敗走

敗走

戊辰一八六八 その6

慶応四年三月七日未明

駒飼宿にて

 かすかに背後に千鶴の声がした。

 斎藤は振り返り、部屋の隅に敷いた布団の中で背中を向けて横になっている千鶴の姿を確かめた。布団から見えている肩が僅かに震えているように見えた。斎藤は手入れをしていた打刀を鞘に納めて手に持つと、そのまま千鶴にそっと近づいた。千鶴は眠ったまま泣いているようだった。

 御座枕の上に置いた手拭は涙で濡れている。啜り泣くその声には、「とうさま」と呼びかけるような声も混じっていた。無理もない。昼間の出来事が相当堪えておるのだろう。斎藤は啜り泣く千鶴の横顔をじっと見つめたまま、昼間の出来事を思い返した。

 勝沼の陣を離れて、間道を走り抜けていた途中。それまで曇り空だった空から陽が強く射し始めた。木洩れ日とはいえ、身体が焼けるように感じた。息ができない。自分の歩が進まなくなったのを一緒に走っていた雪村はすぐに気づいたようだった。木陰で休むようにと大木が重なって立っているのが見えた本道に向かって斜面を二人で駆け降りて行った。その時、道の向こうから、薩軍兵が走って来るのが見えた。薩軍の特徴的な三角笠に黒い筒袖。とっさに木の陰に千鶴を隠した。だが、本道のもう一つの木陰から現れた雪村鋼道に見つかってしまった。

 目の前の白い髪に真っ赤な眼をした薩兵を従えた雪村鋼道が、「その女を生け捕りにするように」と声を張り上げたのが聞こえた。

「斎藤さん、駄目です」

 千鶴の悲痛な叫び声が耳に聞こえた。雪村、止め立ては無用だ。己の意思で、羅刹に変わるわが身。刀を抜いて薩兵を斬る。陽の光の中でも力を失うことのない目の前の羅刹兵たち。凄まじい力と勢いで斬りかかってくる。全員、斬る。一人残らず。

 返り血がむせび返すように鼻をついてくる。ここを振り切るには、あと五人倒さねば。

 思い切り剣を振って、逃げ道を見定めた時だった。更に山道に駆け付けてくる薩兵が見えた。
その数は、三十はいただろう。あっという間に取り囲まれた。刀を構える薩兵を従えた雪村鋼道は、千鶴に近づき、薩摩に下るように説得し始めた。狂っている。千鶴は父親の差し伸ばした手を見詰めたまま動けずにいた。心臓が締め付けられる。息が出来ない。行くな。雪村。

 千鶴は自分の声を聞いたようだった。決して父親には近づかず、その場で言葉を投げかけた。雪村鋼道の傍の羅刹兵の背後に、天霧の姿が見えた。あの者も……。羅刹兵を動かす輩か。耳鳴りがしてくる。千鶴の背中が震えている。雪村、行くな。

「父さま、そのお願いだけは絶対に聞けません」

 首を横にふって後退りする千鶴の姿が目に入った。豹変した雪村鋼道は、羅刹隊に千鶴を生け獲りにせよと命令した。咄嗟に千鶴の手を掴んで、自分に引き寄せた。

 ——決して、渡さぬ。

 目の前に立ちはだかる者は全員斬り捨てる。山道を西へ。走れ、雪村。急ぐぞ。

 涙で顔がぐしゃぐしゃになっている千鶴を庇いながら、ひたすら手を引いて走った。呼吸が乱れる。薙倒した羅刹は、きっと背後から追いかけて来ているのだろう。間道に分け入った。立ちふさがる枝や草も刀で叩いて前に進んだ。山を二つは超えた頃だろうか。漸く、背後から追っ手がついて居ない事を確かめることが出来た。陽の光を避けて、木陰に逃げ込むよう奥に進む、気づくと背後の大きな木の幹に背中をついて自分の身を支えていた。息が荒れたまま、戻らぬ。

 ずっと手を握っていた。
 雪村の手を。自分を心配そうにのぞき込む雪村は、涙の跡が頬に残ったまま。

 逃げ切れた。だが、江戸に向かって逃げていることは敵に知られている、直ぐに追いつかれる。一刻も早く、身を隠す場所を見つけねば。千鶴の手を離したと同時に、自分の足元を見た。革靴もズボンも筒袖も血だらけだ。腰に巻いた腹帯にも返り血がついていた。血の匂いを嗅ぐと、羅刹の発作が起きる。息が出来なくなり、心臓を捻ねり潰されそうになる。

 自分の肩に掴まれと、なんども雪村が身体を支えようとする。自分は、両足を踏ん張って、雪村から離れた。大丈夫だ。それより、峠を越さねば。雪村は「とても顔色がわるい」といって、心配そうに近づいてくる。何故、こうも俺のことを心配するのか。

 千鶴の手を振り払うように離れて、山を登る道を進もうとした。背後から「ごめんなさい」という声が聞こえて来た。振り返ると、千鶴は両手で顔を覆ったまま立ち尽くしている。その肩は震えていた。何を謝る必要がある。両手で覆った間から、むせび泣くような声が漏れている。なにゆえ、泣いているのだ。足が痛むのか。

 近づいて眺めた千鶴は、ただ小さく、か弱い。我慢して涙を堪えても抑えきれないように、両手の間から腕に涙が伝ってぽとぽとと着物に落ちているのが見えた。

 無理もない。ずっと探していた父親が、敵兵を従えてあのような物言いをしたら。衝撃を受けて当然だ。戦場の最中、人は思わぬような事を口にしてしまう事はある。それでも、自分は、ただ「泣き止め」としか言ってやれぬ。

 今も目の前の千鶴は、泣きながら眠っている。悪い夢を見ているのだろう。そっと肩に手をかけた。

「雪村、」

 何度か名前を呼んだ。ようやく千鶴は目覚めたようだった。目を開けて振り返り、「さいとうさん……」と小さな声で呟いた。

「うなされていたようだ」

 千鶴はゆっくりと起き上がった。布団の上で、ずっと項垂れたまま。千鶴は着物を脱いだ襦袢のままで布団に入っていた。胸元を押さえながら、もう片方の手で、顔の涙を拭っている。斎藤は、部屋の隅に置かれた盆の上にある茶瓶を取った。水を注いで、湯飲みを千鶴に渡すと、千鶴はそれを会釈して受け取ったまま、じっとしている。

「まだ夜更けだ。それを飲んで寝直すとよい」

 千鶴はこっくりと頷いた、それから、ずっと手の中の湯飲みを見ていた。ぼんやりとした様子は、昼間にずっと泣いていた姿と変わらない。千鶴は、父親が造り出した羅刹が皆を苦しめている事、自分のせいで斎藤が羅刹になってしまったと言って、ずっと謝り続ける。一体、なにゆえ、そのような了見になるのだろう。

「伏見では、戦場で鬼が襲ってくることは、容易に想定できた」
「もともと、あんたを留め置くと決めたのは、俺らの判断だ。あんたにはなんの落ち度もない」

 そう言ったところで、千鶴は項垂れたようにじっとしたままだった。

「俺も、もう横になる」
「用意してもらった着替えで休んで、随分と楽になった。礼を云う」

 沈み込む様子の千鶴にそう言うと。ようやく千鶴は顔を上げて斎藤を見た。日没前に駒飼宿に辿り着き、土方の念書にある宿に隠れることが出来た。街道からそれた裏通りにある宿。土方の念書の通り、宿の主人は土方の行商先の遠縁にあたり、甲斐路の宿をいつも提供していた。斎藤達は、離れの小さな部屋に通され、宿の主人は宿帳には何も書かずにおくからと言って、斎藤と千鶴を安心させた。千鶴は、斎藤の返り血を浴びた上着やズボンをすぐに、風呂場で洗って干した。斎藤には、藍絣を借りて来たものを用意し、斎藤がそれに着替えた途端、倒れ込むように畳の上で横になったのを、布団に一生懸命に運んで寝かした。

 夜更けに斎藤が目覚めた時、盆の上に握り飯と水の入った茶瓶と湯飲みが置いてあった。千鶴は部屋の隅で既に休んでいた。いつの間にか、枕元に洗った筒袖や腹帯が綺麗に畳んで置いてある。よく見ると、部屋の板の間に小さな火鉢と火熨斗が置いてあった。洗ったものを直ぐに乾かしてくれたようだった。有難い。斎藤は、お盆の上の握り飯を食べて水を飲み、土方の書いてくれた念書と、江戸までの道行書きを取り出して、江戸までの道程を確認した。笹子の峠超えは間道を伝って、大月まで出られれば。

 八王子には、二日もあれば辿り着くことができるだろう。
土方さんが援軍と戻って来るとすれば、ちょうど大月の手前で落ち合えるかもしれぬ。

 笹子峠を千鶴と超えるには、丸一日かかるだろう。斎藤はそう思った。それから道行書きを仕舞って、刀の手入れをした。刀に残った血を落とし、欠けや刃こぼれがないかを確認した。今日だけでも、何人の羅刹を斬っただろう。とどめを刺さず、ただ撫で斬るだけだった。あの者たちは、一瞬で傷はもとに戻るだろう。陽の光の中でも動く事の出来る羅刹。あれが、薩軍兵だとしたら、これからの戦いは羅刹を殺傷できる者がもっと必要になる。

 一撃でとどめを刺せる者。

 道場剣術では駄目だ。今更ながら、そう痛感した。実戦経験のある剣士。それが必要だ。京に居た頃の新選組。剣戟の稽古と実戦を積んだ者たちが居りさえすれば……。そんなことを考えた時だった、背後に千鶴のすすり泣く声が聞こえたのは。

 部屋の隅で、再び背を向けて横になった千鶴が見えた。小さき者。どんなことをしてでも江戸へ。安全な場所へ連れ帰る。鬼の来ない場所へ。

 斎藤は目を瞑って眠りに落ちる瞬間も、昼間に薩兵の中にいた天霧の姿を思い出していた。

 風間様へこの女を献上する

 昼間に動ける羅刹兵、風間、雪村鋼道……。西軍。撃つ。どんなことをしてでも……。




*****

慶応四年三月八日

 斎藤と千鶴が江戸へ逃げ帰る一方、千鶴を追う事を諦めた雪村鋼道は、甲府城の土佐藩兵に加勢していた羅刹兵を一同に集め、今度は駿府に向かっていた。これは風間の命令に従う為であった。京を出立した薩摩藩の征東軍は駿府城に布陣していた。甲府城を占拠している土佐藩軍の大将より、羅刹兵の移動許可を貰った鋼道は、甲府を出る際、江戸の土佐藩屋敷に駐在している南雲薫へ伝令を送った。

 近く、江戸総攻撃。
 機を逃さぬよう

 この伝令の内容は、全て天霧に知られていた。天霧は薩摩藩の命令で雪村鋼道を補佐していると見せかけていたが、実際は風間の指示で雪村鋼道を逐一監視していた。土佐藩の南雲薫と結託した雪村鋼道が羅刹兵を従えて何を企んでいるのか。それを探る為。変若水で羅刹を生み出す雪村鋼道の真の目的とは。

 ——人間の世界を滅ぼし、鬼の世を作るため。

 鬼の力。雪村鋼道が生み出す鬼まがいの力は、完全な鬼の力への冒涜。風間は雪村鋼道の羅刹開発を否定し、雪村鋼道の暴走を止める必要があると言い出した。天霧は自然な成り行きだと思っていた。だが、薩摩藩が保護をする雪村鋼道を風間が撃つとなると、藩は黙ってはいない。西国の鬼の一族の存続は、薩摩藩との盟約の元に成り立っている。風間は今も老中の要請で、この戦の最中に諸外国が攻め込んでくるのを警戒して、神戸に駐在している。そして表向きは雪村鋼道を保護する役目を担っている。

 天霧は、江戸の南雲薫が鋼道と謀り事をしている事は把握していた。南雲薫も藩邸に数十名の羅刹隊を率いている。風間に式鬼を送り、甲府での戦について報告をした。直ぐに、風間より式鬼が届き、風間は神戸を発って一両日中に、江戸へ向かうと報せて来た。式鬼は語らなかったが、江戸総攻撃の前に風間は今度こそ雪村千鶴を保護するつもりであろう。




*****

桜の匂い

 斎藤と千鶴が八王子に到着したのは、それから二日後の三月十日だった。

 八王子宿では、既に甲府から敗走した鎮撫隊が通り、急ぎ江戸に向かって行った事が判った。後で知った事だが、江戸に援軍を呼びに行っていた土方も八王子まで戻ったところで合流し、三月九日には日野を通過。途中、日野の本陣に立ち寄った斎藤と千鶴は、前日に土方が鎮撫隊と一緒に江戸へ向かったと報告を受けた。

 日野には春日隊を率いていた佐藤彦五郎の姿はなかった。本陣には使用人しかおらず、佐藤家は一家全員が新政府軍の手から逃れるために、既にどこかに移動してしまっていた。斎藤は、日差しが厳しくなる前に日野を出立して府中に向かった。この晴天の中、街道の移動は厳しい。千鶴の疲労している様子も気になった。五つを過ぎた頃、府中村若松の関田家に辿り着いた。

 関田家の主人の庄五郎は、洋装で現れた斎藤を見て大層慌てていた。薩軍が攻めて来た。ここ府中村では、地頭の指示で新政府軍、幕軍のどちらにも要請があれば人夫と馬を差し出すというお触れが出ていた。斎藤が以前に試衛場の沖田総司と一緒に、ここに泊めてもらったことがあると挨拶すると、庄五郎は思い出したように笑顔になった。直ぐに母屋の奥の間に通された、雨戸を閉め切ってくれたのが有難い。

「よくご無事で。五日前まで総司がここで逗留しておりました」
「甲府に向かう途中で具合が悪うなって、近藤先生がここに連れて来て下さいましてな」
「あれの姉のおみつがやって来て。江戸に連れて帰って」
「なんでも、松本良順という偉いお医者様に総司は診てもらえるそうで」

 庄五郎から、甲行軍から離脱した総司がここから江戸に搬送されたと聞いて斎藤は安堵した。松本先生の元に居るのなら。安全に匿われていることだろう。直ぐに横になった斎藤がしっかりと休んでいる様子を確かめると、千鶴は庄五郎に案内されて、母屋の裏手に設えた風呂に入った。目の前に広がる田園風景は長閑で、遠くに見える河原の土手には一面に桜の花が咲いている。淡い桜色をぼんやりと眺めながら、江戸を発って目まぐるしく移動を繰り返して来た、この十日余りの日々を思い返した。きっと、甲府の野山にも桜は咲いていただろうに。

 でも、目にしていても気づいてもいなかったのだろう。必死だったから。
 この長閑な景色も、いずれ変わるのかも。

 ふと、そんな気持ちが過った。千鶴は首を横に振った。湯冷めしない内に母屋に戻って、横になって休んだ。きっと、夜になると出立する。江戸へ、皆さんの元へ出来るだけ早くに戻らなければ。

 斎藤は薄暮の時間に起きて、身支度をした。千鶴は、先に起きて握り飯を作ったと言って、庄五郎が用意した内飼袋を背中に斜めに掛けて玄関で草鞋を履いて待っていた。真新しい草鞋。庄五郎が千鶴の為に作ったものらしい。斎藤と千鶴は重々に庄五郎に礼を言って、若松を後にした。外はもう空は紫に変わっていた。街道は暗いが、提灯を灯すと目立つ。斎藤は、道の端を歩いて千鶴は真隣に寄り添うように歩いた。夜目の聞く斎藤は、千鶴の暗い足元に気をつけながら歩を進めた。ここ数日雨が続いていたらしく、ところどころに水溜まりがあった。斎藤が右腕を伸ばすと、千鶴は遮られ歩を止める。手を引かれて、水たまりや大きな石をやり過ごす。再び歩き出す。無言のまま、そのように二人は歩き続けた。

「桜の花の香りがしています」

 千鶴がそういう声が聞こえた。確かに、この辺りはずっと道沿いに桜の木が続いていた。夜空に白く浮かび上がるように、たわわに咲いた桜はほぼ満開だった。ちょうど布田を超えた頃だった。道の端にあった大きな石の上に二人で腰を掛けてひと休みした。

「寒くはないか」
「いいえ、ちっとも」
「歩いていると、身体は温かいものです」
「ならば良い」

 千鶴の差し出す握り飯を受け取って食べた。百間ほど先の小さな森山には、木の枝の上に梟が佇んでこっちを見ている。首をくるくると動かして。用水路が近いのか、そこで蜥蜴のようなものが動いたのも見えた気がした。この様な夜中でも、起きて活動しているものがいるのだな。当たり前のことだが、そう思った。夜目の利く羅刹の身では、辺りはうるさ過ぎるぐらいに感じる。

「ほんとうに静かですね」

 隣の千鶴は辺りをゆっくり眺めながら斎藤にそう話かけている。静寂の中にいる千鶴は、暗闇が恐ろしくはないのだろうか。時折、道を歩きながら斎藤の筒袖の肘のところに掴まることもあれば、上着の裾を掴むこともあった。何かの気配を感じるのか、ふと足が止まる。「どうした」と尋ねると、「なんでもありません」と言うが、その瞳は暗闇の中の何かに脅えている風に見えた。途中から、千鶴の左手をとって歩くようになった。千鶴はずっと恥ずかしそうに俯いているが、仕方がない。多少不躾だが、こうして歩いて居る方が安心出来た。

 あらゆる音の中で、千鶴の手のぬくもりは桜の匂いと一緒に、己が今生きていること、千鶴も無事に生きている事を実感させていた。それは、不思議と斎藤の身の内に何か温かい希望のようなものが次第に湧いてくるようで。一歩一歩を踏みしめながら、江戸に向かう足取りは力強く、これからの事に立ち向かう気持ちになって行った。




つづく

→次話 戊辰一八六八 その7

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