是が非でも(前編)

是が非でも(前編)

FRAGMENTS冬 14

 駅前の通りを緑のロードバイクが勢いよく駆け抜けて行く。

「よっ、ちーづる」

 突然背後から声を掛けられた。千鶴が買い物バッグを庇うように振り返えると、平助が滑り込むように目の前で自転車を停めた。大きな道具袋を斜め掛けで背負っている。

「買い物?」
「うん、スーパーに。これから道場?」
「夕方まで相馬たちと稽古だ」
「今日、はじめさんたちも道場に?」
「ああ、たぶんな」
「赤坂のジムに行ってなければ、道場じゃねえの」
「そう」

 千鶴はそれから黙ったままだった。平助の顔を見ているようでいて、どこか焦点が合わない視線。いつもの千鶴とは違って、真顔のままじっと立っている。

「どうかした?」
「ちづる」

 何度か声を掛けられて、やっと千鶴は気がついたように平助の眼を見た。

「わたしも、少しだけ道場に行きたい」
「そんなら一緒に行くか」

 平助はそう言うと、自転車から下りて千鶴の荷物を前の荷台に載せた。暫く自転車を押して歩いたが、時間がないからと言って、千鶴をトップチューブに横向きに座らせると一気にペダルをこいで道場まで走って行った。

 道場に着くと、小学生が稽古をしていた。千鶴は斎藤の姿を探したが見当たらず、広間を確認しようと廊下に出た。ちょうど着替えを済ませた相馬が更衣室から出て来た。元気よく挨拶した相馬は、千鶴がキョロキョロと辺りを見回している姿を見て、その不安そうな表情を訝った。

「先輩、何か?」

 相馬は、千鶴が覗いた隣の部屋を一緒に覗き込むようにして尋ねた。

「はじめさんは、今日は来ていない?」
「斎藤先輩ですか。俺は見ていないです。たぶん、この時間はトレーニングに行っているか」
「最近は、夕方六時頃に来ることが多いかな」
「ジムでも木刀稽古しているらしいですから」
「六時……、そう……」

 千鶴は小さな声で呟いて、そのままぼんやりと廊下を玄関に向かって歩いて行く。

「先輩、」
「どうされたんです」

 相馬は、千鶴の顔を覗き込むようにして何度も声を掛けたが、千鶴は、「帰るね」と一言答えただけで、靴を履くと荷物を抱えて出て行った。相馬は、とぼとぼと道場の表門を出て行く千鶴の事が気になって、ずっと後ろ姿を見ていたが、野村に呼ばれて道場に戻った。それから、平助に稽古をつけて貰い夕方まで鍛錬した。帰り際、道場に現れた斎藤に、昼間千鶴が尋ねて来ていた事を伝えた。

「先輩のことを探してましたよ。六時頃に来るって言ったら、そのまま帰っちゃいましたけど」

 斎藤は、すぐにスマホを取り出して千鶴に電話をしたが、ずっと千鶴は電話に出なかった。

 今、道場に着いた。
 どこにいる?
 これから稽古をして八時過ぎには上がる。
 後で電話する。

 千鶴にメッセージを送ると、斎藤は道着に着替えに行った。

 

******

 

 伊庭八郎が診療を終えて、いつものように雪村家のリビングに立ち寄ろうとした時、勝手口から千鶴の大きな声が聞こえた。

「勝手に何もかも決めてしまわないで、とうさま」
「私は、明日は大切な用があるの」
「なんの用だね」
「試合です。府中で剣術の試合があるの」
「お前が出る訳ではないのだろう?」
「近藤先生に電話してお断りしなさい」

「千景君が9時に来てくれることになっている。研究センターの落成式の為の打ち合わせだ」
「父さんは、出張と重なって出られなくてね。代わりに資料を受け取って来てほしい」
「試合の事は、近藤先生に父さんが断わろう。スマホを持って来ておくれ」
「嫌よ。勝手にそんな事しないで」
「私は打ち合わせには行けません」

「聞き分けのないことをいうんじゃない」

 鋼道が声を荒げたと同時に、千鶴がドアを開けて廊下に飛び出してきた。目の前に伊庭が立っていた事に一瞬驚いていたが、そのまますり抜けるように廊下を走ると、階段を駆け上がって行った。

 リビングに入って来た伊庭に、鋼道は「ご苦労さん」と声を掛けて、食卓に並んだ夕食を一緒に食べようと誘った。伊庭は黙ったままテーブルにつくと、鋼道も座って、二人で食事を始めた。

「明日から京都だ。開会式典に間に合うように新幹線の始発に乗る」
「木曜の午後に戻るから、それまで診療所をよろしく頼むよ」
「千鶴はセンターの用向きに出掛けるが、夕方には戻るように言っておく」

 伊庭は、「はい」と返事をしていたが、「食事に下りて来ない千鶴が気になる」と言って鋼道に断ると、千鶴を階上に呼びに行った。廊下から千鶴に声を掛けたが、部屋に籠っているのか姿が見えない。伊庭は千鶴の部屋のドアをノックした。

「千鶴ちゃん、食事先に始めてるよ。下りておいで」

 部屋の中の千鶴は、何も返事をしなかった。伊庭は「待っているね」と声を掛けて再び階下に下りて行った。テーブルに戻ると、鋼道は黙ったまま食事を続けていた。八郎も何も言わずに待っていたが、鋼道に先に食べていなさいと言われ、食事を終えた。食器を下げようと立ち上がった時に、千鶴がダイニングに戻って来た。泣き顔のまま、八郎から食器を受け取って台所に運ぶと、食後のコーヒーを淹れる準備を始めた。伊庭はそのままシンクで手を洗いながら千鶴の傍に立っていた。

「夕飯、美味しかったよ」

 微笑みながら千鶴に話しかけた伊庭は、前を向いたままこっくりと頷く千鶴の横顔をじっと見詰めていた。小鼻が赤くなって眼も赤い。泣き止み顔は寂しそうで、父親と言い争った後に部屋で泣き続けていた事が一目瞭然だった。伊庭は、千鶴を幼い時から知っているが、いつも機嫌がよく朗らかな印象しかない。千鶴の母親が他界した後も、時折寂しそうな表情を見せたが、八郎と居る時は元気によく笑い、常に父親の愛情をたっぷりと受けていた。

 ここ数日は、少しずつ顔色も良くなっていたのに。

 千鶴の意気消沈とした様子は、エネルギーが完全に滞って見えた。

(よくないな)

 八郎はそう思った。用意したカップに千鶴がコーヒーをポットから注ぐと、伊庭がそれをリビングに運んだ。千鶴は、ダイニングを片付けて台所で食器を洗い始めた。鋼道はずっと黙ったままコーヒーを飲んでいる。リビングに立ち込める険悪なムード。伊庭は、自分がその場に居るから千鶴も鋼道も話し合いが出来ないのだろうと思った。伊庭は上着を持って立ち上がり、台所の千鶴に「ごちそうさま」と声を掛けて、そのまま独りで玄関から出た。千鶴と鋼道の言い争いが気になったが、翌朝に千鶴の様子を確認するつもりで家路についた。

 その夜、千鶴は斎藤と電話で話した。稽古を終えたばかりだという電話の向こうの斎藤は、外を歩きながら話している。

「明日は、いよいよ府中での試合だ」

 張り切るように言う斎藤の声を聞いて、思わず心がポッと温かくなった。はじめさんがいつも通っている居合道道場の門人との試合。「公式試合とはまた違った緊張感がある」という斎藤の声のトーンは明るく嬉しそうだった。

(逢いたい。とっても)

 溢れる想いで千鶴は何も言えなくなった。ずっと黙っている千鶴に、「どうした」と斎藤の心配そうな声が電話の向こうから聞こえて来た。

「なんでもない。もうお弁当の仕度は出来たよ。沢山、作っていくから」
「ああ、有難う。楽しみだ」

 翌日は早いから、もう休むようにと云われて千鶴は電話を切った。千鶴は、階下に下りて、父親の出張の準備をした。着替えとスーツ、靴の手入れをすると風呂に入った。父親とは、ずっと口をきかないままだった。翌朝は、どんなに反対されても府中の試合に行こうと決心していた。布団に入ると喉の所に塊がつかえたように苦しく、我慢しても我慢してもどうしようもなかった。目を瞑っても涙が溢れてしまう。早く眠らなくちゃいけないのに。千鶴は、声を凝らして泣き続けた。

 逢いたい、はじめさん。どうして逢いにいっちゃいけないの、父さま。

 

****

 まだ暗い内に、階下で父親の仕度を手伝った千鶴は、玄関で父親を見送った。気持ちよく見送ろうとする千鶴に、父親は「千景くんとの約束を忘れるんじゃないよ。9時だから」と念を押して家を出た。千鶴は返事をしなかった。

 それから、お弁当を急いで準備して家を出る仕度をした。家に戻るのはきっと夜になる。戸締りをして、伊庭には食事を温めて食べて貰うようにメモを書いた。外は明るくなり始めていた。玄関に向かおうとした時に、廊下の奥から声がした。

「千鶴ちゃん、おはよう」

 伊庭がコートを着たまま渡り廊下のドア口に立っていた。千鶴は、挨拶をすると、「八郎兄さん、私もう行かなきゃ。今日は夜まで出掛けます」と言って、食事はテーブルに置いてあるからと説明した。伊庭は、「ありがとう」と言いながら近づいてきた。千鶴が、急いでコートを羽織っていると、背後から不意に腕を引かれて手を握られた。冷たい大きな手。伊庭は真剣な表情で千鶴の顔を覗き込むように見つめると、千鶴の瞼を確認して、首の後ろに手をやった。

「熱があるね。いつから?」

 千鶴は驚いた。自覚はなかった。伊庭はそのまま千鶴をダイニングの椅子に座らせると、電灯をつけて、千鶴の脈を取り始めた。喉の中も確認した伊庭は、「喉が赤い」と呟いている。

「八郎兄さん、私行かなきゃ」 
「熱は大丈夫だから」

 千鶴は、おもむろに立ち上がってコートを着直すと玄関に向かった。

「どこに行くの? 駅にかい」
「うん、七時に待ち合わせなの」
「帰ってきたら、ちゃんと休みます」

 千鶴はブーツを履きかけた。確かにフラフラするけど、大丈夫。なんとか立ち上がった。荷物を持とうとすると、八郎が先に持ち上げた。

「送って行こう。車で」

 そのまま二人で玄関を出た。診療所の駐車場から車で駅まで出た。千鶴はこれから府中の体育館で剣術の試合に、斎藤と沖田と一緒に向かう事を話した。月末にある東京武道館での試合に向けて最後の練習仕合になるから、どうしても応援に行かなければならない。

 駅前に車を停めた伊庭は、フラフラと歩く千鶴を追いかけた。千鶴はすでに駅の改札口で斎藤たちと合流していた。沖田が駅の窓口に千鶴用の切符を買いに走ったのが見えた。伊庭は急ぎ足で斎藤に近づいた。

「斎藤君、おはよう」

 急に現れた伊庭に斎藤は少し驚いた様子で挨拶を返した。伊庭は千鶴の額に手をやって、ゆっくりと首を横に振っている。なんだ。どうした千鶴。

「だめだ。どんどん熱が上がっている。府中まで行くのは無理だよ」

 伊庭は優しく言って聞かせるように千鶴に話しかけた。斎藤は驚いた。具合が悪いのか。手を伸ばして千鶴の手を引いた。確かに顔色が悪い。額に頬を当てると熱かった。

「大丈夫だから。電車で少し眠れば大丈夫」

 千鶴はそう言って斎藤にしがみついた。伊庭は驚いた様子で千鶴を見ていた。斎藤は心配そうに千鶴を抱きよせている。

「千鶴ちゃん、今の症状だと。インフルエンザの可能性もある。診療所で検査をして、もしそうなら直ぐに治療する必要がある」
「出掛けた先で、感染を広げてしまう。今年のフルは重症化しやすい」

「彼から離れるんだ」

 伊庭は厳しい口調でそう言った。千鶴は、動きが止まったようになった。そして、諦めるようにゆっくりと斎藤から離れた。顔色は酷く目の周りに黒い影が出来ている。斎藤は久しぶりに見る千鶴の変り果てた姿に衝撃を受けた。頬はこけて、いつも大きな眼が一段と大きく見えた。どうした。病人のようだ。

「7時23分の特急に乗るよ」

 切符を手に持った総司が背後から声を掛けた。伊庭の姿を認めると、急に表情が厳しくなった総司は千鶴と一緒に立つ伊庭を睨んだ。

「おはよう、沖田さん。今日の試合には、千鶴ちゃんは具合が悪くて行けない」

 総司は、千鶴の様子を見て全てを察したようだった。「わかった」と返事をすると、「じゃあ、はじめ君、行こう」と斎藤に背後から声を掛けて荷物を手に取った。斎藤は、総司に先に行ってくれと頼んだ。

「俺は千鶴の無事を確かめてから、会場に向かう」

 そう言って、斎藤は千鶴の肩を抱きかかえるようにしてタクシー乗り場へ歩いて行った。総司は、「わかった。じゃあ後でね。千鶴ちゃんお大事に」と言って改札に走って行った。伊庭は、千鶴たちを背後から追いかけた。

「斎藤君、こっちだ。車で来ている。彼女を乗せて行く。診察を直ぐに始めたい」
「ここで」

 伊庭が千鶴を連れ帰ると言うと、斎藤は一緒に付いて行くと応えた。

「はじめさん、ごめんなさい。今日の試合、とっても大切なのに」
「わたしは大丈夫だから」
「これ、お弁当。荷物になるけど。沖田先輩の分もあるから」

 千鶴は力ない手でお弁当の入ったバッグを斎藤に渡した。おとなしく家で寝ています。仕合が終わったら、連絡ちょうだいね。そう言って笑顔を見せた。斎藤は頷いて、荷物を受け取った。

「終わったら、すぐに戻って逢いに行く」

 斎藤は千鶴を抱きしめた。細い背中はどこか壊れそうな。千鶴から漏れる息は苦し気な様子で必死に立っているのが判った。斎藤は荷物を足もとに置くと、千鶴を横に抱きかかえた。大丈夫だからと抵抗する千鶴を伊庭の車の後部座席に寝かせた。身震いをしている千鶴はそのまま息苦しそうに眼を瞑った。

「行ってらっしゃい。気を付けて……ね」

 千鶴は斎藤の腕を押し返すようにして手を伸ばした。伊庭が自分の上着を脱いで千鶴の上に掛けると、素早く運転席に座ってエンジンをかけた。

「伊庭さん、よろしくお願いします」

 斎藤は後部座席のドアを閉めると、伊庭に頭を下げた。一気に発進した車を見送った斎藤は、荷物を持って改札に走って行った。



****

 

 伊庭は診療所に戻ると直ぐに千鶴の診察を始めた。

 既に39度まで熱が上がっていた。インフルエンザの検査結果は陽性。新型のフル。容態が悪いため、隔離病棟の空きベッドで加療をすることにした。意識のある内に、抗ウィルス剤を投与して点滴を行った。千鶴は直ぐに眠りについた。午前中の診療の合間に、伊庭は様子を確認しに行った。解熱の効果は直ぐに現れていた。少し息苦しそうだが、眠れているようだった。

 

 斎藤と総司は無事に府中体育館に到着し、仕合を行った。相手は全員が警視庁所属の警察官だった。斎藤の通う無外流居合道の道場主が府中の警視庁武道場と交流がある為、組まれた定期仕合。竹刀での仕合は、木刀に比べて軽やかに感じる。その代わり、間合いや相手の隙を逃さずに攻めなければならない。普段、道場で行っている木刀での稽古や、最近ジムで始めた風間との手合わせとは違っていた。風間との打ち合いは、力と力のぶつけ合いだった。ジムのトレーニングで、降り降ろす木刀の早さやキレは最大限になっている。風間は本気で木刀を振るう。まともに剣を身体に受けると斬られる。ジムでの手合わせは毎回真剣勝負だった。

「貴様など、片手太刀で倒せる」

 鼻先で笑いながら風間は、「親善仕合で、斬り殺してやろう」と斎藤を挑発した。風間が東京武道館での国際親善仕合に出場を決めていると知らされた時も驚いたが、風間が20代の部にエントリーしていると総司に知らされて、公式試合で戦う相手だと知り驚愕した。風間は、土方先生と同じ大学出身で同学年だ。薄桜学園の最高学年に留まり続けた後は、大学の助教授のポストに就いている。謎の多い風間は、実年齢も不詳だった。総司は、「あの人ほど胡散臭い人はいないよ」といつも笑っている。

「とっくに30歳を過ぎていても、風間コンツェルンの力を使えば、20代でエントリーできるんでしょ」
「いい年した社会人が高校三年生をあんなに長い間やってたんだから」
「それも、ただ千鶴ちゃんに付きまとう為だけにね」
「なんでキネシスやって、年齢詐称して親善試合に出るなんて言い出したんだろうね」
「本気で僕らを斬るつもりなら、ジムの手合わせの時にやれば済むことなのにさ」

「でも公式試合で、本気で打ってくるなら」
「僕もあの人のこと、本気で斬っちゃおうかな」

 ほくそ笑むように笑う総司は、冗談を言っているようにみせているが、爛爛と輝く翡翠色の眼を見ると、本気で言っていることは明らかだった。風間といい、総司と言い、ジムでの打ち合いを本気の「斬りあい」と思っている節がある。仕方のない奴らだ。斎藤は呆れていたが、二人が本気で打ってくる以上、自分も己の最大限の力で相手を「斬る」つもりでいた。

 ジムでの稽古という名目だが、風間と「死ぬ覚悟」で戦うことは、実際にどんどん斎藤の神経を研ぎ澄まさせていた。キネシスマシーンの効果もあったことだろう、24時間ずっと起き続けているような、異常な興奮状態。斎藤は、目の前の竹刀で仕合う相手の細かい筋肉の動きまで、目を瞑っていても感じるようになっている事に気付いていた。

 そうして斎藤は四戦とも圧倒的な強さで勝った。総司も全勝し、交流仕合は無事に終わった。夕方四時に府中を出た斎藤は、急いで雪村診療所に向かった。電話が繋がらず、自宅のインターフォンも反応がなかった。診療所の玄関に廻ってみると、たまたま居合わせた病院のスタッフに千鶴が入院したことを知らされた。面会を申し出ると、入院病棟の待合に通された。

 

*****

「お待たせしました」

 伊庭が白衣姿で待合に現れた。斎藤が立ちあがると、「彼女の検査結果はフルの陽性でした」と説明を始めた。「フル」というのは、新型インフルエンザの事で、すぐに抗ウィルス剤を吸入させたから熱も徐々に下がって来ているという事だった。

「少し気管支炎も併発している、咳がでていて。息苦しそうだ」
「斎藤君、面会前に君を診察してもいいかな」
「インフルエンザの予防接種は?」
「今年は受けていません」
「そう、一応、感染していないか。予防的に診させてもらいたい」

 斎藤は承諾して、診察室について行った。一通りの診察をした伊庭は、「うん、大丈夫だね。少し血圧が高いけど、駅から走って来たなら。これぐらいでもOK」と言って笑顔になった。

「フルは、うつる時はうつる。発症するかどうかはその人の免疫力によるんです」
「千鶴ちゃんと面会するなら、予防的に抗ウィルス剤を投与しましょう」
「ワクチン接種は、定着するまで2、3週間はかかります。今投与しても効き目は期待できない。どうしても大切なイベントがある場合、予防的に治療薬投与を僕は勧めている」

「月末の親善仕合に出ますよね」
「はい」
「このタイミングで具合が悪くなるわけにはいかないね」

 斎藤は黙ったまま伊庭の顔を見ていた。

「お願いします。予防薬でも何でも、先生のご判断で出されるものを俺は受けます」
「直ぐに千鶴の傍に。面会をお願いしたい」

 伊庭は頷いた。それなら、抗ウィルス薬を今すぐに用意しましょう。そう言って、看護婦に薬を投与するように指示した。薬を吸入し終えた斎藤は直ぐに、入院病棟に案内されて千鶴の部屋に入った。

「さっきようやく呼吸が落ち着いて、眠り始めたところだ」
「あと小一時間はこのまま安静にしている方がいい」

 静かに話す伊庭は、千鶴の点滴を確認してから斎藤を椅子に掛けさせた。そして、看護婦に用意させた簡易ベッドを指さして、「もし、疲れているなら。こちらで休んで」と言って微笑んだ。

「彼女はこのまま朝方まで眠り続けるかもしれない」
「ご自宅に戻るなら、明日の朝に出直してもらっても」
「いえ、俺はついて居たい。もし付き添えるなら」
「付き添いを認めましょう」

「有難うございます」
「構いません。僕も今夜は当直だ」

 伊庭は微笑むと、何でも必要なものがあれば遠慮なく言って下さいといって、もう一度千鶴の様子を確かめた。静かに眠る千鶴の頬を優しく包むように撫でると、「彼女のこと、よろしくお願いします」といって軽く頭を下げた。斎藤は、目の前で千鶴の頬に触れる伊庭に腹が立った。まるで自分のもののような言い草と振る舞い。ずっと怒りで動けないでいる斎藤に、伊庭は思い出したようにドア口に立って声を掛けた。

「キスは控えてくださいね」

 斎藤が驚いた顔をして振りかえると、伊庭の口元は微笑んでいたが、真剣な眼でもう一度斎藤に念を押してから部屋を出て行った。斎藤は、かあっと頭に血が上った。自分が赤面しているのが判った。伊庭に言われるまでもない。ベッドに横たわる千鶴に二人きりになったら真っ先に触れようと思っていた。完全に見透かされていた事に斎藤は酷く狼狽した。

 千鶴のベッドの傍の椅子に腰かけて、ずっと千鶴を見守った。やつれた様子が力なげで、その頬は少し熱っぽかった。頬を掌でそっと撫でて親指で唇に触った。可哀想に。ずっと逢えない間、こんなにも痩せ細ってしまっていたのか。

 もう3週間近く会えていなかった。

 そんなことを考えながら、千鶴の顔をみていると、いつの間にか斎藤も千鶴の枕元に突っ伏すように眠ってしまっていた。

 

*****

 翌朝、斎藤が目覚めた時、背中に毛布が掛けられていた。

 千鶴が、手を伸ばして斎藤の手を握っていた。千鶴が微笑むように目を開けて自分を見ているのに気付いた斎藤は、ゆっくりと目覚めた。

「はじめさん、仕合はどうだった」
「全部勝った。総司もだ。全戦全勝だ」
「良かった」
「具合はどうだ」
「うん、少し喉が痛い」
「身体も痛い」

 斎藤は、手を伸ばして千鶴の額に触れた。まだ熱は下がっていなかった。サイドボードにあった水を飲ませた。

「先生が、直ぐに良くなると言っていた。しっかり眠って良く休めば。熱も下がるそうだ」

 千鶴は頷いた。「インフルエンザに罹るのは、小さい時以来かも。昨日は駅から戻ると急に熱が高くなって辛かった」と言って微笑んだ。

「あのまま府中に行ってたら、皆にうつっちゃう」
「はじめさんにも、うつったら大変」

 斎藤はずっと微笑みながら千鶴の手を握っていた。笑顔で見つめ合っている内に、斎藤は我慢ができなくなって千鶴に口づけた。

「うつっちゃう」
「もう予防薬をもらった」
「うつってもいい」

 深く口づけ合いながら、斎藤はベッドの上の千鶴を抱き寄せた。華奢な千鶴が一段と軽く細くなったように思った。力なげな様子に胸を締め付けられる。

 ——逢いたかった。とっても。

 耳元に聞こえる囁くような声は、泣き声に変り。斎藤の腕の中で千鶴がすすり泣く声が部屋に響いていた。「俺もだ」としか応えてやれない。髪や背中を優しく撫でてやりながら宥めた。暫く抱きしめ合っている内に、千鶴は落ち着いて行った。再びベッドに横たわらせて、布団をかけた。身体を横にした千鶴は、枕をベッドの縁に寄せて、斎藤の手を握って微笑んでいる。

「はじめさん、昨日からここに?」
「ああ」
「お家の人は心配していない?」
「ああ、大丈夫だ」
「ゆうべ、電話をしたら姉貴がでて」
「今度、店に千鶴を連れて来いと云われた」
「お姉さまが? お店、新宿だったっけ」
「渋谷だ」
「そうだ。渋谷だった」
「落ち着いたら行こう」

 千鶴は嬉しそうに頷いた。斎藤の手を握ったまま、目を瞑ると再び眠りに落ちたようだった。

 

 

*****

 朝食の後、伊庭に呼ばれて斎藤はもう一度診察を受けた。

「少し疲労気味だね。数値には出ていないけど」

 伊庭は、斎藤の手首で脈を取った後に、更に腕に近い場所で暫く脈をとってからカルテに何かを書き込んでいる。

「水分をよく取って、眠れる時に身体を横にして休むことを心掛けて」
「もし、まだここに居られるなら、小一時間休めるかな」

 伊庭は、斎藤に千鶴の部屋に戻るように言うと、看護婦と一緒に部屋に入ってきた。斎藤を千鶴のベッドの隣の簡易寝台に寝かせて点滴を打った。そのまま目を瞑って眠るようにと指示をした。そして、千鶴の容態を確かめて、千鶴にも完全に熱が下がるまでもう一息だと声を掛けると、静かに眠っておくようにと云って部屋を出て行った。千鶴は、隣のベッドで眠る斎藤の横顔を見ながら、安心して再び眠りに落ちた。

 

 奇妙な物音がした。

 斎藤は、一気に飛び起きた。自分が病院のベッドの上に居て、その隣に千鶴が横たわっているのを見て、やっと思考が回わり始めた。右腕に痛み。そうだ、点滴を受けていた。いつの間にか眠っていたようだ。また、何かがぶつかるような音。誰かの叫び声が階下から聞こえる。斎藤は、ベッドから下りると、靴を履いて部屋を出ようとした。まだ、点滴は残っていた。そのまま左手で点滴スタンドを持ち上げて、右手を庇うように部屋を出て階下に下りて行った。

 外から冷たい風が吹きつける廊下の向こうで、伊庭が壁の傍で膝をついている姿が見えた。

「やめてください」

 ナースが外来搬入口で人が入ってくるのを止めているが、救急隊員がストレッチャーを押し込むように入って来た。

「患者は二階だ。ナース、案内しろ」

 入口に立つ男は逆光で見えないが、その声と姿形から風間千景であることは確かだった。ストレッチャーを素早く押した二人の男たちは、そのままエレベーターに乗り込もうとしている。斎藤は、床に蹲るようになっている伊庭に駆け寄った。伊庭は、左腕を抑えたまま呻き声を上げていた。

 風間は土足のまま、救急隊員と一緒にエレベーターに乗ろうとしている。斎藤はその後ろを追いかけた。風間はナースを引きずり込むようにエレベーターに乗せて階上に上がって行った。伊庭が階段を駆け上がって行く姿が見えた。斎藤は点滴の管を引き千切って、そのまま伊庭の後を追った。

「彼女に触るな」
「今動かせば、症状が悪化する」

 階上では、斎藤が思った通り、千鶴の部屋のドアが開け放たれていた。風間が伊庭を振り払って壁に打ち付けた。その向こうで、ストレッチャーに載せられた千鶴が力なく抵抗していた。ベルトのようなもので身体を縛りつけられている。

「やめろ」

 斎藤は、救護服を着ている男に体当たりして千鶴の身体から離れさせた。

「はじめさん」

 千鶴の叫ぶ声は、泣き声のように掠れている。縛られているベルトを取り外そうとしたところを、急に右腕を掴まれて捻り上げられた。風間が物凄い形相で顔を近づけた。

「貴様、我が嫁に手をかける気か」

 そう言いながら高く腕を捩じり上げ、斎藤の腕に点滴の針と管が付いているのを見ると、そこを思い切り握り潰した。激痛が走り、斎藤はうめき声を上げた。千鶴の叫び声と抵抗するように足をバタつかせる姿に斎藤は、左手の拳で思い切り風間の鳩尾を打った。ドスッという鈍い音がして風間は斎藤の腕を離した。斎藤は、すかさず風間の胴体をタックルするように押しやった。風間は余裕の表情で斎藤の頭を右手で押しやりながら、左足で腹部を蹴り上げた。斎藤は吹き飛ばされるように背後に下がったが、床に手をついて滑り込むように踏ん張った。青く瞳が光を放った。風間の「早く出せ」という指示で、救護員がストレッチャーを部屋から押し出した。伊庭が、それを阻止して立ちはだかった。

「彼女を病棟から連れ出すことは許さない」

 風間はコートのポケットから封書のようなものを取り出して、伊庭の頬に突きつけた。

「父親の雪村鋼道から転院の許可は得ている。千鶴はセンターの看護施設で養生させる」
「このタイミングで外気に晒すのは無謀だ」
「また発熱する」
「彼女を重篤化させる気か」

「父親の留守中に千鶴の面倒をみるよう仰せつかった。貴様も直接電話で鋼道先生に確認したのであろう」

 妙に落ち着き払った態度で、風間は事の経緯をベッドの上の千鶴にも解かるように語り始めた。

「昨日、千鶴をここに訪ねた時、インフルエンザで入院したから外出は許可しないと云ったな。俺は直ぐ鋼道先生に千鶴の容態を報せた」
「今すぐ戻りたいが、学会での発表があって難しい。伊庭先生が診ているなら、連絡をとって様子を確認する。そう言って先生は電話を切った」

「その後に貴様は先生から連絡を受けた筈だ」

 伊庭は頷いた。確かに、先生から電話があって千鶴の容態について報告した。処置についても細かく指示を受けた。彼女のフルは新型だ。合併症が起きると重篤化しやすい。発熱が収まるまでは油断ができない。隔離病棟で安静にしている。抗ウィルス剤の投与、気管支拡張剤、鎮痛剤。全て必要な処置はしている。

「センターの看護施設は、完全な医療体制を整えた。千鶴はそこに転院させる」
「鋼道先生も、それを望んでいる」
「それでも、僕は主治医として彼女の転院を認めない」
「クランケにこれ以上のストレスを与えたくない。ここまでなんとか持ちこたえてきた。ただ転院させるだけで加療が進むとは思えない」

「部屋へ、陽子さん、手伝ってください」

伊庭はナースと一緒に千鶴のストレッチャーを動かそうとした。

「大丈夫だよ。ここに居ればいい。もうすぐ熱も下がる」

 伊庭は千鶴に優しく話しかけた。ナースが点滴を確かめてから、ストレッチャーに手を掛けた。その瞬間、風間がその手を掴んで振り払った。伊庭は、物凄い形相で風間に掴みかかった。

「院内の者に手出しをするな」

 風間は、伊庭の肩を両手で持ち上げるようにして、思い切り廊下に投げつけた。倒れた伊庭の腹部を蹴りつけた風間を、斎藤は背後から羽交い絞めにして止めた。風間は振り返りながら救護員に千鶴を連れだすように叫ぶと、斎藤の腕を振り払って部屋から走り去り、千鶴のストレッチャーをエレベーターに押し込んだ。泣き叫ぶ千鶴の声が1階の廊下に響いている。そのまま救急車に一気に運び入れられ。斎藤が追いかけた時には、救急車はエンジンを吹かして、風のように診療所の玄関から消えて行った。



つづく

→次話 FRAGMENTS 15




(2020/03/11)

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