ブログ【小説あとがき】果し合いの末

ブログ【小説あとがき】果し合いの末

皆さん、こんにちは。

寒の入りですね。暖冬と言われていますが、風邪など引かずに、お元気にお過ごしでしょうか。

大股開きの最終話「果し合いの末」をアップしました。「光明と韜晦」の続きです。

書き始めてから、間が開く事が多かったシリーズに、長い間お付き合い頂いてありがとうございます。

以下小説のあとがきになります。ネタバレも含むのでご注意ください。

新選組の記録の中で、「斎藤一」の名前が見られるのは、壬生浪士の洛中残留の嘆願書です。斎藤さんの入隊の経緯は明らかにされておらず、壬生村に滞留していた浪士が京に残留することになった頃の最初期の名簿に幹部として「斎藤一」と記されています。「山口二郎」という名前はずっと後の油小路の変が起きた後まで出て来ません。

上洛のタイミングは、近藤さん達試衛館道場門人とは別であったことは判っています。薄桜鬼の物語には、あまり反映されていませんが、斎藤さんの実家の山口家と永倉新八さんとは江戸に居た頃から家族ぐるみで付き合いがあったと伝わっています。斎藤さんは「無外流居合道」を身に付けていたことは知られています。江戸で学んだ流派は「一刀流」と伝わっていて。流派は異なりますが、神道無念流の永倉さんと一緒に試衛場に出入りをしていたのではと言われています。

黎明録では、斎藤さんが浪士組に合流後、流派の付き合いで永倉さんは「芹沢鴨粛清」に反対の立場、一方斎藤さんは、それを見越して永倉さんが芹沢さんを助けに向かうのを止める役目に廻ります。江戸に居た頃から斎藤さんと永倉さんは古い付き合い(おそらく剣術も通して)があることがゲーム内で触れられていないので、二人の対峙は思ったほど説得力がないのが残念です。お互いにどれだけ強いかをよく知っている。もう少し踏み込んだ「江戸の頃の永倉さんと斎藤さんの繋がり」の説明があれば、二人の斬り合う場面の心理描写は凄まじいものになって、もっと印象的になったのに。少し残念に思います。

といいつつ、私も自分の描く小説では斎藤さんと永倉さんの結びつきについては、あまりちゃんと書けていないです。斎藤さんと沖田さんの仲の良さ(剣術での相性を含む)ばかりを書いています。反省。特に永倉さんと斎藤さんが江戸で家族ぐるみで育っていたという部分は、なかなか自分の中での薄桜鬼の物語では触れにくくて、大股開きでも省いてしまいました。他の幹部は書いたのに、永倉さんエピソードは欠落しているのが自分でもちょっと残念です。

藤田五郎のご子孫の藤田實さんが雑誌に寄稿された「我が祖父 斎藤一」によると、斎藤さんが江戸を離れた理由は、「十代の終わり頃に、ちょっとしたことで意見の違いから人を斬りまして」と藤田家では、そう伝え聞いていると書かれています。小説では旗本の次男との「果し合い」としましたが、実際は突発的な事故のような状況だったのではと推測されます。

「果し合い」は、御上が認めていた「仇討ち」とは違い、事前の届け出で行われることはないものでした。(幕末においても、表向き私闘は全て禁止とされていました)。一方武士が無礼に対して「手討ち」をすることは特権として認められていて、無礼の理由が証明できればお咎めなしとされました。これは、無礼とされた行動が引き起こされ、その場でのお手討ちであればOK。ずっと間があいた後の「手討ち」は罪を問われました。この時間をおいてからは駄目というのが、現代の感覚では理解しにくいですね。司法の観点でみると、本当に時代の違いが否めません。

橋本信三郎が斎藤さんに「手討ち」として果し合いを申し込んだのは、最初の道場での敗北から一年以上が経過しているので、厳密には私恨であり、「慮外手討ち」とは認められないとも言えます。斎藤さんが証人をたてて決闘に挑み、事後に奉行所に訴えれば、もしかするとお咎めはなかったかもしれません。正式な仇討ちでは、最後の一手は決めない(とどめを刺さない)のが流儀とされていました。殺さずに勝負を決すことが出来ました。斎藤さんの目算では、それが「事を片付ける」やり方だと思っていたと思います。綺麗な勝負を目指して、斎藤さんは最後まで「峰」で留めることに徹しています。それでも、闘いの流れの中で自分の意思で刀を真剣に持ち変えて「斬った」瞬間。

薄桜鬼黎明録では、「人を斬った」経験の有無で、剣の太刀筋や武士としての「度胸」や精神性が変わってくるというような事を芹沢さんや、総司君の言動であらわしている部分があります。太平の世で、腰に大小を差していても、本当に斬り合うということがなかった当時の武士にとって、幕末の京市中でテロリストを相手に取り締まるという役回りは特殊だったといえます。

「真剣勝負」や「真剣での斬り合い」について、池波正太郎さんがご自身のエッセイ「江戸切絵図散歩」の中で、幕末に生きた曾祖母から聞いた本物の侍同士の斬り合いの話を書いています。池波さんの曾祖母は水戸松平家の藩屋敷(現小石川後楽園のあった場所)で侍女として奉公していて。上野戦争勃発時、屋敷の庭に彰義隊の隊士が官軍に追いかけられて逃げ込んで来たのを目撃した話を、幼い池波氏に語ってきかせたそうで。抜粋を以下に。

曾祖母はチャンバラ映画を見ると「ちがうちがう」としきりに首を振って、

「塚原卜伝のような名人ならともかく、普通の侍の斬り合いはあんなもんじゃないよ、よく覚えておおき」

そう言って、彰義隊と官軍の兵士の一騎打ちを見た時の話をして。兵士二人は刀を構えて、長い間睨み合ったまま動かなくなってしまったという。それは気が遠くなるほどに長い長い時間だったそうな。そのうちに、ちょっと動いたとおもったら。官軍の兵士が、

「大きな口を開けたと思ったら……」そのままうつ伏せに倒れてしまった。

池波さんは祖母の話が半分だとしても、おそらく侍同士の真剣の斬り合いはそうだったのだろうと書いています。間合いや真剣の切れ具合は本当に鋭く、居合で急所を狙えば一撃で倒れたのでしょう。実際、居合の袈裟懸けは肩下の頸椎から鳩尾(水月)を一気に斬り裂きます。大きな神経系、痛点を斬られるので、動けなくなる。振りかぶりの二刀目で喉を斬れば絶命、心臓を突けばとどめを刺せます。間合いも、居合は(鞘に刀を納めた状態から)相手が撃って出て来た時に(相手の刀一本分の距離を)引いた状態で抜刀する勢いで斬るので、相手の動きが早く強ければ強いほど、己の剣の威力はそのまま相手の肉や骨、腱に跳ね返る。決まると物凄いダメージを与えます。どれだけ真っ直ぐに刀の刃先を維持できるかが日々の鍛錬で培われます。抜刀時の剣先の動きは、0.000ミリの違いまで相手によって調整できるぐらいに訓練する。斎藤さんもそんな稽古を日々していたと思います。

小説での決闘の話に戻りますが、道場での勝負に負けた恨みで私闘に挑み、結果斬られて絶命したことは、橋本家にとって恥ずべき事実だったとも思えます。残された遺族は、表沙汰にはしたくないという思いがあったかもしれません。それでも、幕臣(部屋住み士官が決まっていた橋本)を失った幕府は、訴えがあれば取り調べをすることは明らかであり、身分の違う山口家はお取り潰しとなることも大いに考えられます。この頃の身分制度から考えると、圧倒的に山口家は不利です。生き残った橋本新三郎の取り巻きが「仇討ち」をしてくることも考えられます。斎藤さんの父親が斎藤さんを勘当する事も考えられます。薄桜鬼の斎藤さんは、戊辰戦争の頃(華の章)で寄る辺のない身だと自分のことを話しています。江戸に戻っても帰る家がないと千鶴ちゃんに話すのは、こういった経緯からかなとも思いました。

山口一の父親(右介)が、「勘当」を装って江戸から斎藤さんを逃がした事は、「武士の体面上」は卑怯な事ともとらえられます。「葉隠」にあるような、武士の生き方として己の期し方に「正しい判断をすることを心得」としていたとして。この状況で自ら命を絶つのは、犬死と言い切った斎藤さんの父親の真意は、この時点では19歳のはじめ君は理解していないかもしれません。江戸を逃れ刀をとって生きることで、斎藤さんは新たな人生の一歩を踏み出します。

南品川 境橋 画面右上が貴船明神 (江戸名所図より)

この果し合いがなければ、山口一は浪士御集として年明けに上洛していた筈。名前を変えることもなく新選組幹部助勤「山口一」として歴史に名前を残していたかもしれません。そう思うと非常に数奇な運命です。

酒匂川の徒歩渡し(東海道の難所のひとつ。冬季は仮橋を渡していたそう)

小説「大股開き」では、江戸を追われた斎藤さんは、混乱して鬱憤としているまま。道中、親切な人々との出会いで、スムーズに小田原宿手前まで進んだところで終わっています。昔は川を「渡し」で渡っていました。この川渡りを一種通過儀礼めいたもののように。今は六郷も酒匂川も「渡しの碑」が建っているだけですが、現代でも川を渡ると、一歩別の地域(世界)に移る。特に西に向かうと、どんどん江戸(東京)から離れる感覚は強く、嫌が応でも独り立ちせざるを得なかった斎藤さんの立場と重なります。

元旦の朝に、大きな一歩を踏み始めたはじめ君。この日はちょうど生まれてかぞえ二十年目の誕生日です。本人は全くそれを意識をしていません。己の剣を振るう意味を自問自答しながら街道を西へ上っていきます。

ただいま番外編を構想中。最終話の少し気持ちが吹っ切れた様子の斎藤さんが数か月の後に壬生村に現れるまでのエピソードになります。黎明録の最初の斎藤さんに、繋がるように描きたい。自分の中で、納得のいく形で物語が語られるように頑張ります。

長々と書きました。お付き合い下さって本当にありがとうございました。

ちよろず

追伸:ブログトップ画像は、六郷の渡し(歌川広重 画)
多摩川を超えて、向こう岸は川崎です。現在は東京都と神奈川県の境界。対岸の木々の向こう遠くに富士が見えて居ます。
斎藤さんの母親が見送った風景はこんな感じだったと思います。本郷から六郷までは早籠で数時間はかかる距離です。

 

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