冬の十五夜

冬の十五夜

斗南にて その13

「はじめさん、来て。来てください」

 玄関の向こうから千鶴の弾むような声が聞こえた。囲炉裏端に腰かけていた斎藤は、綿入れに袖を通しながら土間に降り立って外に出た。千鶴は雪掻きされた通路の先で振り返って手招きしている。斎藤は凍った土を踏みしめながら近づいていった。昼間に雪を掻いた家周りには降り積もった雪がこんもりと連なっている。緩やかな勾配を下った先で千鶴が白い息を吐いていた。

「ほら、あそこに」
「子供たちが」

 林の向こうにぼんやりと灯が見えた。栗山の山道は集落から斎藤たちの暮らす直家に繋がる道のみ。小さな影はそこを通らず、降り積もった雪の上を歩いているようだった。夜空は澄み渡り無数の星が瞬いている。大きな満月が雪の斜面を明るく照らしまるで映し鏡のよう。山の頂まで、ぽつんぽつんと一定の間隔で登る人影。はっきりと斎藤には見えた。三角蓑を被った小さな子供たち。蝋燭を手に足元は雪草鞋、紺絣の袖には赤い飾り。斜面の天辺に大きな影が立っている。背の高い姿は子供たちの親だろうか。真っ白な着物を纏った女。蝋燭の灯が集まったところで、女はすっくと伸び上がるように両手を天に掲げた。山の斜面から粉雪が舞い上がり、月明かりにキラキラと輝いた。子供たちは一斉に斜面を滑り、転げ回って遊びはじめた。

「遊んでいるのかしら」
「ほら、あんなに楽しそうに」

 千鶴は袖から手を伸ばして笑っている。千鶴には山の斜面の女は見えていないのか。女の手も顔も、雪と同じぐらいに真っ白で、銀色に輝く髪はどこまでも長く舞い上がっている。斎藤の夜目は女の金色に輝く瞳を捉えていた。女がすうっと口元をすぼめるように息を吐くと、粉雪は宙を舞い斜面を滑る子供たちの背中を押すように風が吹いた。子供たちは再び山の斜面を登っていく。女は真っ白な着物の袖を広げ、小さな子供たちを抱きかかえるように天辺まで引き寄せる。集まった子らは再び斜面を滑り降りていく。

 白く輝く美しい女と旅の途中に花巻で見た千鶴の姿が重なった。宿の露天風呂で月明かりを浴びた千鶴の黒髪が突然銀色に変り全身が輝いた。金色の瞳に輝く長い睫毛。千鶴は優しく微笑み、その身体を抱きしめると温かかった。初めて見た千鶴の変化する姿。その神々しい様子に驚きながらも自然に身が引き寄せられた。美しい裸体に咲いた吉祥果。強き善き鬼が生れる吉兆。

「よく雪に埋もれずに、上手に滑って」
「転がっている子もいる」

 千鶴は両手で口を覆うようにして笑っている。指の間から白い息が湯気のように上がり消えていく。一瞬、千鶴の湯上りの濡れ髪が、霜がついたように白くなり長い睫毛の先にも広がったように見えた。笑い声が遠のくように、ふと千鶴が雪の中へ踏み出した。とっさに斎藤は手を伸ばして千鶴の腕を引いて抱き寄せた。冷たい髪の毛が頬にあたる。

「こんなにも冷えている」

 斎藤は半纏の前を開いて千鶴を包み込み抱きしめた。千鶴はじっと斎藤の胸に頬を寄せて目を瞑っている。

「戻ろう」

 腕の中の千鶴が小さく頷いた。そのまま斎藤は千鶴を抱きかかえて家の中に入った。囲炉裏の火を起こすと、パチパチと音がしてぼおっと炉端が明るくなった。五徳の上の鉄瓶を温める間、千鶴は湯呑みを盆の上に載せて持って来た。熾火で顔が明るく照らされる。伏見がちな瞳は長い睫毛が影をつくり、優しく微笑むような口元が見えた。千鶴は鉄瓶の蓋を開けて、竹の柄杓でゆっくりとお湯を掬って湯飲みに注いだ。こぽこぽと音がして湯気が立つ。千鶴はお盆を斎藤の傍に置いて丁寧に湯飲みを差し出した。

「温かいうちに」

 湯呑みを受け取った時に触れた千鶴の指先は温かかった。千鶴はもう一つ用意した小さな湯呑みに湯を注ぎ、立ち上がって柱の下の小さな四角盆の上に置いた。そこには柱に凭れ掛けるように置いてある小さな人形がある。素朴な人型をした木彫りの像。千鶴はそれを「サンスケさん」と呼んで大切にしている。

****

サンスケのこと

 今年の春の雪解けに、斎藤と千鶴は釜伏山の麓の集落にマタギの兵吉を訪ねた。山を下りてきたばかりの兵吉は雪焼けした顔で二人を迎えた。兵吉は千鶴の命の恩人。初めて斗南で本格的な冬を迎えた時、栗山の滝壺に落ちた千鶴を見つけて村に連れ帰ってくれた。凍死寸前だった千鶴はなんとか命をとりとめた。兵吉は山奥にあるマタギ小屋に冬の間は籠もっていたため春の雪解けまで会う事は叶わなかった。二人はようやく助けてもらったお礼を兵吉に伝えることが出来た。

「ほんに助がってえがった」

 兵吉は囲炉裏端に座った千鶴の顔を見詰めながら感慨深い様子で笑いかけた。いつもは栗山の滝の上を通るところを、あの日だけは男鹿を追って崖下に下りていたという。千鶴を村に連れて行き、雪が降る前に再び山小屋に戻った兵吉はマタギ仲間に滝壺に落ちた村人の話をした。山神さまに連れて行かれるかもしれないと仲間たちは大層心配したらしい。

「あのばげにこぃこすらえで、祈った」

 兵吉は、柱の上にある神棚から小さな木彫りの人形を持ってきて千鶴たちに見せた。

「サンスケだ」

 山マタギは冬に山籠もりをするときに、木彫りのサンスケを作る。マタギ小屋に十三人の猟師が揃わない年は、山神さまが雪女郎になっておりてくるという言い伝えがあるからだ。サンスケを足りない人数分作って山小屋に置き、毎日祈ることを欠かさない。兵吉はあの日の夜、千鶴の無事を祈るためにヒバの端木で小さなサンスケを彫ったという。

「十四のサンスケ置いだっきゃ山神がづれでいぐはんで、山おりだどぎにこのサンスケ持ってぎだ」

 兵吉の話では、雪女郎は十三人のマタギには手を出さない。千鶴のために彫ったサンスケは数合わせのために一緒に村に持ち帰ったと聞いて、斎藤は手に持った小さな人形を不思議な心持で眺めた。端材を削って頭の形を丸くとっただけの素朴な木像。顔もなければ手も足もない。冬の間、熾火で燻されていたのだろう表面は艶々としていた。

 兵吉からサンスケを貰った斎藤たちは、村落を後にして直家に戻った。千鶴は囲炉裏端の柱の下に小さなお盆を置いてその上にサンスケを立たせ、毎日白湯の入った湯飲みと炊いたひえや麦を供えた。花が咲く季節になると、摘んだ野花を供え毎日手を併せた。ある日、斎藤が外から戻ると千鶴は柱のサンスケに話しかけていた。

「サンスケさん、今日もありがとうございます」
「明日も晴れますように」

 二人だけの直家暮らしで、日中千鶴はこうしてサンスケに語り掛けているようだった。

 そして、今も千鶴はサンスケのお盆の前で手を併せている。サンスケの首回りには紅い涎掛けが結んである。まるで地蔵さまのようだ。千鶴が端きれを縫って作った。この秋に仙台で八瀬の千姫と会った時、二人は三度目の十五夜に子が生まれるという吉兆を知らされた。以来、千鶴はサンスケに子が授かるように毎日祈っている。

「さっき山の斜面を滑って遊ぶ子供たちを見ました。子が出来たら元気に雪の中で遊びますように」

 斎藤は雪の斜面の天辺に立って居た女のことを考えていた。今日は勤めを早くに切り上げ、皆が藩邸をいつもより半刻以上も早くに出て家路についた。

——大雪降った後の十五夜は、早めに家の中さ入らねばまいね。雪女郎がでるがら。

北国育ちの藩士たちは皆が口を揃えて、雪女郎が恐ろしいから早めに雪掻きをするといって帰って行った。確かにさっき見た光景。あれは雪女郎か。

「雪ん子が出る年は作付けがよくなる。そう聞きました」
「サンスケさん、どうか今年は実りよくなりますように」

 千鶴がサンスケに話しかける声が聞こえた。雪ん子。そうか、さっきの子供たちは雪の子か。千鶴がいつか話をしていた雪の精の事を思い出した。直家の近くに暮らすおたねから冬の寒い日に雪ん子が現れると聞いた。おたねが元々暮らした南部藩では、雪ん子は五穀豊穣の使いで姿をみると大層ありがたいという。では、雪女郎はどうなのだ。そんな事をぼんやりと考えていると、千鶴が斎藤の傍に寄って来た。

「白湯をもっと温めましょうか」

 斎藤は千鶴の手を引いて抱き寄せた。膝の中に包み込むようにして抱きかかえ、両手を熾火にかざすようにして温めると千鶴の手を挟むようにして擦って温めた。

「あったかい」
「ぜんぶしん。はじめさん、全部しんをお願いします」

 千鶴は斎藤の胸に身を寄せるように凭れ掛かった。斎藤は千鶴を抱きかかえ、手を伸ばして五徳から鉄瓶を下ろし熾火に蓋をして立ち上がった。千鶴は温かい。奥の間に敷かれた寝間にそのまま潜り込んだ。千鶴にせがまれた通りに、全身で千鶴を包み込むようにしてそのまま睦んだ。

*****

冬の十五夜

 秋に仙台から戻ると、千鶴の身に咲いた吉祥果は消えて行った。

 冷たい風が吹きはじめ色づいた木々の葉が落ち、霙交じりの雨が降るようになると、斎藤は厩の冬支度を始め、馬の冬越しの準備を急いだ。初雪が降り、霜月には大雪が数日続いて直家の回りもすっぽりと雪に埋もれたようになった。

 直家の奥の間には天井に近い壁に明り取りの窓がある。外側に二重に庇がかけてあり雨風が吹き込むことはない。雪が積もると、夜は月明かりが入り天井と壁を明るく照らす。斎藤は月明かりに白く浮かび上がる千鶴の肌を眺めた。丸い乳房と脇腹から腰にかけてのたおやかな曲線。この前まで柘榴のような形の紅斑があった。月明かりに桃色に輝いた果実は掌に温かく、触れると己の中に溶けるように感じた。紅斑が消えるにつれて、千鶴は身体中に疼くように広がる熱を感じなくなった。吉祥果が次に現れたら、それは赤子ができる報せ。三度目の十五夜はいつになるのか。秋の十五夜なら三年後。冬の十五夜なら次の冬にまた来る。斎藤は待ち遠しくて仕方がなかった。

 翌朝、斎藤が務めに出る仕度をして玄関に立つと、千鶴も雪草鞋を履いて一緒に外に出て来た。腰弁当を包んだ風呂敷を抱えて、「道の先まで一緒にいきます」と言って笑っている。斎藤は千鶴が転ばぬように手を引いて歩いた。ちょうど朝日が昇り、辺りを明るく照らし始めた。丸く木々の上に積もった雪が人の頭のような形になっている。通路の先で、千鶴が山の斜面の方を振り返って背伸びをした。

「もういませんね。残念」
「ああ、山に帰ったのだろう」

 斎藤も山の斜面を眺めた。ちょうど、朝日がゆっくりと麓から山の天辺を照らし、橙に木々の上の雪が輝いた。

「夢の中のようでした。あれは夢だったのかしら」
「はじめさん、はじめさんも見ましたよね」
「ああ、雪ん子が沢山遊んでおった」
「おたねさんが、雪女郎は恐ろしいって」
「とても綺麗でした。子供たちは楽しそうで」

——新雪は本当に綺麗。寒くて冷たいけれど、私は雪が好きです。雪に包まれた斗南も。

 白い息を吐きながら、千鶴は笑っている。斎藤は千鶴を抱きしめた。

「ああ、俺も好きだ」

 千鶴は弁当の包みを斎藤に手渡した。

「はじめさん、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ああ、行って参る」
「今夜も温かいものを作って待っています」

 斎藤が山道で振り返ると、千鶴は丹前から手を伸ばして振っていた。その背後に栗山の斜面が朝日に照らされてきらきらと輝いていた。




 

→次シリーズ 明暁に向かいて その1

(2022/01/01)

 

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