半夏生
戊辰一八六八 その14
閏四月二十六日 脇本陣 吉川屋
白河口で同盟軍に大敗した新政府軍が街道を芦野宿に退却してきた。
風間が滞在している吉川屋は、薩軍兵で満室となった。騒がしい様子に風間は不満を隠さない。広間での軍議に呼ばれた風間は、白河城占拠の為の戦に加勢するように要請をされたが、返答をしないまま、評議の流れにただ耳を傾けているだけだった。軍目以上の者が、「大田原付近に駐屯する薩摩、長州、大垣藩の兵士を急遽北上させるよう」意見し、宇都宮に駐屯する新政府軍も一部を除き芦野に集結させることが決定した。
数日のうちに、集結した増援軍で新政府軍は七百名の大軍になった。風間は戦に加わる気はないと宣言すると、このまま芦野に留まるか、偵察の為に北越に向かうよう命令された。風間は芦野を出立して北越へ向かった。途中、白河城下を通過したが、奥州より次々と同盟軍への援軍が街道を南下していく姿が見られた。風間は、今一度、会津藩領との国境に向かい、白岩にて雪村の鬼塚を探索した。強い鬼塚の結界は、風間の接近を拒み、天霧と二人であらゆる術を合わせても前に進むことは叶わなかった。
諦めた二人が会津藩領を過ぎてから、辺りは長閑な風景となった。平穏な会津と長岡の藩境を目の前にして、人間が戦火で土地を荒らすことの愚かさを思った。隣を進む天霧は、江戸には向かわず、越後に足を向ける理由を風間に問うた。
「不知火が、江戸で戦が近いと式鬼を送ってまいりました」
「薩摩藩士と旧幕府の残党との諍いに乗じて、南雲薫が羅刹兵を増強していると」
「南雲の羅刹軍が江戸を出たとしても、宇都宮を通ることになるだろう」
「土佐軍に合流して今市へ行き。白河に辿り着くには暫くかかる」
風間は、全てを見通しているような表情で天霧に語りかけた。
——南雲薫を雪村の郷に近づけることはならぬ。
「このまま長岡へ向かわれるのなら、南雲の白河入りを許すことになりましょう」
心配する天霧をよそに、風間は黙ったまま街道を長岡城下に向かって進んで行った。
「奴に会う」
そう呟いた風間は、薩摩藩の旗印が立った城下本陣宿に出向いた。この頃、薩長軍は順調に越後高田の主要な港を封鎖することに成功していた。風間と天霧は本陣の奥の間に通された。暫くすると、レキション姿にベストを着けた大男が部屋に入って来た。
「風間」
正面にどかっと座った男は、「久しぶりじゃ」と破顔した。風間の隣の天霧は頭を下げて挨拶した。風間は寛いだ姿勢のまま微笑んだ。
「黒田、その方、いささか窶れておる」
風間の深紅の瞳にじっと見詰められ、黒田と呼ばれた男は、その大きな瞳を少し細め、大きな手で自分の頬や顎を触りながら「そうかのお」と惚けたように答えた。風間は、ふっと笑うと顎を上げるように応えた。黒田も同じように応える。二人は互いに見つめ合ったまま微笑みあった。
「総督府部隊は、一両日中に白河城を占拠する」
「宇都宮からも兵を集めた」
「砲門は?」
「二十ドーム砲二門、長州にもあと二門」
——会津はなかなか墜ちんじゃろう。
「じゃっどん、征討軍は高田藩を押さえた。武器ん流通が止まったや、会津は動けん」
「長岡藩も恭順ん嘆願書を出せば済む」
——抗戦すっならここも撃たんなならん。
風間は、ずっと黙ったまま黒田の話を聞いていた。
「おはんが加勢すっなら、庄内藩、秋田藩の鎮圧も問題なか」
黒田はガハハハと豪快に笑った。風間は微笑んだが、「報せる必要のある事は全て伝えた」と言うと、そのまま静かに立ち上がった。
「総督府部隊に伝えておく事は」と尋ねる風間に、黒田は「小谷で長岡藩と談判を控えている」と呑気な様子で答えた。
「決裂したや、長岡城を攻むっだけじゃ」
「そん次は庄内、そん次は秋田」
風間は、黙ったまま廊下に出た。
「黒田、大過無きよう」
風間は、振り返って一言そう言うと、天霧と一緒に姿を消した。
「また相まみえもんそ」
笑顔で軒下から覗き込むように風に乗って消えた風間と天霧に黒田は呟くように言うと、再び部屋の中に入って行った。
*****
風間と天霧は、南会津の山々を横切るように進み、翌日には芦野宿に戻った。既に薩軍は進軍を開始した後で、殿に進む忍藩の出兵を見送ると再び脇本陣の奥の間に部屋を陣取って、身体を休めた。風間は半分眠りながら、黒田の言っていた言葉を思い出した。
二十ドーム砲は、小さい山なら一回で崩す威力がある。
会兵はひとたまりもなか。
江戸で砲術を学んだ黒田が言うのなら、そうであろう。
薩軍兵器は人も山も里も打ち壊し
城を手中に収め、更に北に進む
人間の諍いに鬼も巻き込まれる
その被害は雪村の郷にも及ぶやもしれぬ
たとえ仙台田村の鬼塚が強い結界を張っていても。
その仙台が攻められれば鬼塚の結界も破られるやもしれぬ。
風間は、目を開けて、中庭に夕闇が迫るのを目にしながら、白河の城下を思い浮かべていた。
雨が降る
雪村の娘は
それでも戦場に身を投じるか
中庭には、緑の葉の半分が真っ白な烏柄杓が生い茂っていた。
********
黒川村への山道で
白坂口での初戦の後、休戦中だった新選組は陣を城下から西方面の黒川村に移すことにした。連日振り続けている雨間を縫って移動しながら、斎藤は千鶴に従軍を控えるように指示をした。
「どうしてですか」
「医療班として、一緒に付いて行きます」
「負傷者は必ず連れ帰る。その時に手当てを頼む」
「それでは、手遅れになります」
「隊を離れて、わたしは何をすれば……」
ずっと歩きながら、千鶴は決心したように斎藤に追いついて、「斎藤さん、お願いします」と何度も頭を下げる。斎藤は、ずっと足を動かし続けながら黙っていた。
「城下に敵が攻めてくれば、戦火となる」
「遊撃班は最前線で闘う」
立ち止まった斎藤は、千鶴の手を持って自分に向かせた。千鶴は不意を突かれたように目を大きく開いている。汗で前髪が額にはりついて、髪もさっきまで降られた雨に濡れていた。
「陣を安全な場所に構えるだけだ。そこで待機しておけ」
「必ず戻る」
厳しい表情でじっと見つめる斎藤に、千鶴は黙って頷くしかなかった。今から陣を構える場所は、城下から西方に離れる。黒川村には会津藩の人夫が待機していると聞いているが、斎藤が自分を地頭の家屋に待機させることは判っていた。自分の荷物だけを別に背負わされた千鶴は、これきり斎藤と離れたまま城下に戻ることも許されないのかと不安になった。二人が立ち止まっている間、隊はどんどん前に進んでいた。隊の殿を歩く隊長付の吉田が振り返って斎藤と千鶴を心配そうに見ていた。
「すぐに追いついてくる」
「名残を惜しんでおられるのだろう」
隣を歩く器械方の高田文二郎が呟いた。
*****
慶応四年五月一日、陽暦六月二十日。未明。
白坂口より新政府軍が攻めて来た。
休戦中に黒川村に陣を移し、人夫として雇っていた地頭の家に千鶴を預け置くつもりでいた斎藤は、近隣の百姓より黒川口に敵軍が大軍で押し寄せてきている報告を受けて、夜明けを待たずに、急ぎ白坂口へ向けて進軍した。黒川にも敵がくる。千鶴は、そのまま隊から離れる事無く医療班として殿の荷車を手押しながらついて来ることになった。四半刻で、稲荷山に到着した新選組は、山の北東方面を守る仙台藩兵と一緒に砦を築き防塁の内側に待機して敵の攻撃に備えた。
糸のような小雨が降る中、相対する小山に敵兵が群がる姿を確認した斎藤は、仙台藩の砲台班に小山から押し寄せる敵兵に集中砲火を放つように要請した。霞みの向こうから攻撃してくる敵の数、およそ四百。前回のおよそ二倍の数はあった。小銃の砲火ではなく、砲弾が飛んでくる。敵は田圃の畦道に砲台車を押し進めているようだった。防塁には、畳を重ねていたが、竹で組んだ囲いも砲弾で攻撃を受けると防ぎきれない。真っ直ぐに落ちる雨は、仙台藩の小銃の着火を手間取らせている。斎藤は、先鋭部隊で斬り込むことにした。蒸し暑い空気の中、一旦山頂に上った十名の隊士たちは、稲荷山の北東から一気に坂を駆け下りた。そのまま小山を東方面から迂回して敵陣に向かった。敵陣の前方には今まで見た事がないぐらいの大きな砲台が見えた。
霞みの中から現れた斎藤達に敵の前衛部隊は怯んだ。砲台の上に飛び乗った斬り込み隊が、飛び降りるように斬りかかる。ぬかるみの中での斬り合い。小銃の発砲音が響いたが、斎藤からは飛んでくる銃弾がゆっくりと空中を浮かんで止まっているように見えた。弾を除け、叩き落としながら前に進む。敵兵は、目を見開いたまま刀に手を掛けているが物凄く動きが鈍い。
——止まっておるのか。
敵陣の誰もが停止して見える。斎藤は一人残らず叩き斬った。敵兵は砲台だけは死守しようと後退し始めた。後方から更に敵兵が大軍で攻める姿が見えた。稲荷山の正面に敵の大軍が押し寄せている。砦が破られたのか。雪村。雪村は、山頂の一番後方に待機している。
「戻れ、陣の後方を守る」
斎藤の叫び声に従って、斬り込み隊は全員でその場を退き走り去った。敵陣から発砲音が響いていたが、斎藤達は強く降り始めた雨の中を銃弾から逃れながら陣に戻った。既に正面の砦を襲った薩兵が二手に分かれて、稲荷山の後方に回わり、陣全体が敵に囲われた状態になっていた。斎藤は仙台藩兵と共に山頂に立てこもった。このままでは、完全包囲されて孤立をする恐れがある。絶体絶命。裏山の崖路から小隊ずつ移動させねば。斎藤は、仙台藩兵から先に下山するよう指示した。その時、遠くに法螺貝の音が聞こえた。怒声と人が駆ける音。城下から繋がる街道に会津藩旗が翻っている。味方の援軍か。稲荷山の後方に味方の兵の姿が見えた。発砲音と砲弾が放たれる音が響く。薩兵を蹴散らすように迫った会津藩兵は、裏山の麓を占領すると仙台藩の下山を援護しながら敵に向かって砲撃し、最後に山を下りた新選組に「城が奪われた」ことを知らせた。そして、新選組と仙台藩兵に、ただちに城下から退却するように指示した。
どのように城下を横切ったのか、斎藤は記憶がない。ひたすら道を駆け抜けた。須賀川に辿り着いた時に後ろを振り返った。城の三重櫓がそのままに見えた。
城が敵に墜ちた。
それから怒涛のような勢いで街道を走った。打ち込まれた砲弾の衝撃と敵兵の圧倒的な数。止められなかった。悔しさと憤りが押し寄せる。山の中に入り、間道をひた走った。雪村は気丈について来ておるな。振り返って千鶴の無事を確かめた。千鶴は、息を切らし、ぬかるみに足を取られている。手を伸ばして引き揚げた。そのままずっと千鶴の手を引いて登り続けた。
勢至堂の峠に辿り着いたのは、六つ半刻。まだ辺りは明るい。隊士の疲労は限界に達している。雨は止んでいた為、このまま間道の外れで野営をすることになった。筵が敷かれた上に腰かけた隊士たちに、千鶴が用意した握り飯が配られた。兵糧で皆が生き返った。近くに湧き水があり、水分補給も十分に出来た。力尽きたように横になるものが多く、筵を埋めるようになっている。完全に陽が落ちて、ようやく辺りは暗がりになった。軍目以上の者が集まり、死傷者の報告確認がされた。
仙台藩兵は十二名が戦死。新選組は伊藤鉄五郎を失った。稲荷山からの退却時に撃たれた伊藤は、城下まで運ばれたところで息絶えた。亡骸を会津藩管轄の寺に運んでもらうよう人足に頼んだ。雨が縦にまっすぐ落ちる中、筵を被った亡骸に隊士たちは立ったまま手を併せて、一礼の後、街道をひた走った。皆が声を堪えて泣きながら走っている。胸が潰れそうだ。仲間との別れ。伊藤は壬生に居た頃から伍長を務め、この戦では指図掛だった。剣の腕は三番組隊士の中では一番であろう。いつも明るく笑い、皆をまとめ、目端がよく利く頭のいい男だった。斎藤は自分の利き腕を失ったように感じた。
そなたの仇は必ず。必ず打つ。
斎藤は頭上の木々の間から見える雲が広がる空を見上げながら復讐を心に誓った。
****
三代での待機
翌日、斎藤たちは、三代宿まで北上し、会津藩の陣に合流した。
軍議に於いて、新選組は後方部隊として三代での待機を命じられた。五月一日の落城についての詳細が報告された。白河を攻めてきた新政府軍は、白坂口から三方向に軍を分けて、南側(稲荷山)、西側(黒川経由で立石山)、東側(十文字峠を経て、雷神山)を攻め、圧倒的な勢いで、昼過ぎには白河城に入城し錦の御旗を立てた。城を追われた会津兵本隊、棚倉兵、仙台兵は、それぞれ白河を逃れたが、失った兵の数は三百名以上。城下を横切る谷津田川は、投げ込まれた兵士の遺体が累々と積み上げられ、川の水が真っ赤になっていたと斥候部隊から報告があった。
戦略の上での大きな要地を失った痛手は大きい。同盟軍は、白河城奪還に向けて軍議を重ねる事になった。大幅な兵の増強の必要が叫ばれ、会津若松からの応援部隊が到着次第、白河への街道を下った上小屋に本陣を築くことが決定した。
新選組は、三代での待機中に間道を通って白河に近い長沼宿を行き来し、棚倉藩兵と出兵調練を重ねた。この間道開拓は二本松や棚倉への接近を容易にし、会津藩領から白河につながるもう一つの本道である羽鳥村方面までの移動も可能にした。近々実行される白河城奪還のための総攻撃に備えて、新選組は遊撃隊として作戦を練る役目に廻った。
長沼にあった棚倉藩の陣との共同作戦では、夜間に間道移動で羽鳥から城の西側の六反山から金勝寺山に攻め込む。棚倉藩には古武術の鎗、弓を用いる小部隊があった。斎藤たちが、長沼宿から本道を羽鳥方面に出動調練を行った時、この小部隊が新選組の道案内となって先陣を進んだ。斎藤たちが七十名ほどの部隊なのに対し、この小部隊はたった十六名の遊撃隊で、その姿は古来の甲冑に身を包む。弓隊の五名は一人千本の矢を抱えて、飛ぶ様に軽やかに道を進んだ。この「十六ささげ隊」との間道移動と遊撃調練を重ねたお陰で、新選組は白河から猪苗代湖南、福良までの移動を夜間でも自由自在に行えるようになった。
そして、仙台藩の斥候先鋭部隊として名の通った「夜鴉組」と言われる小部隊とも夜間調練を重ねた。鴉組は、正式には士分の隊ではなく、白河近隣に住まう町人や百姓、猟師などで組織され、背中に鴉が描かれた黒い陣羽織を纏い、ダンブクロ姿で敵に奇襲をかける衝撃隊として白河城下に接近し、崖ぶちの穴倉に基地を築いた。斎藤は新選組から斬り込み先鋭部隊を作って、夜間訓練を鴉組と行った。夜目の利く斎藤は、日没後の奇襲攻撃に自信をつけた。
三代宿の陣で待機している千鶴は、精力的に兵糧作りに勤しんだ。雨続きの為、蕎麦粉で薄い御焼を作って網であぶり完全に乾燥させたものを油紙に包んで晒しに巻いたものを何本も作った。そのまま食べることもできるが、水につけてふやかして食べることもできる良い保存食だった。他に蓬や味噌、胡麻を練り込んだ御焼きも作った。日中に戻って、仮眠をとる斎藤の為に、宿の一番奥の部屋を確保して清潔に保った。五月の二十日を過ぎた頃、夕方に調練に出掛ける先鋭部隊十名の出発準備を千鶴が手伝っていると、斎藤が千鶴にも「あんたも一緒について来るように」と突然言い出した。驚いた千鶴に。
「今夜は調練ではなく、崖下の基地を整えに行くだけだ」
「付いて参れ」
斎藤は、そうひと言行っただけで宿の玄関前に居る部隊の仲間の元に歩いて行った。千鶴は合切袋を持って草鞋を履くと、隊士たちは笑顔で、「雪村くん、手拭を忘れずに」と声を揃えて手招いている。
「手拭、ですか」
「ああ、湯あみ用の大きな手拭もあれば」
「着流しも」
湯あみ、湯あみって……。
千鶴はきょとんとして立ち止まっている。吉田俊太郎が、近くにやって来て「風呂ですよ。雪村君。風呂を用意しましたから」と笑った。
「お風呂? ですか」
そうです。雪村君専用の風呂場をね。私らは、別に作ってある河原の風呂場で湯あみです。気持ちいいですよ。宿の風呂は狭くて入れたものじゃないです。
千鶴は、部屋に戻って新しい着流しと身体を拭く為の大手拭を持って来た。櫛も合切袋に入れて戻った。
「では出発しましょう。道は険しいですが、俺等がついて居ますので」
*****
隊士が言う通り、崖下までの路は、道とはいえないものだった。ほとんど平隊士に抱えられた状態で崖下に下りて行く。吉田が気を利かせて、長い晒しを広げた所に千鶴がしゃがむように座わり、晒しの両側を二人の隊士が千鶴をぶら下げるようにして運ぶ時もあった、斎藤が千鶴を負ぶって川を渡った。小さな川だが、流れはきつく岩場を超えた所に石が丸く積んだ場所があり、湯気が立っていた。
「温泉が湧いておる。ここで湯あみをすればよい」
斎藤に岩の上に腰かけるように降ろされた。他の隊士は、更に川の下流方向に河原伝いに歩いていく。
「それでは、雪村君、ごゆっくり」
「わたしたちは、崖の曲がった所で湯に浸かっていますので」
「なんかあれば、声を張り上げてくれれば」
「さ、組長。そこに立っていたら、いつまでも雪村くんが湯に入れないでしょう」
斎藤は、隊士に促されて、初めて気づいたように慌てて岩場を走って行った。千鶴は一人ぽつんと河原に取り残された。空には膨らんだ月が輝き、辺りは明るかった。河原には烏柄杓が一面に生い茂っていた。葉の半分が白くて、ぼーっと月明かりに輝いているように美しい。千鶴は、綺麗に積まれた石の中に丸く掘られた穴に溜まったお湯に足をつけてみた。温かい。そっと岩場の影で着物を脱いで、湯の中に浸かった。気持ちがいい。三代宿には温泉が通っているが、新選組の宿陣先の風呂場は狭く、行水をするあんばいで風呂に入っていた。いつも隊士に遠慮をして、三日に一度しか入ることが出来なかった。
蒸し暑い毎日で、汗を流すこともできず。時折、井戸水で首回りだけを水に浸した手拭で拭うことしかしていなかった。こんな天然の温泉場を用意してもらえるなんて。
なんて、嬉しいことでしょう。
戦の最中に。
千鶴は足を伸ばしてゆったりと身体を湯の中に沈めた。髪もといて、お湯で流した。何日ぶりだろう。こんな風に髪にお湯を通せるなんて。幸せ。幸せです。皆さん、ありがとうございます。
千鶴は、髪を洗い身体を流し、合切袋から櫛をとりだして、髪を梳かした。自然に鼻歌がでてしまう。
斎藤は、湯に浸かりながら、千鶴の鼻歌や独り言を耳にしていた。傍で寛いでいる隊士たちは、「あー極楽だ」「疲れがとれる」「宿の風呂とは雲泥の差だ」と騒いでいるが、斎藤は数軒離れた場所で、独り湯に浸かる千鶴の一挙一動を手に取るように感じていた。
斎藤さん、ゆっくりしていらっしゃるかしら。
長湯は嫌いだっていつも仰ってらしたけど
こんなに気持ちいいんですもの
ふふふふ
髪も、肌もすべすべしてる
このお湯、温泉だからかな。
すべすべしてる
気持ちいい
斎藤は湯の中で完全に固まっていた。決して目にはしていないのに、雪村の肌が手に取るように見えてしまう。
俺はいったい……。
なんということだ。
焦りながらも、神経が、聴覚視覚が研ぎ澄まされていく。なんだこれは。俺は、ここにいるのに。見えてしまう。
見てはならん。
見てはならん。
でも見える。斎藤は、一緒に湯に浸かる仲間を見てみた。隊士たちは湯を掬っては頭から被ったり、岩に横になったり、うつ伏せになって泳ぐように移動したり、それぞれが好きなように寛いでいる。どうも、自分が見えている雪村千鶴の湯あみは、他の者には見えていないようだ。
見えておらぬのか。
そうか……。
そう思った途端、なんとも言えぬ安堵と嬉しさに全身を包まれた。自分の掌に雪村の肌を感じる、その柔らかくてすべすべな身体を。そして、俺は。
たおやかな
腰に触れて
いかん。いかん。俺は何を考えておるのだ。いかん。駄目だ。
斎藤は何度も首を横に振った。顔を湯に突っ込むようにして、目の前にちらつく残像を振り落とした。いかん、絶対にならんぞ。
ならん、ならん。
「組長、なにしてらっしゃるんです」
「湯の中に、何があるんです」
「いや、なにもない」
なんとか誤魔化した。
「そろそろ上がるか」
「おーれも」
「湯あたりするな。これ以上は」
そんな風に言って、隊士たちは湯から上がったが。斎藤は、自分の股間が千鶴に反応してしまっているのが気になって。立ち上がることもできない。
「そろそろ、雪村君を呼びますか」
「雪村さん、聞こえます?」
雪村さーん。隊士たちが声を揃えて千鶴を呼んでいる。千鶴は、湯から上がって、身体を布に包むようにして岩に隠れた。斎藤は、隊士たちが背中を向けている内に湯からあがって、股間を隠しながら、慌てて着物を羽織った。その間も、千鶴が身体を拭って着物を羽織る姿が見えてしまっていた。
もう、駄目だ。全て見えておる。
狼狽する斎藤をよそに、千鶴は、「はーい。もう着替え終わりました」と返事をしている。千鶴は髪を手拭で拭いながら、櫛で髪を梳かして。ゆっくりと草鞋を履いて身仕舞を整えた。
隊士たちが先に千鶴に合流していた。千鶴は、濡れ髪姿で隊士たちに湯あみ場を用意して貰えたことに礼を言って頭を下げていた。最後に斎藤が合流すると、千鶴は笑顔で斎藤に礼を言って頭を下げた。
宿までの帰り道は、ほぼ半刻をかけて山道を登って帰った。途中、道が険しい場所で斎藤が千鶴を背負って行った。柔らかい千鶴は温かく、湯上りの髪から甘い香りが漂よっていた。同じ湯に浸かったのに、なにゆえこんなに良い匂いがするのだろう。ぼーっとした頭の中で、そんな事ばかり考えていた。
山の上に上がった時に、背中の千鶴は寝息をたてていた。
無理もない、連日早朝から夜遅くまで隊士の世話に明け暮れている。慣れない転陣が続く中、たった独りで。
そのまま宿の奥の間で、布団に寝かされた千鶴はあどけない表情のままぐっすりと眠りについていた。その顔は、平和で穏やかな様子で、今が戦中であることを全く感じないものだった。永く、このような千鶴を斎藤は目にしていなかったと改めて思った。
出来ればずっと雪村にはこのように居てもらいたい。
その額から濡れ髪を除けてやりながら、斎藤は優しく微笑んだ。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その15へ
(2019/12/11)