さむはら

さむはら

戊辰一八六八 その4

慶応四年二月下旬

「はじめくん、起きてる?」

 襖を少し開けた隙間から平助の声が聞こえた。ちょうど、夕方の仮眠から目覚めた斎藤は、「ああ」と返事をして身仕舞を整えた。平助は、襖を開けて入ってくると、別の襖の向こうの様子を確認し始めた。

「誰も隣の部屋にはおらぬ。雪村は夕餉をとっている頃だ。広間に居るだろう」
「千鶴が居ないならいいんだ」
「今の内なら、はじめくんと話が出来る」

 平助は、小さな声でそう云うと。辺りを警戒するように部屋の隅に腰かけた。

「土方さんから聞いた。鋼道さんに会ったんだって?」
「千鶴もその場に居たんだってな」
「……、大丈夫だよ。はじめくん。このことは極秘だ」
「オレと土方さんしか、知らねえ。つか、ぜってえ誰にも知られちゃいけねえ」

 平助は、声を潜めて話をし始めた。

「はじめくん、知ってるだろ。山南さんのこと」
「山南さん、江戸に戻ってから頻繁に屯所を留守にするようになったんだ」
「行先は、土佐藩上屋敷。ここから目と鼻の先にある」
「この辺りで起きている辻斬り。聞いてるだろ」
「……土佐藩」
「ああ、土佐藩だ……、寝返ったってな。西はどこも」
「山南さんは、変若水の改良の為だって」
「土佐藩、薩摩の奴らとでも渡り合うつもりでいる」
 平助の瞳は真剣な色を見せていた。ずっと黙っている斎藤の顔を見詰めた後、項垂れたように下を向いて動かなくなった。
「血が必要だって……。山南さん」
「オレら、人数減っちゃっただろ。戦になるなら羅刹隊も準備しねえと」
「山南さんがおかしな事しねえように見張ってんだ」
 平助は顔を上げて斎藤の眼をじっと見つめて来た。
「千鶴、雪村診療所に戻ったの。羅刹の発作の薬の為だってな。鋼道さんが生きてて江戸に居たってのも。薩摩藩に囲われてるって」
「千鶴、泣いてたんだってな。可哀そうに」
「土方さんには、千鶴が鋼道さんに会ったことも、診療所に戻った事も、羅刹の発作を抑える薬を探したことも絶対に山南さんに知られないようにって釘を差された」

 ——千鶴を山南さんから守んねえと。

「山南さん、何を焦ってんだか。千鶴の血を使えば、血に狂うことがなくなるって」
「雪村には触れさせぬ」

 真剣な眼差しで即座に応えた斎藤に、平助は頷いた。これから山南さんについて出掛けて来る。夜更けの鍛錬には出られない。そう言って平助は立ち上がった。

「はじめくん、陽のある内は出来るだけ眠っちまったほうがいい。あれが起きにくくなるからさ」

 障子を開けて廊下に出ながら平助は振り返って一言そう言った。平助の無理に作った笑顔。平助、あんたも……。そう思った。突然襲われる、息苦しさと血への渇望。温かさと甘さを求めて。目の前の全てが色を失う。灰色の絶望。

 考えてはならん

 そう思いながら、平助の去っていった廊下を見ていた。暫くすると、千鶴が薄暮の膳を用意したと呼びに来た。広間には、左之助、相馬、野村が三人で膳の前で斎藤を待っていた。こうして顔を合わせて一緒に食事をするのは久しぶりの事だった。

「久しぶりだな、斎藤。今日は俺は夜は屯所でゆっくりだ」

 珍しく原田は出掛けずにいると笑った。昼間は上野での警備を終えて帰って来た。新八は昔の道場仲間と一緒に呑みに出かけた。そう言って微笑む横顔はどこか寂し気な様子で、斎藤は気になった。新八の道場仲間というと、上野練兵館の連中か。新八は脱藩して久しいが、元は松前藩上士の身分。幕臣の家に生まれたにもかかわらず、城勤めを拒み剣術修行を続けたと聞いている。
「部屋住みになんてなってみろ。やれ図書方だ勘定方だって、一日中筆を持って背中丸めてよお。俺は真っ平御免だ。こうやって、表にでて刀を振ってられねえなんてよ」
「俺は、将軍様、天子様、どっちも守るぜ。どっちも俺の主君だ。この剣ひとつで町全体を守ってやる」

 これが新八の口癖だった。上士身分では、剣術だけの生活は続けることが出来ない。だから脱藩して試衛館に赴いた。左之助は伊予松山藩の出身だが、新八と同じ、年の頃十六で出奔したという。
 ——俺は、郷士足軽以下のご身分だ。
 そう言って笑う左之助は、江戸の道場を転々として種田流槍術を身に付けた。左之助がどういう経緯で試衛館に流れ着いたのかは、詳しく斎藤は聞いたことがなかった。だが、江戸に居た頃、練兵館での出稽古に左之助が出る事はなかった。練兵館と試衛館は道場同士の繋がりというより、新八の昔の武者修行仲間との繋がりが元になっていた。こうして久しぶりに江戸へ戻った新八が、古巣の上野界隈で、上士の仲間と再び親交を深めることもあるのだろう。斎藤はそう思った。自分も足軽の身分の家である。幕臣、上士身分の知り合いが、たとえこの江戸に居たとしても、屯所の外にでて会いに行こうとは思わない。

 夕餉の席には、相馬や野村も居た。二人は日中、和田倉の会津藩邸と江戸城を近藤の護衛をしていたという。

「中将様が昨夜、江戸を発たれたそうです」

 斎藤は驚いた。容保公が会津へ。慶喜公が上野で謹慎蟄居中に中将様は江戸を離れられる。土方さんからは、中将様は朝廷に恭順の意を示す意向だと聞いていた。今江戸の外にでるのは、危険だ。中将様の警備は万全なのだろうか。温かくなって来たとはいえ、会津の峠にはまだ雪が残っているのではないだろうか。斎藤の心配をよそに、食事を終えた相馬たちは、そのまま広間に留まって、会津藩と幕府からまた新選組に軍資金が下りると皆に説明していた。

「土方さんは、屯所の修理代と武器、大砲も一気に準備すると仰っています」
「戦です。戦。俺らで江戸を守らないと」

 相馬の眼も、野村の眼も輝いていた。




****

慶応四年二月下旬

 薄暮の膳が終わって部屋に戻った斎藤は、書類の整理を始めた。暫くすると、千鶴が片付けを終えて部屋にやって来た。お茶を差し出した後、湯に入ってくると言って暫く部屋を離れて、再び戻って来た時に真っ白な木綿を五反抱えて入って来た。

「今夜はこちらで作業します。行灯の油も節約できますし」

 そう言う千鶴は、寝間着の上に綿入りの羽織を着ているが、足袋は履かずに濡れ髪のままだった。火鉢の傍に腰かけた千鶴から、風呂上りのいい匂いが部屋中に広がってくる。このような姿を京の屯所では、千鶴は誰にも見せることがなかった。部屋で休む寸前まで、袴着に髪を上で縛り男装は欠かさない。小さな足袋の足元は千鶴の特徴で、廊下に足元が見えるだけで斎藤は千鶴だとわかった。
「随分と沢山だな」
 斎藤は、千鶴が広げ始めた木綿を振り返りながら眺めてそう云うと。
「はい、これを腰帯に仕上げます」
 そう千鶴は返事をしながら、手際よく木綿を縦に裂いている。土方さんが、戦で木綿の腰帯が必要だと仰っていて。刀を差すのにしっかりとしたもの作らないと。千鶴は笑顔のまま手を動かした。斎藤は、そうかと合点がいった。自分が準備をしている書類は、隊士たちへの手当て支払い報告だった。また新たに戦へ赴く意向の隊士に手当てが下りる。医学所の松本先生への治療費の支払いも済ませる。江戸に帰ってから、今日まで五千両の金が動いた。この短い期間で。薩軍を迎え撃つ為に、どれだけの折衝を近藤さんと土方さんは行って来ておられるのだろう。

 千鶴は、針箱を持ってきて木綿を帯の形に畳んで縫い始めた。なにやらぶつぶつと独り言をいいながら、一生懸命に手を動かしている。斎藤は自分も文机に向かって、急いで書類を書いて行った。暫く経つと、おもむろに千鶴は立ち上がって、自分の部屋に一旦戻り、また部屋に入って来た。手には藍色の足袋を持っていた。

「これ、裏に紅花染めの裏打ちがしてあるんです」
「暖かいです。これ」
「京橋の出店で平助くんが見つけたって。女子供の大きさのしかないそうです」

 そういいながら、斎藤の傍で足袋を履き始めた。着物の裾から足首やふくらはぎがちらちらと見える。斎藤は驚いた。千鶴の肌は透けるように白くて、細い足首とくるぶしは華奢だった。初めて間近で眼にした。目にしてしまった。

「ほんと、あったかい」
「これ、斎藤さん。見てください。内側がこんな色なんですよ。外は藍で少し外には履いて出るのは気がひけますけど」

 千鶴は足袋を裏返して美しい紅花色を斎藤の目の前に持って来た。ふわりと甘い香りが漂う。濡れ髪から香る甘い匂い。文机の傍に膝で立った千鶴は、「もっと大きいものがあれば、斎藤さんに買ってまいりますね」と笑っている。斎藤は、なんとか小さく頷いた。温かい。雪村が傍にいるせいか。そう思った。温かいどころか。熱い。なんだ。これは。傍で衣擦れの音がする。ちらちらと眼だけ動かしてみた。また目にしてしまった。もう片方の足の踝を。

 小さな、踝を。

 生唾を呑み込むしかなかった。それにしても熱い。なんだこの部屋は。火鉢の炭を起こし過ぎでは。そう思いながら身体は完全に固まっていた。千鶴は足袋を履き終えると、再び火鉢の傍に戻って、縫物の続きを始めた。背後でなにやらぶつぶつと独り言を言っている。千鶴が離れた事で、斎藤は再び平静に戻れた。集中、集中。何を考えておるのだ。

 千鶴は火熨斗まで持ってきて、帯を三十ばかり作ると。斎藤の傍に再びやって来た。

「さむはら。そう刺してあります」
「これ、【耳嚢(みみぶくろ)】に書かれてあった身を守る文字です」
「耳ぶくろ……」
「はい、京に居た頃、よく平助くんと読み本で読みあってて」
「本当は、もっと難しい字ですけど、神字だそうなので」
「聞いたことがある。清正公(せいしょうこう)は刀にその文字を切って身を守った」
「武将の加藤清正公ですね。はい、【耳嚢】にそう書かれていました」
「これ、斎藤さんの帯です」

 千鶴が差し出す白帯には黒糸で【さむはら】と刺してあった。ありがたい。斎藤は礼を言った。隊士全員の分に刺せるように頑張ると云って、千鶴は再び火鉢の傍に戻り手を動かし続けた。夜中に斎藤の昼餉を用意した千鶴は、小さく欠伸をしながらずっと傍で手を動かし続けた。八つ半まで起きていた千鶴は、七十ばかりの帯を仕上げたところでそのまま火鉢の傍で柱にもたれたまま眠っていた。斎藤は、再び自分の布団を敷いて千鶴を寝かせた。千鶴の羽織を脱がせるのも、足袋を脱がせるのも初めてのことだった。千鶴が目を覚まさぬように願いながら布団に横たえた。再び、自分の身が熱くなっているのに気付いた。いかん。

 これ以上は、と思って。刀を掴むと道場に向かった。そこには、羅刹隊の中でも大人しい隊士たちが静かに鍛錬をしていた。山南の姿はなかった。平助もいない。二人は土佐藩邸に出掛けているのだろう。それか、恐らく辻斬りの取り締まりにこの辺りを巡回しているか。我々にとって昼間の今なら、狼藉を働く者を見つけることは容易いだろう。そして、その者たちを羅刹隊へ。暗黙の内に。その方法がとられていることは想像出来た。羅刹の力を強く信じておられる山南さんが、その機会を逃すことはない。

 鬼に比べて貴様ら人は脆い
 変若水を飲んで一時力を得たとしても
 いずれは正気を保てなくなり
 やがては人を襲うだけの化け物と成り果てる運命だというのに

 雪村鋼道の言葉を思い出す。

 この男ならば、我々が手を下さずとも
 いずれ自滅する
 人間としても、羅刹としても

 天霧の言葉もそれに続く。いずれ自滅する。いずれ。

 道場の廊下の向こう、漆黒の闇を見詰めたまま斎藤は立ち尽くした。お堀端の近くを柳の枝が風で揺れる傍を人が足早に歩いている。数名の草履の音。誰かが誰かを追う音。悲痛な叫び声。人間の身体を斬りつける刀。血が飛び散る。起きている事は全てつぶさに耳に聞こえる。逆流する全身の血。憤り。自分の左手の掌を握りしめた。この手で刀を振るうのは。覚悟を持っての事だ。

 さむはら
 さむはら
 さむはら

 耳に聞こえる。さっき部屋の中で。背後でずっと独りごとのように唱えられていた。今になって明確に聞こえる。さむはら。九死のうちに一生を得ることができますよう。どうかご無事なように。どうか。

 耳に響くはあんたの声か

 すーっと全身の血が落ち着いていく。穏やかな状態。戻れた。さむはら。祈りの声。救われた。あんたの声に。

 斎藤は暗闇の向こうに、千鶴の笑顔を見た気がした。




つづく

 

→次話 戊辰一八六八 その5

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