ブログ【白河戦線のイメージ】芳年画、戦友絵姿、THE STONES
皆さん、こんにちは。ご訪問頂き有難うございます。
普段、博物館の図録を買っても余り見返すことがないまま本棚に仕舞いがちですが、京都国立博物館の新選組特別展の図録は、常に机の上にあってしょっちゅう眺めています。
とてもシンプルで素敵な装丁で、表紙に新選組の囲い文字と近藤勇の勇姿。月岡芳年画「甲州勝沼駅於近藤勇驍勇之図」の一部分がデザインされています。芳年は幕末から明治初期の絵師で同時代には河鍋暁斎もいます。芳年は美人画から合戦絵、陰惨な絵で、紅い血の表現が生々しい残酷絵などが有名です。
オリジナル絵は、小島資料館所蔵。資料館アーカイブをご参照ください。
近藤勇の甲州勝沼での勇姿を描いた錦絵は明治七年に描かれています。藤田五郎が警察官に採用された年。小説では、斎千一家が斗南から上京した年です。この頃は、錦絵新聞が人気で、戊辰戦争やまだ各地で起こっていた士族反乱の様子が描かれ、人々の中に広まりました。実際の戦いの写生とは違い、当時の資料を基に多くの部分は絵師の想像で描かれていると思われます。甲府の合戦絵は、薩兵と幕府兵との服装の違いが一目瞭然で面白いです。銃部隊が攻める門前で、味方は撃たれて倒れている中で、近藤さんが中央で雄叫びを上げて勇猛果敢に闘っているように見えます。色使いも独特のカラフルなもので、摺師の腕が冴え渡っています。
戊辰戦争を生き延びた中島登の残した「戦友絵姿」や「覚書」は、新選組の史実の資料としてとても貴重なもの。当たり前ですが、絵姿は全く薄桜鬼のイメージとは似てもにつかない。長い間、「戦友絵姿」は戦後に描かれたものだから、芳年画と同じように実際の隊士の姿を忠実に再現したものではないと思っていました。これは私の勝手な思い込みです。
山口二郎 (二十七歳)「戦友絵姿」中島登画、文 市立函館博物館蔵
吉田俊太郎 (戊辰、会津戦争を戦った隊長付き隊士。二次小説では斗南で斎千宅に一時居候)上半身は鎖帷子に袴、洋装の上着を腰に結び付けています。彼も講武所風の髪型。
初めて「絵姿」を見た時、隊士のポーズが見栄を張る役者絵のようで、絵師の想像で多少デフォルメして描がかれ、流行の芳年画などを真似て、少し陰惨な感じに描いている。そんな印象を持っていました。実際、戦友絵姿は中島登が戊辰戦争終結後、投降収監中に描いたもので、中島のぼりんの隊士に対するイメージです。8割ぐらいは中島登の想像で描いていると思っていたのです。なので、絵姿よりも文字による隊士の紹介と、中島登の心情の部分ばかりを集中して読み解いていました。
少し話は変わりますが、昨年は白河戦争より150年の記念事業として白河戦争の関連図書が沢山発行されました。その中でわたしのお気に入りは、「THE STONES 戊辰戦争 白河口の戦い異聞」というB5判の漫画。薄い本です。市内在住の漫画家、端野洋子さんが描いたもの。白河市が発行して、市内の小学生に無料配布しました。一般販売もされています。あらすじは、現代の白河市に暮らす小学生が150年前にタイムスリップして、白河口の戦いに巻き込まるというもので、小学生の見た戊辰戦争がリアルに描かれています。
主人公は小学生の男の子。過去の白河で、戦闘中の兵士(男装で闘う女性)に出逢います。設定が少し乙女ゲームっぽいですね(・∀・) アシガールみたい。戦国時代のような場面展開で劇画風。臨場感たっぷりです。登場するのは、棚倉藩の十六ささげ隊。実在した棚倉藩家老、阿部内膳が率いた誠心隊の一部隊です。先祖伝来の鎧兜に身を包み、鎗や弓矢を使って勇敢に戦いました。同じ同盟軍である仙台藩の夜鴉組(細谷十太夫が率いたという黒装束のゲリラ部隊)も出て来て、物語のクライマックスは白河城奪還総攻撃に。
主人公の少年は、殺し合う人々の姿にショックを受けながらも、生き抜くために必死に頑張ります。十六ささげの隊士と意思疎通は一応できていますが、闘う兵士の死生観が全く理解できない。その辺り、ほんとうに10才の現代の少年がぽつんと幕末に身を置いた状態がリアルに描かれていて、非常に面白い内容です。郷土資料として白河の小学生が自分たちの暮らす街と戊辰戦争について理解するのにも、非常によい読み物だと思いました。
小学生向けの漫画ですが、死の描写はかなりリアルなのが特徴です。白河戦線では近代兵器(鉄砲や大砲)も用いられていましたが、刀、槍、や弓矢で殺戮が起きていたことが判ります。死屍累々とした光景に主人公の少年は衝撃を受けます。
中島登の「戦友絵巻」では、新選組隊士たちは血が流れた敵兵の首を持っています。斎藤一に至っては、敵兵を足で踏みつけて生首を二つ、むんずと頭髪を掴んで見栄を張るようなポーズをとっています。ほかの隊士の絵でも、刎ねられた生首が宙を飛んで、まさに、芳年が得意とした陰惨絵のようです。二次小説でも描きましたが、同盟軍は敵兵の首を刎ねて晒し首にしました。相手を殺めた後、首を刎ねて背中側の腰に結び付けて歩いて帰陣する。首検分をしていたかは定かではありませんが、敵兵の認証が判る札のようなものも付けて晒していたそうです。戦国時代さながらですね。
人の首は、非常に重いそうです。人体の体重の十分の一。60キロの人間だと、6キログラム。お米の袋が5キロなので。あれを腰に下げるようなものです。白河戦線では、首を三つ下げて歩いた兵士もいるそうです。腰の大小の重さ、小銃の重さを考えると、腰に20-30キロ近い重さを抱えて歩いた。それも足元は草鞋。昔の人は足腰達者です。
戊辰戦争は近代兵器が用いられた戦争だと言われていますが、白河では小銃での銃撃戦と同時に刀や鎗での斬り合いも盛んにおこなわれていました。斎藤さんも錦絵のように奮戦したことでしょう。白河戦線を調べていていると、決してデフォルメではない史実に近い姿だと、中島登の描いたものへの印象が変わりました。「THE STONES」では、至るところに放置されている腐乱した兵士の遺体を白河の人々は憐れんで丁重に葬る姿が描かれています。東軍と西軍を一緒にすると、あの世で浮かばれないだろうという配慮から、藩ごとに分けて、別々のお寺にお墓を建てて埋められました。白河には無数の墓碑や供養碑が残っていて、現在も白河の人々は花を手向け供養しています。
漫画のタイトルThe Stonesは「お墓(沢山あるという意味で複数表現)」を表していて、物語のテーマになっています。
今回、絵姿を眺めていて、もう一つ発見したことがあります。戦友絵巻の斎藤一の絵姿から、月代を細く剃る「講武所風」の髷を結っていたことが判ります。錦絵では、それが伸びていますが、明らかに額から髪が二つに分かれています。私のイメージの斎藤一は、土方歳三みたいに総髪という願望も強くあったので、これを長く見落としていました。絵巻の斎藤一は髷も結っています。戊辰戦争時に断髪していなかったみたいですね。
細い月代は、「講武所風」といって、武士の間で幕末期に流行していました。流行に敏感な都会人に多い髪型です。山口二郎は、とてもお洒落だったのでしょう。他にも、錦絵では「山」という文字をあしらった着物に、袴は斎藤さんの家紋をあしらった模様。踏みつけている敵兵の着物には薩摩藩旗印の丸十字がちりばめられていて、薩兵であることが判ります。左刺しで右手で刀を持っている右利きです。この絵が、中島登の記憶の斎藤一だとしたら、戊辰戦争中は、洋装でなかったのかなとも思います。足元も黒い草鞋掛け足袋。他の隊士は洋装でも足元は草鞋履きで、土方歳三もそうです。
薄桜鬼の洋装キャラデザインとは遠く離れていますね。
史実資料も素敵です。絵姿の新選組隊士たちは強靭そう。これから白河戦線での戦いを小説で書いてきますが、戦友絵姿や十六ささげや夜鴉組のイメージも若干新選組に重ねながら描いていきたいです。
もちろん、薄桜鬼のキャラデザインで(・∀・)
おまけに野村利三郎の絵姿も素敵なので画像貼ります。
野村利三郎は会津戦線を離れ土方歳三に随行して蝦夷に渡り、宮古島湾海戦で戦死します。敵艦の甲鉄艦に先陣を切って飛び乗り、直後に銃撃を受けたとあります。(享年二十六歳、斎藤さんより一つ年下です)この絵姿はまさに敵艦に飛び込んでいった瞬間。彼の名前は全て書かれていて、源氏姓で諱は「義時」。八双飛びの源義経を思わせますね。動きが活き活きとしていて、野村利三郎の絵姿は私のお気に入りです。
函館博物館のアーカイブで、全絵姿が閲覧可能です。リンクを貼ります。
絵姿をクリック拡大すると文章の部分も読みやすいです。
ちよろず