ブログ【虚構と現実のはざまで③】睢陽で籠城した張巡

ブログ【虚構と現実のはざまで③】睢陽で籠城した張巡

近藤さんの辞世の句の続き。前回のブログに越谷宿を出て綾瀬川を渡ったところで辞世の句を詠んだと書きました。 実際漢詩をしたためたのは、それよりもっと前かと思っています。おそらく、甲府の闘いから敗走して江戸に戻り流山で投降した頃には覚悟して書き終えていたやも。

薄桜鬼では流山で敵兵に取り囲まれて絶体絶命のような緊迫した場面ですが、実際はゲームやアニメで描かれるような様子ではなく、東山道先鋒総督府副参事の有馬藤太の回顧録によると、連行の意志を伝え迎えに行くと「只今仕度中だから上がって休息あれ」と座敷に土足で上がることを許し、立派な紋付袴姿で姿を現した近藤さんは「実にどうもお待たせしました。大勢の者どもを処置しますので思わず手間取りました」と小姓を二人連れて春日部に移動したとあります。実に誇り高く、軍を率いる頭たる態度です。その後、越谷宿での取り調べで「近藤勇」と確定し板橋へ連行されますが、この時は罪人籠に乗る事になりました。時代劇などでよくある、目の粗い竹かごで罪人として衆目に晒されるわけです。この時も、敵将へ礼儀を欠くことはならぬと、総督府軍は水筒、食べ物、矢立と紙を籠の中にいれることを許したと書かれています。近藤さんは辞世の句や伝達事を書き記すことはできた状況だったことが伺えます。

そして辞世の句。唐代の睢陽(すいよう、現在の河南省にあった城壁都市)を守った張巡(ちょうじゅん)という武将は我が儔(朋友という意味)。張巡は知略と勇猛さを兼ね揃えたヒーローで、睢陽が攻められ、援軍が断たれ孤立した時も屈服せず半年間籠城しました。お城の壁や建材、虫、鼠、雀、馬、はては自分のお妾を殺して部下に食させ、最期には捕らえられて処刑されました。徹底抗戦を死ぬまで貫き通したのです。近藤さんは自身が孤立しても主君(徳川家)を裏切ることはなく、最期まで戦うつもりだったのでしょう。

少し時間を遡って、甲府の闘いに出向いた頃の近藤さんの様子を考えてみます。

虚構(薄桜鬼のフィクション)では、近藤さんは旗本大名として西から上ってくる征東軍を甲府で抑えれば甲府城が貰える。「俺は一国一城の主になる」と下剋上的なノリで向かっています。軍資金も貰っていますしね。イケイケドンドン。伏見での雪辱を晴らす、喧嘩上等だって感じ。

現実はどうであったかと比べてみると面白い。新人物往来社「新選組日誌」下巻をみると、鎮撫隊の趣意は農兵を募り征討軍を「徳川家のために」鎮圧するというもの。しかし明治期に編纂された「復古記(東山道戦記 p175)」を見てみると、慶応四年三月初旬、幕府要人は江戸総攻撃の中止を求める書簡を持って駿府へ交渉に向かっている。徳川慶喜さんは朝廷に謝罪文を頻繁に送り上野で謹慎蟄居している。このように、幕府や朝廷の一部では和平交渉が密に進められていました。

大久保剛を名乗る鎮撫隊の近藤さんは、このような動きを知っていたのか知らずにいたのか、柏尾の闘いの前には敵兵に書状を送り「兵の進行を止めてもらいたい」と申し出るものの、しっかり胸板を積んで武備している様子を敵の斥候にみられて、その後発砲抗戦となっていきました。「徳川は闘う意志はみせていない」としながら、しっかり闘う気満々だったのは否めません。近藤さんは幕臣として慶喜公を守ることに徹していますが、恭順しますよという姿勢をみせながら兵は武備させています。結構策略家ですよね。こういうところ。

薄桜鬼で土方さんと別れるときに、「トシ、そろそろ俺を楽にさせてくれ」と大将として担ぎあげられることから降りたい宣言をします。物語として泣ける場面。でも実際は、辞世の句にもある通り、張巡のように籠城してでも最期まで抗い闘い続けるつもりだったのでしょう。その上で捕えられて処刑されても本望。

最期まで武人の誇りを持って潔く。

そんな近藤さんは虚構で描かれた物語でも現実でも生き様が格好いい。

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