告白
戊辰一八六八 その22
慶応四年八月二十二日
雨の中を若松城下に辿り着いた新選組半小隊は、上之町にある旅館に投宿した。
兵糧掛の内田と鈴木は、そのまま歩兵と一緒に荷車を押して城に向かった。湖南守備方の援助として借り受けていた葛籠行李、火薬や銃弾の入った金穀箱を会津藩守備方に返す必要があった為である。先に宿入りした斎藤達は、雨に打たれて冷え切った身体を浴場で温め、火鉢の置かれてある部屋で温まった。千鶴はくるくると動き回り、全員の隊服を次々に火鉢と火熨斗で乾かして行った。
「袖を裏返して、重ならないように広げろ」
「火熨斗守雪村様のお言いつけだ」
吉田俊太郎が廊下から各部屋で休んでいる隊士や歩兵たちに濡れた隊服の扱いを触れ回った。日没後に兵糧掛の二人が宿に戻って来た。内田が斎藤に差し出した書状は、元京都守護職公用人倉沢右兵衛からのものだった。
我が公自ら指揮を執り
敵軍の侵攻を阻む為本日滝川本陣に着陣
城陥らば身は社稷と共に亡ぶるの決心也
たった三行の伝達。大殿は滝川峠からの敵軍を自ら迎撃つ覚悟。
我が藩は最後まで徹底抗戦する。
余はこの会津では決して後には引かん。我が兵と共に薩長と戦い抜く。
容保公に天守で拝謁した日を思い出す。決して後には引かぬ、不退転の決意。斎藤は、書状を丁寧に畳み懐に仕舞った。我らも城を守ろう。母成峠から敗走した伝習隊が塩川に逃げ果たせているだろう。直ちに合流しなければ。斎藤は強く決心した。広間に隊士達を集め、「容保公は滝沢本陣に向かわれた。敵軍と徹底抗戦されるご覚悟だ」と知らせた。そして「我らは軍議に参加されている土方さんの指示を待ち敵軍の侵攻に備える」と宣言すると、各自部屋に帰り消灯するように指示した。
******
半鐘
翌朝、まだ暗い内に城下の長命寺に詰めていた会義隊の野田進より斎藤の元に文が届いた。
新選組隊長山口二郎殿
十六橋破れ敵軍会津領に侵攻す
会義隊、此れより会津藩正規軍の援護致候
甲賀口へ馳せ参ずる所存
会義隊隊長 野田進
会義隊は正規軍の援護の為に城下に残る意向。斎藤は、隊士にただちに出立の準備を指示した。宿の外の通りに出た瞬間、けたたましい半鐘の音が鳴り響いた。敵軍が城下に攻めて来たと、人々が荷車を押し駆け回っている。遠くに砲音が響いている。斎藤は、隊列を組んで甲賀町通りに急ぎ走って行った。既に会津藩兵が甲賀口に米俵が積み上げ、胸壁を作っていた。斎藤達は城の守備方に面会を求めた。だが城へ近づく事は許されず、甲賀口城郭の中へ入ることも禁じられた。立ち往生している内に、城下の建屋には火が放たれ、大勢の逃げ回る人々で通りは騒然としていた。斎藤は隊列を乱さぬように方向転換させて街道を北に進むように指示した。会津藩正規軍の援護に向かう為にも、一旦新選組の半個小隊、伝習隊と合流する必要がある。
「これより、米沢街道を塩川へ向かう」
斎藤は、指図掛に声を掛けて小隊を率いて甲賀口から上高野へ向かい駆け出した。背後を振り返ると千鶴が歩兵掛と一緒に荷車を押し進んでいる姿が見えた。その背後には、城の天守が燃えさかる炎と煙の向こうに見えていた。
*****
仲間との合流
斎藤達は猛烈な勢いで走り、半刻程で下高野に辿り着いた。人の流れは緩やかになってきた。斎藤は隊列を三列にし、塩川への下街道をひたすら上って行った。
昼四つに塩川宿に辿り着いた。一番大きな旅館に新選組の島田魁と歩兵十名が待機していた。島田達は伝習第一大隊と一緒に母成峠より敗走し、会津藩兵の助けで滝沢峠を越えて九死に一生を得たという。互いに無事の再会を喜んだ。島田魁は滝沢本陣詰めの土方と早朝に面会が叶ったと云い。土方は桑名藩松平定敬公に随伴して米沢へ出立したという事だった。
「土方さんは、米沢藩へ援軍要請に向かわれました」
「我々も大塩宿で米沢藩からの武器補給を待つようにとの事です」
大塩宿は、塩川から北東三里半の距離にあり、大塩峠の手前に本陣を構えているということだった。千鶴は兵糧掛と一緒に昼餉を準備し、大量に米を炊いて握り飯を準備し始めた。
「おむすび三百個を用意しました。大塩から行軍することになっても心配ありません」
千鶴は額に汗をかきながら、握り飯を包んで内飼に詰めている。斎藤は、隊士達に食事を終えた者から順に、街道に荷車を並べて出立するように指示した。空は暗い雲が立ち込めている。陽の光が当たらない天候は斎藤にとっては有難いものだった。斎藤は、隊列の殿を千鶴と一緒に進んでいた。
「握り飯を喰い過ぎた。腹が膨れておる」
斎藤は登りになる道行に歩が遅くなることを心配しているようだった。大食漢の斎藤にしては珍しい事を云うと千鶴は思った。しかし、思い起こすとここ数日で、斎藤がまともに食事をしたのは、亀ケ城に辿り着いた時に食べた握り飯ぐらいだった。きっと島田さん達と再び会えた事で安堵したのだろう。
「食べられる内にしっかり食べてください。歩きながらでも食べられるように握り飯は小さく結んであります」
千鶴は微笑みながら隣を歩く斎藤に言うと、先頭を行く島田が隊旗を振る姿に大きく手を振り返した。
「味噌が入っておった」
暫く歩くと、ふと斎藤が呟いた。顔を見ると嬉しそうに微笑んでいる。昼餉に用意したおむすびには、斎藤の分にだけ、生姜味噌を中に入れておいた。京に居た頃より、おむすびの中に具を入れると斎藤は喜んだ。千鶴は斎藤の好む生姜味噌、煮昆布、梅紫蘇を欠かした事がない。生姜味噌は行軍中もわっぱに入れて持ち運んでいる。
「斎藤さんのお好きな煮昆布と梅紫蘇もあります。福良で十分に干して乾き兵糧にしてあります。炊いたお米もいいですが、そば粉にも混ぜて御焼きにしようと思って」
「雪村の兵糧があるのは心強い」
斎藤は満足そうに笑顔を見せた。街道は道行く人もおらず、道が泥濘になっている以外は順調に進むことが出来た。山道に入り勾配がきつくなってくるにつれて、歩兵たちが次々に加わって荷車を押して行った。大塩に着いた時、宿場全体が閑散としていて、旅館らしい建屋に声を掛けたが誰も居なかった。斎藤は不審に思い、直ぐに斥候を走らせ辺りを偵察に向かわせた。小雨が降り始め気温がぐっと下がって来た。一先ず、建屋の中に入って雨をしのいだ。
「隊長、宿場の者は裏山へ避難しています。薩長が攻めてくると猪苗代から報せがあったらしく。街道沿いの建屋は全てもぬけの殻です」
「地頭が会津さまなら居て貰ってもいいと」
村落の頭からの伝言で建屋は使うことが出来るとわかった。それにしても、竈に火を焚くこともできない。薪も炭もなく、筵が数枚あるだけの土間。斎藤は斥候を山に走らせ、避難している住人から物資を供出させるように書状を運ばせた。そこに街道を峠の方向から向かってくる者たちの姿が見えた。幕府伝習隊の旗、見覚えのある顔。隊士は、大声で叫んだ。
「おーい」
隊士の一人が建屋の壁に立てかけていた新選組の隊旗を大きく振って街道を下ってくる隊士たちを迎えた。
「伝習隊と新選組半個小隊が到着しました」
「池田も河合さんもご無事です」
吉田俊太郎が斎藤に報告しに奥の間に駆けこんで来た。伝習隊は七十名、新選組は四十名。建屋の前で互いの無事を確かめあって喜んだ。後続隊は荷を解いて、一番大きな建屋の広間に集まった。千鶴の用意した握り飯を頬張りながら全員で点呼をとった。残念なことに、新選組は什長の大下巌、旗役の漢一郎、隊長付きの小堀誠一郎、歩兵指図役の千田兵衛と鈴木錬三郎、歩兵小頭の加藤定吉を敗走中の銃撃戦で失ったことが判った。伝習隊も十二名を失い。母成峠の敗戦で旧幕府軍は大きな損失を負ったことを痛感した。
「峠の手前で大塩宿は物資がないと聞いた」
「ここを本営にすると、桑名藩士が言っていたというのは本当かい?」
大鳥が斎藤に訊ねた。裏磐梯の秋元原村で兵糧の補給を受けた伝習隊は怪我人を抱えていた。千鶴が隣の部屋で七名の負傷者の手当てをしている間、先行隊の隊士たちは宿の住人が避難している山小屋に向かい、集められるだけの夜具を供出して貰い山を下りて来た。日没前に桑名藩兵の部隊が到着し、空き家に分散して宿陣した。
日暮れと共に雨がきつく降り始め、炭を炊いた部屋の中に皆で集まって横になった。夜半の軍議で大鳥が旧幕府軍総督として米沢に向かい、武器と物資の補給要請に向かう事が決定した。斎藤達は大塩宿で待機し、近隣の村落で兵糧を集める役目につくことになった。
****
夜中に斎藤が新選組の控えの間に戻ると、隊士達は寄り添うように布団を共有して横になっていた。千鶴を探すと、床の間の前に小さく丸くなって眠っている。今日は一日歩き、食事の世話で千鶴が一番忙しくしていた。塩川の旅館で、握り飯を作って大塩に向かいたいと急に千鶴が言い出した時、出発が遅れると皆が反対したが、半刻で作り終えると言い張った。あの時の千鶴の判断は正しかった。これからは、食糧の確保をしてから移陣をすることを心掛けた方がよい。母成峠からの敗走も、兵糧の確保が出来ていたから隊士達は無事に逃げ果たせた。
あんたのお陰で助かった、雪村。
たとえ一かけらでも乾き飯が内飼にあれば、半日は凌ぐことが出来る。明日も出来る限り食糧を確保しよう。
斎藤は、自分の荷物を床の間の棚板の上から取ると、勝手口に行き囲炉裏端に座って紙と矢立を取り出した。母成峠で命を落とした者たちの名前を書き留める。流山を出てから、死線を一緒にくぐり抜けて来た強者たち。皆さぞや無念であろう。だが、決してそなた達の命は無駄にはせん。我らは必ず城を守って見せる。斎藤は懐から倉沢右兵衛からの書状を取り出した。
城陥らば身は社稷と共に亡ぶるの決心也。
大殿の決意を今一度心に留めた。そして、野田進からの文にも目を通した。会津藩正規軍の援助。我々も土方さんが戻ると同時に援助に向かう。武器弾薬の補給、隊の増強、やらねばならぬ事は山ほどある。斎藤は器械方の武器目録を取り出して確認した。弾薬はほぼ尽きている。恐らく伝習隊もそうであろう。一両日中に米沢からの援軍補給を待たねば。
囲炉裏の火も完全に消えて、冷え込みが強くなった。外の雨は止まず。斎藤も休むことにした。部屋に戻り、千鶴の傍で身体を横たえた。目を瞑って思い浮かぶのは、甲賀口から見た天守だった。
*****
米沢路
慶応四年八月二十三日
新選組が大塩宿に向かった頃、土方は米沢藩境にある桧原峠に辿り着いたが関所で足止めされていた。土方が随伴した桑名藩主松平定敬公は、速やかに領内に通された。同行していた幕府軍軍医の松本良順も同様である。だが、土方は関所通過を拒否された。
「幕府軍伝習第一大隊の土方歳三だ。会津藩への援軍要請の為にまかり越した。会津の城を守る為。家老への面会を願う」
どれだけ訴えても関所役人は何も応えず、陽が傾きかけた頃にようやく関所奉行の元へ通された。
「新政府軍が会津城下に侵攻しました。幕府軍伝習隊、回天隊を率いて会津を援護しに行く所存。轍鮒の急を救う為、どうか領内への通過と御家老様への御目通りを願い申し上げる」
ひれ伏して頼む土方に、奉行は「これより関所方が書状を持って家老へ伝達する。家老より達しが届くまで貴殿を通す訳にはいかぬ」と応えるだけだった。土方は翌朝にようやく関所を通され、綱木宿を通って米沢城下に向かうことが出来た。
「援軍要請はとっくに米沢には届いている筈だ。ここに来て俺等が足止めを食らうのが先方の答えだろう」
馬上の土方が傍を歩く相馬と野村に「米沢からの援軍は期待できない」と話した。厳しい表情で前を見ている土方は、入城を断わられたら引き返す。一旦塩川に戻って、隊を率いて北に向かう。そう宣言した。
「同盟軍はまだ庄内、仙台がある。隊を立て直して、会津を奪い返せばいい」
土方の言う通り、米沢城の菱門橋の前で土方達一行は門前払いをされた。関所奉行の書状を門番に渡しても通されず、土方は来た道を引き返すことになった。相馬が先に関宿まで戻り、大塩宿に待機している幕府伝習第一大隊と新選組に伝令を送った。そこで、相馬は土方宛の書状を受け取った。それは白石にいる藤堂平助からの文で、山南敬助率いる羅刹隊の動向を知らせる内容だった。相馬は直ぐに書状を持って土方の下に走った。
過日、仙台軍兵通過
羅刹隊近く仙台城へ移動の意向
藤堂平助は、閏四月の会津藩による白河城占拠の翌日に、山南率いる羅刹隊と一緒に会津入りした。その頃、土方は東山で療養中だった。山南たちの会津滞在はたったの一日で、直ぐに米沢に向けて出立した。平助は前日夜間に土方に面会し、事の経過を全て報告した。土方は平助に会津に留まるように指示したが、北上する山南と羅刹隊が気がかりだと言って、平助は山南に随行し会津を去って行った。
その後、白石に潜伏している平助は、会津の土方の元へ時折報告の文を送って来ていた。山南の率いる羅刹隊士の数は徐々に減っていっているということだった。
白石にて変若水造らず
中和薬の材料調達に奔走致し候
土方は平助から報告が来る山南と羅刹隊の様子から、山南の最終目的地は仙台だと予測していた。東北の諸藩が新政府軍に攻め入られるのを防ぐには、大きな軍隊を編成する必要があった。山南が羅刹隊を率いて仙台軍に加わるとしたら。いずれ、幕府軍と共に戦う事になる。だが、薩摩藩と繋がりを持つ山南が、同盟軍に協力をするとは考え難い。白石に羅刹隊が潜伏しているなら、土方が援軍要請で仙台に向かう途中、警戒する必要があるだろう。この機において、白石で土方を待っているという平助の報せは非常に心強かった。
「大塩宿へ戻る。隊を率いて白石へ向かう。最終目的地は仙台だ」
土方は、馬引きに命じて急ぎ大塩峠を目指した。
ちょうどその頃、大塩宿を出立した大鳥は、隣の宿場手前の桧原関所で足止めをされていた。幕府軍証書を見せても関所通過が出来ない状況を、大鳥は嫌な予感がしながら見ていたが、関所通過後に桧原峠を下ったところで、綱木宿の街道出口が封鎖されていた。これにより米沢藩は完全に大鳥たちの入国を拒否する意向であることが判った。藩境の門番に追い返される形になった大鳥は、せめて兵糧と武器弾薬の供出を得られないかと直談判したが、弾薬はないと断られた。仕方なく大鳥は綱木宿で一泊した。
翌日の八月二十五日、桧原まで引き返した大鳥は、今度は道に大木が倒されて峠が封鎖されている事を知った。米沢藩は新政府軍に寝返ったと大鳥は判断し、急ぎ大塩宿へ引き返した。天候が悪いにもかかわらず、大塩宿では新選組が順調に穀類の供出を募っていた。武器弾薬は乏しいままだが、当面の食糧は確保できていた。
「山口君、若松城下に向かうには、我々の武器弾薬は圧倒的に足りていない」
「これから北方で、会津は越後からの敵の進軍を阻む必要も出てくるだろう」
「北方方面で武器弾薬の確保をしながら戦う。それしか道はない」
斎藤は、大鳥が会津城下には戻らず、塩川から北方方面で戦う策を練っていることが判った。大塩から塩川までの距離は三里半。道は下りだから数刻で移動が叶う。斎藤は翌日の移陣の準備を隊士に指示した。
******
別離
慶応四年八月二十六日
翌日の午後、土方が相馬たちと大塩に辿り着き新選組と合流した。
「米沢からの援軍は来ねえ」
「武器弾薬の補給もなしだ。定敬公は米沢から仙台へ向かわれる。松本先生も一緒だ」
「これから会津は城下戦になる。籠城戦になる事も考えられる」
「会津へ武器弾薬を運べないなら、俺達は代りに東北諸藩と一緒に戦う」
「隊を率いてただちに仙台へ向かう。今なら米沢まで出れば、白石へは難なく進むことが出来る」
一気に捲し立てるように話した土方に、斎藤が「どういうことですか、土方さん」と遮った。
「滝沢本陣での軍議で決まった事だ。新選組は仙台に向かい、東北諸藩と共に戦う」
会津を見捨てるというのか。
中将様がそれを許されたのか。
斎藤は衝撃で言葉が続かない。土方は、そんな斎藤の様子に厳しい視線を向けたまま続けた。
「俺も出来れば最後まで会津と一緒に戦いたい、だが、俺達に仙台へ行けっていうのは、会津側の意志だ。容保公は定敬公に落延びて、同盟列藩と今後の謀を成せと仰せられた」
斎藤は絶句したまま動かなくなった。ずっと腕を組んで厳しい表情の土方に大鳥が意見した。
「伝習隊は、会津に居る幕府衝鋒隊との合流を考えている」
「塩川で当面の物資兵糧は確保できる」
「我々に必要なのは武器弾薬だ」
「北方方面で戦い、越後から武器調達が出来るかもしれない」
「僕は、少しでも可能性があるなら、まだここに留まるべきだと思う」
大鳥は北会津の地形図を広げて、指をさして幕府衝鋒隊が詰めている場所の説明を始めた。土方は腕を組んだまま眉間に皺を寄せて考えている。
「桧原峠の封鎖は、この先もっと厳しくなるかもしれねえ」
「この機を逃して北へ向かえなくなるくれえなら、今直ぐに移動した方がいい」
土方の決心は固いようだった。軍議は直ぐに解かれ、土方の指示で出立の準備をするように隊士に声が掛けられた。相馬と野村は、休む間もなくバタバタと動いていた。宿の外に荷車が並べられ、次々に荷物が積まれて行く。千鶴は、峠の封鎖と聞いて、再び握り飯を大量に用意した。陽が短くなった。七つには、外は暗くなり始め、先に島田魁が先行隊を率いて大塩峠に向かった。
大塩宿を出る時、見送りに出てきた大鳥圭介と土方は相馬と野村と先を歩き、最後に斎藤が千鶴と一緒に続いた。峠に差し掛かる麓で先行隊が待っていた。今夜は久しぶりに空が晴れて月明かりが明るく、山道の入り口に立つ大木の影が道に伸びていた。その時、突然斎藤が「土方さん」と声を上げた。
俺は、仙台には行きません。ここに残ります。
突然の宣言だった。それまでざわざわと話していた隊士達が一同に静かになった。土方は皆に移動を控えるように言うと、斎藤の前に戻った。
「松平中将様のご意向はよくわかりました。ですが、俺は、此度の命にだけは従うことができません」
「我々新選組は会津藩に多大なるご恩顧をこうむっています。会津藩がなければ今の新選組はなかったはず。その会津がまだここで新政府軍と闘っている。我々が武士として会津公に微衷を尽くす機は、今をおいて他にないと考えます」
「ここで会津を見捨ててしまえば、俺は武士としての生を全うすることなど到底叶いません」
土方の瞳が光っているように見えた。その真剣な表情は真っすぐに斎藤の眼を見詰めている。射貫かれるような眼差し。きっと怒っておられるのだろう。
——お前が言いてえことは、よくわかった。
土方の声が響いた。土方はゆっくりと言葉を続けた。これから会津は厳しい戦いになる。薩長の奴らは必要以上の兵力で攻め込んで来るだろう。死にに行くようなものだ。冷静に語る土方の言う通りだと斎藤は思う。ただ頷くしかない。だが斎藤は土方に背筋を伸ばして応えた。
「覚悟の上です」
土方の表情が僅かに微笑みを湛えたように見えた。それは少し哀しそうな。昔から、困った時に見せる独特の表情。土方に「ここで、俺達は別れることになるのか」と言われた。斎藤は、心の底から申し訳なく思った。頭を下げて謝る斎藤に土方は、
——おまえが選んだ道は間違っていねえ。
そう言って微笑んだ。
斎藤は、俯いたままだった。その胸に去来するのは、様々な想い。江戸の試衛場、京の屯所で土方と過ごした日々を思い出す。近藤さん、源さん、総司、新八、左之、平助、嘗ての仲間。剣の強さを認めて貰え。己が剣を振るう意味を見いだせた。唯一の居場所。どんなことがあっても、土方さんに付いて行こうと思っていたのに……。
「お前がこんなによく喋る奴だとは思わなかった」
土方がふっと笑い声を立てた。斎藤は顔を上げられない。堪えても眼に涙が溜まってしまって仕方がなかった。
「土方さん、お願いがあります」
俯いたまま斎藤は、なんとか声を出せた。
「新選組の隊旗を、俺に下さい」
「俺は、最後まで誠の旗の下で戦います」
土方は隊士達が集まっている場所へ戻って行き、斎藤が残ることを皆に伝えた。そして、旗手の尾関雅次郎を呼び寄せ、歩兵団の荷物の中から新選組の隊旗を持って来させた。小さく畳まれた旗は、赤地に白く誠の文字が描かれている。再び隊士達が騒然としだした。土方が旗を斎藤の手に渡した時、数名の隊士たちが「俺も残る」「わたしも残ります」と声を上げているのが千鶴の耳にも聞こえた。
土方は、改めてその場で、島田や相馬たち一人一人に仙台に行く意志があるかを確認した。皆が、土方に付いて仙台に行くと云って頷き合った。そして土方は最後に、斎藤の傍らに立っている千鶴に声を掛けた。斎藤は自分の耳を疑った。
「わたしは、ここに残ります」
きっぱりと答えた千鶴に、斎藤は心底驚いた。衝撃で何も言葉が出てこない。同時にどうしようもなく腹の底から怒りの感情が押し寄せた。何を言っている、雪村。斎藤は厳しい視線で、千鶴を睨んだ。隊士達が騒然とする中、土方は厳しい表情で会津は激しい戦場になると念を押した。それでも千鶴は、土方に「ここに残ります」ときっぱりと言い放った。そして、島田達と一緒に、荷物を分け始めた。
土方は、残る者たちの荷物を地面に置くと。大鳥に向かい、「大鳥さん、新選組をよろしく頼みます」と言って深々と頭を下げた。皆が別れの言葉を交わし合っている。土方は、目尻に涙を浮かべている千鶴の肩に手を掛けて「よく、二人で話し合え」と斎藤の方を見て優しく微笑んだ。
「追いかけて来たければ、追いかけて来い」
土方はそう言って、山道の暗がりに足早に歩いて行った。斎藤は、土方の姿が見えなくなった後も、暗い山道の前で憤った表情のまま立っていた。
——何故、ついて行かぬ。
怒りはそのまま目の前に立つ千鶴に向けられた。千鶴も斎藤の恐ろしい形相を見て、その場に立ち尽くしたように動けなくなってしまった。
月が山影の向こうに隠れて、急に辺りは暗くなった。残った隊士達は、ずっと憤怒の表情で佇む斎藤に、「先に宿に戻っています」と声をかけて道を戻って行った。吉田俊太郎は、その場を動かない千鶴と斎藤が気になり、ちらちらと何度も振り返りながら歩いていると、伍長の志村が「放っておけ」と言った。吉田は仕方なく、斎藤の荷物を抱えて宿に戻った。
*****
告白
わたしは、ここに残ります。
途方もないことを云う。無茶苦茶だ。斎藤は怒りで全身が震えていた。
「今からでも遅くはない。土方さんの後を追って、共に仙台へ行け」
斎藤が強く言っても千鶴は首を横に振って「嫌です」という。一体、何を考えている。無謀過ぎる。斎藤は一歩前に出て、千鶴の目を見て云った。
「ここに残っても、無駄死にするだけだ。行け」
「斎藤さんは死ぬのを……、死を覚悟されているんですよね……」
千鶴は暗がりに黒く光る大きな瞳でじっと見詰めてくる。瞬きもせずに。ただ真っ直ぐに見上げてくる。だが時折震えるような息遣いに雪村の心の揺れが見えた。
「わたしは最後まで、斎藤さんのお傍にいたいです」
どういうことだ、俺に義理立てするというのか。無茶だ。心の中で叫んだ。千鶴を睨み返すと、千鶴は胸に手をやって左手で腰の小太刀の柄をぎゅっと握りしめていた。その姿は、あの夜と同じ。
暗がりの中で誓い合った。冬の日。あれは大坂城での最後の夜。
——命を救ってもらった恩返しがしたい。
新選組に付いて行きたいと云った雪村。俺はあの日、雪村に誓った。必ずあんたを守ると。
「命を救ってもらった恩返しなら、なにもここに残ることはない。土方さんと共に仙台へ行けばいい」
雪村は首を振っている。「違う」だと。何が違うのだ。
——私がお傍にいては、いけませんか?
大きな瞳は何かを訴えようと、じっと見つめ返してくる。
傍に居たいだと。あんたは一体……。
考えてはならない想いが心中に巡る。
(ずっと傍で守ってやれる。この手で)
それは俺の身勝手な了見だ。ならん。絶対にならん。
火が放たれた会津城下が心に浮かんだ。銃砲が響き渡り砲弾が飛び交う激しい戦い。敵に取り囲まれ逃げ場のない戦場で命の保障はない。雪村がそこに身を置くなど絶対にあってはならない。絶対に……。
「あんたを死なせたくない」
なんとか声に出せて云えた。自分の放った言葉が独り歩きするような。それでも、目の前の千鶴はそれをしっかりと受け取るように頷いた。大きな瞳は真っすぐに自分を見つめ返す。
わかっています。
ここで会津公を見捨てたら、斎藤さんはこれからずっと後悔し続けるってこともでしたら
せめて、お傍にいたいんです。
最後の瞬間まで、斎藤さんと共に。
違う。心中で否定をした。だが、わからぬ。どう云えばいい。どう説得すれば雪村は納得する。早くここを発たせなければ。土方さんの下へ。どうすればいい。
——武士は慙悔の念は持たず。
俺の中にも迷いがないとは言えん。こうしている今も、俺自身が土方さんの元へ走ろうか、今から急いで追えばまだ間に合うのではないかと……後悔するのではないか惑う。
「俺は、あんたが思っているほど、強い人間ではない」
心に思う事をあんたに話すしかないのか……。考えても、考えても、どう伝えればいいのかがわからぬ。
「これから先、俺は死を前にして、見苦しく、のたうち回らぬ自信などない」
ただ俺は、死ぬ間際まで武士でいたい。
最期は近藤さんのように、潔くあの世へ行きたいと思っている。
目の前の雪村は、ずっと両の眼を見開いたまま、俺の言う言葉を聞いている。
俺は己が内に信じている事の為に、此処に残ると決めた。
それが俺の答えだ。それが、たとえ間違いだとしても。
俺は己が正しいと思う答えを選んでいきたい。
城を守り、会津を守る。守りたいと思っている。
「だが、もし……」
あんたの目に映っている俺が、迷いなどない完璧な武士であるなら。
何も見苦しい姿をわざわざさらす必要はあるまい。
「……このまま、別れるのがいい」
千鶴は首を横に振っている。黒い瞳がキラキラと光っているように見える。雪村、泣いているのか。
「行け、俺は、本当の俺の姿などあんたにみせたくはない」
正直な。これが俺の胸の内だ。さあ、行け。このまま、ここで……。
「斎藤さんが考えて、悩んで苦しんで。それで出した答えなら、どんなものでも受け入れられます」
たとえ何があっても、斎藤さんの姿を見苦しいなんて絶対に思いません。
ですから、お願いです。お傍にいさせてください。
心に響くその言葉は、雪村の口から発せられた声と共に俺の胸を貫いた。熱い塊が、己が身を射貫くように。
離したくない。あんたを。
これが、俺の真の想い。隠していた。心の奥底にずっと。
思わず手を伸ばして掻き抱くように千鶴を引き寄せた。
今、あんたが言った言葉。それは本当か。
両の眼をしっかりと見詰めて問う。そこにあるのは黒い大きな瞳、誠実な眼差し。
「斎藤さんのお傍にいたいです。連れて行ってください。一緒に」
嘘、偽りのない。あんたの想い。
全身が震える。魂から出た言葉だ。こんなに……嬉しい事はない。
心と心が触れあう。気持ちが溢れ出す。
離したくない。最後まで、ずっと。
たとえ、それが命を失くす瞬間でも。
唇が触れあった。互いの想いが通じ合う。
同時に悲しさと悦びがない交ぜになった
狂おしい程の想いがただ溢れかえる。
一度、唇を離した。互いに見つめ合う。今この瞬間が永遠のように感じる。
夜の帷に包まれた二人は強く抱き締め合った。
*****
胸の鼓動
峠の入り口から、斎藤と千鶴はゆっくりと歩いて宿に戻った。
辺りには虫の声と、遠くに梟の鳴き声が聞こえ、再び月明かりが辺りを照らし始めた。斎藤は、千鶴の手を引いて前を向いて歩いている。その横顔を千鶴はずっと見詰めながら歩を進めていた。
決して離れないと互いに誓い合えた。
初めて想いを伝え合えた悦びに、このままずっと歩いていたいと思ってしまう。だが、二人は直ぐに宿の玄関に辿り着いた。斎藤は新選組の隊旗を小脇に抱え、そっと玄関の戸を開けて先に中に入った。建屋の中は、真っ暗だった。消灯をしたか。斎藤はそう思った。
そっと千鶴の手を引いて上り口に上げると、斎藤は革靴を脱いだ。一番手前の部屋の障子を開けると、隊士達が雑魚寝をしていた。
奇妙な程の静寂。
斎藤は隊士たちが眠った振りをして息を凝らしている姿を見て、何も言わずに障子を閉めた。隣の部屋の様子も同じだった。斎藤が足音を立てずに進む後ろに千鶴も続いていた。夜目が効く斎藤は、暗い廊下を奥に進んで行く。
開け放たれた一番奥の間に斎藤の荷物と千鶴の荷物が置かれてあった。
明り取りの窓から月明かりが射し、土壁がぼんやりと浮かんで見えた。斎藤がずっと立ちすくんだまま障子の前で止まっている。千鶴は部屋の中に入って、荷物の前に正座した。斎藤は、部屋の隅に積んである夜具をじっと見ている。
一組の布団。
冷え込む夜間は、布団が必要なのは明らかだった。千鶴は荷物を部屋の端に運ぶと、内飼袋を肩から外し、腰の荷物も解いた。そして、斎藤の荷物から綿入りの陣羽織を取り出した。斎藤が肩の荷物を解くと、背後から荷物を受け取り、上着を脱ぐのを手伝う。
思えば、俺の身の回りの世話をいつ頃から千鶴がするようになったのか。
ふと、そんな事を考えながら、上着を千鶴に預けた。千鶴は羽織を斎藤の背中に掛けた。温かい。千鶴は着物掛けに上着を掛けると、布団を敷き始めた。斎藤は、部屋から出ようとしたが、千鶴に手を引かれた。
「休んでください」
囁くような声でそう斎藤に伝えると、千鶴は布団の傍に正座して、寝間を整えた。
二人で想いを伝え合ってから、初めて千鶴が発した言葉。千鶴は再び黙ったまま、斎藤が布団に横になるのを待っている。
斎藤は布団の上に羽織を着たまま横になった。
千鶴は、そっと上掛けを斎藤にかける。慈しむような表情で優しく布団を整えると。
「おやすみなさいませ」と囁いた。
斎藤は千鶴の手を引いた。強く手繰り寄せるように引き込み。布団の中で抱きしめた。
小さくなって身じろぐようになっている千鶴の背中に上掛けを手繰り寄せた。
「このまま眠るとよい」
腕の中の千鶴が小さく頷いたのがわかった。
そのぬくもりに、生き心地を感じる。同時に千鶴から香る甘い匂いにふわふわと身が宙を浮くような感覚もする。一つの布団に共に横になることに、さっきまで動揺していた事が不思議な程に、千鶴が己の傍に居る事が嬉しくて仕方がない。
腕の中で。
守りたい。ずっと。
そう思った時、千鶴が顔を上げて頬を斎藤の胸に預けた。そっと目を瞑ったままの千鶴は、微笑むような表情で伏せた睫毛は長く、小さな右手は斎藤の陣羽織の袖を握りしめている。
斎藤は千鶴の髪を撫でた。そして、背中に腕を回して温めるようにしっかりと抱きしめて目を閉じた。
千鶴は、斎藤の腕の中で斎藤の胸の鼓動を聞いていた。
斎藤さんの心の臓の音。
ずっと聞いていたい。
ずっとこうしていたい。
千鶴は幸せな気持ちで一杯だった。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その23へ
(2020/09/01)