
ブログ【虚構と現実のはざまで④】刀に宿るもの
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書きかけていたブログ、近藤さんの処刑に使われた刀と処刑人について書きます。近藤さんが辞世の句で「電光三尺の剣」と表現した刀。三尺だと大太刀に近いです。長い刀で介錯されることをイメージされていたのでしょう。実際に使われた刀は「仁王清綱」と伝わっています。室町時代に打たれた脇差(長さ一尺八寸)、現存しています(岐阜県博物館所蔵)。処刑人の横山喜三次(よこやまきそうじ)については、あさくらゆう先生の「新選組を探る」に詳しく書かれています。以下、同書の「近藤勇vs横倉喜三次」の章から抜粋要約します。
横倉は美濃国の幕府旗本岡田家に仕えた剣豪。軽格の身分から武芸で頭角を現し江戸、大坂、京で要職についていました。生年が文政七年なので年齢では近藤さんより10才年上です。徳川家の敗北で時流を察知した横倉は戊辰戦争が勃発すると、領主である岡田家に歎願し新政府軍への恭順を促しました。そして慶応四年三月には東山道軍中の大垣藩に所属して江戸へ向かいました。
この岡田隊が四月十三日に板橋宿の脇本陣である豊田市右衛門屋敷に入牢していた大久保大和(近藤勇)一行の取締役を命じられました。近藤勇の処遇については、新政府軍内でも寛典派(有馬藤太)と厳格派(土佐藩谷干城や勤皇派の香川敬三など)に分かれ白熱した議論や書状のやり取りがあったようです。その間に江戸城が明け渡され、大久保大和が幕臣であることばかりかその存在を否定する書状が幕府若年寄の大久保一翁より新政府軍に提出されました。近藤さんは完全に見放されてしまいます。近藤さんの処刑は新政府軍に抵抗する諸藩への見せしめの為にスピーディに決定され、関わった東山道役人たちはとっとと北上移動していきます。
その間牢屋の近藤さんの傍にずっと横倉はついていて、近藤さんとの心の交流があったのだろうと著者のあさくら氏は綴っています。その間十日余り。処遇決定された翌日の四月二十五日に板橋宿で処刑執行となりました。横倉は執行前に独り近藤の元へ赴き丁重に太刀取りを命ぜられたことを伝え、申し置くことがあればなんなりと言っていただきたいと申し出ました。
近藤さんはこの申し出に喜び「君の太刀ならなにも申し置くことはない、宜しく頼む」と返答したそうです。処刑執行された首級は丸の内の因州藩邸で検分されたのち京に送られました。
近藤さんと一緒に処刑される予定だった小姓役の相馬肇(主計)と野村利三郎は、近藤さんが最後に横倉に助命を願いでていたため、横倉から本陣の東征軍総監北島千太郎(元水戸藩出身神官で香川敬三と同志)に歎願され、香川敬三が横倉を重用していたことから、北島総監は願いを受け入れたようです。(薄桜鬼真改に登場する小姓組二人は、こうして命拾いして北上し戊辰の戦を戦っていきます)
ここまででも剣で身を立てた武士同士の心の通じ合いが近藤さんと横倉喜三次の間にあったことが明確に伺えます。
この後、横倉は死刑執行人として東山道軍から褒賞(金二千疋)を受け郷里の妻に送りました。報奨金二千疋は現在の貨幣換算だとだいたい10万円ぐらいでしょうか。
横倉氏は処刑から半月後に横倉家の菩提寺で「大和守法会」と称して法事を執り行いました。弔いに使われたのは上記の報奨金全額で、大和守は近藤勇(大久保大和)のことです。横倉は毎年仁王清綱を菩提寺に掲げて近藤を弔い続けたと伝わっています。
わたしは刀には魂が宿ると思っています。刀が打たれた時に刀工の想いは宿るだろうし、刀を使った者の念みたいなものも宿るだろうし、斬られた人の魂も宿るような気がしています。この感覚は日本人特有のアニミズムですね。無機物なものに魂が宿ると感覚的に強く感じる民族性。横倉喜三次の大久保大和に対する尊敬と慈悲の心は、執行刀であった仁王清綱を生涯大切に保管し弔い続けたことからも、刀に近藤勇の魂が宿っていると思っていたのではないかなと思います。鎮魂を願い執り行っていたのでしょう。
近藤さんの処刑前後の様子については「新選組を探る」に詳しく書かれています。薄桜鬼はフィクションとして素晴らしいドラマですが、あさくら先生が丹念に調査して書かれた本書はドラマ以上にドラマチックで大層感慨深いです。長く絶版でしたが今後電子書籍化されるそうなので是非ご一読をお勧めします。公共図書館にも所蔵されています。
連載中の二次小説はぼちぼち書き進めています。来月から札所巡礼も再開するので合間にサイトのメンテナンスをしながらアップしていく予定です。
立春を過ぎて陽射しは明るいですが寒さがとても厳しい。皆さん、どうか風邪など引かないようにくれぐれもおいといください。