誓い合い
FRAGMENTS19 春
表語り
日曜に千鶴の家に行きたい。
木曜の早朝、千鶴は斎藤からひと言メッセージが入っていたのに気が付いた。暖かい陽気が続いた日から一転して、窓の外に冷たい霙交じりの雨が降っている。千鶴はベッドの中から斎藤に返信を送った。
はじめさん、おはよう。
日曜の予定を空けておくね。
土曜日に逢いにいきたい。
トレーニング忙しい?
メッセージは暫くたっても既読にならなかった。千鶴は着替えて朝食の仕度をしに階下へおりていった。今日は寒いからお野菜たっぷりのスープを作ろう。お湯を沸かし、鍋に材料をいれて火にかけた。ジンジャーアップルの紅茶を煎れて、リビングのヒーターをつけた。テーブルの上のスマホのメッセージランプが光っている。
おはよう。
土曜日は道場稽古とバイトだ。
日曜は千鶴のお父さんに会いにいく。
在宅されているだろうか。
うん、夜なら。
千鶴が返信を打とうとすると、斎藤から続きのメッセージが入った。
挨拶に行くつもりだ。
千鶴と正式に付き合いたい。
千鶴は驚いた。正式に。はじめさんが、こんなことをハッキリと云うのは、二度目。
——雪村、俺と正式につきあってほしい。
あれは高校一年の春休み。神社の境内で、ホワイトデーだった。初めてキスした日。はじめさんと付き合い始めた記念日。心がふわふわする。でも今度は父さまに挨拶するって……。千鶴はテーブルの椅子に座って、スマホの画面をもう一度見た。いつもの文面とは違う。はじめさんは父さまに会って、わたしと付き合いたいと云ってくれるのかしら。
嬉しい。
逢いたい時にあえる。
はじめさんのそばにいられる。
千鶴は返信を打った。
日曜の夕方、必ず父さまに家に居てもらうようにする。
土曜日の夜に連絡ください。
急に寒くなったから風邪をひかないようにね。
斎藤から「わかった」と直ぐに返事が来た。今日も朝はバイトで午後は道場で稽古だと書いてあった。千鶴は台所に戻って、食事の仕度を続けた。父親の綱道が起きてきて、一緒に朝食をとった。綱道はいつも食事をとりながら新聞を広げて読む。千鶴は食後のコーヒーを用意しながら、それとなく父親に日曜の予定を訊いてみた。
「日曜は家にいる」
「そう」
千鶴はあえて斎藤が家に来ることを言わなかった。前日に伝えればいい。それか、日曜のお昼にでも。はじめさんが家に来ることを嫌がって断られるのはいや。そんなことにならないようにしなきゃ。千鶴は食事の片付けをしながら、父親に打ち明けるタイミングのことをずっと考えていた。
*****
土曜日の道場稽古の担当は斎藤と平助だった。午前中に自分たちの稽古、午後は小学生の稽古をする。午前稽古の後、控え部屋で斎藤と平助は買って来た弁当を食べた。平助は鞄からノートブックを取り出して電源を入れると、何かを熱心に調べるかのように画面に見入っている。斎藤はゴミを捨てに部屋の外に出た。
廊下を歩いていると総司の声が聞こえた気がした。控え室から平助の笑い声がする。部屋に戻ると、平助がPCの画面に向かって「はじめくんもいるよ」と話しかけた。斎藤は平助が手招きするままに並んで座って、PCの画面の中の総司を見た。
「そっちは夜か?」
「うん、いま7時過ぎ。まだ明るいけどね」
「ファイルみた?」
「見た。すげえな。つか、めちゃくちゃ可愛いじゃん」
「うん、リサは強いよ。今日もずっと仕合った」
「それで、どうなんだよ?」
「まだ、観光と稽古だけ。明後日がサンディエゴでの大会」
「ステイしてる家が、道場持ってるからね。そこで稽古してるよ」
「調子はどうだ、総司?」
「すこぶるいい、もう時差ボケもなくなった」
笑顔の総司は、背後から誰かに呼ばれて振り返った。
「そろそろ行かなきゃ。これからバーベキューするんだって」
Tシャツに短パン姿の総司は立ち上がって、PCの画面に顔を近づけた。
「それじゃ、ガールズたちが呼んでるからいくよ」
直後に画面が止まって通信が途切れた。平助は「いいなあ」と言って画面を切り替えた。
「なにが、ガールズだよ、ムカつくなあ」
平助は文句をいいながら、パソコンの画面をずっと眺めている。
「はじめくん、見ろよ、これ」
平助が開いたファイルには沢山の写真が並んでいた。総司が送ってきたアルバムで、ステイ先の様子を写してある。
「この子がリサ。向こうの剣道協会の会長の娘なんだって。全米ジュニア部門一位の剣豪」
「めちゃくちゃ可愛くね? 12才だって」
「総司はこの子の家にホームステイしてんだ」
「これ、見ろよ。すげえ豪邸だろ」
画面には総司がサーフパンツにポロシャツを着て、サングラスをかけて、テラスに座っている姿が映っていた。背後には真っ白な建物、大きなコロニアル風の柱にいかにも南国といった感じの棕櫚の葉が影を作っている。もう一枚の写真には、青いプールが映っていた。
「庭にプールがあるって、すごくね?」
平助がクリックして開いた写真には、総司の膝の上に乗っかっている女の子を総司が後ろから抱きかかえていた。栗色の髪にはしばみ色の瞳。まだ小さな少女のようで、水着を着た華奢な肩は小麦色に日焼けしている。リサという名の少女は、日系人のクオーターで中学生だという。
「リサも可愛いけど、高校生の姉ちゃんがいるんだ」
「これ、みて」
平助が開いた写真には、リサと一緒にもう一人、亜麻色の長い髪をしたタンクトップ姿の女の子が総司の隣に立って居た。目の大きな美人で、ショートパンツからすらりと伸びた足が長くパンプスを履いている。次に開いた写真は、プールサイドの飛び込み台に立った姿で、ビキニを着て髪をポニーテールに結わえていた。
「やばくね? このボディ。高校一年だって」
「発育いいのな。向こうの子って」
「ステファニーちゃんだって。ステファニー」
平助はステファニーの胸を拡大して見入っている。
「美人姉妹に、母ちゃんも美人なんだよ、そんなとこに総司は泊ってんだぜ」
次の写真では、総司とリサが防具をつけた道着姿で笑っていた。平助の説明では、長女のステファニーは剣道をやっておらず、ハイスクールでチアーをやっているらしい。それにしても、総司のそばにいつも小さなリサが写っている。肩にしがみついていたり、おんぶをされていたり、膝に乗っていたり、総司の頬にキスをしている写真もあった。総司は子供に人気だ。試衛館道場の子供たちにも慕われている。
「リサちゃんもトーナメント大会に出るんだ」
「稽古をしながら移動するのは、大変そうだな」
「だよな。サンディエゴの後は、ラスベガスだって」
「総司、毎日のようにアルバム上げたからってlineしてきてさ」
「ほんと、羨ましいぜ。最高の春休みだよな」
「オレもガールズたちとよろしくやりてえよ」
斎藤は平助の呟きを聞きながら、総司のガールフレンドのみよちゃんの事を考えていた。確か、ラスベガスに追い駆けていくと云っていた。もうそろそろ日本を出発しているかもしれない。写真で見る限り、ホストファミリーとは良好そうだ。みよちゃんが随行すれば、なにひとつ不自由なく総司は大会に進む事ができるだろう。斎藤は総司が順調よく準備をしている様子をみて安心した。平助はPCから離れる様子がない、斎藤は独りで稽古場へ戻って先に準備を始めた。
*****
日曜日、千鶴は朝からずっと沈黙を続ける父親のことが気になっていた。斎藤が家に来ることを伝えた後、雪村鋼道はリビングで書類を広げたものを読んでは、ペンで書き込みをしている。千鶴は父親の邪魔をしないように、一旦駅前まで買い物にでかけて、午後は夕食の仕度をしてから部屋に籠もった。斎藤からのlineが入ったのに気付いたのは三時すぎ。
五時半に着く。
千鶴はすぐに返事を送ったが、なかなか既読にならなかった。千鶴は階下に下りて行っては、父親の様子を伺い、また部屋に戻ってを繰り返した。気持ちが落ち着かない。気分が紛れるように台所に行ってシンクを磨いた。次に食器棚からシルバーを全部出して熱湯で洗って磨いた。
玄関のベルが鳴ったのはちょうど五時半。千鶴はドアを勢いよく開けて、斎藤を招き入れた。いつもとは違った装い。ネイビーのジャケットにシャツ、細いネクタイを締めて入ってきた斎藤は大人びて見えた。手には紙袋を持っている。靴を脱いだときに、「菓子折りだ」と言って持たされた。千鶴がお礼を言うと。「おとうさんは?」と訊ねられた。
「いる」
と千鶴が応えると、斎藤は背筋を伸ばすようにして、リビングに入った。
「とうさま」
千鶴は父親に呼びかけると、斎藤をリビングのソファーに座るように促した。父親はゆっくりと顔をあげて、頷くように会釈した。斎藤は頭を深くさげて挨拶した。雪村綱道はなにも言わずにいる。千鶴が台所から顔を出して、「はじめさん、座っていて」と声をかけた。斎藤はようやく席につくことが出来た。
千鶴がソファーテーブルの上を片付けて、紅茶を差し出した。書類の山をサイドテーブルに重ねて置いた雪村鋼道はゆっくりとティーカップを手にとって飲み始めた。
「お休みのところを、突然お邪魔してすみません」
「今日は雪村先生にお話があって伺いました」
斎藤は握り拳を膝の上で握ったまま背筋を伸ばした。
「千鶴さんと正式に付き合うことを承諾して貰いたいです」
「お願いします」
綱道は深々と頭をさげる斎藤を伏見がちの目でじっと見ている。千鶴は、斎藤が単刀直入に話をしたことに驚きながらも、その誠実な様子に胸がいっぱいになって何も言えないでいた。
「もう決まっている」
「千鶴には決まった相手がいる」
雪村鋼道はゆっくりとカップをテーブルに戻した。
「わるいが、付き合いを認めるわけにはいかない」
「父さま」
千鶴の声がリビングに響いた。サイドテーブルの書類の束を持って、雪村鋼道は立ち上がった。
「話がそれだけなら、仕事があるので失礼する」
「父さま」
千鶴が立ち上がって、父親の元に駆け寄ろうとした。
「引き取ってもらいなさい」
「話はそれだけではありません」
斎藤の声が響き渡った。
「わたしも決めています」
「わたしは千鶴さんと一緒になるつもりでいます」
雪村鋼道は首を横に振った。顔は微笑んでいるが、眼には怒りが籠もっている。
「話にならない。君は大学生だったね。学業に専念しなさい」
「千鶴は近く婚約する。娘につきまとうのはやめて貰いたい」
「父さま」
千鶴は父親の腕を引いて引き留めた。
「帰ってもらいなさい」
綱道は云い捨てるように、リビングから出て行ってしまった。階段を上がる足音がして直後に寝室のドアが閉じる音がした。千鶴は茫然としていた。斎藤は立ちあがって、千鶴の傍を通り抜けるように玄関に向かい、靴を履いて外に出た。空は既に暗く、冷たい風が吹いていた。雪村鋼道の言葉が頭の中を巡っていた。千鶴が追いかけて来ていることにも気が付かず、斎藤は足早に歩いていた。突然、千鶴が背中に飛び込むように縋り付いてきた。
「はじめさん」
振り返ると顔をぐしゃぐしゃにした千鶴が胸に飛び込んで来た。
「すまん、何もいわずに」
千鶴は首を横に振っている。すすり泣く声。小さな震える肩をそっと抱きしめた。
「あんな事になってごめんなさい」
泣き声で謝る千鶴が不憫だった。
「許しをもらうまで、また会いにくる」
「俺の気持ちは変わらない」
「千鶴と一緒になりたい。そばに居てほしい」
泣きじゃくる千鶴の髪を撫でながら斎藤は繰り返した。
「はい」
千鶴は笑顔で頷いた。二人で固く抱きしめ合った。千鶴はさっきまでの悲しみが消えていくように感じた。いつの間にか灯った街灯の下で、二人は口づけを交わすと初めて互いに言葉にして将来を誓いあった。
*****
裏語り(逆戻し)
The Players プレイヤーズ
「これを、こうして。よし、送信っと」
平助はPCの画面から離れると、床にあったスマホをとって総司にlineした。灯をつけていない部屋にPCとスマホ画面の光が青白く平助の顔を照らしている。直後に総司とlineの通話が繋がった。
「ファイルみた?」
「いま見てる」
「ちょっと待って。オレの録音したやつ直接聞かせてやるから」
許しをもらうまで、また会いにくる。
俺の気持ちは変わらない。
千鶴と一緒になりたい。そばに居てほしい。
はい。
俺は諦めない。何度でもお願いにあがる。
はい。
「ばっちりだね」
「ここの街灯と基地部屋はコンクリートで繋がってるからな、反響して音がまる聞こえ」
「千鶴、泣いてたみたい……」
「僕の送ったファイルの通りにすれば大丈夫だよ」
「おう、そうだな。金曜に相馬たちと面接受けに行った」
「準備は着々と進めてる」
「OK。じゃあ、僕はこれから稽古だから」
「あ、そうか。そっちは昼間だもんな」
「相馬君たちにもよろしく言っといて」
「わかった。みよちゃんにもよろしくな」
平助はPCの画面を切った。立ち上がって、窓を開けて身を乗り出すように階下を覗いた。街灯の下には誰もいない。ほんの一時間程前、平助の家の屋根裏部屋の窓の外から、千鶴の声が聞こえた。平助の秘密基地にしている部屋から斎藤と千鶴の逢瀬の声がまる聞こえなのは、偶然総司と一緒に居た時に気が付いた。もう1年前のことだ。以来、平助も総司も斎藤たちには秘密にしているが、二人がデート帰りに街灯の下で名残を惜しみ合うのを時々、こっそり観察している。
「帰りたくない」
「まだ一緒にいたい」
「ああ」
二人が睦む姿。特に夜間静かな時間には、二人の会話がはっきりと聞こえる。斎藤は言葉が少ないながらも、時折平助たちが驚く程情熱的なことを言う事もあった。
「会津に行くときはずっと一緒だ」
「離したくない」
二人が静かになると、口づけあっている姿を見ようと総司と先を争って身を乗り出すこともあった。物音をたてないように声を必死にこらえながら頭上から恋人たちを観察するのが面白く、二人のことを「平成のバカップル」と揶揄しながらも、平助と総司は本気で想い合う二人を見守っていた。
****
The Set-up 仕掛け
2日前の金曜日
薄桜学園三年生の相馬主計と野村利三郎は去年のうちに推薦で都内の大学に進むことが決まった。高校卒業まで一般入試を控えるクラスメートたちとは別に大学進学準備の自由学習が進められていた。
学園では地域ボランティア活動への参加が奨励されていたが、社会勉強としてのアルバイト就業も学園の許可を受ければ可能だった。相馬と野村は、剣道部の2学年上の先輩にあたる藤堂平助と共に都内宿泊施設での短期アルバイトに就くことが決まった。藤堂平助と同じ大学の経済学部に進む二人にとって、ホテルでの就業体験することが、高校の卒業単位に加算されることは好都合だった。
このアルバイトの紹介は、藤堂平助から声を掛けられたのがきっかけだった。総司のガールフレンドの西園寺美代香を通して、特別にホテルでの短期アルバイトに就けるという事だった。学校の授業を午前中で終えて、藤堂平助と新宿駅で待ち合わせて慶王プラザホテルに向かった。巨大な高層ホテルの建物を正面玄関から見上げた。総司のみよちゃんの叔父にあたる人が総支配人をしているらしい。総務室に案内され、面接を受けたその場で採用が決まった。宴会場とルーム整備課のアルバイトスタッフとして今月いっぱい勤めることになる。週2日の昼と夜のシフト制。三人で一緒に働く日が多く、相馬と野村は安心した。
「自由学習やって給料も貰えるんだからラッキーだよな」
「卒業式が終わったら、一日道場とバイト通いになるな」
「藤堂先輩もチャリで通うってさ。交通費浮くから、俺等もそうしろだって」
自転車で試衛館まで戻る平助と新宿駅で別れた相馬と野村は、その足で試衛館道場へ向かった。三月中はアルバイトを優先して、道場稽古に行くことを道場顧問の井上源三郎に伝える必要があった。井上の話では、春休み中は学園の教諭が特別に稽古をつける行事以外は、稽古は午前中のみになると云う。師範代の沖田総司がアメリカ遠征で不在な上に、原田教諭が四月から藤沢の男子校に転任になることが決まり、道場は指導者不足になった。今月は稽古をつけられる斎藤が連日道場に来ることになっている。研修で土方が不在になることもあり、道場主の近藤が三月最終週を道場の春休み期間にすると決定した。
「なにかとバタバタしていて、君たちには迷惑をかけるね」
道場の事務室で井上はかけていた眼鏡をとると、3月中の予定表を印刷したものを二人に配った。
「いいえ、俺たちもアルバイトが急に決まって、稽古に来られなくなるなと思っていたんで、ちょうどよかったです」
「来月、大学のほうが落ち着いたら、もっと稽古に通えるようになると思います」
「俺、師範代目指します」
「オレも、目指します」
二人が背筋を伸ばして宣言する姿を、井上は「そうかい、そうかい」と嬉しそうに微笑みながら頷いた。そこへ平助が現れて、稽古日程の最終確認が済み、三人で小一時間稽古をしてから道場を後にした。
「なあ、野村。いつかの観測会の夜みたいに、チャリで新宿のホテルから移動するのに、いいルートってないかなあ」
「UFOの見えるとこですか?」
「ああ、トレースされない安全な道」
「今日、ホテルのまわりをぐるっと回ったけど、どの道も丸見えだな」
「UFOのレーダーは半端ないっすから」
野村が真剣な面持ちで応えた。
「いま、横断歩道とかどこでもカメラがあるじゃん」
「ああいうのも、うまく避けられねえかなあ、と思って……」
「未確認飛行物体の放つ光は、はんぱねえ波動っすから」
「昼間に人目につかない方法で移動できねえかなあ」
「先輩、なんで人目についちゃあ駄目なんです。UFOを見つけるんですか?」
と、それまで黙っていた相馬が尋ねた。
「まあな、うまくチャリで最短で行く方法な」
「UFO観測場所までですか。新宿からなら代々木公園まで結構ありますよ」
「代々木? そこまでは行かねえよ。新宿駅でいいんだ」
「新宿駅。駅なら、すぐじゃないですか」
「ああ、チャリで行くルート開拓が必要だな」
「バイト始まったら、探しますよ」
「あの辺はまかせてください」
「おう、オレもいろいろ当たってみるわ」
「ありがとうな」
平助は野村たちと別れて、自転車で走り去った。野村は、藤堂平助が真剣に新宿のUFO観測スポットの開拓をしていることがわかって気分が高揚した。バイト先の慶応プラザホテル上空に現われる可能性もある。絶対あるあるだ。よし、見つけるぞ。野村がその場で両手を挙げてガッツポーズするのを、隣で相馬が笑いながら見ていた。
******
表語り
——斎藤君と会うのはやめなさい。
日曜の夜、千鶴は父親からハッキリと斎藤に会うことをやめるように言われた。「どうして」と聞き返しても、「彼は駄目だ」としか父親は答えない。
「どうして駄目なの、とうさま」
「どうして、はじめさんが駄目なの。ねえ、とうさま」
「駄目だと言ったら、駄目だ」
千鶴は引き下がらなかった。リビングを出て階段を上がる父親を追いかけた。
「とうさま」
呼び止める千鶴に、階段の上から雪村鋼道は応えた。
「彼はまだ学生だ。社会に出てもいない者が何を認めて貰いたい。いいから、わたしの言う事をききなさい」
「わたしも学生です、父さま。学生のなにが悪いの。はじめさんも私も大学で一生懸命、研究や必要な勉強をしている。はじめさんは、剣術も教えて、鍛錬して、うんと上を目指している」
「社会にでていないからって、はじめさんのこと、そんな風に言わないで」
「もういい。彼のことは。書類を見なきゃいけないんだ。今夜はもう寝なさい」
千鶴が引き留めても、雪村鋼道はそれ以上何も言わずに寝室に入ってしまった。千鶴は途方に暮れた。父さまは何もわかっていない。ただそう思った。悔しさにも似た怒りで暫く心臓の鼓動が激しく、階段の手すりに掴まってようやく立っていられた。気持ちが落ち着いてくると、涙がぽろぽろと零れてきた。せっかく誓い合ったのに。はじめさんと一緒になろうって。リビングのソファーに突っ伏すように声を堪えて泣いた。ひとしきり泣いた後、千鶴は斎藤の言葉をひとつひとつ思い返した。胸の辺りにぽっかりと空いた穴にじんわりと温かさが戻ってくる。
——必ずだ。一緒になろう。
何度も繰り返した。はじめさんが言う言葉は絶対だ。はじめさんは、決めたことは必ずやり遂げる人。どんなに困難でも。どんなに大変なことでも、かならず。そう、わたしも諦めない。どんなことがあっても、絶対に。好きだから。はじめさんのことが。
誰にもこの気持ちは止められない。
泣いてばかりいちゃだめ。必ずって誓ったんだもの。
千鶴は起き上がって身体をしゃんとした。リビングと台所を片付けてから熱いシャワーを浴びてベッドに入った。スマホには触らず、心で斎藤に想いを送ってみた。
はじめさん、必ず。
わたし、かならずお傍にいます。
ずっと、ずっとです。
胸の上に置いた手の上に、節ばった斎藤の大きな手が重なった気がした。それは大きくて、温かくて、全てを包み込んでくれるようだった。千鶴は心に誓いを思い続けながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
つづく
→次話 FRAGMENTS 20へ
(2022/05/21)