筒井筒
嘉永六年七月
物語は瓦解よりずっと以前、江戸で始まった。
この年、浦賀沖に外国から大きな黒船が現れた。人々は、大きな四隻の舟を遠巻きに見物した。二百年以上外国と交易をしない鎖国状態の徳川幕府の役人は、黒船の抱える大砲の大きさに驚いた。これを撃たれたら、江戸城は墜ちる。幕府はあわてて、江戸の海岸を守る為に砲台を作らせた。ざわざわと、外国からの脅威に幕府が揺れ始めた頃、まだ江戸の市中は長閑で、人々は穏やかな日々を送っていた。そんな時勢の出来事。
まだ朝日が高くなる前、下谷御徒町の旗本屋敷に駕籠が二台着いた。中からは、剃髪の男、そして後ろの駕籠からは、小さな女の子が駕籠かきにそっと抱っこをして下ろされた。地面に置かれた小さな紅い鼻緒の草履を履かせてもらうと、女の子は駕籠かきに丁寧にお礼を言った。駕籠かきは、女の子に小さな巾着袋を持たせると、
「お嬢ちゃん、またな」
と手を振って来た道を引き返していった。女の子は、父親らしい剃髪の男に手を引かれて、旗本屋敷の勝手門から中に入っていった。お庭番の案内で小さな丸い砂利を敷き詰めた庭を横切り、屋敷の裏玄関から中に通されると、上がり口で、奥用人が直々に迎えに出てきた。
「先生、お待ち申し上げておりました。さ、こちらへ」
先生と呼ばれた男の名は【雪村綱道】、江戸小石川に蘭方医学所を開き、番医師として自ら診療を行っていた。若い時より水戸の弘道館で手術法を学び、蘭方の知識は幅広く、その病を治す腕は高名でここ三好家の老主人が病に伏して以来、幕府の蘭方医の伝手で主治医として迎えられるようになった。
三好家の主人、三好成方は、今年齢七十。幕府直参として若き時よりその頭脳明晰で名が通り。勘定奉行、京都西町奉行を立派に勤め上た。その後、隠居生活に入って早五年。それまで病気一つしたことがなかったが、昨年の暮れより心の臓の痛みを患うようになり、雪村綱道が通いで定期的に診療に来ていた。
いつもは単独で日中に診療に訪れるが、今日は特別に子連れで屋敷に上がった。娘を普段預ける先が、今日に限り見つからなかったからである。雪村綱道に妻はなく、家に下女も住まわせていなかった。父一人、娘一人の所帯は慎ましいもので、普段より飯炊きに早朝、近所の家から知り合いが来るだけで、二人だけの生活を続けていた。
娘の千鶴は、今年満四歳。黒目がちの大きな瞳は愛くるしく、真っ黒な艶のある髪を小さく頭の上でまとめ上げてあった。雪村綱道は、子煩悩な男で近所で評判になるぐらい子供の世話をよくし可愛がっていた。父親だけの家だが、千鶴は愛情を一杯に受けて育ち、躾も行き届いた大人しい子供だった。そんな千鶴だからだろう、綱道は武家屋敷への往診に連れて来ても問題はなかろうと判断した。絵双紙と千鶴の好きな玩具を巾着にしまうと、それを持たせて、
「今日は、私の往診に一緒に行こう。大きな立派なお屋敷で、大層お庭が綺麗だ。今は百日紅が咲いてて、それは見事なのだよ。お殿様の具合は、安定しているだろう。すぐに診察が終わる。その間大人しくいい子にしておいで」
そう言って、父親は娘の頭を優しく撫でた。
さて、通された部屋で待っているように言われた千鶴は、暫くすると父親の姿が見えなくなって不安になってきた。薄暗い部屋には、床の間があり、掛け軸が掛けてあるだけ。がらんとした部屋で、千鶴はきょろきょろと辺りを見回した。
「とうさま」
父親が消えた障子の向こうに呼びかけたが、だれも応えない。千鶴は、だんだんと不安になってきた。持ってきた巾着袋を掴むと、そっと障子を開けてみた。部屋の外は縁側になっていて明るい庭が見えた。千鶴は、美しい庭に目を見張らせた。沢山の花、植木、水が流れている音も聞こえた。障子の間から、頭だけを出して辺りを見回してみた。廊下はぴかぴかに磨き上げられ、ずっと遠くまで人っ子一人いない。千鶴は静かな廊下から、明るい縁側の先の庭に引き込まれるように出ていった。ちょうど、縁側の下には大きな御影石が置かれ。千鶴が縁から難なく降り立つ事が出来た。
千鶴は草履も下駄もないことに気づいた。
そっとしゃがんで足袋を脱いだ。これで大丈夫。千鶴は裸足のまま地面に降り立った。地面は薄く苔が生えて、ひんやりとしていた。千鶴は、目の前に見えた大きな朱色の花に向かって進んでいった。
「きれい」
花は千鶴の背丈ほどもあった。今まで見たこともない大きな花。その花弁は大きく開き、中には不思議な形の芯が見えた。そこに小さな蜜蜂がとまっていた。くるくると柱の周りを廻っている様子は不思議で、蜂の真っ黒な目玉を見ていると、千鶴も一緒に花の中に入っていっているような気分になった。蜜蜂は花粉だらけになった手足を大事に抱えるようにゆっくりと宙を飛んで行った。
千鶴は、じっと虫の飛んで行った先を眺めた。石畳の向こう。水の流れる音が聞こえた。千鶴は、植木の間をそっと歩いていった。草の匂い。目の前に石段が見えた。千鶴は登ってみた。その先に小さな石の橋があった。その向こうに小さな池が見えた。千鶴は水に映った空と雲をじっと眺めた。
あめんぼ
千鶴は水面を動く、手足のながい虫をみつけた。石段の間にあった小さな石をつまむと、そっと水面に投げてみた、あめんぼはすいすいと水面を動いて消えてしまった。また石ころをつまむと、そっと水に投げた。
「鯉が逃げる」
ふいにどこからか声が聞こえた。千鶴は顔をあげて辺りを見回した。池の植木の影から、誰かの顔が見えた。千鶴は驚いた。
「ここは、おじいさまの大切な鯉が住んでいるんだよ」
別の植木の影から、急に姿を表したのは、少年だった。年の頃は十才ぐらいだろうか。深い緑色の瞳は利発そうで、総髪の長い髪を高く束ねていた。目の色と同じ緑の着物に茶色の袴。裸足に草履履きで、千鶴の目の前に立った少年は、池の中を指さした。
「ほら、あそこ。白い鯉が見える? あれがここの主だ」
そう言って千鶴に笑いかけた。千鶴は、池の中に大きな鯉が泳ぐ姿を見て驚いた。少年は千鶴に、「君はどこから来たの?」と訊ねた。千鶴は、もと来た縁側の方を指さした。
「ここの家の子?」
少年は嬉しそうに笑う。千鶴は、つられて笑顔になった。おいでと云われて、池の反対側に少年の後について歩いていった。少年は、するすると植木の間をすり抜ける。千鶴は、必死についていった。途中で少年を見失ってきょろきょろとしていると、急に背後から肩に手をかけられ「わっ」と驚かされた。千鶴は、飛びあがってびっくりすると泣きべそをかいた。
「ごめん、ごめん。泣かないで」
少年はしゃがんで千鶴の顔を覗きこむと千鶴の頭を撫でた。そして、千鶴の足が裸足で汚れて居ることに気がついた。
「裸足で足が痛い?」
そう少年は訊ねると、千鶴の前に背を向けてしゃがんだ。
「おんぶだよ。ほら、おいで」
千鶴は、促されるままに少年の背中に負ぶさった。少年は千鶴を背負うと、ぐるっと庭をまわって井戸端に歩いていった。千鶴を井戸のそばに下ろすと、傍の桶を持ってきた。
「今、水を汲むよ。汚れた足を流してあげる」
少年は優しくそういうと、手を伸ばして井戸の釣瓶をとろうと手を伸ばした。だが、釣瓶の縄は少年の伸ばした手の先に高くあって届かない。少年は一生懸命背伸びをした。千鶴がそれを見上げているのに気がつくと、
もう少しだから、まっててね、と優しく笑いかけてくる。少年は、なんとか別の桶を持ってきてそれを伏せた上に載って立つと筒井筒に手を掛けて釣瓶をとった、やっと水を汲み上げると、冷たい水を桶に溜めて千鶴の足を丁寧に洗い流してくれた。
御影石の上に抱っこされて座った千鶴は、少年が取り出した手拭いで足を拭ってもらった。千鶴は、ありがとうとお礼をいうと、
少年は「どういたしまして」と得意そうに笑った。
「お名前は?」と聞かれた千鶴は、「ゆきむらちづる」と答えた。
「ゆきむらちづるちゃん、ゆきむらって、雪村綱道先生のゆきむらかな」
「おじいさまのお医者様だ」
千鶴は頷いた。少年は、「ちづるちゃん」と千鶴に呼びかけると。おいで、母屋に戻ろうと千鶴を抱っこした。ちょうど千鶴が庭に降り立った縁側にでると、そこに千鶴の脱ぎ捨てた小さな足袋を見つけた。少年は、千鶴を縁側に腰かけさせると、足袋を履かせた。そして、自分の草履を脱いで、手拭いで足を丁寧に拭って廊下にあがった。そして、千鶴の手を引くと、廊下を母屋の反対側へでる方に向かって歩いていった。
少年は、千鶴の手をひいて角を曲がると。千鶴に静かにね、とそっと囁いた。廊下の先に、台所のような場所が見えた、その隣の部屋には大きな棚が並んでいて色とりどりの漆塗りの箱が並んでいる。少年は、その棚から、葛籠入れをひとつ取り出した。中を開けると、小さな箱が並んでいた、そのなかから真っ赤な四角い物入れを取り出すと、千鶴の前で蓋を開けた。中には小さな星屑のような色とりどりの金平糖が詰まっていた。
千鶴は、あまりに綺麗な様子に目を見開いた。
少年は金平糖を一つとると千鶴の口に放り込んだ。そして自分もひとつ金平糖を口に含むと、懐から懐紙をとりだして、残りの金平糖を移して包むと、千鶴の手に持たせた。そして、しーっと指で合図をおくると、元にあった場所に物入れを戻した。
廊下の向こうで、「若様、八郎さまー」と誰かを呼ぶ声が聞こえた。少年は、千鶴の手を引いて、その声から逃れるように廊下の反対側に向かって、走り始めた。
「若様、どこにいらっしゃるんですか」
「お坊ちゃま、八郎さまー」
千鶴は、いつのまにか少年に抱えられていた。静かにね、と悪戯っぽく笑いかけられ、千鶴はこっくりと頷いた。広いお屋敷の中を、次々に座敷から座敷へ移動していく。
「おにいさま、かくれんぼしてるの?」
千鶴は抱っこされたまま少年に尋ねた。
「うん」
少年は楽しそうに笑う。「捕まると、道場に行かないとならない」
「今日は、僕は剣術より、君と遊びたいからね」
「あそびたいの?」
千鶴がまん丸な瞳で訊ねる。少年は、そうだよ。何をして遊ぼうかと千鶴に笑いかける。
「わたし、【けんけん】したい」
いいよ、【けんけん】をしようと少年は笑った。
それから、静かに座敷の角に二人でしゃがんで隠れ続けた。次第に、少年を探す声に混じって、「千鶴さまー」と千鶴を探す声も聞こえ始めた。辺りは騒がしい、奥用人や番頭までが総出で屋敷中を、少年と千鶴を探している声が聞こえた。
「とうさま、とうさまの呼ぶ声」
千鶴がすっと立ち上がって、座敷の障子を開けて廊下に出た。少年はとうとう観念して、千鶴の手をひいて母屋の座敷に向かって廊下を歩いていった。
「わたしはここです。お客様も一緒です」
少年は、自分たちを探す者立ちの前に出ると。屋敷の中を案内していたと云って謝った。千鶴は父親の姿を見つけると、「とうさま」と駆けて飛びついていった。父親の綱道は、「お待たせしたね」と千鶴の髪を撫でた。そして、連れてきた子供が騒ぎを起こしてしまって申し訳ないと皆に謝った。
「雪村先生、わたしがお嬢さんをお座敷から連れだしました」
少年は、一歩前に出て謝ると、自分は【伊庭八郎です】と名乗った。
「私は、蘭学を勉強したいと思っています。先生のように、西洋医術も身につけたい」
背筋を伸ばしてすっくと立つ少年は、さっきまでの様子とは違って、随分と大人びて。千鶴は少年の別人のような様子にぼーっと見とれていた。雪村綱道は、若様がご優秀だという噂はかねがね伺っております。向学の御意志、喜ばしいことでございます。そう言って、深々と頭を下げた。
再び待合のお座敷に戻って、千鶴は父親と身支度をした。綱道は、大殿様のご容態は心配はない。さあ、今日はこれでお暇をしよう。そう言うと、千鶴の手を引いて座敷を後にした。既に表には、帰りの駕籠が用意されていた。千鶴は、草履を履くと父親に手を引かれて建屋の外にでた。表には伊庭八郎が待っていた。
少年は奥用人と一緒に綱道に深々と頭を下げて往診の礼を云った。そして、千鶴の前にしゃがむと優しい笑顔で千鶴の頭を撫でた。
「もっと遊びたかったね。こんど【けんけん】をしようね】
千鶴は大きく頷いた。八郎は笑うと、懐から懐紙に包んだものを千鶴の懐にそっと入れた。
「さっきとは別のお菓子だよ。お父上とお食べ」
そう笑いかけた。千鶴はお礼を云うと、丁寧にお辞儀をした。伊庭八郎もお辞儀を返した。それから、千鶴と綱道が駕籠に乗って道を帰っていくところを伊庭八郎はずっと見送ってから、門の中に戻った。
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元治元年四月
あれから十年経ち、千鶴は満十五才の娘に成長した。前年の十二月に音信不通の父親を探して上洛。ある事情で、そのまま壬生の新選組の屯所に留め置かれることになって五ヶ月が経った。土方の外出に小姓として同行した折、上洛して初めて父親探しの為に市中へ出掛けることができた。
三条の茶屋【伊勢屋】で新選組五番組の組長、武田観柳斎の狼藉に独りで巻き込まれた千鶴は、見知らぬ侍に助けられた。
長身で腰に大太刀のような長い打刀を差し、その深緑の双眸と同じ深緑の着物に総髪を高く結った姿。優しい微笑みがどこか懐かしい。
父親探しをしていた千鶴は、その日父親の行方の手がかりは見つからず。だが、人助けをしてそのまま姿を消した御武家は、何故か初対面なのに千鶴の名前を知っていた。
「また、逢えて嬉しいよ。ちづるちゃん」
やさしい声でそう呼びかけられて、千鶴はただ驚いた。
それから二ヶ月後、壬生村の屯所にその侍が突然現れた。新選組の副長の土方を始め、幹部と懇意にしている様子のその侍は、【伊庭八郎】と名乗った。江戸から上洛して、暫く二条城に滞在するという。将軍家茂公の御親衛で奥詰勤め。直参旗本の身分にもかかわらず、江戸にいる時から試衛館道場まで出稽古に頻繁に訪れて、新選組幹部たちと手合わせをしていたらしい。
気さくで、物腰が柔らかいが、ひとたび剣を握れば勇猛果敢。剣術の腕は天下一品で、新選組幹部と互角に闘った。千鶴は突然屯所に現れた伊庭が、随分と土方や他の幹部と親しい様子に驚いた。土方に至っては、また遊びに来ますと笑う八郎に、
「お前は、来るな!!」
そう笑って冗談をいう位。そして、伊庭が「必ず来ます。彼女の顔を見に」と千鶴を見て笑うのだった。千鶴は伊庭が土方たちを笑わす為に冗談を云っていると思っていた。だが、玄関で伊庭に「また来ますね。ちづるちゃん」と声をかけられ、それが冗談ではないと解ると不思議な心持ちがした。
千鶴の心の中の訝りがそのまま表情に現れていたのか、
「私を覚えていますか?」
と伊庭に真顔で訊ねられた。千鶴は伊庭の目を見詰めて、なんとなく江戸の診療所で見ていたような気がした。「父親の綱道が診療していた御武家様かもしれない」と答えると、伊庭は寂しそうな表情を一瞬みせた。
「また、来ますね」
そう優しい笑顔で挨拶すると、伊庭は颯爽と門の外に歩いて行ってしまった。その後も、伊庭は時折屯所に現れた。道場で幹部と手合わせをしたり、土方の部屋で暫く話しをして帰る。千鶴がお茶を運ぶと、やさしく「美味しい。ありがとうございます」と笑う。
千鶴が屯所の用事で忙しく動き回るのを、廊下で眺め、笑って会釈だけして帰ることもあった。
ある朝、隊士たちの布団の敷布を大量に洗濯しようと井戸端に運んで、水を汲もうと立ち上がった時に背後に伊庭が立っていた。
「ちづるちゃん、朝から精がでますね」
そう言って、千鶴が手を伸ばした井戸の上の釣瓶を楽々と引くと、水を汲み上げて盥に注いだ。千鶴が、わたしがやりますので、と云っても伊庭は、微笑んだままどんどん水を汲み上げて手伝う。
「こうして、今は釣瓶にわたしは手が届く」
「きみに初めて出逢った日。私は井筒からやっと身体が半分でるぐらいだった。水を汲むのに必死だった」
千鶴の隣で、伊庭が微笑みながら話すことが千鶴には何のことだか解らない。江戸で、蘭学所に通ってきていた【八郎兄さん】
とても優しくて、
いっしょに離れで手習いをした。
小太刀のお稽古にも一緒に連れて行ってくださった。
千鶴は伊庭が江戸の自宅の離れの蘭学所に通って来ていた頃を思い出した。いつも優しく笑いかけて。あの頃に、井戸の水汲みをお願いしたことがあったのだろうか……。千鶴は、ぼんやりと江戸の蘭学所での日々を思い出す。あの八郎兄さんが、今は背も高く、立派な大人の御武家さんになっているのが不思議でならない。やさしい話しかけ方や笑顔、あの緑の瞳は変わらないが、こうして壬生に現れた伊庭は、あまりに立派で、千鶴にとっては別人のように感じるのだった。
「きみは本当に小さくて。足もこんなに小さかったんですよ」
伊庭は手で、小さな輪をつくって微笑む。そして、千鶴がその事も覚えていない様子に半ば諦めたような表情で笑いかけ、釣瓶を手放して井戸の水を再び汲み上げた。
「月日が経つのは不思議だ」
一通り水を汲み終わると、伊庭は千鶴に話かけているのか独り言をいっているのか、そう呟いた。
「ぼくは、貴方をずっと覚えている。その瞳も、笑顔も」
千鶴は、じっと深い緑色の瞳に見詰められて、どこか懐かしいような、胸の辺りがじんわりと暖かく、同時にきらきらとした美しい風景の中にいるような気持ちになった。
しばらく井戸の隣で、見つめ合ったまま二人で立ち尽くしていた。
「ええ、覚えています。八郎兄さん、いつもわたしを守ってくださいました」
(私が困った時、必ず手を差し伸べて。お優しくて)
千鶴が心の中で思っている事を、解っているというように微笑みながら、伊庭はゆっくりと瞼を伏せた。
どれぐらい二人でそこで立っていたのだろう。ただ懐かしく、そして再び出逢えた悦びを二人で同時に噛みしめ合ったひととき。
「また来ます」
伊庭の優しい声が千鶴の心に響く。
「はい」
千鶴は頷くと、襷を解いて会釈をした。中庭を颯爽と横切って進む伊庭の背中を見ながら、ふと遠い昔にこうやって【やさしいおにいさま】の後をついて歩いた記憶が蘇る。草の香りと、水の音と。
つつゐづつ
優しい笑顔の少年と目の前の立派な青年武士が重なる。
再び振り返った伊庭八郎と目を合わせて、千鶴は幸せなきらきらとした想いで胸が一杯になった。
了
(2018.07.29)