八幡男山
濁りなき心に その33
慶応四年一月四日 死闘
鳥羽伏見の戦が始まると、続々と西国から京に薩長軍が進軍し、江戸からも幕府軍が先を争い上洛した。勅命を示す錦の御旗を掲げた薩長軍が官軍となり、幕府軍が賊軍となった。賊軍と言っても、兵の数では大幅に上回る。定石通りなら幕府側が圧勝しただろう。だが、薩長軍は最新型の大砲や銃を武備し、西洋列強との戦いに備えてきた軍事力の前に、旧態然とした幕府軍は明らかに力では劣っていた。
戦の勃発から一晩で伏見奉行所は堕ちた。土方の咄嗟の判断で、大坂へ敗走した新選組は、淀藩に阻まれながらも、橋本の男山で薩摩、肥後藩兵と一戦交えた後に、舟で淀川を下り京を後にした。この敗走から遅れて、斎藤は伏見から負傷した手下を連れて八幡の男山への山道を大坂に向かって進んでいた。
伏見奉行所は薩摩軍に取り囲まれ一斉砲撃を受けた。その間、斎藤の率いた三番組は龍雲寺に砲台を構える薩摩軍に斬り込む為に向かったが、砲撃を止めるどころか、寺に近づく事も出来ず、そこへ現れた薩摩藩の天霧に斎藤は手下の半数を攻撃された。天霧は斎藤に向かい、「人間にしては、相手に不足はない。敬意を持って立合う」そんな挑発とも取れる言葉を発して、斎藤と一戦を交えた。その時、本陣からの伝令だと、千鶴が現れ、天霧は撃つ手を止めた。
貴女は、まだこの様な所にいらしたのですか。
天霧は、戦火の中を新選組と行動を共にしている千鶴に心底驚いている様子だった。王政復古以降、風間が東国の姫の保護をと天霧に指示したが、千鶴の行方はずっと不明だった。風間は雪村綱道と南雲薫が千鶴を連れ去った可能性があると言って、四条の薩摩藩邸に二人の行方を追ったが、二人は示し合わせたかのように姿を眩ませていた。風間は嫌な予感がすると言って、天霧を藩の老中に接触させ情報を得た。そして西国から進軍する兵と入れ替わる様に、綱道が作った羅刹兵が、綱道と共に大坂へ向かった事を知った。綱道は京を離れた。千鶴を市中から連れ去ったやも知れぬ。そう言って風間は、綱道の行き先を追って行った。
一方、南雲薫は四条の土佐藩邸で密かに編成された羅刹兵を率いていた。高台寺派の残党を伏見街道の隠れ家へ潜伏させ墨染での襲撃も成功させた。南雲薫は、戦が始まる前に伏見奉行所に移った新選組に揺さぶりをかけ、千鶴が表に出てくれば捕らえるつもりでいた。そして年末の夜間に羅刹兵を伏見街道を進軍させ始めた。土佐藩邸の羅刹は、綱道が薩摩藩に移るずっと以前に実験段階で造られた物。最新型の変若水とは違い、出来上がった羅刹は、陽の光に弱く、吸血衝動で正気を失いやすく凶暴だった。これらの劣悪なモノは、綱道達にとって捨て駒の兵だった。南雲薫は、羅刹兵を新選組壊滅の為に伏見の戦で利用出来るので好都合、たとえ戦で羅刹が暴走しても、薩摩藩の攻撃と一緒に始末してしまえる。南雲薫は、場合によっては伏見奉行所を焼き払い、千鶴を新選組ごと葬るつもりでいた。
風間は、大坂まで綱道を追った。大坂港まで進軍していた綱道は、ここで布陣して幕府との戦に備える。いよいよ我々の本懐を遂げる機がやって来た。そう言って、狡猾に笑った。綱道の元に千鶴は居なかった。風間は綱道にこれ以上の進軍は控えるように命令した。しかし綱道は既に海路で尾張に向かう手筈を整えていた。続々と江戸から進軍する幕府軍を避け、そのまま美濃路を辿り、江戸で南雲薫の率いる土佐の羅刹兵と結集する算段。風間は、一切、綱道の【鬼の国再興計画】には気付いていないようだった。
風間は、綱道を大坂に留め置くと、次に八瀬の里に向かった。八瀬はいつも以上の強い結界が張られ。里の境界線どころか、八瀬の街道に繋がる市中の外れで既に、強い霧が立ち込めて前に進めない。鬼女の術か。風間は、八瀬の千姫が戦火から里を守り、おそらく東国の姫はこの結界の向こうで保護されているのだろうと思った。其れならば、可としよう。再び、風間は市中に戻り、薩摩藩の指示で天霧は伏見に、風間は西国より進軍する薩摩兵が待機する八幡に向かった。
風間が捜している千鶴が、天霧の目の前に現れた。千鶴は、斎藤に、伏見奉行所が薩摩藩の歩兵が侵入した為、斎藤に直ぐに戻って助けて欲しいと訴えた。天霧は、斎藤が刀を構える前で、今一度千鶴の西国行きの意思を確かめた。千鶴は、天霧に向かい屹然と断り、斎藤にも天霧との闘いは止めろと訴えた。暗闇で、大きな瞳は涙を湛えているのか、光る様に斎藤と天霧に向けられた。東国の姫の強い意思は、天霧の心を打った。其処まで覚悟を決めておられるのならば。天霧は構えた手を下ろし、戦闘を辞めて、一歩退がった。
風間は貴女を捜しておられます。この戦火から貴女を保護する意向です。西国の鬼の頭領である風間の力は強い。
天霧はまるで警告するかの様に、そう一言を残して斎藤達の目の前から立ち去った。
斎藤は、丸腰の天霧に自分の剣が太刀打ち出来なかった事に愕然となった。口惜しさで動けない。そんな斎藤に、千鶴は伏見奉行所の援護をと訴えて、地面に倒れている三番組隊士達を助け起こし、手当をしている。斎藤は、歩ける者から順に奉行所へ向かわせた。砲弾の音は止んで静かなのが気になる。まさかと思い、斎藤は、樹々の間を抜けて、崖下に伏見の街が見下ろせる場所に出た。
(奉行所が……)
伏見奉行所は既に焼け落ちていた。街は全て焼き討ちにされている。本陣が壊滅。これは斎藤にとって初めての経験だった。土方の事だ、攻撃を受ける前に陣をとっくに移動させているだろう。此処からは、淀藩が近い、そこに退避している事も考えられる。斎藤は、先に走った手下を街道の手前で見つけて、そのまま淀城に向かった。
まだ、負けたわけではない。
先に向かった部下から、淀城方面は敵兵が街道を防いでいると報告があった。斎藤は、桂川沿いに迂回して橋本へ向かった。大坂城に向かえば、きっと幕府本陣で土方達に合流出来る。斎藤は負傷した手下を励ましながら、山道を登って行った。昼間は、山に分け入り、姿を隠して、夜に山道に戻り進む。そして伏見を出てから、二日目の夜、八幡の男山の山道で斎藤は、風間と出くわした。
風間は斎藤達の前に立ちはだかった。天霧からの攻撃で部隊の半数を失い、疲労困憊のままの斎藤達は、風間の振るう剣の前では無力のように見えた。だが、斎藤は怯まない。今までかつて無いぐらいの怒声で、前に出ようとした千鶴に「下がっていろ」と叫ぶと、渾身の一撃で風間に向かった。しかし、風間の動きは天霧以上に俊敏で軽々と躱す。背後に回った風間は、片手持ちの太刀を軽々と振り下ろした。肉を斬り裂く音が聞こえ、斎藤は、呻き声をあげた。
右肩から真っ直ぐに背中を斬られた斎藤は、血を噴き出しながらも振り返り、次の一撃を加える。だが、斎藤の太刀は風間を掠りもせず、身を翻す風間は、まるで楽しんでいるかの様に斎藤の身体を斬りつけた。もう、体力がとっくに限界に達している。斎藤は両手を膝につきながらも震える手で刀を握り続けた。
「ここで女鬼を差し出して、去れ。誰も其方を咎めはせぬ」
瀕死の斎藤に風間は情けをかけてやるかの様に笑い挑発する。
「それは出来ぬ。たとえ人の目がなかったとしても、貴様に屈するつもりはない。
彼女も、俺の部下も、この手で、この剣で、守る」
その間にも、風間は容赦なく、斎藤を斬りつけた。
「負け犬なら負け犬らしく、尻尾を巻いて逃げ出せばいいものを」
笑いながら、振り下ろす剣で、斎藤は肉を斬り裂かれ、前後に全身が揺れている。もう立っているのがやっとのようだ。だが、ぐっと愛刀を胸の前で握り直すと、顔を上げて風間を睨みつけた。その射抜く様な眼光は月明かりを反射して光っていた。
「もし、ここで逃げ出せば、おれは、俺の心の中にある大切なものを裏切る事になる」
「その大切なものとは、ちっぽけな誇りか?名誉とやらか?答えてみろ人間」
嘲り笑いながら、風間は何度も斬りつけた。もう避ける力も尽き果てた斎藤はひざまづくと、呻きながら、懐からギヤマンの小瓶を取り出した。
千鶴が泣き叫ぶ声が聞こえるが、今、この男に勝利するには、こうするしかない。これが俺にとっての誇りの形だ。新選組が彼女を守ると決めたなら、たとえ羅刹になってでも守り抜いてみせる。
こうして斎藤は変若水を飲んだ。身体に負った傷はたちどころに消え、痛みが無くなった分、立ち上がる事が出来た。全身に力が戻った。目前の風間は「何の誇りも持ち合わせぬ、ちっぽけな犬」そう嘲笑った。
己の正しいと思う道を全う出来れば本望だ。
斎藤は、渾身の一撃を振るった。風間は太刀で受けるが、力は互角で払う事が出来ない。風間の顔から笑顔が消えた。次々に斎藤が繰り出す剣に、本気で刀で受けて撥ね返す。何度目かの、激しい打ち合いの最中に、天霧が現れて、全力で風間を止めた。風間は憤り、天霧をも罵倒したが、天霧は冷静に風間を説き伏せ退却させた。去り際に、今度は必ず雪村千鶴を奪う。そう言って、風間は斎藤と泣き崩れている千鶴を一瞥して消えた。
****
大坂城へ
慶応四年一月六日
羅刹になって、一番の変化は陽の光が苦痛な事だ。全身が焼かれる。同時に心の臓が万力で圧しつぶされる様な痛みが走る。息も出来ない。その症状は、変若水を飲んで山を下って淀川沿いに歩いていた時に初めて起きた。斎藤の異変に気付いた千鶴は、川沿いの船着場の小屋を見つけて、隊士と共に斎藤を運んだ。隙間風が吹き付けるが、小屋の中の筵で暖を取り、負傷した隊士の手当をして、一緒に休む事が出来た。付近に敵兵は居らず、この辺りは西国の進軍の影響はないようだった。
斎藤は、気を失った様に深い眠りについていた。斎藤の隊服は、昨夜の死闘を物語るようにボロボロに裂け、血糊で黒々と染まっていた。千鶴は、斎藤の羽織を脱がせると、自分の羽織を脱いで、斎藤の上にかけた。そして、川で羽織の血を落とした。新選組の隊服。これを纏っているだけで、敵兵に見つかる。千鶴は、何処からも見えない小屋と小屋の間に陽に当たるように干した。
船着場には、使われていない船が三艘。隊士が調べると十分に使える状態らしい。陽が落ちてからでも、昨夜の月明かりなら、舟で川を下ることが出来る。そう言って、夜の移動の計画を立てた。千鶴は、川沿いの道端に生えている草を摘んだ。ナズナとハコベが沢山。有難い。手拭いを一杯にして持ち帰って、川辺で洗った。火を通したいが、鍋もない。そう思っていると、隊士の一人が、焚き火を起こしていた。皆でナズナの茎を持って、火に翳して温めたところを口に入れて噛み締めた。美味しい。隊士たちは喜んだ。
ペンペン草さまさまー。
そんな風に歌いながら、皆で食べた。千鶴は見つけられるだけの野草を持ち帰った。隊士達は、組長がお目覚めになられたら、七草三昧だ。そう言って、斎藤をしんみりと眺めた。そして、昨夜の死闘の際の斎藤の変化について、千鶴に何か知っている事があれば、教えてほしい。そう言って、千鶴が話し出すのを静かに待った。
隊士たちは、羅刹になった斎藤が昼間は陽の光を避けて眠り、夜に活動出来ると聞いて、それなら、我々も昼間眠って夜に起きればいい。傷が消えるなら、戦には持ってこいだ。組長程の剣技を持った方が、羅刹の力を得たら、最強だ。血に狂うなら、その時はその時だ。皆、千鶴の心配を他所に、概ね羅刹になった斎藤を否定的に捉えず、夜に活動をしようと合意した。
夕方に陽が落ちてから、斎藤たちは舟で淀川を下った。先頭を行く斎藤の舟を操った隊士は、元々紀州の山奥で育った百姓の出だという。幼き時より、川を舟で下って隣村に出る生活をしていたという。七つで竿、十で艪を身につけたと自慢する部下を見上げながら、斎藤は、改めて、新選組が士分に拘らずに隊士を集めた強みを実感した。先頭の舟を見様見真似でついて来ようとする後続の舟も、途中で立ち往生したり、岸辺に近づき過ぎたり、千鶴は振り返りながら気が気でなかったが、隊士達の即席の船頭の唄を聴きながら、大きな広い流れに乗って舟が進み出すと、滑る様に流れていった。千鶴は隣の斎藤を見ると、斎藤は夜空をじっと見上げていた。薄っすらと微笑んでいる様なその表情を見て、千鶴は希望と力強さが身の内に湧いた。そして一緒になって空を見上げた。頭上には満天の星空が拡がっていた。
千鶴がうつらうつらと斎藤に凭れて眠っている内に、舟は船着場に着いた。もう空は白んできて、明るくなり始めている。ここから半里で城に着く。斎藤はそう言って目の前に見える天守閣を指差した。あそこに、幕府の本陣がある。我らの大将、慶喜公がおわせられる。隊士達は喜んで足早に歩いた。千鶴は斎藤の様子が気になった。もう陽が昇り始めている。きっとお辛いに違いない。
千鶴の心配を他所に、斎藤は力強く歩いていた。天守の門前で、新選組の隊服が見えた。新八と原田だった。千鶴は二人に向かって駆け出して行った。「よくぞ、ご無事で」そう言って、笑う千鶴に、新八達は、驚き、再会を大喜びした。てっきり伏見で死んじまったと思ってた。そう言って、新八は千鶴を小さな子供にするかの様に高く持ち上げて笑った。
「お、ちゃんと足が付いてるな。奉行所が大砲で焼き討ちにあって、俺らが着いた時は、皆んなやられてたからよ。もう崩れた建屋の中で潰されちまったと思ってよ」
新八は、瞳に涙を溜めている。千鶴は高く持ち上げられたまま、井上さんに斎藤さんを呼びに行く様に言われて、焼き討ちの難は逃れました。それでは、皆さん、ご無事なんですね、と笑った。
地面に降ろされた千鶴は、奉行所を守った井上が亡くなったと聞かされた。その場で涙を流し、動けなくなった千鶴を、原田が頭を撫でて慰めた。斎藤が無事に辿り着いた。斎藤が付いていたから千鶴も三番組の隊士もこうして合流出来た。これで幹部が集まる事が出来る。早く、土方さんに知らせないと。そう言って、皆で、天守の広間に集まった。
これが、本丸か。千鶴は広大な城の廊下や広間に茫然となって居た。そして、広間で土方に再会した時の、土方の安堵した様子と喜んだ声を聞いて、千鶴は笑顔のまま涙を流した。
「泣いてんじゃ、ねえよ。よくぞ無事だった、斎藤」
そう言って、土方は、斎藤の肩を揺さぶって、千鶴の頭ををぐしゃぐしゃと撫でた。斎藤は、久し振りに笑顔を見せた。そして、龍雲寺の斬り込みが失敗に終わって、敗走したことを土方に報告した。
「千鶴も、斎藤もよく生きていた。薩長の奴らは、デカい大砲を持っていやがる。確かに、もう刀だけで戦うのは無理がある。だがな、喧嘩には喧嘩の仕方がある。向こうが大砲なら、こっちも大砲を撃てばいい」
「もう、刀では闘えないと……」
斎藤は、力無い声で呟く。千鶴は、斎藤の瞳からどんどん気力が失われて行くのが見え、何とも言えない気持ちになった。
「ああ、刀だけではな」
土方は厳しい表情で答えた。すると、斎藤は、もう一つ報告する事がと言って。自分も預かっていた変若水を飲み羅刹になったと皆に話した。土方一同、驚きを隠せなかった。「とうとう、斎藤までが」そう言って、皆が、理由も聞かずに悲しそうな表情を見せた。だが、斎藤は、表情を変えずに、必要だから飲んだまでの事。後悔はしていない。そう一言だけ言って、沈黙した。
皆が、しんと沈みこむ中、新八は、「悪い報せは早めがいいぜ」そう言って、土方を促すと、土方は重い口を開いた。
江戸に戻る。
斎藤は耳を疑った。難攻不落の大坂城で籠城し、薩長を討つ。その為に、大坂に結集したのでは。何故、京を追われて、江戸に逃げ帰る必要が。
「俺らの総大将が江戸に帰っちまったんだから、仕方ねえよ」
そう言って、新八がゴロンと畳に横になった。斎藤は動けない。総大将、慶喜公が。呆然とする斎藤に、更に追い討ちをかける様に、「中将様ととっとと居なくなったんだとよ」と新八が腹ただしそうに呟くのを聴いた。
会津中将様が……。
斎藤は、更に目から光を失った。意気消沈とする斎藤を千鶴は心配そうに見詰めている。江戸に戻る船の手配は出来ている。明日、出発だ。そう言って、土方は、伏見奉行所から持ち込んだ身の回り品と武器の整理が必要だからと言って、千鶴と斎藤に其々の担当を振り分けた。
****
【終章】 小太刀の誓い
信じているものを見失うのは恐ろしい。
これは、いつも己の思いだったと思う。斎藤は、夜になってようやく身体が楽になって来てから冷静になった。江戸を出てから、六年。剣を捨てようと思ったこともある。自分を再び武士として取り立ててくれたのは会津藩、そして幕府だった。新選組に身を置く自分の拠り所。剣を振るう事で、微衷を尽くす。其れが己が道と信じて来た。
今朝、八軒家浜から見上げた城の天守閣は、大きく、そこに慶喜公がいると思うだけで、気持ちが浮き立った。総大将の存在は大きい。新選組の近藤さんや土方さんと同じぐらいに。
——俺たちは、見捨てられた。
新八が憤るのも無理もない。斎藤は苦笑いした。
「上には上の事情がある。俺たちは俺たちで、後の世に恥ねえ戦をすればいいだけだ」
副長の仰る通りだ。斎藤は、廊下を進んで、土方の部屋に向かった。土方は、まだ隊服を着たまま、文机で書き物をしていた。斎藤に部屋に入る様に言うと、手を止めて振り返った。
「火鉢もねえ。冷える部屋だが、人の出入りの分、少しは暖かいらしい」
そう言って笑った。斎藤は、土方に忙しいところを邪魔をして、申し訳無いと謝った。土方は、邪魔じゃあねえよ。そう言って、文机の書類を手にとって斎藤に見せた。船の積み荷の目録だ。殆どのものを処分したと思っていたが、こんなにもある。そう言って、やれやれと溜息をついた。
「身体の調子はどうだ」
土方が、静かに尋ねた。
「この時間にようやく、頭も身体もしゃんとする感じです」
「平助も同じ事を言っている。昼間辛ければ、襖を閉めきっておけばいい」
「俺は、大丈夫です」
土方は、畳を見詰めて、黙っている。
「なあ、斎藤。江戸に戻ってからの話だが。俺らは、幕府の指示を待つ事になる。江戸で戦が始まるかもしれねえ」
「はい」
「何れにせよ、幕府軍は巻き返す。これからだ」
土方の言葉は一言一言強く心に響く。斎藤は頷いた。
「俺らの乗り込むのは【富士山丸】だ。でっかい軍艦だ。幕府は、他にも四艦の軍艦がある。薩長に負ける事はねえ」
「喧嘩の仕切り直しだ」
不敵に笑う土方の目は真剣だった。斎藤は、土方を信じた。夕方に千鶴に「新選組はこれからどうなるのか」そう尋ねられた時、自分は何もハッキリと答えてやれなかった。何を迷っていたのだろう。雪村は、「自分の出来る限りのことをして、信じる」そう言っていた。斎藤の気持ちは決まった。
千鶴の事を考えていたのを見透かしたように、土方が「あいつの事だが」と話を始めた。
「俺らと一緒に江戸に帰還する。薩摩藩は銀の銃弾で撃ってくる。山南さんの話だと。羅刹は、銀の銃弾で受けた傷は癒せねえらしい。恐らく、雪村綱道が羅刹の弱点を薩摩に流している。薩摩に綱道さんはついている。風間もな」
「江戸に帰って、千鶴を独りにはしないようにしろ。いつ風間や綱道さんが連れ去りに来るかわからねえしな。それに、山南さんが、あいつの鬼の血を使って、羅刹の薬を作るって、言い出した。山南さんにも注意が必要だ」
斎藤は、山南が千鶴の血を利用しようと考えている事に驚いた。山南さんは、もう、正気を失くされ始めて居るのか。
「平助が、山南さんを見ている。屯所内でも目を光らせているから大丈夫だ」
斎藤が、頷いたのを見て、土方は腕を組んだ。
「だが、あいつは江戸の女だ。家も江戸にある。本人が家に帰りたいといえば、返す」
斎藤は土方の目を見た。千鶴を留め置き続けた自分たちは、江戸に帰還すれば、千鶴を解放する。その方が良い。雪村綱道は見つからず、新選組は戦に出て行く事になる。千鶴をこれ以上危険に晒す必要はない。
斎藤は、土方に頷くと。いとまを告げて部屋を下がった。廊下を歩いていると、ふと、傍の襖が開き、千鶴が出て来た。昼間と同じ格好で、帯刀したままだった。ずっと起きていたのか。
千鶴は、斎藤に「此れからも新選組について行ってはいけないか」と尋ねて来た。
「あんたは、元来こちら側の人間ではない」
つい、口をついて厳しい物言いをしてしまった。だが、戦に出て行く我々と行動を共にしようなどと、無茶過ぎる。
千鶴は引き下がらなかった。「命を救って貰った恩返しがしたい」そう言って、真っ直ぐに見詰めて来る千鶴の真剣な眼差しに、斎藤は決心した。千鶴の小太刀をとって、千鶴の前に差し出した。
「では、この小太刀に誓え」
我々と共に付いて来るのなら、命を落とす事もある。それでも、覚悟があるのだな。あんたに命を賭すだけの理由があると言うのなら。
千鶴は、斎藤の握る手を上から握って誓った。
私は此れからも、新選組の皆さんの、斎藤さんのお傍に
たとえ何があっても、私は皆さんを、
「斎藤さんを信じています」
千鶴は真っ直ぐに斎藤を見詰め返した。斎藤は己に信を置く千鶴とその誓いをしっかりと受け止めた。何処でも、ついて来い。俺はあんたを守り続ける。
どんな事があってもだ。
斎藤は、千鶴の手の温もりを感じながら、強く誓った。
完
(次シリーズ 戊辰一八六八 その1へつづく)