水泡に帰す

水泡に帰す

大股開き その7

文久二年十月

 土方さんが江戸に滞在する間、一緒に伝馬の道場へ稽古に出た。

 早朝から握り飯を持って出かけ、夕方まで稽古をつける。土方さんは家業の薬の行商も兼ねているので、稽古は三日に一度。土方さんが居ない日は、自分は総司と上野の練兵館に向かった。

「毎日、早朝から夕方までの出稽古はきついでしょ、はじめくん」
「いや、伝馬へは甲良屋敷に出向くのと変わらん」
「ふーん」
「ゆうべ、久しぶりに近藤先生に会った」

 総司は隣を歩きながら嬉しそうに話す。

「連日昼四つからずっと考査を受けて、終わるのは暮れ六つだって」

 総司は道場主の近藤先生が幕府管轄の「講武所」で受けている登用考査の話をしていた。先生は、講武所の剣術指南役になることを目指している。考査に受かれば、晴れて幕府公用人として仕えることになる。先生は試衛館の道場主として帯刀が許されているが、元は農家の出自で士分ではない。本物の武士として身分を認められる「指南役」は近藤先生の長年の夢であった。

「先生、修学は精一杯やったから思い残すことはないって」
「残りは実技。講武所指南掛と仕合う」
「剣術や体術であれば、」

 自分がそう言おうとしたら、「まったく問題ないよ」と総司は遮った。総司は、さっき通った脇道に生えていた芒の穂をいつの間にか右手に持っていた。それを振り回すように歩いている。自分は総司の言う通りだと思った。総司の話では、江戸市中の名だたる道場の師範代が指南役候補にあがっているらしく、その殆どが総司や自分と年の変わらぬ若年。近藤先生は、既に指南役として勤めている役人より年配だということだった。自分は先生が指南役になったら、己は老輩だと大らかに笑う姿を想像した。近藤さんなら、なんら問題はなかろう。

「伊庭君も下谷の道場を代表してるっていうから」
「あの子が相手なら、先生はなんの問題もないね」

 総司が話す伊庭八郎は、下谷練武館の心形刀流宗家の嫡男。歳は総司や自分と変わらぬ。伊庭とは、試衛場で何度か手合わせをしたことがある。長身で手足が長い伊庭は、総司同様、相手との間合いにおいて優利な剣士だ。いつも上段から攻めて来る。その上背の高さから、自分はどうしても伊庭の構えを総司と比べてしまう。総司と違って、伊庭の剣先は身体と並行するように下りて、間合いを遮る。いつも斜め上から降り下りてくる剣先を避ける必要があった。

「竹刀しか使えない。あの子の剣は、打ち合うには弱い」

 総司はまるで目の前に八郎が立っているかのように、芒の穂で斬りかかった。

「あんな子に負けないよ。先生は絶対」

 総司は、再び芒を青眼に構えるようにもって、上段から真っ直ぐ振り下ろした。真剣な表情。芒の穂は空を鋭く斬った。

「先生の相手じゃないね」

 総司は道端に芒を投げると、肩の荷物を抱え直して急に走りだした。「道場まで競争だよ」と言って、どんどんと先を行く。自分も一緒に駆けだした。

 

****

葱間の土方

 翌日は、土方さんと伝馬で稽古だった。帰りにいつものように神田を通った時、土方さんがこっちだといつもと違う通りに自分を誘った。狭い路地裏に見えたのは、縄のれんの煮売り屋。辺りは、煮物のいい匂いがしていた。昼間に握り飯を食べただけの自分は、相当腹が減っていた。

「ねぎま、食ったことがあるか?」

 自分は首を横に振った。土方さんに連れられて入った店は、小さな土間に机と樽を逆さにした上に、薄い座布が載った椅子が並べらえていて、土方さんは馴染みの様子で店主に挨拶すると、自分を奥の台の前に座らせた。給仕の女が、自分たちの前に小さな七輪を置いた。炭が炊かれた七輪は温かく、土方さんは夕方の冷え込みで冷たくなった手をかざして擦りあわせている。

「下々のもんしか食わねえ代物だ。鮪って魚、食ったことあるか」
「赤身だ」
「いえ」
「上総に行商に出た時に、俺は刺身で食ったことがある」
「見た目は、血の色でびっくりするが、食べるとうめえ」
「でけえ魚だ。一匹百貫もある」
「漁師が、船から降ろした浜で、でかい魚を鉈で叩き斬っているのを見たことがあってな」
「ありゃあ、刀の試し切りってもんじゃあねえ」

 自分は、一畳分ぐらいの大きな魚の頭を鉈で切り落とすさまを想像した。黙っている自分に、土方さんは「冗談だと思っているだろう」と笑っている。すると、自分たちの背後から給仕が鍋を持って来た。

 鍋の中にはぎっしりと大きな赤身が詰まっていて、間に焼いた葱のぶつ切りが挟まっている。徳利の出汁を流しこんで火にかけた。物凄くいい匂いがしている。

「山口。お前、酒はいけるな」

 自分は頷いた。翌日も稽古だが、練兵館であれば家の近くだ。今夜酒を飲んでも問題はなかろう。普段、酒を飲まない土方さんが珍しく呑もうと誘って来た。よほど「ねぎま」は酒と合うのだろう。間もなく、ぐつぐつと音を立てて鍋が煮え始めた。土方さんに「食え」と言われて、自分は魚と葱を皿にとって食べた。

 旨い、うますぎる。

 酒も進む。あっという間に「ねぎま」はなくなった。そこへ店主が笊に載った蕎麦を持って来た。黒い十割の太く刻まれた蕎麦を鍋にいれると、主人は小口葱と山葵の載った小皿を置いていった。

「さっと、汁にくぐらせるだけでいい」

 土方さんに言われて、蕎麦を器にとってすすった。旨い、うますぎる。葱と山葵をいれて、汁もすくって蕎麦を食べた。これはうまい。

「葱間は、俺の好物だ。この店の鍋が江戸で一番美味い」
「味醂と醤油が甘辛くて、蕎麦に合うだろう」

 自分は頷きながら、黙々と食べた。土方さんは、「食いっぷりがいいな」と嬉しそうに自分を見て笑っていた。

 お腹が膨れて、ほろ酔いのまま店を出た。外は新月で真っ暗だった。簡易提灯を下げてお堀端をずっと歩いて帰った。暗い中で、自分たちの草履の音だけがしている。

「明日は、練兵館か」
「はい」
「練兵館に行けるお前はいいな」

 土方さんは前を見ながら歩いている。そうか、土方さんは練兵館に出入りができない。初めて気が付いた。土方さんは士分ではない。市中の大きな道場は士分以外の門人をとらず、他道場の門弟も出入りが許されていない。土方さんが稽古をつけている伝馬の道場は幕府が免許を置かない私設の道場だった。土方さんは甲良屋敷の試衛場には、特別に出入りが許されていた。日野宿の佐藤彦五郎の義弟ということもあるだろう。普段より自分は大小を腰に差しているが、土方さんは帯刀も許されていない。自分は土方さんに返す言葉がなかった。土方さんほどの腕があれば、練兵館での手合わせはきっと活気のあるものになるだろう。

(この人は教えるのが大層上手いのに……)

 そんな風に思いながら、提灯の灯に浮かび上がる土方さんの横顔を見ていると、土方さんは近藤の話を始めた。

「近藤さんが、講武所の指南役になれば。あの人は本物の武士になる」
「幕府に出仕する。真の武士だ」
「剣の腕一本でな」
「てえしたもんだ」

 土方さんは、まるで自分の事のように近藤先生が指南役になることを願っているようだった。確かに、道場主が講武所で教えることになると、それだけで甲羅町の道場は名を上げることになる。当然、門人も増えるだろう。出稽古に呼ばれる機会も自ずと多くなる。食客として稽古をつけている門人や自分のように通いで出稽古にでている者も今よりもっと忙しくなる。春から試衛場に通い始めて、とても充実している。これからもっともっとそうなるだろう。稽古をしよう。土方さんとも、今よりもっと。

 互いに決心を言葉にすることはなかったが、その夜は、二人でこれからも剣術に精進しようと誓いあったような気がした。

 

******

 忙しく十月が過ぎ、冷え込みが続くようになった。

 甲良屋敷の試衛場で昼間に稽古をつけて一休みしていたら、外から新八が帰って来た。いつになく、ちゃんと長着に袴羽織、髭も綺麗にあたってさっぱりした様子だった。「ちょっといいか」と新八に呼ばれて、平助と一緒に道場の廊下の外に出た。

「残念な報せだ」
「今、練兵館の知り合いに会って来た。近藤さん、駄目だってよ」
「駄目って、講武所かよ」
「ああ。今回受かったのはたったの二名だ」
「玉ヶ池から師範代の奴が一人、練武館から伊庭八郎が決まったそうだ」
「へえ、八郎かあ……。すげえなあ」

 平助が呟いた。玉ヶ池は北辰一刀流の玄武館で、平助が交流している道場だった。指南役の内定候補は全部で七名いたという。新八は、「狭き門だった」と試衛場の道場主である近藤先生が登用されなかったことを残念がった。自分は急に力が抜けた。胸の辺りに暗い影が差した。あれほど、力を尽くされていた近藤さんが。講武所への道を断たれた事が残念でならない。斎藤は、目を輝かせて指南役への抱負を語る先生の顔を思い出した。総司や土方さんが、本気で応援していた事も。

「あとで、近藤さんが戻ったら。皆を集めて話すだろう」
「これが最後ってわけじゃない」
「また来年、機会があるかもしれん」
「最近は、攘夷だの尊王だのと騒いで、市中で斬り合う輩もいる」
「御上が、市中取り締まりに。腕の立つ者を集めることになるだろう」

 ——俺たちの出番だ。剣を振るって、市中を守らねえとな。

 新八は上野界隈の道場の門人に顔が利く。もともと上士身分で、剣の腕の立つ新八は幕府役人や旗本奉行などから、市中治安の悪化を耳にしていた。情報通の新八から、剣の使い手を御上が集めるかもしれないと聞いて、少しは希望が持てた。どれだけ、己の剣が通用するのかはわからぬ。だが、御家人としての出仕の道がない自分には、もし将来、御上が取締役として剣を振るう自分のような者を用立てるのならば。それは願ったり叶ったりだと思った。

 新八から聞いた話で、少し元気がでた。午後の稽古をつけて夕方に帰る支度をしていると、先生と総司が戻って来た。総司は、無表情なまま、「近藤先生が、みんなに広間に集まるようにって」と道場の皆を呼びにきた。そして先生から、直接講武所指南役に選ばれなかったと報告があった。先生は、結果を出せなかったことを詫びた。そして考査まで道場を長く留守にしていた間、門人ひとりひとりが多大に協力してくれたことに大変感謝しているといって、皆に頭を下げて礼を云った。

「明日からは、今まで通り稽古に一層励むつもりだ。よろしく頼む」

 先生は笑顔を見せているが、その目はどこか光を失くしたように見えた。

 その日は、遅くなってから道場を後にした。簡易提灯を用意して、門まで総司が送り出てきた。総司はずっと無口だ。自分は総司が心底悔しがっているのをひしひしと感じていた。

「明日は、直接練兵館に向かうよ」
「ああ、午後もだな」
「そっか、それなら握り飯つくらないと」

 総司は、裏通りの先生宅へ握り飯を頼みに行くといって道の反対側に消えていった。自分も通りに向かって、家路を急いだ。

 

 

*****

上野での稽古

 翌日は総司と上野練兵館で朝から稽古に出た。

 総司は、いつになく厳しい様子で、少しでも動きがだれている者がいると竹刀で脛や二の腕を叩いた。総司は出稽古では、荒々しい態度を見せることはない。特に練兵館では近藤先生から振る舞いには気をつけるようにと云われているらしく、模範的な稽古をつける。だが、今日は違った。総司は苛立った様子で、次々に手合わせをしては、相手を打ち負かしていった。

井戸端で汗を流しているときに、総司は「多摩に戻った土方さんから近藤先生宛に文が届いた」と呟いた。

 講武所の件
 登用叶わず残念至極候
 貴兄の努力必須結実願奉候

「誰が一番、残念がってるかって。近藤先生だよ」

 総司は吐きだすように声を荒げた。土方さんからの文にも腹を立てているのか。自分は総司が理解できない。そのまま何も喋らなくなった総司と身支度をしてから練兵館を出た。通りに出た所で、新八と平助、左之助が一緒に居た。

「よ、もう稽古は終わったか」

 左之助が手招きをするのに付いて行くと、そのまま広小路の燕湯に向かって行った。辺りは暗くなってきた。陽が随分と短くなったものだ。新八が、皆で湯に浸かってから、一緒に呑もうと言って着ているものをさっさと脱いで、湯殿の入り口をくぐって行った。中は混んでいた。総司は早速洗い場で、身体を熱心に洗い始めた。平助たちは、先に湯船に浸かっている。

「あー、気持ちいい」
「今日の稽古は、二十人と打ち合った」

 新八たちの声が聞こえていた。桶が床にあたる音が響いて、何か騒がしい声が聞こえた。振り返ると、大男が大勢で入口から入って来るのが見えた。髷の様子から士分であることが判った。背後で、ざあざあと掛け湯をする音がして、桶がやたらと床に当たって騒がしい。自分は身体を流しながら、背後の様子が気になっていた。総司は、全く素知らぬ顔をして、髷を解いた頭からお湯を被っている。

 大男たちが湯船に飛び込む音が聞こえた。随分と横柄な振る舞いだ。横目で伺っていると、湯船の周りにいた町人たちは、さっさと手拭と桶を抱えて逃げるように湯殿から出て行った。湯気の向こうで、平助が立ち上がったのが見えた。

「おまえら、いい加減にしろよな」

 斎藤が振り返った時、湯船の傍で大男に突き飛ばされた小さな男が尻もちをついていた。腕が反対側に捻られた男は悲鳴をあげて、「すみません、どうかおゆるしを」と懇願している。客同士の小競り合いか。そう思った時に、湯船から左之助が立ち上がって、小男の腕をねじっている大男の腕を掴むと、「やめねえか」と言って、思い切り拳骨で大男の顔を殴った。自分は、桶を持って立ち上がった。総司は、すでに自分の桶を持って、湯船に突進すると、桶の底から短刀を外して、湯船に立ち上がった大男の一人の首を背後から撃ちつけた。

 自分が湯船に駆け付けた時、新八は、もう一人の男を正面から湯船の中に頭を押さえて沈めていた。平助は、湯船から飛び出ると、壁の上に載せてあった風呂蓋を持って振り回している。大男が二人、平助に襲い掛かろうとすると。平助はそれをすり抜けて、かけ湯の大きな桶の縁に登ると、そこから思い切り飛び上がって、大男に盛大な蹴りを入れた。

「おらーーー、もう一丁だ」

 平助は、もう一人の男の腹に思い切り足の裏で蹴りを入れると、相手はそのまま無様に吹き飛ばされるように尻もちをついた。丁度、背後に立っていた新八が風呂蓋を思い切り振り落として脳天を叩くと、男は「ぐぎゃ」という奇声を上げて床に伸びた。

 自分は、恐ろしく俊敏な相手が振り回す桶を除けながら下がり、持っていた風呂桶から短い木刀を掴んだ。そのまま床を滑るように進んで、相手の胴を思い切り打った。振り返り様に相手の背中を肘で突いて倒した後、首の後ろを突いて気絶させた。総司が、湯殿の壁から棹のような棒を見つけて左之助に投げたのが見えた。長物を手にした左之助は、勢いよく身体の周りで振り回してから、いつものように構えた。

「痛い思いをしたい奴は、かかって来い」

 そう言って、余裕の表情で相手を睨んでいる。風呂蓋を持った一番大きな男が左之助に向かっていった。左之助は、板を棹で受けると軽々と押し返し、その勢いで振り下げた棹の裾で相手の股間を思い切り掬うように叩き上げた。相手はうめき声を開けて蹲り、そのまま態勢を崩して倒れた。左之助は相手の脛を打って動きを完全に制圧した。棹をくるくると頭の上で回してから、床の上に打ち立てるように持つと、床の上に伸びている大男全員に向かって、「どこの道場の奴だ」と叫んだ。

「こいつら、馬庭念流道場の奴らだ」
「この界隈じゃ、鼻つまみものばかりが集まってる」

 平助がそう言って、湯殿の外に伸びている男たちを運びだすように声をかけに走った。左之助たちは、道具を片付けがてら洗い場で身体を流していた。総司は、手拭を持って湯船に浸かって自分の方を見た。

「はじめくん、桶に仕込み剣用意してたんだね」

 総司は湯を掬って顔にかけると両腕を伸ばして湯船の縁にかけてふんぞり返った。自分もゆっくりと湯船に浸かった。気持ちがいい。狼藉者を成敗した事、借り桶をしたことが役立てた事、仕込み剣をうまく使えた事、全てに満足していた。総司も満足そうな表情で微笑んでいる。朝からずっと不機嫌な様子だった総司は、風呂場の乱闘で憂さ晴らしをしたようだ。それから皆で湯から上がった。新八たちに誘われて、総司と一緒に吉原に向かった。仲見世を冷やかしながら歩いていると。「せっかく五人揃ったんだ」と言って、新八が茶屋へ上がろうと言い出した。

「俺も左之も、懐はあったけえぞ。賭場の働きで実入りがあった」

 新八は用心棒で稼いだ金がたんまりあるから、今夜は豪奢に遊ぼうという。自分は、茶屋で酒を飲んで帰ろうと思っていた。


*****

何件目かの見世を覗いた時に、ふと格子の向こうの奥に独りだけ物憂げに座っている女が見えた。騒がしく格子の傍で呼びかける女たちの向こうにいる女は、小さな顔をこっちに向けているが、どこか目線は遠くを見ているようだった。 黒目勝ちの瞳は大きくて、ぼんやりとした灯の傍できらきらと輝いている。一体、どこをみているのだ。自分は隣の総司を見た。総司も格子の向こうの女を見ているようだった。
 平助も新八も、女の札をとって既に茶屋の女将に話をつけていたらしく、早速茶屋に上がることになった。ふと前を歩く総司が手に札を持っているのが見えた。女を買うのか。自分は内心驚いた。
 そのまま茶屋に上がって、酒を飲んだ。乾杯した途端、平助がのべつ幕無しに湯屋での乱闘のことを再現して、自分でげらげらと笑っている。
「そこで、かけ湯の桶に登って、そこからオレのお天狗蹴りだ」
「左之さんなんか、棹を振り回しながら、でかちんも振り回して、なっ」
「あいつら、あんなに身体はでかいのに、あそこはこんなだぜ」
そう言って、平助は指で小さな輪っかをつくるように見せては、またげらげらと大笑いした。
「総司、山口も。あんな仕込み剣。いつの間に用意してたんだ」
「あれ? 燕湯の大将が桶屋の親父と幼馴染で。塗り桶と仕込み剣を作ってもらってる」
「あの界隈。昔から剣術道場同士の喧嘩が絶えないんだって」
「はじめくんも、短剣とお天狗振り回してたもんな」
 平助は、箸を短剣のように持って自分の動きを再現してみせた。考えてみると、短剣や桶だけで何も身に纏わぬまま打ち合うのは初めての経験だった。仕込み剣を持っていたのは運が良かった。そんな事を考えていたら、襖が開いて、女たちが入って来た。自分は最後に部屋に入って来た女を見て驚いた。さっきの黒目の女だった。
 女はどこかぼんやりとした風情で、自分と総司の前に座った。総司が杯を持つと、ゆっくりと近づいて酌をした。女は自分にも酌をした。総司はじっと女を見詰めたまま杯に口をつけている。自分は不思議な気がした。総司と廓へ上がるのは初めてではないが、総司がこんな風に女を決めている姿を初めて見た。いつも、女を呼ぼうとはせず、適当に時間を過ごして一通り酒を飲むと、さっと腰を上げて帰ってしまう。仲を冷やかして歩いても、女を買うことはない。そんな総司が、今夜はこのまま奥に行く様子だった。
 平助や新八が早々に相方と奥座敷へ向かおうとしていると、ふと総司は立ち上がった。厠にでも行くのかと自分は思ったが、総司は新八たちに「今夜は先に帰るから」と挨拶をした。自分は驚いた。てっきり、総司は朝までここで過ごしてから、左之助たちと甲良屋敷まで戻ると思っていたからだ。
「なんだ、総司。もう帰るのか」
 新八が奥に向かいながら振り返って訊ねたが、頷いた総司に「おう、じゃあ気を付けてな」と声をかけて奥座敷に消えていった。自分は総司と一緒に帰ろうかと思った。その時、総司が、そっと顔を近づけて耳打ちしてきた。
 ——その子、気に入ってんでしょ。お楽しみに。
 自分は驚いた。目の前の女は、ぼんやりと遠くを見るような目でこちらを見ている。総司が選んだ女が俺の相方に。鳩尾のあたりがひっくり返るような持ち上がるような奇妙な感覚がした。「むらさき」というその女は、まだ留袖新造上がりのあどけない様子の遊女だった。
 遣りて女に呼ばれた女について、そのまま奥座敷へ向かった。二人きりで向かい合って座って、膳の上の酒を飲んだ。三杯目の杯を空けると、女はそっと自分の手から杯をとって膳に戻した。相変わらず、どこか遠くを見る視線に、自分は後ろを振り返って女がどこを見ているのかを確かめた。顔を前に戻すと、女の顔が目の前にあった。驚く間もなく、女は自分の胸にそっと頬を寄せてしな垂れかかってきた。そのまま腕を伸ばして女を抱き寄せた。小さな肩だ。伏見の睫毛と小さな小鼻、紅を塗った唇が見えた。幼い顔だち。そんな事を思った。だが、もう既に自分の中に欲情が起きている事に気づいていた。
 女と褥で事に及んだ。腕に抱いてみて、女の瞳はじっと自分を見詰めていることがよく解った。見世の格子の向こうに見えた、何処か焦点が合わないような視線。綺麗な黒い瞳。ずっと繰り返し思い出しながら、女の肌に触れていた。小さな肢体はどこか儚くて。壊してしまうのではないかと思うとあまり無体はできなかった。それでも情は抑えきれずに何度か欲をぶつけて果てた後、そっと女から身を離した。褥の中で横になる女は、無表情なままじっとこっちを見ている。近くで見つめるとやっと目線があうような、不思議な感覚を思っている内に、いつの間にか明け方まで寝入ってしまった。
 外からの朝の光が座敷に入る頃、ようやくそれぞれの奥座敷から出て来た平助達と朝餉に茶漬けを食べてから、吉原を後にした。浅草から上野を通って本郷に向かう道すがら、新八が、試衛場が沈み込んでいて、気が滅入ると漏らした。近藤先生の講武所指南役落選は、思った以上に暗い影を先生自身に落としているらしく、総司も同じぐらい沈み込んでいるという。
「せっかく、馬庭念流のやつらと渡り合って、勝ってすっきりして。そのあとの仲なのにな」
「総司は、昔から吉原で遊ぶのは好きじゃない」
「でもさ、ゆうべのあの格子の娘。紫だっけ。すっげえ気に入ってたじゃん」
「オレ、だいたい総司の好みは判る」
「総司は、客引きする女は気に入らねえからな」
「そうそう、後ろに引っ込んでる、誰も見向きもしないような子をわざわざ選ぶ」
「いつだったっけ。近藤さんが座敷に呼んだお囃子の半玉が可愛いって」
「総司が、気に入るってよっぽどだからって、近藤先生も馴染みにしてもいいって言い出して」
「そんな事もあったな」
「総司は、おんなには気難しいとこがあるのかもな」

 左之助たちが総司の気に入った女の話で盛り上がるのを自分はただ黙って聞いていた。総司は何故、気に入った女を俺の相方にしたのだろう。譲られたのか。そんな風に思った。だが、近藤さんが沈み込んでいるのなら、総司はきっと先生の事が心配でゆうべは甲良屋敷に帰ったのだろうと思った。



つづく

 

→次話 大股開き その8


(2019/01/06)

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