鬼のもくろみ
戊辰一八六八 その12
慶応四年閏四月廿弐日
奥羽芦野宿
廊下の軒下から落ちる雨水が中庭の苔むした石の上に落ち続けている。
じっとりと纏わりつくような湿気と共にふわりと生暖かい風が吹いた。
それまで、灯りもともさずに部屋でずっと目を瞑っていた風間は、ゆっくりと脇息に凭れ掛かった身体を起こした。開け放たれた障子の向こうで、細い雨粒がゆっくりと落ちる庭に紫色の光が見えた。暗がりに浮かぶ黒い獣の影。
悪いが、まだ江戸だ。
土佐藩がおかしな動きを見せている。
南雲だ。
江戸の外から百姓や町人をさらっては。
市中で羅刹軍を作っている。
盗み、放火、辻斬り
ここは京より酷い
戦を恐れて町人が逃げ回っている
南雲の羅刹軍を潰す。
薩摩は越中からも攻めるってな
夏が来る前に終わらせる
雪村鋼道は雪村の郷を取り戻したのか
郷の結界のことを八瀬に訊ねたが梨のつぶてだ
返事を待っている
黒豹は踵を返すように中庭の暗闇にゆっくりと姿を消して行った。
二日前に白河から芦野に戻った風間千景は伴の天霧と脇本陣の吉川屋で身体を休めていた。
白河では、鬼塚の強い結界に阻まれ、雪村の郷に入ることは叶わなかった。小峰城に入った直後、所在の判らなかった雪村千鶴が鋼道の手の元に戻りかけた。
【方組み】には、雪村の郷の水、鉱物、純血の女鬼の血が必要でございます。
雪村鋼道の狡猾な表情。ひと月前、この秘密をさも勿体をつけて打ち明けた鋼道。羅刹の毒消しに女鬼の血が必要だと。外道も甚だしい。あの時に、風間は心中で雪村鋼道を成敗すると決めていた。
雪村千鶴を郷に迎えても、決して鋼道とは接触はさせぬ。
鷹の間で、鋼道の息の根を止めた時、背後から新選組の犬に斬られかけた。毎度の如く邪魔が入る。雪村千鶴を腕から放したのが悔やまれる。あのようにか弱き者が会津藩と共に戦に身を投じる。愚かなことだ。焼き討ちにされたとはいえ、雪村の郷は守られている。鬼塚より結界の内に入り、身の安全を確保するのが先決であろう。
風間は白河城の千鶴を想った。
——私が行きます。
己の身を投げうって、「方組み」を望んだ雪村の娘。
羅刹の毒の中和処方。何故、まがい物どもを救うことを望む。解せぬ。
風間は、真っ直ぐに鋼道を見詰めていた黒い瞳を思いだしていた。強い意志、あの者がそこまで守ろうとするものは……。強い力を秘めた東国の女鬼。
奥羽では古から続く鬼の血は薄まり、ほぼ人間と変わらぬまま静かに鬼の血脈は存続していると聞いている。その者たちとの繋がりを守っているのが、東国田村家の血を引く八瀬の千姫。
——雪村の郷は、古い結界で守られています。
古往今来の結界。千姫より西国の頭領である風間でさえ、容易には近づく事ができないと警告された。八瀬の姫が剛愎なのは百も承知。薩摩藩が新政府軍の中枢となって、朝廷を巻き込んで戦を起こし、それにあげつらう風間家に対して千姫は大層憤慨している。ここで、風間が雪村の郷に近づくと知れば、八瀬の姫は黙ってはおらぬ。
「八瀬が出て来るのは、煩に堪えぬ」
風間の独り言に、襖の傍に座っていた天霧が顔を上げた。風間は、天霧が外から戻って来ている事にも気づいていないようだった。天霧はそっと、行灯の灯を灯して、障子を閉めた。
「大田原より、薩軍大隊が上ってきます。一両日中にここに到着するでしょう」
「この雨の中を進軍か。大義なことだ」
「白河ですが、会津軍に幕府純義隊が合流しています」
「城郭より、雪村鋼道の亡骸を移動させました」
天霧の話では、白河城の大手門前に薩兵の遺体が累々と積み上げられていたという。雨の中、遺骸の上を鴉が飛び交う光景に無常を感じたと静かに報告した天霧は、不知火の式鬼が送ってきた伝言の内容を風間に訊ねた。
「南雲薫の羅刹軍が東征軍に加わるのですね」
風間は黙ったまま煙管を受け取り、ゆっくりと吹かしたまま物思いに耽っているようだった。
これから北上してくる新政府軍に、新たに土佐藩の羅刹軍が加わることも考えられる。
南雲薫の目論みは。
鬼の国の再興。鬼の力を持たぬ者が、「変若水」の毒で気が触れたか。風間は、「ふっ」と鼻で笑った。風間はこの「人間以上」に己に嫌悪を催させる羅刹の棟梁の悪念に怒りが二周して失笑するしかなかった。そして、その怒りとは全く真逆にある感情にも、気づかぬ訳にはいかず、再び深く脇息に凭れ掛かって想いに耽った。
「それでは、雪村の郷へは我々は近づくことは」
「無理ではないが、そう急がずともよい」
風間は落ち着いていた。白河で雪村鋼道の息の根を止めた。新選組の羅刹が鋼道の「変若水」と「方組み」を持ち出したようだが、羅刹開発はいずれ停止する。このまま土佐藩の羅刹軍を撲滅すれば、あの鬼のまがい物は自然消滅するだろう。
愚かな者たち。
風間は人間との決別の為に、あらためて羅刹撲滅を己に誓った。
風間の決心は薩摩との密約を全うする事とは真逆の行動ともとれる。薩摩藩の誰も風間が雪村鋼道を殺める事を想像もしないだろう。だが鋼道殺害が藩に露見したとて、監視をしていたが、雪村鋼道の暴走は止められなかったと家老への報告はどうとでもなる。いずれ、人間同士の戦は終わる。鬼はそれに関わらぬ。だが、この騒乱に乗じて鬼が人間の世を征するという鋼道や南雲薫の目論みには虫唾が走る。風間は業を煮やしていた。
大田原から進軍している薩軍は、芦野から白河城を攻める。薩軍総督は風間達にも援護要請してきている。再び白河城へ。今度こそ、東国の姫を保護する。
雪村千鶴を
我が腕の中へ。
******
鬼塚の結界
慶応四年閏四月初め
時はひと月前にさかのぼる。
薩摩藩より雪村鋼道の監視役を命ぜられていた風間千景は、天霧を伴って宇都宮に潜伏していた。宇都宮での戦は、雪村鋼道が近隣の村落から集めた農民を羅刹化し、捨て駒のような戦法で新政府軍の城の占拠を助けた。風間は戦を静観し続けた。その内、鋼道は、北上しながら新たに兵の増強をすると、東山道総督府軍に進軍の許可を申し立てた。宇都宮での羅刹隊の激減。雪村鋼道のもくろみは、風間の予想通りだった。
「風間様、これより雪村の郷に入り、東国を再興する所存でございます」
わたくしは、田村の血を受け継ぐ者、鬼塚の結界を解く力もございます。
郷で我々の力は一層増します。
それを保証いたしますゆえ。何卒、お力添えを頂けますよう、強くお願い申し上げます。
宇都宮の争乱から逃れた鋼道は、風間の前にひざまずいて頭を低く垂れた。
「東国の再興に否やはない」
風間が一言答えると、雪村鋼道は頭を下げて礼を云った。
「郷を取り戻して、貴様はどうする」
「はい、雪村の郷は水源、鉱物資源が豊富にございます。我が羅刹の改良増強には最適な場所」
「風間様、東国は戦になります。この地で人間を一掃することも叶います」
「今こそ、我ら鬼の一族が日の本を治め、鬼の世を造る好機にございます」
「鬼塚の結界を解く術があると申したな」
「はい、白岩の鬼塚に辿り着きさえすれば」
「案内しろ」
風間はそのまま立ち上がり、天霧を伴って雪村鋼道と白河を目指した。
白岩は、白河藩領と会津藩領の境にある山岳。その奥地に雪村の鬼塚が存在する。
鬼塚の結界は雪村の純血の一族並びに仙台田村家の血脈しか出入りを許されてはいない。雪村の郷が焼き討ちに遭ってから後、鬼塚には、仙台田村家によって強い結界が張られている。風間は、東国の鬼の郷を目にしたいという気持ちがあった。
奥羽街道をそのまま北上した鋼道は、那須芦野まで一気に進軍した。昼夜問わず猛進する羅刹隊。鋼道の目指す雪村の郷は、白河から亥の方向に上った白岩の山奥にある。人里を離れている上に強力な結界が張られている為、風間でさえ近づくことは困難だった。十七年前、東国の雪村の郷が焼き討ちに遭った時、鬼塚の結界が破られた。どういった経緯でそうなったのか、未だに明らかにはなっていない。人間界には大飢饉があり、この豊かな鬼の里の資源が狙われた。人間からの圧力に雪村の一族は屈服しなかった。鬼の誇りを守ったまま雪村家は滅亡した。東国の鬼の郷が一夜で跡形も無くなったと風間は教えられて育った。人間の手によって、途絶えた高貴な鬼の一族。
芦野から北上をしているが、雪村鋼道の案内は牛歩の如く。鬼の血脈でありながら、式鬼も操らず、移動の術も持ち合わせていない。風間は痺れを切らした。一気に白河城の城郭の外れまで、天霧もろとも鋼道を飛ばした。白岩へはその手前から、濃い霧に巻かれて前に進めなくなった。
「そなた、結界を解く術があると云っておったな」
鋼道は、結界に阻まれて焦りの表情を見せていた。風間は鋼道を前に歩かせていたが、これ以上は埒が明かないと思い、山から下りて小峰城に入る事に決めた。仙台藩兵が守る城は、一瞬で占拠出来た。間もなく鋼道は羅刹隊を入城させて、城下に住まう町人や農民を拉致し始めた。本丸の一角で、捕らえた者に変若水を与え羅刹を造るため。
——使える兵は五十人おります。
間もなく、別働隊が合流いたします。そう説明を受けた風間は、鷹の間で雪村鋼道より改良型変若水の方組と、中和方組の巻物を披露された。変若水の原料と処方、調合の方組。羅刹の発作、発狂、吸血衝動を消す中和薬の方組。これは、新政府、旧幕府諸藩、敵味方を問わず、誰もが、喉から手が出るほど所望するもの。そう言って、雪村鋼道はほくそ笑んだ。
風間は、羅刹の毒消しに陸奥の水が必要なことを理解した。雪村の郷の水源。古より清らかな水が湧き、不老不死の泉だと伝わっている。誇り高き一族が守った源泉。風間は幽邃の地に滾々と静かに湧いている美しい清水を想像した。人とは完全に隔絶した美しい郷。幽栖の民。我ら鬼の手で守るべきもの。
「雪村の郷でとれる鉱物も羅刹の毒消しに使います。あの地で羅刹を増やし強くすれば、鬼に金棒でございます」
風間の心に浮かんだ東国の鬼の郷に、突然羅刹が現れた。一瞬でそれまでの美しい風景が穢れたものとなった。嫌悪感に一気に不機嫌になった風間は、別働隊が到着するまで本丸の奥の間から、鋼道と羅刹兵に離れているよう命令すると、天霧を呼びつけた。
「雪村千鶴の所在は」
天霧が入室すると同時に、風間は問うた。天霧は、ゆっくりと風間の前に正座して、質問に答えた。
「雪村千鶴様は、新選組残党と共に会津入りされました」
「新選組は会津兵と共に新政府軍と抗戦することになるでしょう」
「会津が戦になる前に、雪村千鶴を連れ去る」
「城下に潜伏しておるのか」
「おそらく」
「風間、白河に新選組羅刹隊が進軍しています」
風間は天霧を睨みつけた。「鋼道が言っておった別働隊か」と尋ねると、天霧は「はい」と返事をした。風間は鼻で笑って一蹴した。
「犬どもが、寝返ったか」
いえ、羅刹新選組は仙台藩に籍を置いていると自らを名乗っています。奥羽鎮撫隊として、白河に。雪村鋼道の羅刹別働隊として動き、奥羽での戦鎮圧を行うのが目的。
「旧幕府軍とは袂を分かっている部隊です」
「ですが旧型変若水の羅刹ゆえ、動きも鈍く夜間にしか活動できないそうです」
雪村鋼道の羅刹実験。捨て石のごとく変若水を飲まされた哀れな者たち。鬼まがいの力を得ても寿命が尽きるとその身は灰と化す。風間は人間の愚かさを思った。そして、喩え相手が人間だとしても、雪村鋼道がこのような仕打ちを与えたことが、鬼の道に悖ると思った。
その日の内に、白河城に山南の率いる新選組羅刹隊が到着した。仙台藩士を名乗る山南は、奥羽鎮撫の為、白河以北の新政府軍の進軍を止めて、北から向かってくる会津藩兵を鎮圧すると宣言した。
「城郭近隣に斥候を送っています」
「この城を乗っ取ろうとする者を捕縛し、和平交渉に使います」
仙台藩奥羽鎮撫隊新選組総長、山南敬助は常に冷静沈着。優れた統率力で、雪村鋼道と羅刹隊を城郭の外に偵察に送っていた。風間はずっと静かに山南と雪村鋼道が事を運ぶ様子を眺めていた。どんなにあがいても、奥羽での戦は避けられぬ。ここ白河も宇都宮と同様に戦火に見舞われるだろう。雪村鋼道は、戦乱に乗じて雪村の郷をも戦に巻き込む気か。
美しい郷が炎に包まれる様子が目に浮かんだ。同時に、雪村千鶴の姿を想った。
滅びの郷の姫。
人間の争いに巻き込まれ、再び郷を失う事になるのか。
*****
慶応四年閏四月二十三日
白河城下脇本陣柳屋
会津藩遊撃隊が白河城に入り、正式に会津藩が城を占拠した。
斎藤の率いる新選組は、城内での待機は許されず城下に宿陣するよう命が下った。会義隊と別れて、脇本陣に分宿した新選組は、三十ばかりある部屋の内、二十の部屋を占拠した。この宿で幕府純義隊と合流した斎藤は、宿の一室で軍議に参加した。
千鶴は、血に染まった着物を脱いで洗濯に勤しんだ。斎藤の上着も水に浸けると鈍い血色が滲み出た。城の本丸での恐ろしい夜。羅刹兵の遺骸が累々と折り重なるようになった廊下、羅刹兵と斎藤さんの斬り合い。父さまは逝ってしまわれた。風間に胸を刺されて。断像が目の前に現れる。父さまの驚いたような顔。自分の名前を呼び掛ける声。父さまの優しい声。
どくどくと流れ出る血を止めることができなかった。
段々と心臓の動きが止まって、身体が冷たくなっていった。
とうさま、とうさま。
千鶴の眼からはらはらと涙が零れる。震える全身で、盥に両手をつけたまま千鶴は泣き続けた。
遊撃隊が入城してきた後、新選組は城郭の外での待機を命じられた。千鶴は父親の亡骸を本丸の外に置いたまま大手門の外に出た。最後に振り返った時に、暗い広場の端に白い手拭が見えた。父さまの顔の上にかけたもの。父さま、必ず戻ります。
何度も大手門を振り返りながら歩く千鶴に、斎藤は静かな声で呼びかけた。
「宿陣先が決まったら、亡骸を弔う手配をする」
「城へ鋼道さんを引き取りに向かおう」
千鶴は、頷きながら両の眼から涙を流した。斎藤は、隊を宿陣先に移動させた後、合議に参加するために再び城に向かったが、雪村鋼道の骸は城郭から忽然と消えていた。方々を探したが結局みつからないまま。その内に、城郭の一角に穴が掘られ、羅刹兵の亡骸がその中に投げ込まれた。その日は、夕方から雨が降り出した。細かい雨が降る中を、鴉が羅刹兵の穴の上を飛び回り、骸をついばむ姿が見えて居た。
斎藤は、宿陣先に戻ると、千鶴に父親の亡骸は城内で弔われたとだけ伝えた。千鶴は、斎藤に礼を云うと、隊服の上着に火熨斗をかけたものを渡した。斎藤は、雨が上がるのを待って、白坂口に進軍し、そこに会義隊と陣を張ることが決まったと千鶴に伝えた。
「最前線での戦いになる。あんたにも随行を頼みたい」
砦を築き、敵の進行を防ぐ。あんたには本陣の最後尾で待機してもらうことになる。斎藤が千鶴に救護隊と一緒に行動するよう指示した。千鶴はずっと頷きながら聞いている。斎藤は、手に持っていた包みを千鶴に渡した。中には軍服が入っていた。
「純義隊より賜った。宇都宮で闘った隊士のものだ。隊頭の遠山様の弟で勇猛果敢に闘ったそうだ」
千鶴は軍服を広げた。ちょうど千鶴が着るのにぴったりの大きさだった。藍染の平織り地の上下。上着は立襟。前開きで木の釦が五つ縦に並んでいる。男子でこのような小さな隊服を着るのはきっと少年兵だ。まだ元服もしていないだろう。千鶴は身が引き締まる思いがした。丁寧に隊服を畳むと、斎藤に頭を下げて礼を云った。
「革靴も上り口に用意している。下足掛に下ろしてもらうように」
「兵糧は、そのまま荷車に積んだものを持って行く」
「早く、休め。明日は移動になる」
斎藤は、千鶴が部屋から下がるのを見届けると、溜息をついた。雨上がりのぬかるみの中を初めて出向く白坂口には、小さな丘陵があると斥候部隊から報告があった。本来なら千鶴には宿で待機をさせておくべきだ。だが、ここ白河には、鬼たちが潜伏している可能性が高かった。城郭で取り逃がした風間と天霧。薩軍の先行軍と行動を共にしている事も考えられる。山南の率いた羅刹隊が既に白河を発って会津に向かった今、羅刹兵の残党が白坂口に攻めて来ることも考えられた。
白坂口本陣で雪村を守る。
斎藤は、千鶴を決して奪われてはならぬと思っていた。
戦の真っただ中でも、己の手で守る。
守ってみせる。
斎藤は、愛刀を手にとって、手入れを始めた。白河の地での薩軍との初陣。必ず勝つことを心に誓った。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その13へ
(2019.09.28)