名告り

名告り

文久四年正月

 元旦の静かな朝。斎藤は、早朝の独り稽古の後、台所に立ち寄った。

 炊事場に立つ井上源三郎の後ろ姿が見えた。よい香りが充満している。井上は斎藤に気が付くと、膳を用意して板の間に置いた。

「斎藤君、先にお上がり。その間に客間の分を用意しているから」

 井上は、「後で、揃った時にまた雑煮を出すよ」と言って。鍋から斎藤に雑煮をよそって差し出した。斎藤は、手を併せてから手早く朝餉を済ませた。そして、井上が用意した膳に手拭を掛けたものを持ち上げると、井上に礼を言って立ち上がった。

「あ、ちょっと待っておいで」

 と云って、井上は水屋を開けてそこから蜜柑の入った丸い籠を取り出した。そして、斎藤の持っているお膳の上に蜜柑を一つ載せると、もう一つの蜜柑を斎藤の着物のたもとにそっと入れた。

「元旦だからね。この雑煮はお雅さんがご用意くださった」

 お雅というのは、新選組が宿所としている八木家の女主人。斎藤は、頷くとそのまま台所を出て廊下を母屋の外れの客間に向かって歩いて行った。中庭の端に面した小さな客間。斎藤は廊下から中に声を掛けた。

「朝餉を持って来た」

 中から、そっと障子が開いて元結を高く結った少女が頭を下げて挨拶した。

「おはようございます」

 鈴の鳴るような声で静かに会釈した者は、既に着物と袴に着替えている。斎藤は相手の前を通りすぎて部屋の中に入った。火鉢もない部屋は殺風景な様子で底冷えがする。斎藤は部屋の真ん中に膳を置いた。ここで少女が、食事を食べ終わるまで待ってから、また膳を下げる。客間に朝食を運ぶのが斎藤の役目だった。

 静かに食事をしている客人に半分背中を向けるように腰かけて、斎藤は静かに待った。頭の中で今朝の独り稽古を想い浮かべていた。半分眼を閉じるようにして精神を集中させる。静かな時間。

「あの」

 背後から声が聞こえた。斎藤は首だけを振り返るように声のする方を見た。少女はお椀を手にしたまま、伺うような表情で斎藤を見詰めていた。

「なんだ」

 斎藤が返事をすると、少女はお椀を両手で持ち直すようにして、斎藤に尋ねた。

「これは、京のお雑煮でしょうか」
「ああ、この家のご新造が用意してくれた」

「とても美味しいです」

 斎藤は黙ったまま頷いた。

「……白みそに」
「丸いお餅のお雑煮は初めてです」

 微笑みながら椀の中を見詰めながらそう呟いて、少女は食事を続けた。斎藤は再び前を向いて目を瞑って待った。

「あの……」

 背後からの声で眼を開けた斎藤は振り返った。膳から離れた少女が立ち上がり斎藤の傍に正座した。両手を合わせて斎藤に何かを差し出している。

「もし、よろしければ」

 小さな手の中には、懐紙の上に半分に割った蜜柑が載っていた。部屋の中には、柑橘のよい匂いが充満している。斎藤は、遠慮をして首を横に振った。

「あんたの分だ」
「わたしは半分頂きました」

 そう言って手を差し出したまま、斎藤と眼を合わさないように畳をじっと見ている。斎藤は蜜柑を受け取った。

「では有難く頂こう」

 そう言うと、膝の上に蜜柑を載せて静かに食べた。暫くすると、少女は「ご馳走様でした」と言って食事を終えた。斎藤は、立ち上がって膳を下げた。静かに座ったままの少女は、丁寧に会釈をして礼を云った。

 斎藤は、片手で膳を持つと、もう片方の手で袂から蜜柑を取り出した。

「さっきの礼だ。俺も同じものを源さんから貰った。後で食べるとよい」

 少女は差し出された蜜柑を見て、驚いたような表情をしている。それからゆっくりと斎藤のことを見上げた。初めて目を合わせた。大きな瞳だ。斎藤はそう思った。直ぐに相手は眼を逸らすように俯くと、深く頭を下げた。少女の小さな手に蜜柑を載せて、斎藤は膳を持って部屋を出ようとした。

「あの、」

 背後から声がした。

「わたし、新年のご挨拶をしていませんでした」

 すみません、といって頭を下げている。

「あの、……お名前を。教えてください」
「斎藤一だ」

 斎藤さん。呟くように小さな声で繰り返したのが聞こえた。

「斎藤さん、明けましておめでとうございます」

 綺麗に両手をついて、丁寧に挨拶をする少女に、「ああ」と斎藤は、返した。

「雪村千鶴と申します。本年もよろしくお願いいたします」

 雪村千鶴。斎藤は心の中で、その名を繰り返した。このように……。新年の挨拶をするのを礼儀と心得ているのだな、と心中で思った。斎藤は膳を持ったまま、ただ会釈だけをした。

「お蜜柑ありがとうございました」

「礼はよい」

 斎藤はそう言って障子を閉めた。そのまま膳を返しに台所へ向かった。幹部の食事は広間に並べられていて、皆が集まり始めていた。斎藤は、再び雑煮だけが載った膳の前に座って、新年の挨拶の後、皆と一緒に食事をした。

 さっきまでの静けさとは違い、広間では、出された雑煮が江戸前とは違うと皆が大騒ぎしている。局長の近藤は、「折角、八木のご新造がご用意くださったものだ」と言って、文句を言っている幹部を諫めた。平助も新八も、「江戸で食べていた鰹のすまし汁に四角い焼き餅が入った雑煮を食べないと、正月が来た気がしねえよな」と引き下がらない。

 斎藤は、さっき客間に雑煮を持っていった事を思い出していた。あの者も江戸前の雑煮を恋しいと思っているのだろうか。

「そういやあ、客間の。鋼道さんの娘だけどさ」
「よっぽど、オレ等の事が怖いのか。食事持っていっても。ずーっと黙ったまんま」
「俺は、監視っていっても廊下に座ってるだけだ」
「飯食ってるときまで、見張る必要はねえよ」
「名前なんだたっけ」
「……ゆきむら、なんだ」
「あれ、なんだっけ、オレも度忘れしちまった」

「雪村千鶴だ」

 斎藤が答えた。皆が一斉に斎藤を見た。「そうだ、ちづるだ」と平助が繰り返している。

「へえ、下の名前知ってんだ。はじめくん」

 皆が意外そうに斎藤のことを見ていた。斎藤は黙ったまま食事を終えて、膳を下げると自室に向かった。隊服を羽織って巡察に出る準備をした時、ふと袂の中から、懐紙の包みが出て来た。朝に客間で食べた蜜柑の皮が包んである。ふわっと広がる柑橘の香りに、斎藤は客間で見た雪村千鶴の微笑んだ顔と互いに名乗りあった事を思い出した。

「斎藤さん」と自分の名を呼んだ声。

 鈴の鳴る様な。

 そんな風に思いながら斎藤は微笑みを浮かべると、部屋を出て巡察に向かった。






(2020/01/01)

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