ブログ【斎藤さんウォーク】 斎藤さん@出稽古への道 試衛館→新宿 休憩

ブログ【斎藤さんウォーク】 斎藤さん@出稽古への道 試衛館→新宿 休憩

【斎藤さん@出稽古への道 試衛館→新宿 その2】

<休憩>

ちょっとここで、ウォーキングから逸れて、薄桜鬼的さばっきー(佐幕派)話を。

御三家尾張徳川家の当主である慶勝さんは会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の兄。十五代当主の弟茂徳(とくがわ もちなが)と共に高須四兄弟と呼ばれます。将軍徳川慶喜とは従兄弟です。高須四兄弟は、徳川宗家と所縁が深く、異母兄弟であったり養子に入っていたりと家系相関は入り組んでいます。戊辰戦争では兄弟で敵味方に分かれて闘うことになった、互いに恩讐を抱えた関係です。

慶勝は、第一回長州征討の総大将として尾張から上洛して進軍しますが、あまり戦には積極的ではなく、敵に恭順を勧めて帰還。この人は第二次征討には参加せず、弟の茂徳にも参戦を拒否させて御所警備につきます。超弱腰です笑。鳥羽伏見の戦いが起きて、徳川慶喜が大坂城を脱出して江戸に戻ってしまった後、慶勝さんが大坂城を引き受けますが、尾張藩内では佐幕派(尾張さばっきー)と恭順派(尾張KJ)で意見が分かれて、結局尾張藩は新政府軍に恭順します。

一月三日 鳥羽伏見の戦い勃発
一月六日 徳川慶喜大坂城脱出
(新選組の土方さんが京都と大坂の境目の橋本で必死に戦った日)
(一月十日 新選組が富士山丸に乗って江戸へ向かった日)
一月二十日 慶勝さん尾張へ戻る→このまま尾張KJ化へ

慶勝はたったの二週間でさばっきーからKJへ変わり身。

戊辰戦争で、新政府軍が西南から江戸へ向かった時に圧倒的に移動が早かった一要因として、この広大で資金力ばっちりな尾張藩が近隣藩を説得してKJ化した事が考えられます。慶勝がさばっきーのままなら、進軍ペースはもう少し遅くて、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は甲府城を先に占拠し新政府軍を迎撃出来ていたかもしれません。(あくまでもifの話)

慶勝の弟の「さばっきー容保」や「さばっき―定敬」は冗談ではないと思ったはず。こうして高須四兄弟は敵味方に分かれてしまいます。瓦解後にKJ慶勝は弟の茂徳に弟たち(容保&定敬)の除名嘆願をさせますが、KJ慶勝、なんだかなあ。

この市ヶ谷の尾張藩上屋敷は戸山下屋敷とともに江戸において広大な面積を占めていました。(ちなみに明治期の話に登場させている斎藤さんの部下の天野は、八丁堀にあった尾張藩蔵屋敷出身で、留守番役だった叔父は戸山下屋敷でお勤めしていたという完全捏造設定)天野の叔父も父親も、瓦解前は【尾張さばっきー】でしたが、藩内KJグループに追いやられ瓦解後は、藩政からは遠ざかりという設定です。

高須四兄弟は瓦解後も生き残り、この有名な写真(ギャラリートップの写真)が残っていますが、なんとも4人の視線の外れ方が過酷な運命や互いの過去の裏切りや不信感などを物語っているように見えてしまいます。

さて、大分話が出稽古から外れました。新選組幹部となったメンバーを輩出した試衛場とこの尾張藩上屋敷が物理的に近くにあって、日野に向かう道すがら斎藤さんや総司君が傍を通っていたのも感慨深いものです。

写真は高須四兄弟。後方左から二番目が松平容保、一番右端が慶勝です。

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