柘榴の花

柘榴の花

戊辰一八六八 その2

慶応四年二月 秋月邸屯所にて

 青白い月明かり。夜更けに庭先に出た。月光に当たると身体がしゃんとする。新月からまだ二日。夜空は果てしなく黒く広がり、青白い月の光だけがぼんやりと雲を照らしている。
己の吐く息は白く、庭の地面は霜で覆われている。空気が凍り付くような静寂の中、かつての自分を一生懸命思い出していた。以前なら月明かりの僅かな夜は、灯に頼るしかなかった。変若水を飲む前の自分。

 ——月明かりが陽の光みたいに感じるよな。

 平助が言っていた。その通りだと思う。月明かりが心地よくしっかりと目覚めて力がみなぎる。昼間の明るい太陽の下、市中を歩き巡察していたあの頃。あの感覚を忘れずにいようと思う。耳に聞こえるあらゆる音。秋月邸の庭を囲う土塀の向こうには、外堀に架かる鍛冶橋。その上を横切る野犬が一匹。自分と同じように白い息を吐きながら、その足先が橋の上の板を蹴る音がする。外堀を渡り終えた犬はそのまま東の方向に向かって走っていってしまった。風のない夜。すべての物音がはっきりと明確に聞こえ、暗闇に動くものが見える。以前と違い感覚が研ぎ澄まされている。これは己が羅刹になった感覚だった。

 夜眼が利く
 音に恐ろしく敏感になった

 同時に以前の己の感覚を失くしたくないと強く思う。人間だった頃の、昼間の光の中にいた自分を。

 ——まだ大丈夫だよ。はじめくん。でもちゃんと昼間に休んだほうがいい。

 平助は昼間、陽の光を避けて眠っている。日中起きていられるが、そうすると時折襲われるらしい。

 羅刹の発作
 苦しいだろ。あれ。
 眠っておけば、ある程度抑えられるから。

 平助は道場での稽古の後、自分の部屋までついて来て日中はしっかりと休むように念を押して行った。昼夜逆転の生活は直ぐに慣れる。そう云って、無理矢理微笑むような表情を作って「じゃあな」と部屋を出て行った。平助の言う通りなのだろう。このひと月で身体の変化には慣れたつもりだ。自分が起きていられる間、やらなければならない事は山ほどあった。

 平助との道場での鍛錬の後、部屋に戻って新しい隊士名簿を清書した。江戸に帰還した者は百十六名。会津藩より支給された二千両。その中から隊士ひとりひとりに手当てが支給される。そのための書類作成が急務だった。新選組の事務方を担っていた者は伏見で戦死した。勘定方を失ったのは大きい。事務方の仕事を土方が独りで切り盛りしながら江戸まで戻ったが、帰還後は幕府との折衝で土方は屯所を留守にする事が多く、幕府や会津藩に提出する書類が手付かずのままどんどん山積みになった。戦火の中を持ち帰った書類の整理にも追われている。一部焼け焦げた行李が積まれた斎藤の部屋には、畳の上にも大量の書類が積まれ、日中は千鶴が隊士たちの世話をする合間にそれらの整理を手伝っている。

 雪村を守る
 鬼の手から

 これは京に居た頃から続く斎藤の任務だった。秋月邸の屯所の中で毎日甲斐甲斐しく動く千鶴の護衛。陽の光を避けて昼間は室内にいる自分はずっと守っていられる。そう思っていた。近く、新選組は将軍護衛の任務に就く。そう土方から聞いていた。隊士が交代で、上野の寛永寺に出向く。自分も夜間は上野に行くことになるだろう。当初はそう思っていたが、実際に土方から指示があったのは、秋月邸の屯所内で書類の整理をする任務だった。

「千鶴をお前の世話にあたらせている。薩長の連中が江戸に攻めてくる。風間たちがいつ江戸に現れるか判らねえ。鬼の連中から千鶴を守る」

 登城の合間に屯所に戻った土方からの指示は手短に済まされた。薩摩軍が東海道を江戸に進軍してきているという。三番組の隊士である安富が他の隊士二名と共に甲府方面へ派遣された。敵軍の偵察目的である。斎藤は近く戦が起きるだろうと覚悟を決めた。

 二月の中旬が過ぎた頃、横浜の医療所に入院していた隊士たちが江戸の和泉橋医療所に移った。京から帰還してひと月余りの間、戦で重傷を負っていた山崎烝が横浜の診療所で息を引き取った。近藤が肩の加療の為に横浜に滞在中、山崎の弔いが丁重に行われた。山崎死亡の知らせに千鶴を始め新選組幹部は打ちのめされた。その直後、横浜で治療中の隊士を江戸に移すと近藤から指示があった。千鶴が船で品川に移動した隊士たちの世話をするためにかり出された。日中の作業だった為、斎藤は千鶴の護衛を相馬と野村に頼んだ。その日、屯所から品川の港に向かう朝、千鶴は斎藤の部屋に立ち寄った。

「斎藤さん、これから品川の隊士さんを医療所に連れていって参ります」
「斎藤さん、もう、今日はお休みになってください」
「奥の間にお布団を用意してあります」

 千鶴は、障子を開けて部屋に入ると、返事をしない斎藤に一方的に話続けた。斎藤は、「相分かった。気を付けて行って参れ」と首だけを千鶴に向けて返事をした。千鶴は、斎藤がまた一日中起きて作業をするだろうと思った。思い切って斎藤の傍に近づくと、筆を取り上げた。傍にあった書き損じの紙に筆を包んで、硯にも蓋をした。
「なにをする」
 斎藤は千鶴の手から筆を取り返そうとした。千鶴は背中に筆を隠して渡そうとしない。
「お休みになってください。土方さんが仰っていました。斎藤さんは無理をするから、それを止めろと」
 千鶴は頑なに筆を渡すのを拒んだ。口元をぎゅっと結んだまま毅然と斎藤を見つめ返している。
「急ぎの書類を仕上げたら、休む」
 斎藤は冷静に答えた。千鶴はずっと黙ったまま首を横に振った。
「筆を出せ、雪村」

 少々手荒だが、仕方がない。そう思いながら、斎藤は千鶴の肩に手をかけて背後に手を廻し無理矢理筆を取り上げようとした。千鶴はもがくように身を捩ったまま逃げようとした。畳についた片手が滑り、互いに均衡を崩して倒れ込んだ。千鶴の上に覆いかぶさるようになったまま、気づくと自分の鼻先は千鶴のうなじについて、その瞬間甘い香りが鼻孔に飛び込んで来た。

 それは千鶴から薫る独特の甘やかな匂い
 一瞬、頭の中が真っ白になる
 ゆるやかな多幸感

「斎藤さん」

 千鶴の声が聞こえて我に返った。まずい。勢いをつけて起き上がり身を離した。

「すまぬ」

 慌てて謝った。千鶴はゆっくりと起き上がった。身仕舞を整えながら、もう一度膝の上に紙に包んだ筆をぎゅっと両手で持ち直した。

「こちらは渡しません。斎藤さんがお休みになるまで、絶対に渡しません」

 千鶴はどこまでも頑なだった。斎藤は、わかったと返事をした。狼狽を隠す為もあった。頬も耳も赤くなっているのが判った。そのまま立ち上がると、奥の間に通じる襖を開けた。

「気をつけて行って参れ」

 背を向けたまま、こう言うのがやっとだった。襖を閉めようとした背後から、「はい、行って参ります」と千鶴の声が聞こえた。




*****

初めての渇望

 秋月邸の廊下を走って離れに向かった。

 一刻も早く誰も居ない場所へ。離れの向こうにある土蔵。草履を履く間もなく飛び込んだ。暗い土蔵の中で一息ついた。黴臭く冷たい空気の中、自分の荒々しい息だけが響いている。壁に手をついて何とか呼吸を整えた。眼を開けていても何も見えない。ただ、目まぐるしく景色が動く。屯所の庭、廊下、自分の部屋、山積みの書類、文机、雪村、雪村の差し出す指。

 真っ赤な
 深紅の
 美しい珠

 なにもかも色を失った中に、唯一浮かび上がる赤い色。それは、目の前に咲いた柘榴の花。自分の全身の血が逆流している。冷や汗が背中を走る。何が起きた。何が起きている。俺の眼にしたものは。あの芳醇な香りは。

 欲しい
 欲しい
 欲しい

 光輝くようなあの赤い珠。真っ赤な血潮。己が欲する最たるもの。

 何を言っている。雪村の指。怪我をした雪村。差し出された指を。
 何を考えている。俺は。

 全身が震えた。これがそうなのか。違う。決してそんな事を考えてはならぬ。ただ一時の事だけだ。

 その直後だった。心臓を捻りつぶされるような苦しみが襲ったのは。苦しい。息が出来ない。立っておられず、膝を地面についた。土間の壁にしがみつく様に掴まってやり過ごした。
羅刹の発作。今までで一番強く苦しい。

 これしきのこと
 これしきの事で負けて……たまるか……。

 土蔵に苦しみに呻く自分の声が響いた。誰にも聞こえない。誰にも届かぬことが救いだ。誰にも知られてはならぬ。

 どれぐらいそこに蹲っていたのか。暗闇に目が慣れたことに気づいた時、土蔵の壁に背中をつけて土間に座り込んでいた。発作は収まった。なんとかやり過ごせた。立ち上がって身仕舞を整えた。引き戸の隙間から漏れる光。眩しい。痛いくらいに。だが、外には出て行かねばならぬ。一瞬の事だ。廊下を走って部屋に戻ろう。大丈夫だ。誰にも気づかれずに戻ろう。

 眩しい中を再び部屋に戻った。部屋に雪村の姿はなかった。良かった。昼餉の支度に台所に居るのだろう。また、目の前にさっきの光景が蘇る。朝から自分の部屋にやって来た雪村が背後で書類の整理をしていた。幕府に提出した書類の束をまとめて帳面にする作業。日付事に揃えた束に穴を開けて紙縒りを通して結ぶ。紙縒りは斎藤が仮眠をとる傍で、日中雪村が作っている。

「これだけあれば。もう、百本は作りましたから」

 前日の薄暮の時間にようやく起き出した自分に、千鶴は微笑みながら報告していた。丁寧な作業をする斎藤にさっきも確認しながら、紙の束をまとめて目打ちで穴あけをしていた。

「痛っ」

 小さな悲鳴が背後から聞こえた。雪村、どうした。うずくまるように指先を覗き込み痛みを堪える姿。怪我をしたのか。見せろ。手を引いたその瞬間だった、鼻にいい匂いが飛び込んできた。目打ちで傷ついた指先に、みるみる内に血が滲み丸い玉になった。

 鮮やかな赤。
 真っ赤な血潮。

 それは強烈な色彩で、差し出された指先も目の前の雪村も、その背後の障子や畳、柱。全てが灰色に色を失う中、赤色だけが目の前に浮かび上がっていた。血の芳香。甘やかな。

 同時に自分がそう感じている事に驚いた。何を考えている。だが動けぬ。息を呑んだその瞬間。

「斎藤さん、大丈夫です」
「目打ちで誤って突いてしまっただけです。もう治りましたから」

 千鶴の声で我に返った。自分の手から雪村の指先は離れた。真っ赤な美しい珠。惜しい。そんな感情が自分の全身を駆け抜ける。俺は一体。なんということを……。

 動けないでいる自分の前で、雪村は指先を口元に含むと、顔を上げて笑顔で「治りました」と報告している。訝し気に「斎藤さん?」と尋ねる雪村と眼を合せられなかった。

「気をつけろ。穴あけはよい。俺がやっておく」

 そう言うのがやっとだった。文机に向かっても、全てが色を失ったまま何も手に付かなかった。

「そろそろ昼餉の支度の頃だろう」

 口任せに思いつくことを呟いた。背後で「そうですね。そろそろ」と雪村の応える声がした。心の臓がどくどくと早く打ち出した。どうした。動悸が早まる。まずい。このままでは。そう思って立ち上がった。気づかれぬ内に。そう思った瞬間、足が自然に動いた。

「厠へ行って参る」

 障子を開けて外へ出た。眩しい。陽の光が痛い。「はい、私もそろそろ昼餉の支度に参ります」と千鶴の声が聞こえた。自分が返事をしたのかも分からなかった。急げ、早く。そう思って廊下を駆け始めた。土蔵へ、あそこへ駈け込もう……。




****

江戸小石川 雪村診療所

 千鶴の指先の怪我の事は、その後何日にも渡って斎藤を苦しめ続けた。

 脳裏に浮かぶ赤い珠は美しく。其のたびに目の前の光景は色彩を失う。灰色の風景は斎藤を絶望の淵に押しやった。血への渇望。そんなことが自分に起こるのか。改めて羅刹となった己の身を強く実感した。

 ——はじめくん、これやるよ。

 平助が数日前にくれた薬。羅刹の発作を抑えるもので、良順先生が処方したものに更に山南さんが改良を加えたものだと言う。手元には、和泉橋の医療所で貰った羅刹の苦しみを軽くする薬があった。まだ一度も飲んだ事はなかった。それを飲むと羅刹の毒に己が負けてしまうような気がしていた。平助がくれた薬も。俺は飲むことはないだろう。

 飲まなくてもいい。持っているだけで気休めになるから。そう言って平助が自分に持たせた薬の包み。そんな気遣いが嬉しかった。血への渇望は平助も当然感じているのだろう。だが、平助は決してそれを口にしない。平助。堪えているんだな、あんたも。

 あの日以来、雪村は一段と自分を気遣うようになった。自分から片時も離れなくなった。いつ自分の発作を気づかれた。雪村は人の具合の悪さを感じ取る力に優れている。医者の娘であるからだと思う。山崎が居ない今、隊士たちの体調管理は自分が担うと覚悟を決めているからだろうか。だが、気遣いは無用だと思う。俺に関しては。羅刹は病ではない。少なくとも。

 全身に廻った毒は一生付きまとう。だが、羅刹の力が自分には必要だった。いまこの瞬間も。敵を迎え討つ。風間が襲って来ても。いつでも闘える。

 いつでも
 この命に代えても

 そんな事を考えているのを雪村は気づいているのか。無言のまま心配そうな視線を向けて来た。

 大事はない。
 心配するな。
 気遣うな。

 そう心の中で応える。自分の思いはどれだけ雪村に伝わってしまっているのか。わからない。

 ——千鶴は、敏いところがある。

 これは左之が良く言っている事。俺らが思っている以上にな。そう言って、笑う左之助を始め幹部の者は皆、雪村に信を置いている。確かにそうなのだろう。自分に出来る事。出来る限りのことを一心に。そんな雪村を。

 朝餉の片付けを終えた雪村が一度部屋にやって来た後、廊下に出ていった。そのあと戻って来なかった。何か屯所内で用向きが出来たのだろうと思っていたが、ふと嫌な予感がした。ちょうど相馬が廊下を通りかかったので雪村を見かけなかったかと尋ねると、さっき診療所に行くと云って独りで出かけて行ったと答えた。

 診療所

 雪村の家のことか、と相馬を問い詰めた。相馬は「わかりません」と答えた。即座に刀置きから刀を掴んで廊下を走った。「雪村を探してくる」と背後を追いかけてくる相馬に伝えた。「お前はここで待機していろ。雪村が屯所で見つかったら護衛を頼む」そう叫びながら秋月邸の門の外に向かって走った。

 千鶴が言っていた診療所は、小石川にある【雪村診療所】のことだろうと目算をつけた。陽の光が眩しすぎて苦しい。丁度早籠が道の傍にいたので一丁頼んだ。筵を掛けてあるため日除けになる。有難い。なんとか息をつきながら小石川に辿り着く事が出来た。雪村診療所の場所を道行く人に訊ねると坂の上だと教えられた。この辺りは土地勘がある。丁度診療所の門の看板が見えた時に、建屋の中から千鶴が飛び出してきた。様子がおかしい。自分は全力で走って行った。




*****

己の期し方

 それでは、斎藤さん。お先に失礼いたします。

 泣きはらした目を俯きがちに千鶴は、手をついて丁寧に挨拶をすると部屋の障子を閉めて出て行った。

 今日は長い一日だった。昼間に小石川の雪村診療所で千鶴の父親である【雪村鋼道】を見つけた。京の壬生の住まいから姿を消してから、ずっと新選組が探し続けた羅刹を作り出した張本人。やはり生きておられたか。そして、その男の行方をひたすら心配し探し続けた娘の千鶴。診療所の門前で、父娘が再会できたと気づいた時、雪村鋼道の異変に驚いた。そして、目の前で脅える千鶴の姿に……。

 一体何が起きていたのか。様々な憶測が頭の中を飛び交う。今は安全な屯所に雪村を連れ帰ることが出来た。今朝突然、実家の小石川診療所に向かった雪村は、羅刹の毒消しの情報を得ようとしていた。羅刹の発作を抑える手立て。父親である雪村鋼道が残した処方箋を求めて独りで秋月邸の屯所から雪村は、数年ぶりに実家の雪村診療所に戻った。そこで雪村鋼道と遭遇した。

「やっと父さまに……なのに……」

 そう帰る道すがら泣きながら話す雪村の表情は混乱と悲しみに満ちていて、自分はなんと声を掛けていいものか考えあぐねた。数年ぶりに目の前に現れた雪村鋼道は常軌を逸していた。脅える雪村を連れ去り【風間千景】に捧げると言う。羅刹の力で人を征服し、日の本は鬼の世に。鬼の世。一体。何を言っているのだ。狂っているとしか思えぬ。

 刃を向けてくる鋼道と対峙した。情けない、遅れをとった。血の匂いが邪魔をする。雪村。雪村を渡してたまるか。己も正気を失くしていた。怒りと焦りだけが先走った。娘の目の前でその父親を本気で切り殺そうと思ってしまっていた……。

 敵、目の前の敵。薩摩についた。雪村を奪う者。

 気づくとそこにはあの男が立っていた。天霧九寿。薩摩者。再び相まみえたか。鬼の姿から元のヒトに戻った雪村鋼道。天霧に手を止められた鋼道は酷く脅えた様子だった。天霧は【風間千景】の名前も口にしていた。風間の命で動いておるのか。天霧に問いただそうとした瞬間、二人は目の前から姿を消した。

 この後の事は思い出したくない。
 だが、全身に廻った甘美な感覚から逃れることが出来ない。

 また全ての色彩が失われていく。記憶の色は灰色に沈む。その中で赤く鮮やかに浮かぶ。

 柘榴の花
 滲む血潮

 鋼道が去った直後、目の前の雪村を叱った。無断で独りで屯所から外出するのは無謀なことだ。いつ風間が襲ってくるかもわからぬと言うのに。何の為に自分が昼間に起きて護衛をしているのか。雪村に対して怒りを露わにしてしまった。
 丁度太陽が真昼で頭上にあった。強い光の下、羅刹の発作に襲われた。両膝を地面についた自分を必死で雪村は引き摺るように診療所の中に連れて行くと、持っている小太刀で自らの指先を傷つけ血を飲めと目の前に突きつけて来た。何をする。雪村。斬れておるではないか。心が痛む。

 だがその衝動とは全く逆の渇望を感じた
 喉の渇きどころではない
 全身に鳥肌が立ち
 血が逆流する
 逆毛が立つぐらいゾクゾクとした
 酷い興奮状態

 むさぼりつきたい

 駄目だ
 絶対に

 どんなに苦しくても
 駄目だ
 ならん

 自分は必死に目を逸らした。己の醜い渇望から。傷つけてなるものか。絶対に……。

 ——どうか、飲んでください。

 涙を溜めた目で雪村が見つめてくる。温かさと慈しみ、優しさ。それが辛い。余計に。雪村、やめろ。俺みたいな者に……。

 心臓が万力で捻りつぶされる痛みと心の痛み。

 ——飲むと、発作が収まります。斎藤さん、どうか。

 柘榴の花が更に花弁を開く様に広がる。

 次の瞬間、雪村の指の先に口をつけていた。芳香と全身の潤い、嘘のように痛みが消えて行く。甘やかな、なんとも言えぬ恍惚が。

 もっと
 もっと
 もっと欲しい

 なにを考えている。俺は、……。ならん。絶対に。

 息をついた。なんとか雪村の指先から口を離すことが出来た。腕で思い切り雪村自身を遠ざけた。なんとかできた。なんとか。

 ——斎藤さん、傷が塞がってしまいました。もっと如何ですか。

 いや、いい。

 こう云うのがやっとだった。駄目だ、雪村。これ以上は。恥ずかしい。なんてことをしてしまったのだ。血を飲むなど。それも雪村の血を。身体を傷つけさせてまで。なんということだ。痛いだろうに。酷いことをさせてしまった。すまぬ。すまぬ、雪村。

 ——もう塞がっています。これぐらいなんともありません。
 鬼の身体が役に立てることもあるんですね。

 微笑む表情まで無理に見せる。あんたを直視できん、雪村。すまぬ。

「本末転倒だ」
「守らなければならぬあんたを傷つけさせてしまうなど」

 すまない、雪村。
 決してあってはならぬ事だ。

 大きな後悔と同時に、全身に駆け巡った快感と甘美な血の味が忘れられない。苦しみから逃れると同時に多幸感に包まれた。雪村、ゆきむら。

 これ以上は駄目だ。
 思い出すことを禁じる。

 己の醜い、羅刹の身。こんな俺のような者にその無垢な身を傷つけてまで。
 自分に巣食う羅刹の毒。その毒から雪村を遠ざけよう。全力で。甘えてはならぬ。

 障子の向こうに消えた千鶴を想った。
 きっと、床についてからも父親を想い涙しているだろう
 自ら作った変若水を飲んで鋼道さんは狂ってしまわれていた

 羅刹の毒は
 人を狂わす

 恐ろしいがこれが事実だ。今日実感した。
 だが憶するな

 狂うのなら、その瞬間まで自分は闘おう
 この命、惜しいことはない

 その夜は、独り部屋にいた。
 行灯の灯を灯す事もなく、明け方までこれからの期し方を何度も何度も心に誓った。



つづく

→次話 戊辰一八六八 その3

コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。