白河城占拠
戊辰一八六八 その11
慶応四年閏四月
斎藤が家老の倉沢に呼び出されて登城した朝、本丸には会津遊撃隊の隊員が全員集まっていた。隊長格の者は全員が裃姿で、斎藤が広間に通されると場を空けて前に進むようにと指示がされた。斎藤は頭を下げてから正座をして、座敷の前に腰かけている参謀方に深く頭を下げた。
奥の座敷に藩主の喜徳公が現れた。続いて松平容保公が、紅い陣羽織姿で現れた。二人は堂々とした様子で背筋を伸ばし、皆に表を上げよと声を掛けた。
「この度、我が藩の徹底抗戦に際し、奥羽諸国が手を併せ、敵を迎え撃つと相成った」
「政府軍の白河入城を阻止する」
「無理に侵入するものは我が藩は決死防戦致す」
「高原より日光方面へ打ち出し、旧幕府兵と協同す」
喜徳公が読み上げる会津藩の徹底抗戦宣言に、その場にいた一同は身が引き締まる思いがした。直ちに赤津方面への進軍準備の指示が出された。遊撃隊が先陣として出発する出陣式が午後に開かれるという。遊撃隊員が全員、その場で喜徳公の激励を受けて退出した。
バタバタと廊下から兵士たちが走る音がしている。騒然とした様子に斎藤はいよいよ兵を挙げる時が来たと実感していた。気が付くと、奥の間から、一歩下に降り立ったところに容保公がすっくと立っていた。一同が低頭している中、大殿のよく響く声が広間に響き渡った。
「野田進、そなたに会義隊隊長長を命ずる。三日後に出陣式を開く」
名を呼ばれた者は、頭を下げて「はっ」と返事をした。
「新選組に白河への出動を命ず」
斎藤は、「はっ」と返事をして頭を下げた。
「山口二郎。そなたに新選組隊長役を任命致す。会義隊と行動を共にし、白坂口の守備を頼む」
斎藤は、「承知いたしました」と頭を下げた。広間から退出し、別の部屋で野田進の隊と軍議を開いた斎藤は、三日後に本丸広場での出陣式に集まるように指示をされた。その日のうちに赤津宿まで進軍し、先陣軍と合流するということだった。斎藤は家老に物資調達の指示書を貰い受けて、そのまま部屋を下がって宿陣先へ舞い戻った。長命寺には、既に隊士たちが集められて出陣の準備が進められていた。副隊長の安富が武器の準備は万全だと報告してきた。
「兵糧は既に、倉庫に整っています。雪村くんが出納帳も管理しています」
「あと、半刻で宿からお戻りになるでしょう」
安富は七日町の土方が療養する宿に千鶴が出掛けていると報告した。土方は、右足の傷が膿んでいて、相馬が医者の手配に城下を駆け回っているということだった。斎藤は、土方の容態によっては、千鶴を城下に待機させようと思っていた。
そこに千鶴が帰って来た。大きな荷物を抱えて山門をくぐった千鶴が、隊士たちと一緒にそのまま土蔵の中へ入って行くのが見えた。斎藤は土蔵へ向かった。薄暗い蔵の中で、数名の隊士と、行李の中に麻袋を運んでいる千鶴は、背中に背負った荷物も下ろしていない。
「これで、ちょうど二十俵」
「千田さん、隣の行李にはあと五俵分入るはずです」
「それをこちらへ」
小さな千鶴の影が、大男たちにてきぱきと指示をしている。斎藤はゆっくりと前に進んで行った。
ひっ
斎藤が音もたてずに近寄っていたので、振り返りざまに千鶴は小さな悲鳴をあげた。
「びっくりした」と小さな声で云った千鶴は真っ黒な瞳を見開いていたが直ぐに、「おかえりなさいませ」と頭を下げた。斎藤は黙ったまま、千鶴の背中に背負った荷物をそっと下ろすように手を廻した。
「ご苦労であった」
斎藤の微笑む優しい顔が目の前にあった。まるで抱きしめられるような態勢で、じっと自分を見下ろすような斎藤を見上げていると。背後で、隊士たちが咳払いをする声が聞こえた。
「あの、荷物は運び終わりましたので、わたしたちはこれで」
振り返ると、隊士たちは頭を下げて走り去るように土蔵から出て行った。急にしーんと静かになった土蔵の中で、斎藤は千鶴の荷物を手に持つと。「出陣だ」と小さな声で千鶴に伝えた。千鶴は、じっと動かなくなった。「わかりました」というように、その大きな瞳は斎藤の眼を見詰めている。
「三日後に赤津に向けて進軍する」
「白河に政府軍が入るのを防ぐ」
「日光方面から北上している幕府純義隊と合流する」
「白河の城を死守せねばならん」
千鶴は黙ったまま頷いていた。兵糧は十分に準備してある。明日にでも出陣することが出来る。準備は万全だった。
「土方さんのご容態が悪いと聞いておる」
「はい、今日お医者様に診ていただきました。少し、銃創が膿んでいます」
「薬を飲んでもらいました。熱は上がる様子はありません」
「城下より、東山に移られるように相馬くんが手配をしてきて」
「傷に効能のある鉱泉が山の中にあるそうです」
「いつ移られるのだ?」
明日にでも、人馬の手配が済んだら移動されます。もう清水屋のお座敷を一時引き払うようにしてきました。
「それならば、一緒に行くがよい」
斎藤が遮るように話すと、千鶴は驚いた顔をした。「どうしてですか」と千鶴が質問した。
「三日後の白河への進軍には加わらずとも、東山で土方さんの看病にあたっておればよい」
千鶴は首を横に振っている。「嫌です」「白河に行きます」と立て続けにそう云うと、斎藤の両腕に掴まるように、「どうして行ってはいけないのですか」と尋ねてきた。
「赤津から先では、間道での移動もある。野営が続く」
「我々は最前線で闘う」
千鶴はずっと頷いていた。「私も行きます」「兵糧のお世話。もし怪我や病気をされる隊士さんが居たらお世話をしたいです」、そう言って千鶴は、斎藤の顔を見上げていた。
「土方さんの具合が悪いなら、あんたに土方さんの世話をしてもらいたい」
千鶴はまた首を横に振っていた。「土方さんには、相馬君と野村君がいます」と大きな声で訴える。
「今日も、私がお身体を拭こうとしても、相馬君たちが、土方さんは行水の方を好まれるからと、わたしに部屋から下がっているようにと云われて」
「厠も、相馬くんと野村くんが二人で土方さんを抱えて用を足せるから、わたしの手は必要ないって……」
「小姓を三人も侍らす必要はないって、土方さんに半分追い返されるように宿を出て来たんです」
どうか、白河に連れていってください。わたし、必ずお役に立てるように何でも致しますから。
千鶴は頼み込むように斎藤の腕を強く掴んで離さなかった。真剣な千鶴の大きな瞳を見詰めながら、斎藤は頷いた。赤津への出立までに、土方の移動を手伝いに行くようにと指示をした。千鶴はようやく納得したように、首を縦に振って「はい」と答えた。
*****
慶応四年閏四月六日
白河の斥候隊
それから三日の後、斎藤が率いる新選組は会津城下を出立して、陽のある内に赤津に到着した。先陣軍が逗留していたため、軍議の間だけ赤津に待機したのち、再び夜間移動して三代まで移動した。明け方に、会義隊と分宿した斎藤の率いる新選組は、日中に斥候部隊の選出を行い、その二日後に白河に向けて移動を始めた。
会津藩が第一の目標としているのが、白河城の占拠だった。旧幕府の処分で、現在白河藩の藩主は隣の棚倉藩に転封となっていたため、城主は不在。以来、仙台藩、二本松藩が城番として城を守って来ていた。会津藩が東北諸藩との同盟を築く今、迫る政府軍を迎え撃つ場所として、城に本陣を構える必要があった。斥候部隊を送った会義隊の野田進によると、新政府軍が那須大田原まで進軍し陣を構えている。だが、その数は五百にも満たない小さな軍ということだった。
勢至堂から峠を下り、道谷坂の途中で陣を張った。近くに滝から勢いよく流れる水の音が響く中、辺りは湿った空気でひんやりとしていた。千鶴は陣幕の奥に横になっていたが、なかなか寝付けずにいた。斎藤の姿も見えず、少し不安になった千鶴は起き上がり、守り刀の小太刀を持ったまま陣幕の外に出た。外は灯りもなく、ほぼ漆黒の闇。だが、木々の向こうに
ぼんやりと明るい場所が見えた。千鶴がゆっくりと足を進めると、段々と草木の輪郭が見えて来る。明るい場所は、木々が途切れた広場のように見えた。
今夜は月もない。空を見上げると、満点の星が広がっている。千鶴は、自分と同じように空を見上げる斎藤の後ろ姿をみた。一歩踏み出そうとした瞬間。「何用だ」と斎藤の厳しい声が聞こえた。
「とまれ」と指示された千鶴は、その場で固まったようになった。
振り返った斎藤は刀に手を掛けている。千鶴の姿を認めて。「なぜ陣の外にいる」と厳しい声で叱責された。
「すみません、わたし、眠れなくて……」
「この辺りは間道が多く、敵の斥候部隊が潜伏しているやもしれぬ。決して独りで陣を離れぬよう」
斎藤が近くに来て、そう説明された。手を引かれて右手の林に引き上げられた。
「そこは、崖になっている。灯もなしに歩けば足を踏み外す」
「陣幕と厠、教えた水場以外にはでるな。よいな」
謝り続ける千鶴に、斎藤は黙ったまま先を歩いて陣に戻った。千鶴は陣幕の奥で横になった。斎藤に背中を向けたまま、千鶴は背後の斎藤が陣の外にゆっくりと歩いていった気配を感じていた。そして、さっきあの林の向こうで、独りじっと夜空を見上げていた斎藤の姿が頭から離れないまま、ふたたび眠りに落ちた。
*****
白河城
翌日は須賀川にそって南下し、白河城に辿り着く予定だった。野田が仙台藩城番格に手渡す会津藩親書を携えて城に向かおうとした時、斥候部隊から足軽が一名走り戻って来た。全身が血だらけで、命尽きる寸前だった男は、陣番の者にしがみつきながら、「城に敵兵。斥候部隊全員が討ち死」と云ったまま息絶えた。肩に抉れたような傷跡。背中に刀の刺し傷が無数にあった。その壮絶な姿を見た野田進は言葉を失った。会義隊は全員で百名の部隊。隊長の野田進以外は、武士以下の身分の者が殆どを占めていた。農民、猟師、町人、身分を持たない者もいる。軍目や歩兵指示役も下士の者が立ち、隊長の野田進も上士身分ではないと斎藤に名乗っていた。斎藤は、新選組も士分ではない者を多く含む部隊だと名乗っていた。どの者も志高く、闘いにかけては刀、砲術に長けている。斎藤がそう自分の部隊を紹介すると、野田進も、会義隊も同じくと云って、頷いていた。
白河城が敵兵に既に占拠されているという報せは直ぐに斎藤の耳にも入った。会義隊の後に続く準備をしていた斎藤は、野田の斥候隊全滅の知らせに驚いたが、すぐに新選組から吉田俊太郎を偵察に走らせる指示を出した。そして、会義隊より先に自分の隊を白河城に向けて進軍させることを決めると、陽が落ちてから隊を長沼から牧ノ内の谷間を伝って移動させた。
千鶴を伴った隊士たちは、斎藤より四半刻先に出立した。平地を見つけて陣を張り、糧の準備に先に取り掛かる。狭い間道を殿の斎藤は独り警戒しながら歩いていた。ずっと耳に聞こえるのは、山間を移動する者の足音。それも複数で。南側の斜面にも人気を感じる。敵の斥候やもしれん。斎藤は、陣周りの警戒が必要だと思いながら歩いていた。その時、急に暗がりから何者かが現れた。
咄嗟に斎藤は刀を抜いて構えた。大きな体躯、道の真ん中に刀を抜いて構えた男は、「そこ元、会津藩の者か」と尋ねて来た。どこかで聞いた声。この声は。
「おい、誰かと思ったら。斎藤、お前か」
斎藤は、暗がりから現れた不審な者の姿を見て驚いた。永倉新八だった。その後ろの林を抜けて、次に現れたのは、左之助だった。二人とも洋装に陣羽織姿。日焼けした顔は真っ黒で、笑顔の白い歯は浮かぶように見えていた。
「新八、左之」
驚きの声をあげた斎藤の前に二人は近付いてきた。新八と左之助は、甲州から戻った直後に新選組を離隊した。新しく隊を組むと云っていた二人が、その後、江戸の今戸に逗留していると聞いたまま、斎藤は流山に移動した。
「俺等は、宇都宮から靖共隊の一大隊を率いて来た。薩摩藩の斥候がこの辺に潜んでいる」
「隊を分散して移動することになった。一両日中に会津で落ち合う予定だ」
「俺は今から白河に向かう、城が薩軍に取られておるやもしれん」
「味方は何人いるんだ? 薩軍の奴らは、援軍が江戸からどんどん上って来ている」
左之助が心配そうに辺りを見回しながら斎藤に訊ねた。斎藤は、新選組が百、会津兵が百人だと答えた。
「もし、城が敵に落ちているとしたら、二百では到底太刀打ちできねえ」
「今、吉田を偵察にやっている。敵の規模に寄っては、赤津から進軍している遊撃隊に援軍を要請する」
「遊撃隊って、幕府のか?」
「いや、会津藩だ」
「数はどれぐれえだ」
「一千。城下にはまだ、もう一千の兵が控えている」
それを聞いた新八は顎を上げて左之助に合図した。二人とも微笑みあっている。
「一丁、やるか」
「ああ」
左之がもう片側の肩に鎗をもう一本抱えた。二人は斎藤を挟むように歩きだした。
「城攻めは、宇都宮で経験済みだ。薩摩の援軍が来る前に、城にいる連中を追い出すくれえなら、俺等でやってやる」
「誘い出すって、手もあるぜ。城の外に出来るだけ薩兵を出して、城の裏から遊撃隊が加われば行けるんじゃねえか」
「それか、ただの斥候部隊ぐれえの規模なら、新選組全員で斬り込めばよ」
斎藤は、新八と左之助に両肩に手を掛けられて歩きながら、ただ頷いていた。こんなに心強いことはない。吉田からの報告を待って、直ぐに動こう。そう決めて陣に戻った。
「局長」
陣幕の中で、待機していた千田と伍長の伊藤鉄五郎が立ち上がって、斎藤の名前を呼んだ。そして、一緒に陣幕に入った新八と左之助の姿を認めると、深く頭を下げて挨拶をした。斎藤は、二人が陣に加わることを控えている者たちに報告すると、皆が喜びの声を上げた。新八と左之助と旧知の隊士たちが、直ぐに二人の周りに群がった。
「俺等が来たら、百人力だ。宇都宮でも薩兵を蹴散らしてきた」
「斬り込みなら、俺らは負けることはねえ」
新八は、相変わらずの豪語を並べて皆の気持ちを奮い立たせていた。斎藤は、千鶴の姿を探した。新八と左之助を見たら、雪村のことだ、大層喜ぶだろう。
斎藤は、陣幕の裏に出てみた。水場にも厠にも居ない。おかしい。ここは、丘陵の谷間になっていて両側が山の急斜面だ、落ちることはないが、移動は、間道を行くしかない。だが、何用で姿が見えぬ。斎藤は、もう一回り、陣の周りを走って千鶴を探したが、人の気配はなかった。陣に戻り、千田に千鶴がどこにいるか尋ねた、千田はずっと姿は見ていないという。伊藤も、雪村君は夕餉のおやきを配った後に、水を汲みに行くと云っていたと呟いて、急に思い立った様に水場に走って行った。
水場には、誰も居なかった。だが、近くの木の根元に手拭が落ちていた。白地に桜の模様の手拭。これは、雪村くんの。
斎藤が、林の影を探している姿が見えた。伊藤は、千鶴の手拭を見せて水場の傍の木の根元に落ちていたと報告した。直ぐに斎藤は、隊員で手分けして千鶴を探しに行くように指示した。
(なにゆえ、陣を離れた。あれほど、独りで離れるなと云い含めておいたものを)
斎藤は、辺りの林の中をずっと探し続けた。左之助と新八も一緒に捜索を続けた。その時だった、間道の向こうから吉田が走って戻る姿が見えた。
「局長、」
暗がりから斎藤の姿を認めた吉田が酷く息を切らしながら報告を始めた。
「……雪村くんが敵に」
「……城の中に、羅刹兵が」
「薩摩の斥候が……この辺りにも」「藤堂さんが……、藤堂さんと城郭で会って」
「平助か?」
「平助は、独りか」
「はい、御一人で敵兵を監視していると……仰ってました」
「……藤堂さんからの伝令です」
城に千鶴が囚われている。
薩摩の羅刹兵は五十から百名。城の中に潜んでいる。
直ぐに来て欲しい。千鶴を取り戻す。
斎藤は頷くと、直ぐに陣を畳む指示を出した。先に先鋭隊五名、新八、左之助を吉田に案内させて城に向かわせた。斎藤は飛ぶ様に先頭を走り抜けた。吉田を含め新八たちは、羅刹の斎藤には到底追い付けない。
城郭に四半刻もかからずに辿りついた斎藤は、城壁も軽く飛び越える事が出来た。こういった時、羅刹の力は有難い。あれが本丸か。違う、雪村は櫓に居る。人の気配。斎藤は耳を澄ました。静かに櫓に近づいた。門に凭れ掛かっている門番を暗がりから一突きで息の音を止めた。薩兵の腕章。この者以外、誰も櫓周りに居ない。警備が手薄だ。斎藤は城内に容易に入り込むことが出来た。
血の匂い。辺りには強い血の匂いが立ち込めている。斎藤は右腕で自分の口と鼻を覆った。ここで発作が起きるのは困る。櫓の入り口を入ったところに数名の薩兵の遺体が見えた。斎藤は上にゆっくりと上がった。その時だった、背後から「はじめくんか」と平助の声が聞こえた。振りかえると、平助が腕を伸ばして斎藤を階上に引き上げた。
「千鶴はこの上だ」
囁くように斎藤に知らせた平助は、壁に背中をつけるようにして、上層から自分たちの姿を隠すようにゆっくりと階段の下に向かおうとしていた。
「見張りが二人、他に三人いる」
「俺とはじめ君なら余裕でやれる」
「千鶴は無事だ」
斎藤は平助の囁く声を聞いて頷いた。平助は、羅刹に姿を変えた。赤い目で斎藤に合図するように頷くと、一気に階段を駆け上がった。斎藤も羅刹になった。薩兵は不意打ちを受けて、声を立てる間もなく倒れた。上に居たのは、三人の兵士。その内の一人は羅刹に姿を変えて襲って来た。平助がもう一人の大男を斬り倒すと、斎藤は低い位置から、襲い掛かる羅刹の心の臓を一突きに貫いた。返り血が顔に降りかかる。斎藤は、血の匂いを嗅がないように頭を振って、前に進んだ。最上階の壁の行李の影に後ろ手に縛られて、猿ぐつわをされた千鶴が横たわっていた。斎藤の姿を見て両の眼から涙が流れている。斎藤は、縄を解いて口の布を取ると、「斎藤さん」と叫んでしがみついてきた。「斎藤さん、斎藤さん」、ずっと自分の名前を呼び続ける千鶴を斎藤は腕に抱きしめた。
上階で倒していた者を調べていた平助の声が聞こえた。「はじめくん、千鶴は無事か?」と囁くように話す声。斎藤は「ああ、無事だ」と返事をした。千鶴から聞こえるかどうかの静かな声。それでも、平助には十分に聞こえているようだった。
「はじめくん、本丸の護衛を突破するには二人でかからねえと」
「先鋭隊がそろそろ着くころだ」
「新八と左之助も一緒だ」
「ぱっつあんと左之さんが?」
「心づええ」
平助が笑いながら、櫓の入り口の影で外を警戒していた。ゆっくりと手で階上の斎藤と千鶴に合図をしている。斎藤は千鶴の手を引いて階段を下りた。千鶴は平助との再会を涙顔で喜んでいる。平助は、千鶴を庇うように自分の背後に手を伸ばして立たせた。そして斎藤と二人で頷きあった。そっと外の様子を伺っていると、大門に人影が見えた。新選組先鋭隊の安富才輔だった。その背後に新八たちが続いている。よし、全員が揃ったか。斎藤は、櫓の下に全員を手引きして引き入れた。千鶴は、集まった者たちの中に新八と左之助の姿を認めると「永倉さん、原田さんも」と涙声を出して喜んだ。
「千鶴、もう大丈夫だ」
「俺たちが来たら、百人力よ」
左之助の大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫でられている千鶴は、うれし涙を流して頷いていた。それから斎藤の指示で、千鶴は先鋭隊の隊士二人が護衛について城郭の影に待機することになった。
千鶴たちが無事に大手門の外を走り抜けて、城郭の暗闇に姿を隠したのを確認した斎藤は、平助に続いて本丸の入り口に向かった。平助は、影に隠れながら傍の新八たちに本丸の中に山南と新選組羅刹隊が居る事、雪村鋼道が宇都宮の負傷兵を城に集めて羅刹化を図っている事を説明した。
「山南さんは、寝返ったのか」
素早く新八は平助に確認した。平助は悲しそうな顔をして返事をしない。俯いたまま悔しそうに握りこぶしを握りしめている。
「まだ大丈夫かもしれねえ」
「大丈夫かもしれねえんだ」
「もし、山南さんが裏切ったら。オレが止める」
「オレ、止めて……。オレが止めるから」
皆が悲しそうな平助を見詰めたまま何も言えなかった。だが斎藤は、千鶴を捕らえ連れ去ったのが山南と雪村鋼道だったことに憤っていた。二人は羅刹開発で手を結んだのか。雪村を連れ去る目的は、おそらく雪村の血だろう。怒りで震えが止まらない。平助は、さっきの櫓の上で斬り倒した者は、江戸で入隊した新選組の羅刹隊士だったと云っている。
「江戸で山南さんは、鋼道さんと接触した」
「このまま薩摩と手を組むかもしれねえって」
山南さんは、仙台藩に羅刹隊を置く話も持ち掛けてて……。オレにも来いって。
宇都宮で鋼道さんは、近隣に住まう農民に一揆に協力すると持ち掛けて大量の羅刹兵を作って最前線で闘わせた。斬られても砲弾を受けても死なない。これで城の食糧庫を襲えば、年貢米は取り返すことが出来る。そういって、変若水を飲んだ奴らがいっぱい、命が尽きて灰になった。
「……灰になっちまうからな。羅刹の力で寿命を使い切ると」
平助から聞いた事実は、斎藤には衝撃だった。でも同時にそれは腑に落ちた。このみなぎる力の源が己の命の力なのか。変若水はその力を得る為のもの。命を使い切る。そうか。腑に落ちたと同時に。斎藤は雪村鋼道への怒りが再び噴き出してきた。自分のように、闘うために羅刹になったのなら。だが何の咎もなき者たちを羅刹に変えるなど。その所業は許せん。
鋼道さん、俺はあんたを悪と定めた。たとえ羅刹の毒で狂ったとはいえ。
俺はあんたを許さん。
その時だった、柱の陰から次々に薩兵が襲って来た。平助たちと一緒に敵と切り結んだ。目の赤い薩兵。羅刹隊。そう認識してから、脳天か心の臓を一突きで倒していった。
*****
本丸 鷹の間
廊下を進む平助と次々に羅刹兵を斬り殺しながら奥に進んだ。周り廊下に囲まれた中庭では左之助が、槍で脳天を突き刺した羅刹をそのまま振り払い、その勢いで背後から襲って来た羅刹の心の臓を刺した。一番大きな廊下の壁に二人の羅刹を重ねるように貫き通した左之助は、その直後に柱の前で全身が灰と化した男を見て絶句した。
「これが羅刹の成れの果てか……」
息を切らしながら左之助と背中を合せた新八が呟く声が聞こえた。その声は怒りに震えている。先に奥の間へ向かった平助と斎藤。羅刹に姿を変えて斬り込んで行った二人の後ろ姿を追って、新八と左之助は走った。
暗い広間に累々と重なる遺体。新八も左之助もに既に羅刹を三十人以上は倒した。再び暗い廊下を奥に進む、誰かが大声をあげている声が聞こえる。平助か。
——羅刹の力を使うたび、寿命が削られる? 最期の日が刻一刻と迫って来るだと?
「それがどうしたってんだよ」
左之助が奥の間の入り口に迫った時、部屋の中から怒りに満ちた平助の声が響いた。
「オレたちは京に居た頃、それこそ、いつ死んだっておかしくねえ毎日だった」
「普通に町を歩いてるだけで、不逞浪士に切り殺されるかもしれねえ」
「そんな中を生き抜いてきたオレらが、寿命を削られるぐれえで絶望するわけねえだろ!」
「だよな? はじめ君」
平助は隣の斎藤と肩を並べるように刀を構えた。
「そうだな」
斎藤は不適な笑みを浮かべて頷いた。
平助と斎藤は凄まじい勢いで、襲い掛かる羅刹兵を薙倒していった。その向こうに羅刹隊に守られるように囲まれた雪村鋼道がゆっくりと襖を開けて、さらに奥に逃げ込もうとしている。左之助と新八が加勢して、次々に襲い掛かる羅刹たちを始末して前に進んだ。その時だった、どこからか「藤堂君、手を止めるのです」という声が聞こえた。
広間の右の廊下から現れた影は、洋装姿の山南だった。山南の背後には新選組の羅刹兵が千鶴の腕を後ろに回して羽交い絞めのようにして立っている。斎藤が、山南に向かって刀を構えたまま走り迫った。
「斎藤さん」千鶴が斎藤の名前を呼ぶ声が響き渡った。
山南は余裕の笑みで刀を抜くと、斎藤の一撃を受けて跳ね返した。山南は、そのまま刀を背後に立つ千鶴の胸の辺りに持って来たまま、斎藤たちを見つめ返した。
「彼女の命を救いたければ」
山南は静かな声で、皆に剣を納めるように命令した。皆が脅える千鶴を見ながら。一旦剣を下ろした。広間の奥の雪村鋼道は、その隙に奥の間に姿を消していた。襖の向こうには煌々と灯が灯っていて、壁や襖が金色に輝いている様子が見えた。じっと山南を睨む斎藤は、にじり寄るように足先を這わしている。怒りに満ちた表情。千鶴は、斎藤の瞳が深い碧色に光っている姿を見た。
「雪村を放せ」
斎藤が凄んだ。低い位置で身体を構える斎藤は、一瞬で山南を切り裂くことが出来る。千鶴は恐ろしかった。城郭の外で、待機していた時、いきなり暗がりから現れた羅刹兵に襲われた。直後に暗闇から聞いたことのある声がした。「雪村君、わたしです」と前に進んで出て来たのは、山南だった。流山で、山南さんは新選組を裏切ったと聞いていた。千鶴は、後ずさった。山南は、いつものように静かな声で、千鶴に話しかけた。
——雪村君、わたしに付いて来て貰いたいのです。
山南は、千鶴に城の中にいる「鋼道さん」と「鬼の連中」と話し合いをする機会だと千鶴を説得し始めた。
「われわれは、鬼とも新政府とも薩摩とも戦う必要はありません」
「ここ白河で、和平の交渉も叶うでしょう」
「そのために、雪村君。あなたに鋼道さんを説得して貰いたいのです」
「幕府も朝廷を相手に闘う意思がないのですから」
千鶴は、山南の差し出す手を拒んだ。吉田俊太郎が千鶴を庇って前に立ったが、山南と切り結び、刀で打たれて倒れた。千鶴はその場にいた山南の手下の隊士に羽交い絞めにされ、再び大手門から引きずられるように本丸へ連れてこられた。
「手荒な扱いはいけません」
山南は、いつもと変わらない冷静な声で手下を諫めながら前を歩いていた。夥しい数の遺体。血に染まった廊下を歩きながら、千鶴を連れた山南達は本丸の奥に進んでいた。遠くに誰かの怒声が聞こえる。
——斎藤さん、斎藤さん。助けて。
千鶴は、口元を押さえられまま、ずっと心の中で叫び声を挙げていた。
****
山南を睨みつける斎藤の背後に、新八と左之助が立った。同時に平助が前に出た。
「山南さん、千鶴を放せ」
山南は首をゆっくりと横に振った。そのまま山南は、斎藤達を警戒しながら、部下と一緒に千鶴を携えるように奥の間へ進んで行った。金色の鮮やかな襖絵は、勇ましい鷹が描かれていた。明るい部屋の奥に、羅刹兵が囲う向こうで雪村鋼道が立っている。そして、その近くに別の人影が見えた。金色の髪に深紅の瞳。広間の奥に置かれた西洋椅子の上に足を組んで座っているのは、風間千景だった。灰色のフロックを纏い土足のまま不穏な表情で微笑む傍に、黒い着物姿の天霧九寿が立っていた。
雪村鋼道は、千鶴の姿を認めると羅刹兵を一歩後ろに下がらせた。
「千鶴、さあ、こちらに来なさい」
手を差し伸べる鋼道は微笑みの表情を見せているが、その目は正気の色を見せていない。千鶴は脅えていた。千鶴の背後で斎藤達が羅刹隊と斬り合いをしている音がする。千鶴は、自分の腕を後ろに留め付けている隊士の手を振り払おうとして身を捩った。その時に隊士の手が外れた、千鶴はそのまま「助けて」「斎藤さん」と叫んだ。
真っ青な閃光が目の前を走った。目の前の羅刹の首が跳ね飛んで行った。崩れるように、どさっと倒れた羅刹隊士。そこに残心の表情のままの斎藤が刀を振り切っていた。次に、千鶴の腕を掴んでいる隊士の心臓を正面から突いた斎藤は、刀を抜き去ると同時に、膝で隊士を押し倒して、千鶴の腕を引っ張って引き寄せた。千鶴は放り投げらるように新八と左之助の元へ飛ばされていった。
「おっと、」
「なんだよ、斎藤のやつ。手荒な奴だな」
新八と左之助に受け止められた千鶴は、「大丈夫か? 怪我はねえか」と顔を覗き込まれた。斎藤は、自分に背中を向けている山南に刀を向けた。山南はじっとその気配を解っているという風に頷くと、雪村鋼道に話しかけた。
「鋼道さん、この通り。雪村君をお連れしました」
「わたしに、【方組み】を」
「さあ、」
山南はゆっくりと前に進む。いつの間にか、部屋の外から新選組の羅刹隊が刀を構えて入って来た。薩摩の羅刹兵は数十人。それに対峙するように新選組の腕章をつけた者たちが全員で羅刹の姿に変わった。斎藤は、平助と一緒に青眼に刀を構えた。
——山南さんが裏切ったら。オレが斬る。
平助はその決心をしていた。千鶴を雪村鋼道に差し出して取引をする。これだけでも、山南を成敗する十分な理由になるだろう。ここで、雪村鋼道と鬼の連中諸共、新選組総長の息の根を止めなければならん。斎藤はそう思った。
「山南君、君の望むものをたとえ私がお渡ししても。君たち羅刹の毒を中和することはできない」
「改良型変若水を飲んでも、君たちは今まで通り、日中の陽の光の元では立っていることもできない。それどころか、羅刹の毒が強まって、今よりももっと発作が酷くなるだろうね」
雪村鋼道の声は、事実を伝えているのか、斎藤には判断はつかなかった。ただ微笑む雪村鋼道の眼にはどこかしら、狡猾な光が見えて、親切さや丁寧さを装っている事は明らかだった。
「京で実験していた頃の変若水は、本当に酷いものだった」
「実験体として、新選組は大いに役立ってくれたものだ。わたしは感謝をしている」
「あなたが、この地で羅刹開発をすることに拘っている事を私が知らないとでも」
山南は、冷静に話を切り返す。
「鋼道さん、あなたは、江戸から白河まで、北上することに必死でした」
「この城に入ることも、仙台藩兵に阻止されてしまう危険性が高かったのに」
「この地に来られたのは、貴方には目的があるからです」
雪村鋼道からだんだんと微笑みが消えて行った。
「仙台藩は、会津、庄内、諸藩と手を結びます」
「新政府軍やあなた方鬼の連中は、これより北への進軍は阻まれます」
「方組みをこちらに渡せば、貴方をこの白河で保護するように仙台藩に交渉します」
「取引に応じるしか、道はないはずです」
「奥州で、羅刹開発を続けたければ」
雪村鋼道は急に高笑いを始めた。
「君は何を根拠にそのような話をしているのだね」
「直にこの城も新政府軍の手に落ちる」
「君の率いる羅刹隊は、夜間の戦闘向きだ。此処で私の率いる羅刹隊と共闘するのが得策だろう」
「雪村君は、新選組の元にいます」
山南が、背後の新八と左之助が庇うように囲む千鶴のことを、首を少しだけ傾けて眺めた。
「雪村君、貴方が探している羅刹の毒を中和する【方組み】を鋼道さんがお持ちです」
千鶴は、新八と左之助の影で大きな眼を見開いてじっと立っていた。やはり、父さまは羅刹の毒を消す方法を知っている。千鶴は生唾を呑み込んだ。
「千鶴、こちらへ来なさい」
「ここに風間様も居られる」
手を差し伸べる父親に、千鶴は首を横に振っている。新八と左之助は千鶴を背後に隠すように前に立った。千鶴は悲しそうな表情のままじっと動けないでいた。平助も斎藤もいつでも打って出られる態勢で山南と鋼道を睨んでいる。
「父さま、羅刹の毒を消す方法を教えてください」
千鶴は顔を上げて大きな声で叫んだ。皆の動きが止まった。それまで、椅子の上で事の成り行きを見ていた風間が立ち上がった。斎藤は素早く風間の前に飛び出た。風間は刀を構える斎藤を見下げるように、皮肉な笑みを浮かべた。風間は、斎藤の背後に居る千鶴を目で追うように確かめると。そのまま目線だけを雪村鋼道に向けた。千鶴は繰り返し、父親の鋼道に頼み込んでいる。
「父さま、どうか」
千鶴が前に出ようとするのを、新八と左之助が腕で遮るように囲っている。左之助は千鶴の必死な声を耳にしながら、雪村鋼道を睨みつけていた。
「来なさい、こちらへ」
「お前がこちらに来れば、全て事が済む」
「お前が望むものは全て手に入れることが出来る」
左之助も新八も、千鶴の動きが止まった事に気づいた。左之助は背後の千鶴を見ると、千鶴は胸の前で震えながら拳を握りしめている。
——私が行けば……。
千鶴は真っすぐ前を向いたまま、小さく呟いた。だめだ、千鶴。左之助がそう思った瞬間。
「わたしが行きます」
「父さま、方組みをください」
千鶴の声が響いた。雪村鋼道の口角がゆっくりと上がり、同時に目を細めた。千鶴はじっと前を見ている。
「行くな、雪村」
斎藤の声が響いた。背後の千鶴にそう叫ぶように云うと、雪村鋼道を睨みつけた。
「うあーーーーーーーー」
平助が剣を振り上げて、叫びながら雪村鋼道に向かって行った。羅刹隊を次々に薙倒す。斎藤も一緒になって襲い掛かる羅刹隊を一撃で倒して行く。その背後から、山南が自分の羅刹隊と一緒に加勢していった。雪村鋼道は、自分を囲う羅刹兵が次々に倒れて行くのを見ながら、苦虫を噛み潰したような表情になった。そして、傍に立つ風間に助けを求めた。
風間が一歩前へ出た瞬間、青い閃光が走った。
羅刹に姿を変えた斎藤が低い位置から斜め袈裟懸けに刀を振るった。風間は、上体を逸らすように刀を躱した。金色の髪の毛が揺れて、前髪の間から深紅の瞳が斎藤を睨み返す。風間は、腰の太刀に手をやった。天霧が斎藤の目の前に立った。
わたしが相手を致そう。
天霧の目線は、真っ直ぐに斎藤の双眸を見詰めている。素手を自分に向けて構える天霧を斎藤は睨み返した。風間の灰色のフロックコートが揺れた瞬間、影が横切るように目の前を過ぎて行った。
しまった。
一瞬の隙をついて、風間が背後の千鶴に近づいた。斎藤は身体を翻して、風間に二撃目の刀を振るった。風間は斎藤に背中を向けたまま、自分の脇から太刀を背後に突き出すようにして、斎藤の刀を受けると軽々と払いのけた。斎藤は、後ろに数歩はね飛ぶように下がると、すかさず陰の構えから前に進んだ。銀色の髪だけが光るように見える。凄まじい勢いでぶつかるように風間に迫った斎藤は、左之助と新八が守る千鶴を見下ろすように立つ風間の背中に渾身の一撃を放った。
風間は片手刀で振り返りざまに斎藤の剣を受けると、太刀の先で軽々と払いのけた。左之助と新八は、襲って来る天霧に応戦している。千鶴は脅えたように後ずさっていた。その時、右側の壁から山南の羅刹隊の一人が襲ってくる姿が見えた。
千鶴の叫び声が聞こえた瞬間、斎藤は猛烈な勢いで走り抜けた。千鶴に向かっていく羅刹兵を次々に薙倒した。千鶴の腕を掴んでいる羅刹。身を捩って逃げようとする千鶴の姿が見えた。おのれ、よくも。そう思いながら羅刹の首を刎ねようと構えた瞬間、大きな太刀が横から羅刹の身体を串刺しにするように刺すと、灰色のフロックコートの背中が雪村千鶴の前に立ちはだかる姿がみえた。
「いや」
一瞬、千鶴の声が聞こえた気がした。風間が千鶴を抱きかかえて、累々と重なった羅刹の遺体の上をはね飛んだ姿が見えた。
しまった。
左之助と新八からは、ただ黒い影が千鶴を消し去ったようにしか見えない。斎藤は身体を翻して後を追った。灰色のフロックコートは、鷹の描かれた襖の前で数名の羅刹に守られて立っている雪村鋼道の前に近づいた。平助と山南が刀を振るって迫っている。二人とも羅刹の姿で。雪村鋼道は近づく風間を見て安堵したような表情になった。そして、狡猾な表情で平助と山南に向かって、嘲るように笑いかけた。
「そうやって、無駄に命を使い続けるがいい」
「直にその命も尽きる。どんなに力を振るえても、その身体は灰となって消えるのだよ」
腹の底から込み上げる笑いを抑えきれないように雪村鋼道は笑い出した。平助が怒りに震えながら叫び声を挙げて、笑い声の主に向かって突進していった。
雪村鋼道の笑いが一瞬、止んだ。息を呑んだような、変な音が喉から漏れ、その目が驚いたように見開いている。雪村鋼道を庇うようにに立った羅刹兵が背中から貫かれてぐったりとなっている。その男諸共、鋼道の心臓は真っすぐに大きな太刀で貫かれていた。
「父さま」
千鶴の叫び声が響いた。風間の腕から逃れた千鶴が、鋼道に駆け寄った時、ゆっくりと風間は大太刀を引いた。羅刹兵に折り重なるように倒れた雪村鋼道は、顔を横に向けたまま、驚いたように目を見開いていた。背後から斎藤は風間を斬りつけた。風間は襖を蹴るようにして部屋の外へ移った。斎藤は、残心のまま風間の消えた先をその後を追うように走って行った。
千鶴は覆いかぶさるようにして、父親を庇った。平助は、最後の羅刹兵を倒した後に茫然としたままその光景を見ていた。山南も刀を構えたまま、茫然としている。
「父さま、父さま」
千鶴は涙を流しながら、父親を助け起こした。胸からドクドクと血が噴き出しているのを千鶴は必死に止めるように抑えている。父さま、父さま。千鶴は、自分の父親がまだ息をしているのを確かめると、自分の着物の袖で流れ出る血を押さえた。震えながら「父さま」と呼びかける千鶴に、鋼道は「ち、づる」とその名を呼んだ。
両の眼から涙が溢れて止まらない。父さま、父さま。どうして、こんなことに。鋼道は、再び、喉から絞り出すように娘の名前を呼んだ。
「……ち…づる」
喘ぐような短い息の合間に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。父さま。父さま。千鶴の呼び掛けに応えるように、鋼道は、なにかを話そうとしている。その表情は、江戸に居た頃の優しい父親を思わせ、力ない様子に千鶴は心が張り裂けそうになった。父さま、父さま。
「……白岩の、……ゆきむらの……さとに」
千鶴は必死に鋼道の口元に耳を近づけて、その言葉を聞こうとした。
「……みずが、ゆき…むら……の」
千鶴は鋼道に何度も頷いた。鋼道はゆっくりと頷くと、一瞬微笑むような表情をみせた。そして千鶴の眼を見詰めたまま、その瞳はゆっくりと光を失くしていった。鋼道にすがりつくように千鶴は父さまと呼び続けていた。
鷹の間から立ち去った風間と天霧を追った斎藤と新八と左之助は、二人が本丸から城郭の外へ消えて行った姿を確かめた。二人の鬼。薩軍に逃げ帰ったか。それにしても、なにゆえ薩軍の羅刹を作る雪村鋼道を鬼が殺めたのか。斎藤は事の成り行きを不思議に思った。その時、新八が城郭の外に会津藩旗が見えると云って、櫓の上に上っていった。外は既に白止んでくる頃だった。
櫓に上った斎藤たちは、城郭の背後に進軍してくる会義隊士の姿を確認した。そして、本丸から、山南の羅刹隊が物資や遺体を次々に運びだしている様子を眺めた。三人は、会義隊の到着を待たずに、本丸へ戻った。
山南は、既に廊下で羅刹隊士たちに命令をして、雪村鋼道が城に持ち込んだ物資を運び出し始めていた。
「直ぐに夜が明けます。物資を城郭の外へ。会津門から米村口へ」
斎藤達が鷹の間に戻った時、千鶴は雪村鋼道の傍に正座していた。手拭で顔や首についた血を綺麗に拭われた鋼道は安らかな表情で横たわっていた。千鶴は手拭で鋼道の死に顔を覆うと両手を合わせた。その傍で、平助も手を併せていた。
新選組に変若水を持ち込んだ張本人。
平助は、鋼道の亡骸を眺めながら思った。今日まで自分のやって来た事に、己では後悔はないと思っていた。だが、もし時間が戻せるのなら、壬生の屯所に変若水を持って来た雪村鋼道を、あの時に止めていたらと思う。
——誰にも、変若水を飲ませないように。そう出来ていたら。
平助は、ずっと項垂れたままの千鶴の小さな背中を見ながらそう思った。
新八と左之助も雪村鋼道の亡骸に手を併せた後、城内の遺体を運びだす手伝いを始めた。斎藤は、千鶴と一緒に鋼道の亡骸を城の外に運び出した。外は明るくなり始めていて、ちょうど会義隊と新選組が一緒に入城してきた。隊の先頭に吉田俊太郎の姿を認めた千鶴は安堵した。山南に打たれた後、気絶から目覚めて、すぐに援軍を呼びに走ったと知ったのはその直後だった。
新選組と入れ違いに、山南の率いる羅刹隊は、既に雪村鋼道の物資と共に街道を米村口に向かっていた。平助は、山南の後を追うといって斎藤と新八たちに別れを告げて走り去った。
「オレは会津の土方さんのところへ行く。土方さんが傍に居ろっていうなら。でも、山南さんが仙台に行くなら、もしかしたら、仙台に行くかもしれねえ」
「俺等は、会津、その向こうの庄内を目指している。靖共隊は庄内藩と一緒に手を組む手はずだ」
新八と左之助が庄内を目指しているのを、この時初めて斎藤は知った。二人は、また会おうなと言って、大手門の所で手を振って別れた。斎藤は、この二人が居なければ、城を鬼たちの手から取り返すことは出来なかっただろうと思った。心強い仲間。感謝の気持ちしかない。そして、これからも場所が違っても、二人は同じ志で闘う仲間だと強く思った。
陽が高くなってから、鬼の襲来で城郭から一旦離れていた仙台藩の城番部隊が城に戻って来た。血を洗い流された本丸の一室で、野田進は会津藩親書を城番格に渡し、同盟締結の暁に白河城を会津藩が占拠する旨を伝えた。この時、まだ長州藩から派遣された奥羽鎮撫使が仙台から白河に向かっている途中だった。この鎮撫使が仙台藩の城番部隊を指揮し、遊撃隊が率いる会津軍から白河城を守備する事が決まっていたが、この日の親書での密約により仙台藩は闘いには奮戦せず、城を会津藩に明け渡し、鎮撫使も仙台へ戻ることになった。こうして白河城は会津藩領となった。
閏四月二十日のことである。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その12へ
(2019.09.13)