雨宿り 原田左之助編
斎藤と別れた原田と千鶴は、四条通りを大和大路に出た。旅籠は何処も満員で、一段と雨が酷くなってもう前が見えないぐらいのどしゃぶりになった。左之助は、「仕方がねえ、少し歩くが知り合いの茶屋を頼るか」そう言って、千鶴の肩を抱くと二人で番傘をさして花見小路通に走った。
いりくんだ路地に数回入り込んだ所に小さな茶屋の入り口があった。軒下に入って番傘を振ると、左之助は大きく溜息をついた。千鶴も自分も全身ずぶ濡れだった。左之助は千鶴の手をひいて建屋の戸を開けて中に声をかけた。表屋は普通の店だったが、中は派手な朱色の柱や暖簾が見えた。店の奥から女将らしき老婆が出てきた。白粉を叩いたその顔は、皺があるが、紅を引いた口元は色っぽく、襟を抜いた着付けは玄人らしい風情だった。
「まあまあ、原田はんやおへんか」
「無沙汰だな、女将」
原田は、女将とは懇意のようだった。部屋を二つ頼みたい。そう左之助が言うと、左之助の背後に立つ千鶴を眺めた。女将は、生憎部屋は満員で一部屋だけ用意出来るという。左之助は、それで十分だと言った。そして、二人ともずぶ濡れだから着替えが欲しいと頼んだ。
朱色の手すりを登ると、奥まった座敷に案内された。中に入って千鶴は驚いた。部屋の真ん中には大きな布団が一式敷いてあった。紅絹の寝具は赤い土壁の部屋の中で一層派手で、枕が二つ並べられていることで、ここがただの茶屋ではなく、色茶屋であることが判った。
茫然とする千鶴に左之助が謝った。
「すまねえ。こんな場所に千鶴を連れてくる事はしたくなかった」
「背に腹はかえられねえ。女将も雨宿りに来た事はわかっている。今着替えを持ってきてもらったら、急いで着替えて布団に包まっていりゃあいい」
千鶴は、何か言いたそうに口を開けたが言葉が出て来ない。左之助は千鶴の驚いた顔に気まずさが増してきた。
「俺は、廊下にいる」
そう言って、襖の向こうに左之助は出ていった。千鶴はもう一度部屋を見回した。小さな箱火鉢と派手な屏風があるだけ。千鶴は、懐から手拭いを出した。土方の為に買った鬢油。無事だった。だが、手拭いはびしょびしょ。それでも、髪を拭おう。そう思って髪の先からこぼれる水を拭き取った。そこに、襖の向こうからさっきの女将の声が聞こえた。
「えろうすんまへん。お客様、ここの所の長雨で、今はこの【涼し単衣】だけしかあらしまへん」
女将は薄い単衣を二枚手に持ってきた。それは、夏にまとう絽よりさらに薄い生地で出来ていて。ほんのりと紅色の薄羽蜻蛉の羽のようだった。千鶴は、濡れた肌襦袢を脱いでしまうと、このような薄衣は裸も同然だと思った。
でも、濡れた物は脱いでしまわないと。さっきから身体の冷えに限界を感じていた。もう手足の感覚がない。まだ長月だというのに、全身が霜焼けになってしまいそうだった。原田さんが仰っていたように、すぐに布団に包まってしまおう。千鶴は、いそいで屏風の裏に立つと、着物を脱いだ。全てがずぶ濡れだった。何もかも脱いでしまうと、それだけで身体が温まってきた。千鶴は急いで、涼し単衣を羽織った。大きな単衣だったので、身頃を十分に重ねる事が出来た。自分で前を見てみると、思ったほど透けてはいない。千鶴は安心して、もう一枚の単衣を羽織った。前を重ねて合わせると四枚。大丈夫だ。布団の上掛けで隠せば、見苦しい姿を見せずに済む。
そう思って濡れた着物を拡げて乾かそうとしたところに、背後から閃光とけたたましい音が響いた。突然の雷鳴だった。千鶴は悲鳴を上げて、思わず屏風にもたれた、そのまま反対側に屏風ごと倒れた。廊下に居た原田が、襖を開けた。千鶴は部屋の真ん中で、屏風の上にうずくまっている。千鶴の背後には、千鶴の襦袢や着物が散乱している。原田は驚いた。
「千鶴、どうした!!」
千鶴の背中に手を掛けたが、千鶴は外から雷鳴が轟くと再び、身を縮めて原田の膝に縋りついてきた。原田は、千鶴の身体が透けている事に驚いた。小さな背中から細くくびれた腰、その向こうになだらかな紡錘形の尻が見えた。尻の割れ目まではっきり見えていて、うずくまる千鶴は裸同然で原田にしがみついて来ている。
原田は言葉が出てこなかった。目の前の千鶴は、屯所で見ている千鶴。愛くるしい、いつも笑顔で元気に動き回る、ちっこくて、まだ幼さの残った少女。そんな印象の千鶴とは違う。
いつのまに……千鶴。
左之助は心の中で呟いた。いつの間にこんな娘らしくなっちまってたんだ。原田は、千鶴の薄衣の向こうの姿に目が釘付けだった。美しい肢体。全く気づかない内に、千鶴が美しい娘に成長した事に感動した。怖がる千鶴に申し訳ないが、立たせてちゃんと眺めたい。助平心ではなく、綺麗な女に成長した姿を見てみたい。ただそう思った。
雷鳴はどんどん近くなってきている、閃光と同時に地響きがするようになった。原田は、千鶴を抱きかかえて足で屏風を蹴って、下に敷いてあった布団に包んだ。そして光の入る窓を背中にして胡座を掻くと自分の膝に千鶴を抱きかかえた。
「大丈夫だ。この建屋はこの界隈じゃ一番低い。雷さんはやってこねえ」
左之助は、布団の間から除く千鶴の頭や頬を撫でてやった。千鶴はずっと目を瞑りながらも幾分か安心しているようだった。それにしても寒いな。さっき、女将は男物の着替えがないと言ってきた。仕方ねえ、一晩の辛抱だ。
それから四半刻が過ぎた頃、もう雷の音はしなくなった。左之助は、千鶴に大丈夫かと尋ねて、頷く千鶴を布団の上に寝かせた。襖の向こうから、お膳に茶漬けとお銚子が載ったものを女将が運んで来た。
「今日は午過ぎからずっと籠もり客ばっかりで」
そっと左之助に耳打ちしている。左之助は、お銚子だけを小さな盆に載せたものを持って立ち上がった。
「千鶴、俺は廊下に出ている。この調子だと、斎藤は屯所に戻っても今夜いっぱい誰も迎えに来ることはねえ。明日の朝、三条大橋をまわって帰ろう。今日は、これを食って、早めに休むといい」
千鶴が布団にくるまったまま、左之助をぼんやり見上げている。
「あの雨の中走り回ったんだ、今から休んでおくに超したことはねえ」
そう言って笑うと、左之助は廊下に出て襖を閉めてしまった。千鶴は、布団から出てお膳の前に座ってお茶漬けを食べた。身体が温まる。そういえば、朝から何も食べて居なかった。今日は、やらなければならない用事が沢山あった。午後に鬢油を買うことも、夕餉の支度も。屯所の皆さんは大丈夫だろうか。千鶴は、この大雨でどれぐらいの人が屯所に戻れずにいるのだろうと思った。
食事を終えて、火鉢の炭をおこして着物を乾かした。それから衣紋掛けをみつけて窓の桟に掛けた。窓の隙間から外を除くと、すぐに隣の建屋が見えた。雨は止んだようだが、外の風の音は大きく、まだ嵐が過ぎ去っていないことがわかった。
火鉢に手をかざして温まったが、足先は冷たい。千鶴は布団の中に入ることにした。紅絹の布団。薄いけど温かい。天国のようだ。でも、原田さんは。千鶴は左之助が気になった。ここのお店に、原田さんはよく通われていたようだった。
常連。
千鶴はまた部屋を見回した。千鶴は、色茶屋のことはよくわからない。島原のお座敷とは勝手が違うのかしら。でもここは岡場所には違いない。屯所で平助や新八が左之助が大層女にモテるといつも感心しているが、ここで女の人と会われているのだろうか。千鶴は、そんなことを考えた。そして考えながら胸の辺りがキリキリと痛んだ。気分が沈んで悲しい。
寝返りを打った。もう一度反対側に身体を向ける。苦しくて眠れない。それに、どうせ眠らないのなら、私が廊下に出ていればいい。そうしよう。お布団にくるまれば、一晩ぐらいやり過ごせる。そして、原田さんに部屋で休んでもらおう。
千鶴はむっくりと起き上がると上掛け布団を四つ折りにして抱えた。そして、そっと廊下に出た。
*******
左之助の夢
千鶴が部屋で寝苦しくなって居た頃。左之助は廊下の階段の上がり口に座り込んでいた。傍らの盆に載った銚子は二本とも空っぽ。身体は芯から冷えているが、腕を組んで壁にもたれているとやり過ごせる。左之助は次第にこっくりこっくりと居眠りを始めた。
原田は夢を見ていた。
巡察が終わった夕方、家に帰っている。
屯所の大浴場で汗は流した
濡れ髪を乾かしがてら風に吹かれて気分がいい
坊城通の長屋に着いた
入り口の土間から良い匂いがしている
夕餉だ。
毎日うまい夕餉を作って待っている女房
俺の恋女房
引き戸を開けると土間でへっついに向かって立っている
ふりかえって笑顔で挨拶する
可愛い笑顔だ
黒目がちの大きな目
一日の疲れも嫌な事もこの笑顔を見ると吹っ飛ぶ
二人で飯を食った後は、俺が井戸から水を汲んで来てやる
土間にある大きな盥に水を溜めて、そこに沸かした湯を入れる
これが日課だ。
俺は屯所で風呂に入るが、女房は一日の終わりに行水する
衝立を立てた向こうで着物を脱ぐが
俺は膳を移動して、一番女房のよく見えるところで晩酌する
湯浴みをする女房の身体を眺めるのが大好きだ
日の本一、世の中で一番綺麗なものだと思う
見ないでくださいっていっているのに
女房は頬を膨らませる。
そんな顔も可愛い
土間におりて背中を流してやる
華奢な背中と二の腕
細い首に口づけてやる
可愛い
湯から上がって立ち上がった姿を
じっと眺める
水が滴って綺麗だ
全てがゆっくりと綺麗で……。
「原田さん、原田さん」
身体を揺り動かされて目が覚めた。薄目を開けると、目の前に千鶴が覗きこんでいる。
俺の恋女房……。
左之助は千鶴に笑いかけた。もう一度目を瞑ってからゆっくりと開ける。そこには、心配そうな顔で覗き込む千鶴の顔があった。
「原田さん、こんなところにずっといらっしゃると風邪をひいてしまいます」
千鶴は、持っていた布団を床に置いて左之助の手をとった。背後に空いた部屋から行灯の灯りが射して、千鶴の着物が透けている。涼し単衣の向こうには、美しい千鶴の肢体がそのまま透けて見えていた。
水が滴る美しい身体
左之助は夢の中の続きのような気がした。千鶴、綺麗だ。俺は、この世で一番美しいものを目にしている。
「千鶴、綺麗だ」
思わず、呟いた。千鶴は、きょとんと不思議そうにしながら、そのまま左之助の手を引いて立ち上がらせようとしていた。その時、廊下の奥から大きな声を立てる男がけたたましく笑う女と一緒に歩いてきた。男は半裸で、女は肌襦袢のまま男の手を引いている。通りすがりの二人は、厠に向かう途中なのか、女が大きな声で「もれてしまうー」と笑って走っていく。その後を追う男は、ふと廊下に佇む千鶴の背後で立ち止まった。千鶴の背中から、嘗め回すような視線でじっと千鶴を上から下までを覗いている。
「えらい、別嬪の上玉や」
そう言って、前にまわって千鶴の顔を覗き込んで驚嘆の声を上げた。そして立ち止まって鼻の下を伸ばし始めた。左之助は一気に正気に戻った。こんの野郎。
「おい、何をじろじろ嘗め回すように見てやがんだ」
左之助が立ち上がった。千鶴を背後に隠すように立つと、半裸の男を睨み付けた。頭二つ分以上もある長身で上から凄まれた男は、急に踵を返して謝りながら逃げてしまった。左之助は振り返ると、布団と千鶴を抱えて部屋に入って襖を閉めた。
「そんな姿で、廊下にでるんじゃねえ」
いつもの優しい左之助とは違い、苛立った様子で千鶴は布団を背中から掛けられた。
「でも、原田さん。こんなに濡れたままで。廊下でうたた寝をしたら風邪を引いてしまいます」
「俺の事は心配いらねえ。雨風しのげれば今夜は大丈夫だ」
左之助はまた襖に手をかけた。千鶴は走って背後から左之助の腕を引いた。
「ほら、こんなにも冷たくなってしまわれているじゃないですか。お着替えをなさってください。着替えがなければ、ここにお布団があります。濡れたお召し物を脱いで、乾かしてください」
一気に捲し立てる千鶴は真剣な表情で、左之助の手を両手でさすって温め始めた。
「こんなに手も冷たくなってしまって」
伏せ目の睫が長くて、心配そうな表情、細い首から透けた衣の向こうに肩や膨らんだ胸が見えた。左之助は胸が締め付けられた。同時に足元がふわふわとした。酒に酔った時とは全く違う。可愛い恋女房、夢の中の千鶴が目の前にいた。
気づくと、千鶴を強く抱きしめていた。
「温っけえ」
千鶴は左之助が耳元で囁く声を聞いた。突然大きな胸に抱き寄せられた。原田さん。こんなにも身体が冷えてしまわれて。千鶴は、ゆっくりと左之助の腰に手を廻した。濡れた着物がずっしりと冷たいままで。千鶴は、このままずっと自分の体温で温め続けたいと思った。ずっと原田さんに触れていたい。
しばらくじっと千鶴は左之助の腕の中にいた。左之助の濡れた着物で千鶴の着物も濡れていた。左之助は、ゆっくりと腕を解いて千鶴から離れた。
「すまねえな。不躾な真似をしちまった」
左之助はずっと下を向いたまま後ろに下がる。千鶴は左之助の顔を見上げた。心なしか、左之助の頬が赤くなっているように見えた。
「廊下にでている。千鶴は朝まで部屋で休んでいるのがいい。ここは他の客が廊下を通る。朝になれば、橋も渡れるようになる」
どんどん後ずさりながら去ろうとする左之助に、千鶴が手を伸ばした。
「どうしても、外に行ってしまわれるのですか」
千鶴の手は、左之助の袖を掴んだ。濡れた涼し単衣は千鶴の肌に貼り付いていた。透けた薄衣の向こうの美しい乳房が見えた。左之助は、天井を向いて目をそらした。大きな溜息をつくと、瞑目して俯きながらもう一度息を整えた。そして両手で千鶴の肩を掴んでじっと千鶴の瞳を見詰めた。
「なあ、千鶴。俺は、単純な男だ」
「ただ雨宿りの為にここに来た。だが、考えたらお前をこんな場所に絶対連れて来ちゃあ駄目だった」
「俺の考えが浅かったばかりに、ほんとうにすまねえ」
千鶴は、どんどんと左之助が遠くに行ってしまうような気がした。さっきからずっと胸が痛むのも、悲しく沈んでしまうのはどうしてだろう。さっきはあんなに近くにいたのに。ぬくもりがあったのに。千鶴は、どんどんと冷たい水が心に降り注いでくるようで、悲しく、ただ悲しく、そのまま畳に崩れてしまいたい気分になった。
千鶴は、泣きそうになりながら左之助の目を見詰めた。
「せめて部屋の中で休んでください」→ 分岐ルートへ
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