待宵草

待宵草

薄桜鬼掌編集

 ふと、東の対に繋がる廊下に人の声が聞こえた気がした。

 千鶴は立ちあがると、畳台から廊下に出て足早に歩いていった。中庭から聞こえる蝉の声。遠くの渡り殿に従僕たちの姿が見え、千鶴は開け放たれた御簾がかかった丸柱に手をかけるようにして廊下の角を曲がった。塵ひとつなく磨き抜かれた無垢の廊下が遠くまで伸びている。千鶴は一気に駆けようと打掛の裾をさばくように両手で持ち上げた。その時、一間先に立つ夫の姿を見た。長身で輝くような上絹の長着を纏い、足元は裸足のままである。

「おかえりなさいませ」

 千鶴は慌てて手で持ち上げていた打掛の裾を下ろすと、夫の元に駆け寄った。

(やっと戻っていらっしゃった)

 近づく千鶴に優しく微笑むような目線を向けた風間は、駆け寄る千鶴の傍を通り過ぎるように廊下を歩いて行く。千鶴は抱きしめて貰えると思っていたのが、肩透かしをされたように足を止めて振り返った。黒目がちの瞳は一段と大きく、口元はなにか言いたそうに開きかけた。

「室へ急いでいるのだろう。早く済ませてこい」

 風間は首だけを後ろを向け一言そう言った。千鶴は一気に自分の頬が紅潮したのがわかった。屋敷では厠のことを「室(むろ)」と呼ぶ。部屋と部屋の間仕切りがない広大な主殿から対の廊下を隔てて唯一壁に囲まれた「室」があった。傍には手水場も設えてある。

「ちがいます。室ではありません」
「先に母屋へ行っている。用を済ませたら戻って来い。見せたいものがある」

千鶴は風間の背後に駆け寄った。何かを言いたそうに、ただ大きな瞳でじっと風間の顔を見上げている。風間は微笑んだ。

「なんだ、用はないのか」

 低い声が優しく千鶴を包むように響き、千鶴はゆっくりと頷いた。そのまま千鶴は風間に傅くように渡り殿を歩き主殿の奥の間に入った。畳台の上に腰をかけた風間に脇息を差し出した千鶴は、すぐに着替えを持ち寄ったが、風間は長着の襟元を少し緩めながら、「着替えはよい。湯あみをする」と応えた。

 遠く西の「海の果て」まで御護のために出掛けるといって風間が旅立ったのは、まだ梅雨があけて間もなくの頃。五日の内に戻るという約束が十日になり、それから二十日が経っても任が明けぬという報せがあった。千鶴が江戸からこの西国の鬼の郷へ輿入れしたのが初春のこと。慣れない西国の鬼の仕来りに戸惑いながらも、風間に守られ少しずつ鬼の世界のことを知るようになった。夫の千景は西国一帯を統治する棟梁。西海九国を守る役目は「御護」と呼ばれ、時折郷の外に出掛けて数日は戻らない。天霧を伴って行くときもあれば、護衛の従僕を数名連れて出掛けることもあった。千鶴はその間、主殿の主となって風間の不在を守っている。

「千鶴は」「奥方はどこにいる」

 外から戻る風間は、いつも屋敷の正門に着くやいなや回りの者に尋ねる。従僕が千鶴の居場所を伝える声を聞きながら、風間は渡殿に設えられた清め台に上がり、下の者が足袋を脱がせ持ち寄った足水で穢れを流す。差し出された上綿の上に足をのせた風間は「もうよい」と皆を下がらせ、渡り殿を足早に歩いていく。

春に御方様をお迎えになられてから
御屋形さまは飛ぶ様に屋敷にお戻りになる。
御方さまのお姿がお見えにならないとたちどころに不機嫌になられる。

 従僕たちの間では、頭領は美しい嫁御を片時も離したくない様子だと噂し、その仲睦まじい様子に屋敷中の者が「末は安泰だ」と悦びの声をあげていた。

 風間はお茶の載った盆を運んだ千鶴の手を引いて腕の中に抱きよせた。千鶴は風間の伸ばした膝の上に乗っかるようにその大きな肩に頬を寄せて目を瞑っている。伏せた長い睫毛の下に、筋の通った鼻と小さな唇が見える。安堵したように満足そうな微笑みを湛えた愛おしい者の顔を眺めて、風間はようやく無事に郷に戻った実感が涌いて来た。

「渡り殿を歩くのに打掛は邪魔のようだな」

 風間は畳の上に美しく広がった薄絹の裾を足先で掃うようにして、千鶴の肩から打掛を脱がせた。

(やっぱり打掛の裾を高く持ち上げていたのをしっかり見られていた)

 千鶴は恥ずかしさに再び頬が赤らんだのが自分でわかった。江戸から持ち寄った着物は街着に近いもの。祝言を挙げてから六つの月を数えるまで、鬼の郷の召し物を身に付けるようにと云われた。以来ずっと仕来り通りに婚着を身に付けている。薄打掛もそのひとつ。温暖な鬼の郷では、衣を重ねる必要はないが、上絹の長着の上に羽織るように纏っている。勿体ないぐらいに上質な布地。美しい織物に糸細工。髪も鬢削ぎにしてゆったりと背中で結わえている。そんな古式ゆかしい装いに決して堅苦しさを感じてはいないが、身分不相応な気もしていた。そんな千鶴の心配を知らず、風間は千鶴の姿をじっくりと愛でるように眺めている。

——雲の鬢づら、花のかんばせ

 耳に響く夫の呟き。いつもそうだ。こちらが恥ずかしくなるぐらいに。こんなにも優しい声で。千鶴は胸の辺りがふわふわとしてくる。長くて大きな指で、千鶴の頬にかかる鬢削ぎの毛先を優しく払いのけた風間は、そっと人差し指の先でその小さな顎を持ち上げた。深紅の瞳にかかる長い睫毛が伏見るように千鶴の唇を見詰めている。千鶴は目を瞑った。優しい口づけ。そのまま背中に回された手で抱えるようにそっと畳の上に寝かされた。蕩けるようにとはよく言ったものだと心の底から思う。互いに見つめ合い何度も口づけあいながら、千鶴は完全に風間の腕の中で夢見心地になっていた。

「湯殿の準備が整ってございます」

 御簾の向こうで、膝をついた従僕が頭を下げて告げる声が聞こえた。風間は返事をせずに、ずっと千鶴の首筋を唇と舌で愛撫し続けている。千鶴は、なんとか「はい」と声をあげて返事をした。顎をそっとなぞるように唇が触れた後に深く口づけられた。

「邪魔が入った」

 不機嫌そうな物言い。互いに離れがたく頬を寄せ合っていると千鶴は思わず笑いが零れた。二人きりの時、風間は小さな子供のような態度を見せる。齢ではうんと千鶴よりも大人なのに。こうして離れなければならない時に拗ねた様子で千鶴に甘える。千鶴は優しく風間の髪を撫でた。柔らかな黄金色。お出かけになられた時より長く伸びている。屋敷を出られてからもうひと月近く。そんな風に思っている間、千鶴の胸の上に頬を載せた風間はじっと目を瞑っている。

「千景さん、ゆっくりお湯に浸かってください」

 千鶴は優しく風間を起こすと、御簾を上げて板の間に下りた。風間の両手を引いて、ゆっくりといざなうように廊下に連れ出した。千鶴が先に歩き、後ろに回した手に引かれて、湯殿に渡る棟梁の姿を従僕方が対の向こうから眺めていた。

みたか。
 みた、見た。
御屋形さまがあのような。
 手を引かれて歩くなど。
 それもまあ、あないに嬉しそうに。

 感心する男たちの背後から天霧九寿も主の姿を見ていた。長くかかった鎮西防備がとけて久しぶりの帰郷。奥方様のもとでゆっくりと疲れを癒されるのだろう。

「湯殿には御方さまが御付きになられる」
「こちらで待機しているよう」

 天霧の指示で従僕たちは皆で侍廊に下がって行った。


(待宵草)

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