ブログ【斎藤さんウォーク】斎藤さん@西南戦役出征散歩 その1
【斎藤さん@西南戦役出征散歩 その1】
こんばんは。大寒を過ぎて寒さもひとしおですが、皆さまお元気にお過ごしでしょうか。
斎藤さんウォーキングの番外編ログです。去年の暮れに突発的に歩いた鍛冶橋から新橋停車場までの短いウォーキングについて。
ちょうど二次小説の斎藤さんの出征場面で描いた部分の史跡ルートです。
明治十年五月十八日、藤田五郎出征。鍛冶橋に集合し、正午ちょうどに鍛冶橋を出発したという記録*1。新橋停車場まで警視隊は行進したそうです。
<スタート>鍛冶橋(交差点)
警視庁第一庁舎のあった鍛冶橋。瓦解前は美作津山藩(岡山)邸があった場所を明治初期に政府に買い取られ、警視庁の庁舎になりました。今は東海道線や山手線の線路がある場所。ここがかつて第一庁舎の建っていた場所です。大江戸街歩きの地図を貼りますね。ちなみに津山藩九代目藩主松平三河守慶倫(よしとも)さんが主です。十万石の石高。
松平家ですが、徳川直系ではなく、譜代大名の松平です。慶倫は細面のイケメン。上の写真でも、現代人のような風貌です。明治四年に他界していますが、彼はまさに幕末を生きたお殿さまで、生粋佐幕派(純さばっきー)でした。尊王攘夷派を精力的に排除した方。慶倫は養子で、先代の八代藩主斉民(なりたみ)が名君として有名です。斉民は、十一代将軍徳川家斉(なりなり)の十四男で大層優秀で誉れ高かったのです。十三代将軍家定(さださだ)が亡くなった後、一ツ橋慶喜や、南紀派徳川家茂(しげしげ)とともに次期将軍として候補に上がったのですが、藩の勢力が弱く、将軍になれなかったのです。斉民さんは、安政の頃に藩政改革や教育の普及を行い幕府からも信認が厚く、家督を養子の慶倫さんに譲ったあとも、幕府から隠居料として一万石を受領していたという。その身分が守られ厚遇だったことが凄い。そして、隠居しながらも藩政の実権を握り続けていました。イケメン慶倫さんはお飾り城主でした。彼は幕末から明治初期の動乱改革の大波に揉まれている中で亡くなっていますが、その死は県政が落ち着くまで秘密にされました。余程藩内が動揺していたのでしょう。写真を見ると優しそうな細見の美男子です。津山藩最後のお殿様です。
すみません、美作津山藩の話に脱線してしまいました。(幕末の小さな諸藩の内情は本当に面白いです)
ここは最寄り駅は地下鉄の京橋、または有楽町。東京駅の八重洲口から有楽町方向に線路に平行して外堀通りを歩くとすぐです。鍛冶橋には史跡表示板が立っていますが、警視庁庁舎については言及されていません。鍛冶橋は交差点の表示でしか残っていません。今は道路ですが明治期ここは外堀でした。当時は御堀を鍛冶橋を渡って庁舎に向かっていました。
京橋方面(南方向)へ外堀通りを渡ります。暫く行くと中央通りとぶつかります。中央通りは日本橋方面から続く広い通りです。通りを反対側に渡って道沿いに右に行くと京橋(跡)に辿りつきます。
警察博物館。京橋の袂にある博物館。写真撮影は一階ギャラリーしか不可でした。ここの5階の展示が、警察の黎明期の頃の歴史になっていて、明治期の資料が見られます。初代警視総監である川路利良さんの制服が飾られていて、感慨深いものがありました。川路さん、長身で大柄だったという記述がありますが、制服を見ると肩幅は小さいです。現代人は大きいですね。150年前の日本人は本当に小さかったと思います。制服の展示は、巡査のものは絵のみ。藤田五郎が着ていた巡査の制服。カラーで描かれた錦絵などがパネル展示されていて、巡査の制服は明るいネイビーに金モール。随分とお洒落なデザインだったことがわかります。この他にも西南戦役時に使われたスナイデル銃などの展示。
館内がリニューアルされた時のリポートのサイトを見つけたのでURLを↓に貼ります。5階の資料がほぼ全て写真で見ることができるので、よろしければ。
Impressのトラベルウォッチ 警視庁の警察博物館がリニューアルオープン、一足先に見てきた https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1057984.html#567_s.png
入館料無料です。パトカーや白バイに警察官の制服を借りて写真撮影ができるので、ちびっ子親子連れの来館者が多い様子でした。
写真は、鍛冶橋から京橋までのもの。江戸期の切り絵図、明治初期地図、現在の地図。警察博物館。京橋の親柱がまだ残っています。浮世絵は安藤広重の【京橋竹河岸】親柱が描かれています。今の石の親柱は、大正時代のもの。橋はアールデコ調のモダンな石橋でした。