亀乗り

亀乗り

慶応元年七月はじめ

 西本願寺に屯所が移って初めての夏を迎えた頃のこと

 朝から外は嵐で、巡察が中止になった。土方の指示で、屯所内の大掃除を命じられた隊士は、朝食の後に自室、その後は、道場や廊下の掃除に勤しんでいた。お堂の広間の掃除を仰せつかった相馬と野村は、須弥壇の仏具の埃払いを始めたが、煤で真っ黒になった蝋燭代を手拭いで拭っても綺麗にならない。

「これは、前にまとめて磨こうって話してたやつだ」

 畳の上に拡げた布の上に綺麗に並べられた仏具の前で、相馬が野村に話しかけた。

「そうだっけ、雪村先輩は、床の間の器のこと言ってたと思ったけどな」

 野村は、器用に台の上に足をかけて一番上の燭台を取ってくると布の上に置いた。

「確かさ、へっついの炭の燃えかすと砂で磨くとか、言ってなかったっけ?」

 相馬が仏具を手にとって外から入る光で眺めながら呟いた。

「雪村先輩は、部屋にいるだろ。やり方を教えてもらえばいい」

 野村はそう言うと、一番小さな燭台の受け皿を手拭いにくるんで千鶴の部屋に向かった。相馬も一緒に付いていった。千鶴は、部屋で横になっていた。開け放った障子の向こうから野村と相馬が声をかけた。

「あれ、雪村先輩。どうされたんですか?」

 そう言いながら、二人は廊下に膝をついて座ったまま千鶴の様子を心配そうに見ている。千鶴は、あわてて振り返ると、身体を起こして布団から出た。

「失礼します。先輩、具合がお悪いんですか?」

 野村と相馬は、そのまま部屋の中に入って来た。千鶴は、「ううん、今朝方少し調子が悪くて。休んでいただけ」といいながら、身仕舞いを正すと二人の前に正座した。

「少し、お顔の色がわるいようです」

 相馬が心配そうに千鶴の顔を覗き込んできた。千鶴は、ゆっくり首を振って、大丈夫と笑った。

「皆さん、大掃除をされているのに、ごめんなさい。私も今からお手伝いします」

 そう言うと、千鶴は行李から襷を出すと素早く掛けて、髪も整えた。相馬達は、お堂の須弥壇の道具を磨こうと思っていると話すと、千鶴は押し入れの物入れから沢山のぼろ切れを出した。

「これと、お台所の炭の燃えかすがあれば」

 そう呟くと、千鶴は相馬と野村と一緒に台所に向かった。へっついから灰を集めると、それを小さな容器に入れて、桶に水を汲んだものを野村と相馬に運ばせた。外は再び黒い雲が空を覆って、お堂の中は暗いままだった。三人は須弥壇の前で、布の上の仏具を一つ一つ丁寧に、水で練った灰をつけて磨いていった。仏具は、黒く曇っていたが、磨くと金地が輝き見違えるぐらい綺麗になった。



*****

雷鳴

「先輩、此見て下さい」

 相馬が美しい燭台を掲げて見せる。千鶴は、金色に輝く仏具を見て驚いた。

「すごく綺麗。こんなに輝いて。暗いお堂が明るく照らされるみたい」

 千鶴が有り難そうに下から見上げて褒めるので、相馬は照れ臭くなった。

(先輩が褒めてくださった。こんなに嬉しそうに)

 もうこうなったら、須弥壇をぴっかぴかに磨きまくってやる。

 相馬は張り切り出した。それを見て野村も負けじと一生懸命手を動かす。三人は黙々と仏具を磨き続けた。外は再び強く雨が降り始めていた。

 すると、廊下の向こうが一瞬明るく白く光った。
 一瞬の後に轟くような雷鳴。

 千鶴は、悲鳴を上げると、手に持っていた仏具を畳に落としてそのまま突っ伏した。

 また外が白く光った。同時にどーんという音と何かが裂けるような凄まじい音がした。千鶴は、更に悲鳴を上げて、須弥壇の前にあった座布団を掴むとそれを頭から被って小さくなった。うずくまったまま全身が震えている。相馬と野村は、突然の雷鳴より目の前の千鶴の恐がり様に驚いた。ちいさな先輩。雷がおっかないのか。
 これが他の隊士なら、雷ごとき、何を怖がっている、と大笑いしただろう。だが相馬にとって、尊敬する先輩である千鶴は男なのにか弱く、この様な姿で震えていると、それを笑うどころか心配で、気の毒で、なんとかならないかという気持ちが不思議と湧いてくるのだった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 相馬は、道具を放り投げて千鶴に駆け寄った。その間も、落雷はひっきりなしに続き、千鶴はそのたびに悲鳴を上げた。相馬は野村を呼ぶと、須弥壇に被せてあった真っ白な大きな布を取って千鶴の上に被せた。

「先輩、俺等がついてます」

 そう言って、相馬は白い布の上から覆い被さるように千鶴を守った。

「おい、野村、お前もそっちからお守りしろ!!」

 野村は相馬に言われた通りに反対側に立って、覆い被さった。

「先輩、雷は絶対に本願寺には落ちません。大丈夫です」

 相馬は千鶴を抱きかかえるように守った。白い布の下で、まだぶるぶると震えているのが解る。相馬と野村は千鶴を励まし続けた。

 ちょうどその時だった。広間の障子が開け放たれると、どかどかと誰かが走って来た。藤堂平助と永倉新八だった。二人とも襷に額には手拭いを鉢巻きのように巻いていた。手にはハタキを持って、それを刀のように打ち合っている。

「おい、この勝負は貰ったぜ、平助」

 新八は笑顔でハタキを思い切り平助の顔の前で跳ね返すと、胴を突いた。

「いてーー、ぱっつあん。手加減しろって」

 平助がうずくまっている。二人とも大掃除の途中で討ち合いを始めたのだろう。息を切らしたまま、膝をついて笑い合っていた。その間も須弥壇の前では、怖がる千鶴を相馬と野村が一生懸命励まし続けていた。平助が最初に二人に気づいた。すると、立ち上がってハタキを畳に投げると、勢いよく走っていった。

「よーっし、亀ごっこだったら。俺にまかせとけって」

 平助はそのままうずくまる相馬と野村の上に、思い切り勢いをつけて飛び乗った。全身を大の字に拡げて空中から落下すると、下にいた相馬と野村はうめき声をあげた。二人とも何が起きたのか解らない。突然、背後に衝撃とつんざくような平助の笑い声が聞こえた。

「ほら、ぱっつあん。次つぎー」

 平助が首だけ新八に向けて誘う。新八は助走を始めた。

「お前ら、親亀さんが今行くぞーー」

 そう叫びながら、新八が突進してくる。嘘だろ、相馬は首をなんとか動かして向こうを見た。新八が満面の笑顔で迫ってくる。そして手前で思い切り畳を蹴って飛びあがった姿が見えた。

 むささび
 大むささび
 むささびの化け物

 大の字になって落ちてくる新八は不思議と動きがゆっくりに思えた。そして、直後の衝撃。痛え、重い。死ぬ。相馬も野村も息が出来なかった。そしてつんざくような新八の笑い声が聞こえた。

 どうだ、参ったか。
 大亀はな
 こうやってよー

 そういいながら、更に身体を揺らして圧をかけてくる。相馬は駄目だと思った。やめてくれ、となんとか声をあげたが、声にならない。

 そこへ、「なにしてんだー」と原田左之助の声が遠くに聞こえてきた。相馬は助かったと思った。

「お、左之。いいとこ来た」

 新八が笑う声が聞こえた。「おい、亀乗りだ。お前も来い」と誘っている。嘘だろ。相馬が思った瞬間。

「なに、やってんだ」

 と原田の声がしたと思ったら。思い切り衝撃が背後から来た。

「どうだ、お山の大将のお出ましだ」

 原田が笑っている。「掃除もしねえで遊んでる奴らは、俺の重しで潰してやる」

 どんどん圧がかかってくる。もう駄目だ。はらわたが潰れる、息ができねえ。相馬は、喉から声を振り絞った。

「せ、んぱい……。ゆきむら、せ、んぱいが……」

 暫くしてようやく、亀乗りが崩れた。平助が「すげえ、重かった。左之さん、目方いくつあんだよ」と笑っている。

 「二十貫はあるな」

 そう答える左之助の声が聞こえた。ようやく意識が戻ってきた相馬は、畳に伸びている野村を見ると、慌てて起き上がった。

 「先輩、ゆきむら先輩!!」

 そう叫びながら、白い布をはぐった。畳の上で千鶴はうずくまったまま動かない。相馬は千鶴の身体を揺すった。千鶴はぐったりとして動かなかった。

 「先輩!!」

 抱き上げて仰向けにされた千鶴は、気を失っていた。真っ白な顔は血の気を失い、ぶらんと垂れ下がった手は力なく、相馬が呼びかけても反応がない。相馬の叫ぶ声を聞いて、平助たちが振り返った。畳にぐったりと横たわる千鶴の姿を見ると、血相を変えて三人は走ってきた。

「千鶴、どうした」

 三人は千鶴を相馬の腕から奪うように抱えると、千鶴の頬を揺らすようにして何度も名前を呼んだ。全く反応をしない千鶴に、左之助が身体を抱えて顔を近づけた。

「息をしてねえぞ、おい」

 慌てながら、何度も首に手をかけて脈があるかも調べるが、千鶴はもう事切れているようにしか見えない。平助はおろおろとしている。

「一番下に、千鶴がいたなんて。どうすんだよ」

 そう言って平助が千鶴の顔を覗き込んだ。新八は千鶴の顔を覗き込んで。「死んじまったのか、千鶴ちゃん」と血相を変えていた。左之助が千鶴を抱きかかえた。

「おい、千鶴を部屋に寝かせるぞ。明るい場所で様子をみよう」

 左之助はそう言うと、千鶴を抱えたまま足早に廊下を千鶴の部屋に向かって行った。平助も新八も付いていった。相馬と野村は、千鶴の部屋に走って障子を開けると、敷いたままになっていた布団を整えた。左之助は千鶴をそっと布団に寝かせると、相馬と野村に向かって医者を呼んでくるように頼んだ。

「四条、妙満寺の隣の【広瀬元卿ひろせげんきょう】って蘭方医だ」
「新選組っていえばわかる」

 左之助は、懐から銭入れを出してそのまま野村と相馬に渡した。駕籠でも馬でも頼んで、すぐに来て貰え。廊下を走って行く二人に左之助はそう指示した。



*****

乱闘

 布団の中の千鶴は顔面が蒼白のまま。明るい部屋で見ると、虫の息だが生きてはいるようだった。呼びかけても目覚める様子はない。大きな男が五人。この小さな身体に重なるように乗って押しつぶした。なんてこった。知らなかった事とはいえ、乱暴な振る舞いでとんでもない事をしでかしたと左之助も平助も新八も反省していた。

「なあ、襷をとってやらねえと」

 平助は、そう言って上布団をはぐると千鶴の肩から襷をとってやった。すると左之助が、千鶴の袴の結び目に手を掛けた。平助が驚く間に、するすると袴を脱がしてしまった。

「おい、何すんだよ」

 平助が、左之助の手に手を掛けた。左之助は、千鶴の足袋も脱がしている。

「寝間着に着替えさせんだよ」

 左之助は千鶴の着物の帯に手を伸ばすと、平助がその手を掴んで払いのけた。

「何すんだよ」

 千鶴の腰を庇うようにして平助は左之助を睨んだ。

「着物を脱がせる訳にはいかねえだろ」

 平助は怒った顔をして左之助を睨み付けている。

「脱がせるもなにも、身体を締め付けているものを緩めてやらなきゃ駄目だろう」

 左之助が不本意そうにまた帯に手を伸ばした。平助は、「だから、駄目だって」と言ってその手を払いのけた。その瞬間、左之助は平助の手首を持って「何が駄目なんだよ」っとそのまま平助を突き飛ばした。

「痛ってえ」

 尻餅をついた平助が直ぐさま起き上がると、左之助に飛びついて行った。左之助は平助に羽交い締めにされたが、そのまま立ち上がると背後の平助の腕を引いて、自分の身体を前に折るようにしながら背中から平助を投げ飛ばした。半分閉められていた千鶴の部屋の廊下への障子に平助はそのままぶつかり、障子は外れて平助もろとも廊下に倒れた。

 痛ってえ

 うめき声と一緒に平助が起き上がると、左之助めがけて突進していった。左之助は、「お前は、わかんねえ奴だな」と本気の表情で再び平助を廊下に放り投げた。その様子を見ていた新八が、団扇でそっと千鶴を扇ぎ心配そうに千鶴の顔を覗き込んだ。

「やっぱりよ、暑さもあるぜ。着物は緩めてやった方がいいんじゃねえか」

 そう呟いている。そこへ総司がやって来た。

「ねえ、さっきから騒がしいけど、なんなの」

 総司は不満そうに寝間着のまま廊下に立っていた。千鶴が布団に横たわっている姿を見て、「どうしたの? その子」と様子を見に来た。

「具合が悪いんだ。気を失ったまま起きねえ」

 そう説明する新八の隣に座った総司は千鶴の顔を覗き込んだ。耳を千鶴の唇の近くまで持って行って息をしているか調べている。廊下では相変わらず平助と左之助がとっくみあいを続けていた。

「息はしているみたいだね」

 総司はそう言うと、「ちづるちゃん、聞こえる? 僕だよ」と目を瞑ったままの千鶴の耳元に話しかけた。千鶴は全く反応がなかった。総司は、首に手を当てたり手を握ったりした後、おもむろに帯に手をかけて解いた。下着姿の千鶴を新八は見てはいけないと思って慌てて背中を向けた。そこへ、平助と左之助が大声を上げた。

「おい、総司、何してんだ」

 今度は、平助と左之助が二人がかりで総司に飛びついていった。総司は、二人に引き摺られるように廊下に放り出された。

「ちょっと、なに」

 総司の荒げた声が響く。平助と左之助は仁王立ちになって総司を睨んだ。

「誰が、千鶴に手をかけていいと言った」

 左之助が怒った声で総司を睨みつけている。その隣で平助もそうだ、なにやってんだよと怒っている。

「晒しをとってあげなきゃ。あれ、凄く固く締め付けてるの知ってる? あの子、気を失ってるの。胸で息ができないからだよ」

 そう言いながら、総司は四つん這いのまま部屋に戻ると、千鶴の下着に手をかけた。平助が滑り込むようにその手を掴んで払いのけると、「やめろって」と叫びながら、総司を羽交い締めにした。暫くのとっくみあいの末、総司は千鶴の小太刀に手をかけた。襲いかかる平助に向かって柄を持つと、膝をついて斬りかかる体勢になった。

「ちょっと待った」

そこで新八が止めに入った。「総司、抜く気か?」「駄目だぞ」「私闘になる」そう言って、新八は慌てだした。

「新八さん、止めないで。僕はやられてばかりは嫌なの」

 総司の目は爛々として、平助を睨み付けていた。

「僕は、この子にさんざん着替えや身体拭きって言われて、着物を脱がされてる。いいじゃない、たまには僕が世話してあげても」

 そう言って、皮肉な表情で総司は笑った。

「総司が肌を見せるのと、意味が違うんだよ。ぜってえ千鶴には触らせねえ」

 平助は、身構えながら総司を睨み付けた。そこへ、廊下を誰かが足早に歩いてくる音が聞こえた。

「なんだ、騒がしい。表階段まで声が聞こえてるぞ」

 土方の声だった。朝早くから黒谷に出向くと言って斎藤と出掛けた土方が、用事が終わったのか屯所に戻ってきたようだった。千鶴の部屋の障子が外れて廊下に倒れているのを見て、騒動が起きているのを察知した。

「なんだ、一体」

 土方は千鶴の部屋で総司と平助と左之助が睨み合っている姿を見て驚いた。土方の背後には斎藤が立って、千鶴が布団に下着姿のまま横たわっているのに衝撃を受けた。

「雪村、どうした」

 睨み合う三人の中に割って入っている土方を余所に、斎藤は千鶴の傍に駆け寄った。上布団を引き寄せ、千鶴の身を隠すように掛けると、額を触って熱があるか確かめた。新八が、事のあらましを簡単に斎藤に説明をした。

「もう、ずっと揺り動かしても、なにやっても目を覚まさねえ」

 新八は心配そうに顔をのぞき込みながらそっと団扇で千鶴を扇いだ。斎藤は、血の気を失った千鶴を見て愕然とした。ここまで生気をなくした千鶴は初めてみた。圧死寸前。屯所の中で、なんということだ……。

 茫然とする斎藤の背後で、総司は土方に小太刀を取り上げられ、病人の傍で暴れる奴がいるかと怒鳴られていた。そこへ、相馬と野村がお医者様をお連れしました、と声をあげて廊下を走ってくるのが聞こえた。相馬と野村の背後には、白い上着を着た医者とそのお付きに同じように白い上着を着て、風呂敷包みを抱えた娘が足早に歩いてきた。

「おお、先生。よく来てくれた」

 土方は、広瀬の姿を認めると、直ぐに千鶴を診てもらうように頼んだ。そして、総司達に広間に集まるように命令した。立ち上がった斎藤に、土方は振り返って、

「斎藤、先生の見立てが終わるまで、廊下で待機していてくれ」

 そういいながら廊下のはずれた障子を指さした。斎藤は、承知と返事をすると直ぐに、はずれた障子を立て掛け敷居に戻した。蘭方医は、助手の娘と一緒に丁寧に千鶴を診察している様子だった。そのまま障子をそっと閉めると廊下で待った。



*****

お堂の広間にて

 お堂の広間で、腕組みをして厳しい表情で座る土方の前に、総司、平助、左之助、新八、相馬と野村の五人が正座をして座っていた。

「話を聞かせて貰おう」

 静かに土方が、相馬と野村に顎で事情を説明するよう命ずると、相馬と野村はお堂で千鶴と三人で須弥壇の仏具を磨いていたと説明した。

「雷を怖がるあいつを守ったんだな」

 相馬と野村は「はい」と返事をした。それから、【亀乗り】をされて、一番下の千鶴が潰れたと説明すると、

「すみませんでした。俺と野村がついていながら、先輩をこんな目に遭わせてしまって」

 相馬は畳に額をつけるようにして謝った。野村もその隣で同じように頭を下げていた。土方は、頭を上げろと二人に言うと、事情はよくわかったと静かに話した。

「広瀬先生を連れて来てくれたのも、お前達だな」

 土方は二人に訊ねた。相馬と野村は、「原田さんに直ぐに医者を連れて来いと言われたので、四条に走りました」と説明した。土方は溜息をついた。

「よくわかった。医者を呼んで来てくれたことに礼をいう。お前らにひとつ頼みがある」

 千鶴の代わりに今日は、午後、夕餉の支度をして欲しい。当番の者と相談をして、今から取りかかってくれ。

 土方は相馬と野村に指示をすると、二人は早速広間を出て行った。それから、土方は平助と新八に【亀乗り】の経緯を説明させた。途中、話を聞く土方が怒りを通り越して、青筋がこめかみに立ち始めたのを見て、平助は心底怯えた。

「そこへ、原田。お前がやってきて、最後に乗っかった。そうだな」

 土方が静かに状況を確かめた。左之助は、「ああ、そうだ。俺が最後に乗っかった」と潔く認めた。

「だが、土方さん。俺らはそこに千鶴が居るって知らずにやった。そこに千鶴が居るって判ったら、上に乗っかって押しつぶすなんて事はしねえ」

「それだけは解ってくれ」

 原田の言い分を土方は黙って聞いていた。それから、具合の悪い千鶴の傍で何故私闘まがいのことが起きたのか、その説明を総司にさせた。

「僕は、晒しをとってやろうとしたんですよ。息苦しそうだからね」

 総司は、当たり前のように話す。平助がその隣で、「だから、勝手に千鶴の着物脱がせていいのかよ」と再び怒り出した。

「あいつの着物を脱がす、脱がさないの騒ぎか。情けねえ」

 土方は大きく溜息をついた。また口論を始めた平助と総司に黙るように言うと、土方は朝に屯所の掃除を命じて黒谷に向かった筈だと説教を始めた。平助たちは、小さくなってじっと話を聞いていた。

 斎藤が先生の診察が終わったと土方を呼びにきた。土方は、平助達に戻るまで広間で正座して待っていろと言うと、足早に千鶴の部屋に向かった。

 千鶴は変わらずに布団で横になったままだった。気がつくまでは暫くかかると医者が話した。

「血病ですな。血虚ともいいまして。一時的に身体から血が失せて具合が悪い。この蒸し暑さもある。二、三日横になってゆっくり過ごせば、血の道も治まりますやろ」

 土方は、医者の見立てを聞いて安心した。

「こいつは月の障りだと、今朝も云って。部屋でゆっくりするようにと言っておいたんだが」
「じっとしていられねえ性分で」

 そういう土方に、医者は【血の道】はおなご特有のもの。気をつけてやらんとなりまへんと言って微笑んだ。薬を出しましょうと言って、医者は煎じ薬を用意した。それから、助手の娘に、千鶴の着替えをするように指示した。

 土方は客間に医者を案内すると、相馬がお茶を運んで来た。土方は相馬が部屋を下がってから、医者に広間でふざけた男達が、千鶴が下にいるのを知らずに乗っかって圧迫したと事の経緯を話した。

「情けねえ、がさつ者ばかりで恥ずかしい限りだ。先生、あいつの身体が傷ついてねえか、今一度診てもらえねえか?」

 眉間に皺をよせたままの土方に、広瀬は微笑みながら話した。

「身体に傷はついておへん。一通り全部診ました。急な圧迫で息苦しいまんま気を失うた、目を覚まさらへんのは月のものが原因。ゆっくり養生すれば、血の量も増えて元に戻りますやろ」

 医者は、大豆、鰯の丸干し、ほうれん草、切り干し大根を食べさせてと土方に指示をした。助手の娘が、千鶴のお馬の替えを沢山用意する必要があると伝えに来たので、土方はそれも用意するというと、重重に医者に礼を言った。

 再び、広間に戻った土方は、そこで正座して反省する平助達に千鶴の容態を説明した。医者の見立てで心配がないことを知ると、皆は安堵の溜息をついた。

 土方は腕を組んだまま暫く黙っていた。

「お前等も聞き及んでいると思うが、千鶴を松本先生が引き取りたいと言っていてな」

 土方が静かに話を始めた。

「男所帯に娘が独りで暮らすのも不自由だろう。綱道さんも京に居るのかも判らない状態で、いつまでも男の身なりで身許を隠しておくのも酷だ。そう云ってな」

「先生が、そう言うのも無理もねえ」

 そう土方が云った時、平助が顔を上げた。「千鶴を先生のとこにやるのかよ」と真剣な顔で訊ねた。土方は、応えなかった。

「良順先生は、綱道さんとは長い付き合いらしい。千鶴を小さい頃から知っている」
「綱道さんは、それは大事に育てていたそうだ。江戸の診療所で、父一人、娘一人」

 そんな娘さんだから、大切に預かりたい。居なくなった綱道さんが、自分を頼るようにと云っていたので尚更だってな。俺らは新選組の都合で、あいつを留め置いた。あいつの身辺は護衛をつける必要もあるだろう。綱道さんを見つける為にも、ここで暮らした方がいいと思ってな。

「近藤さんが不在の今、俺の一存では決める事はできねえ。だがな、今日みてえに、お前らが乱暴な振る舞いで、あいつに怪我をさせたとなったら、良順先生も黙っちゃあいめえ」

 平助も総司も、左之助も真剣に土方の話を聞いていた。

「二条城にはな、ちゃんとした離れの部屋があるそうだ。身の回りの世話をする下女がいて、年の頃も千鶴に近い、気立てのいい娘だそうだ。二条城で暮らせば、寂しい思いをすることもない。護衛には、八郎がつく手筈も整っている。綱道さん探しに、新選組の巡察に付くことも出来る。その時だけは、必要なら男の格好をすればいい」

「良順先生は、そう言ってな」

 土方は溜息を付いた後、しばらく沈黙した。

「それで、土方さんはあの子を二条城にやった方がいいって思ってるの?」

 おもむろに総司が訊ねた。もう、総司は足を崩して胡座をかいている。土方は黙ったままだった。

「千鶴の具合が良くなるまで、お前等に千鶴の用事を代わりに頼む。この広間の掃除もだ」

「あいつを二条城にって話は、ここだけの話だ。まだ何も決まっちゃあいねえ。だが、お前等には良順先生からそういう話が在るって事は知っていて貰いたい」

 そう言うと、土方は立ち上がって部屋を後にしようとした。その時、土方さん、と左之助が呼び止めた。

「俺は、千鶴を二条城にやるのは反対だ。屯所の野郎ばかりの所帯は、千鶴にとっては暮らしにくい場所かもしれねえ。でもよ、俺等は決して千鶴をぞんざいに扱ってはいねえ。それだけは知っていてくれ」

 左之助がそう訴えるそばで、平助も新八も頷いていた。土方は、「わかった」と一言だけ云って部屋を後にした。



*****

立派な小姓

 土方が千鶴の部屋に行くと、枕元に斎藤が正座をして様子を診ていた。

「さっき、着替えをさせた際、正気がつく様子だったそうです。間もなく目が覚めるだろうと」

 斎藤の説明を聞きながら、土方は千鶴の顔を眺めた。幾分か血の気が戻ってきている気がした。

「斎藤、広瀬先生から血の病に効く食べ物を教わった。大豆、豆腐、鰯の干物、青物を食べさせればいい。あと、こいつはお馬の最中だ。晒しが大量に要る」

 斎藤は、土方に指示された通り、すぐに三条へでて調達してくると部屋を出ていった。

 土方は、手を伸ばすと千鶴の額の前髪を優しく払いのけた。千鶴は、それに気づくようにゆっくりと目を開けた。暫く天井を眺めていたが、ふと傍にいる土方の姿を認めると、「土方さん」と呟いて、身体を起こそうとした。土方は、千鶴の肩を押さえてそのまま横になっておくように云った。

「どうだ、気分は?」

 優しく訊ねる土方に、千鶴は、「はい、私、眠っていたみたいで……」と呟いた。それから、思い出したように、「わたし、広間で、掃除の途中だった」とそう言いながら再び身体を起こそうとした。

「いい、いい寝ておけ」
「掃除は、隊士達がやっている」
「お堂の須弥壇は綺麗になった」

 そう言って微笑む土方に、千鶴は、「わたし、途中で放りなげてしまって」、と謝った。

「雷が鳴って、うずくまってたんだってな。その上に、相馬達がお前を守ろうと覆い被さってたらしい」

 土方が微笑みながら話した。それを見た平助と新八が、相馬達がふざけていると勘違いして、その上に乗っかった。一番下のお前は、ひとたまりもなかったろう。気を失って、あわてて部屋に運ばれた。そう説明する土方に千鶴本人が一番驚いているようだった。

「わたし、気が失せてしまったんですか」

 土方が、「ああ」と頷いた。原田まで乗っかって。あいつは、二十貫はある、男五人、おおかた百貫がいきなりお前の上に乗ったんだ。押しつぶされちまったんだよ。

 千鶴は怖くて目を瞑っていたら、そのまま息苦しくなったことまで覚えていると話した。土方が応えた。原田達はまさかお前が一番下にうずくまっているとは知らなかったらしくてな。

「悪気はなかったんだ」

 そう言う土方に、千鶴は頷いた。

「だが、仕置きはたっぷりした。これからお前が養生している間、お前の仕事は全部平助たちに任せてある。乱暴な所行は許さねえ」土方は厳しい表情でそう言うと。

「さっき広瀬先生がみえてな。寝ているお前を診て貰った。血の病、血虚。そう見立てて薬も貰った。どうだ、苦しいことが無ければ、すぐに薬を用意する、飲めるか?」

 千鶴は頷いた。土方は、血が沢山失せちまって、具合が悪い、二、三日養生する必要があると説明した。お馬が終わるまで、横になっていろと云うと。千鶴は素直に頷いた。食事の支度は、野村たちが手分けをしていると聞いて、千鶴は謝った。土方は「謝ることはねえ」と微笑んだ。

 天井をみつめたまま、じっとしている千鶴の傍で、土方は黙ったまま座っていた。

「なあ、千鶴」

 土方が胡座をかいて団扇で千鶴を扇ぎ始めた。

「ここを出て、二条城に行かねえか」

 優しい土方の声に千鶴は首を動かして土方を見詰め返した。少し、哀しそうな表情をしているのは気のせいだろうか。土方は翳ったような目で自分を見詰めていた。

「松本先生がな、お前を引き取って二条城で暮らせるようにって云ってきててな」
「先生は、綱道さんから言付かった娘さんだからって。この前も近藤さんに文をよこして」

 千鶴は、じっと土方の話を聞いていた。松本良順先生が屯所を出て、二条城で暮らすように手配をして下さっている。千鶴は驚いた。土方はずっと、二条城の様子を話続けている。待って、待ってください、と千鶴はようやく心の中で声を上げる事が出来た。

「……、向こうでは女の格好で暮らすこともできる……、好きなようにってわけではないが自由だ」

 ずっと話続ける土方に、千鶴は「あの、」とやっと声を上げることが出来た。

「わたし、ここを出ていかなければならないのでしょうか?」

 千鶴が小さな声で訊ねた。土方は、話を止めた。

「わたし、わたしがここに居ることで……。ご迷惑をかけてしまってるのは、わかっています」

 千鶴の目には涙が溜まっていた。力なさげな様子で布団から手を出すと、両手で顔を覆って静かに泣き出した。

「父様も見つからなくて、なにもお役に立てなくて、ごめんなさい」

 千鶴のすすり泣く声が部屋に響いた。土方は手を伸ばして、千鶴の頭を撫でた。

「誰が迷惑だなんて云った」
「お前が屯所に来てから、もう何年だ。迷惑だったらとっくに追い出している」

 そう言いながら、顔を覆っている千鶴の手を優しく取ると涙で濡れた顔をやさしく手で拭った。土方は優しい笑顔で千鶴を見詰めていた。

「お前が居て、俺や隊士の世話をしてくれている事で大いに助かっている。新選組はもっと大きくなる。野村や相馬が付いているだけでは、お前にはまだ負担が大きい。そこはなんとかする」

「だがな、今回みたいな目にあって。女のお前が不自由にしているのが俺は気になった。それだけだ。だが、今日の朝、具合が悪いからってちゃんとお前は俺に云いに来た」

 一年前なら、遠慮して言い出さなかっただろう。
 どうだ?

 土方は千鶴の顔を覗き込んだ。

「自分の状況を良く見極められる。これは、小姓として必要な才だ」

「立派に勤めているお前をよそにやりてえなんて思っていねえよ」

 はっきりと千鶴の目をみつめて言い放った土方に驚くように千鶴は目を見張った。もう涙は止まっていた。

「原田や総司たちもな、良順先生が何を言おうと、屯所からお前がでていくのは反対だってよ」

 そう言って笑いかける土方に、千鶴は問いかける。

「では、私はここをでていかなくてもよろしいんですか」

「ああ、あったりめえだ」

 土方が大きな声でいうと、千鶴の顔に安堵と笑顔が戻った。そして、また目に涙がじんわりと溢れて、目尻を伝っていった。

 ありがとうございます。

 千鶴はまた両手で顔を隠して泣きはじめた。土方は、千鶴の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。

「泣くな、泣くな」

 今薬を持ってきてやる。斎藤が、血の道にいいものを調達しに走っている、養生して早く良くなれ。そういいながら腰を上げた。そして、勢いよく障子を開け放った。外の雨は止んでいた。逆光になったまま、土方が振り返った。

「なあ、でもいつでもお前がここを出て行きたいと思ったときには、俺に云って来い。それが約束だ」

 千鶴は、布団から土方に向かって頷いた。

 土方が廊下を歩いて行く音が聞こえた。それと入れ違いに、「ちづるー、気がついたかー」と平助の声が聞こえ、左之助と新八と一緒に現れた。三人は、畳に頭をすりつけて謝り続けた。千鶴は、自分の事ながら、お堂の広間で皆で亀乗りになって騒いでいる姿を想像すると可笑しく、クスクスと説明を聞きながら笑ってしまった。そこへ、総司が現れて、千鶴の布団の隣にごろんと横になると、病人同士仲良くしようと徒党を組む宣言をした。

 それから数日の間、千鶴のお馬が終わるまで千鶴の部屋に皆が通い詰めた。広瀬元卿の置いていった薬がよく効いて、千鶴は全快した。そして、西本願寺の屯所で再び相馬と野村と小姓仕事に勤しむようになった。







(2018.06.08)

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