千鶴も責任感じちゃってさ、それ以来ずっと毎日独りで華池の周り掃き掃除してんだ」
「そりゃあ、千鶴ちゃん災難だったなあ」
「うん、総司も悪いけど。男の格好させてる事が発端だからさ。俺、ほんと千鶴が不憫でならねえよ」
「あんな、可愛いのにさ……」
「そうだな、今日みたいな格好は、本当なら毎日してて当然だ。何も特別な事もねえのにな」
新八が神妙な表情で団扇を扇ぎ続けている。
「ま、今夜はあの格好のままゆっくり出来るだろうよ」
「はじめくんも、輪違屋に上がるの?」
「そうじゃねえか」
「ええーーー、ズルイよー。俺も一緒に行きたかった」
「そいつは、野暮ってもんだ」
「何でだよ、左之さん」
平助は不満そうに口を尖らせる。
「何でもねえよ。今夜千鶴は、俺らの世話から解放されて、置屋の客間にでも招かれてるだろうよ」
「何、客間って。それって茶屋の座敷とは違うの?」
「ああ、輪違屋は座敷と置屋は棟が違う。置屋の客間は、芸妓が自分で人を持て成す場所だ。座敷ほど華やかじゃあねえが、湯殿も設えてあって、芸妓の趣味で部屋が造ってある。君菊ぐらいの芸妓だと、いい客間のひとつ持っていてもおかしくねえ」
「なんだよ、左之。やけに詳しいじゃねえか。お前、泊まった事あんのかよ」
「ああ、祇園でな。前に馴染みの太夫に引き留められて。俺は、偵察も兼ねてたからあと一晩張ってもいいかと思って」
「何だよ、それ。俺は聞いてなかったぞ。いつの話だ」
「池田屋の前だよ。うんと前の話だ」
「それで、客間はどうだった?」
「いいもんだったぜ。座敷より、落ち着く感じで。広い湯船で足も伸ばせて気持ちよかった」
「風呂まで浸かって。豪勢じゃねえか。俺も行ってみてえ」
「太夫の普段の生活の様子が解る。調度品や身の回りの物も目に入るから、座敷で会う時とは違った女に感じて、いいもんだと思った」
「くあー、何言ってやがんだ、畜生。何で、お前はいつもそう女にモテんだよ。太夫に引き留められて、そんな客間で風呂まで浸かって。俺も連れて行けよ、この野郎」
新八が左之助に肘鉄をして、大声で絡んだ。
「はじめくん、千鶴と客間に泊まるのか」
平助が呟いた。
それまで笑っていた左之助が、平助の寂しそうな表情に気づいた。
「さあな。君菊は一番千鶴が落ち着いてゆっくり出来るように、もてなすだろうよ。斎藤は護衛に付いている。しっかり千鶴の事を守ってるから心配ねえよ」
左之助は、平助の背中から腕を回して肩に手を掛け、平助の頭をグシャグシャと撫でた。
四条大通りから、ゆっくりと歩いた左之助達が屯所に着いたのは、門限もとうに過ぎた夜中近くだった。
左之助は、草履を脱ぐと、部屋に向かわずに直接土方の部屋に向かった。
土方は、文机に向かって書き物をしていた。
「土方さん、遅くに悪い」
「原田か」
「今戻った。門限過ぎちまって、すまねえ」
「構わねえよ。今日は、非番みたいなもんだ。みんな無事か」
「ああ、和泉町の茶屋で君菊達を斎藤に預けて帰って来た。四条周辺は人出が多い。宿は何処も満室みたいだ」
「そうか、また西国からの出入りが増えてるみてえだな。それで、夕涼みはどうだった」
「千鶴が嬉しそうにしてたぜ。見違える様に綺麗になって、軽鴨達が舞い上がっちまって」
「お前らも羽根が伸ばせたみてえだな」
「ああ、有難うよ。此れで明日からも制札見張りを頑張れる」
「そうか、そいつは良かった」
「……、なあ、土方さん」
土方は、文机の書類から顔をあげた。
「斎藤を千鶴と茶屋に泊まらせて大丈夫かよ」
「何だ、急に」
「斎藤の羽伸ばしなら、俺らと一緒に鴨川へ行かせるのが普通じゃねえか」
「なんだ、普通って」
「俺たちと一緒に座敷で呑んだり食ったりする事だよ」
「千鶴をひとりで島原に預ける訳にも行かねえだろ」
「ま、そうだけど。あの女っぷりの上がった千鶴と茶屋で二人きりは、俺は正直まずいと思った」
「平助が不貞腐れて、宥めるのに苦労した」
左之助が苦笑いをして胡座をかいた。
「斎藤は、たとえ、茶屋の寝間に千鶴と二人っきりにされても、手出しはしねえよ」
土方は振り返ると、腕組みをして笑った。
「これが、お前となら、話は別だ」
「斎藤は、朴念仁な上に。千鶴を護る事に命を懸けて居やがる」
「だな。本人達は自覚もねえみたいだ」
左之助は、土方に頷きながら笑った。
「なあ、原田。俺の勝手な願望なんだが」
「千鶴は、綱道さんや、ひと通りの事が落ち着いたら。斎藤と一緒にしてやりてえと思っている」
「そう遠くねえ将来にな。其れ迄は、千鶴はガキの儘で居て欲しい」
左之助は、一瞬眉毛を上げて驚いた表情をしたが微笑んだ。
「だな。千鶴は平助が想い慕ってる事に気づいてもいねえ。確かにまだガキなのかもな」
「でもよ、土方さん」
「今夜の千鶴は、本当に綺麗だった。あれ見ておかしくならねえ男はいねえよ」
左之助は、そう言うと立ち上がって土方の部屋をあとにした。
部屋に戻ろうとすると、表階段に新八と平助が酒瓶を抱えて、晩酌している姿が見えた。傍には、軽鴨達も座り、二人とも泥酔している様子だった。
「……っとに、可愛かったよなあ」
平助が、杯を空けながら、呟く。
「……ああ、別嬪と酒があると、俺は何も要らねえ……」
酒瓶を抱えながら、半分寝惚けている様に新八は笑っていた。
「……はじめくん、……一緒かぁ……」
グテングテンになりながら、平助がまだ飲み続けている。
左之助は、仕方がないなあ、と思いながら。階段に座り、朝方まで平助に付き合った。涼しい夜風が時々吹いて、気持ちのいい夜だった。
青く光る満月を眺めて、左之助は
「本当に綺麗だったな」
と改めて千鶴の姿を思い出して呟いた。
つづく
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