金子邸でのこと

金子邸でのこと

戊辰一八六八 その8

慶応四年三月

 斎藤と千鶴が五兵衛新田に移って十日ほどが過ぎた。

 ほぼ毎日のように新たに隊士が合流し、その人数は百七十名になった。かつて京に居た頃のような大所帯になった新選組を見て、局長の近藤はなんとか面目が果たせたと呟いた。
「新隊士たちには訓練が必要だろう」
「吉沢様から軍資金も頂いている。明日、会津藩邸から兼川様もみえる」
 近藤が幕府軍事方の吉沢より軍資金が下りたことを皆に伝え、「近く新政府軍が江戸に進軍してくる為転陣して戦に備える」と厳しい表情を見せた。

 千鶴は大広間に集まった隊士たちの最後列に座って近藤の話を聞いていた。斎藤は隊士たちの一番前の席に静かに座っている。斎藤はここ五日間、昼夜ずっと眠らずに幕府や会津藩から訪れる要人の対応に追われていた。鍛冶橋の酒井屋敷に滞在している土方が、今戸の松本良順と江戸城の連絡係をしている最中、斎藤は金子邸で物資の記録管理掛として書類作成にも携わっている。顔色の悪い斎藤を心配する千鶴は、少しの時間でも斎藤に奥の間で身体を休めて欲しいと思っていた。
「斎藤さん、どうか。昼餉の後は夕刻までお休みになってください」
 合議が終わった後、千鶴は斎藤を隊士たちの昼餉の席に案内して頼んだ。
「心配には及ばぬ。午後は観音寺へ武器庫の確認に出向く。あんたは吉田と河合とここに待機していてくれ」
 観音寺は、金子邸から数軒離れた場所にあった。溢れかえる隊士たちの収容先として斎藤の部下も寝泊まりをしている。三番組隊士の話では、ここ数日鍛冶橋の酒井屋敷から羅刹隊の一部が移動してきているということだった。武器庫として使っている大きな土蔵に日の光を避けて羅刹隊士が休んでいる。

 その日は夜更けになっても斎藤は戻ってこなかった。千鶴は斎藤に言われた通り、金子邸の近藤の部屋で書類の整理をしていた。近藤は、行李の中から古い書物を出しては虫干しでもするかのように畳の上に並べ、時折手に取って読み耽っている。その横顔はどこか無表情で全く覇気を感じない。千鶴は近藤にお茶を差し出しながら、何の書物を読んでいるのかと訊ねた。近藤は古い軍記ものだと答えて、「乱世の頃、多くの武将が知略で闘った。儂は幼い頃よりこのような話を好んでいてな。戦では、このように闘いたいものだと思う」と微笑んだ。千鶴は近藤の表情に僅かに明るさが戻ったのが見えた気がした。連日の合議で戦に備えようとしている近藤が、こうして書物に目を通して少しの息抜きをされているのなら良い。そう思った千鶴は、邪魔をしないように近藤の部屋からそっと退出していった。

 朝方、まだ薄明の刻、斎藤が霧の中から戻った。千鶴はお勝手の土間から走って玄関に出て斎藤を出迎えた。
「おかえりなさいませ」
「もう、起きておるのか」
「はい、朝餉はすぐに用意できます」
 斎藤が革靴を脱ぐ傍で、千鶴は受け取った打刀の鞘についた朝露を袖で拭っている。千鶴に斎藤は、「副長はこちらに着いておられるか」と訊ねた。千鶴は首を横に振った。
「平助の話では、今戸をもう出ているということだったが」
「どこかに逗留されておるやもしれぬな」
 斎藤は独り言のように呟くと、千鶴に促されて台所で朝餉を食べた。給仕を終えた千鶴は斎藤にお茶を差し出すと、「お部屋を準備をいたします」と言って台所を出て廊下を走って行った。斎藤が自室に戻ると、着替えが準備され布団が敷いてあった。千鶴は、斎藤に上着もズボンも脱げと言って正座して待っている。
「下着も靴下も全てお洗濯しますので」
「今日は午後の合議まで御寝巻きで、それまでに下着は洗って準備しておきます」
 千鶴は着替えをする斎藤に背中を向けて、部屋の荷物を整理している。一体。この忙しい時に寝間着でのうのうと寝ていろと言うのか。斎藤は小さく溜息を吐いた。
「休むわけにはいかぬ」
 斎藤がそう言うのを見計らったかのように、「近藤さんのお言いつけですから」ときっぱりと千鶴は云った。まるで最初から用意していた口上のように。
「午後の合議まで、斎藤さんには休んでもらうようにとのご命令です」
そう言って、「着替えを受け取ります」と背中を向けたまま手を伸ばした。困ったものだ。雪村がなにゆえ自分の世話をここまで焼きたがるのかがわからぬ。仕方なく斎藤は、脱いだ上着とズボンを渡した。千鶴はそれらを衣文掛に丁寧に掛けて、斎藤が脱いだ下着をまとめると、靴下を裏返して「やっぱり」と呟いた。
「斎藤さん、足の指、怪我をされています」
「そこに座って見せてください」
 千鶴に言われるままに、斎藤は尻をついて座って右足を伸ばした。小指の裏が革靴で擦れて血豆が出来た所が潰れていた。痛みがあるが、革靴を履いているとこれは避けられぬ。それに、血豆など翌日には消えてなくなるものだと斎藤は気にしていなかった。千鶴は手拭の端に唾をつけて、斎藤の指の傷をなんども拭き取っている。「さぞ痛いでしょう。斎藤さん、包帯を持ってまいります」と言って、そっと足を手拭の上に置き直すと、奥の行李から手当ての膏薬と油紙と包帯を持って来た。
「隊士さんの多くが、血豆を足につくられています」
「草鞋履きの隊士さんはお元気です」
「革靴は丈夫ですが、足の指が窮屈なんですって」
 斎藤は千鶴が手当てをするのをぼんやりと眺めていた。膝に敷いた手拭の上で大切そうに足を載せて、傷口に膏薬をつけ油紙で覆い包帯を丁寧に巻いた。それから大きめの足袋をそっとその上に履かせた。どこからこのような大きな足袋を。用意周到な千鶴に驚く。足袋の上から、千鶴は、その小さな手をずっと足の甲に当てたまま動かなかった。
「転陣が近いそうです。早くよくなりますように」
 そう小さく呟く千鶴は、長い睫毛を伏せたまま祈るようにずっと斎藤の足を膝に置いて手を当てていた。鳩尾から胸にかけて広がるこの温かさは何であろう。外の霧が晴れてきたのか、もう春も本番だ。そんなことをぼうっと考えていると。千鶴はゆっくり顔をあげた。黒い大きな瞳。黙ったまま互いに暫く目を合せる。
「昼餉の準備が出来ましたら、起こしに伺います」
 静かに千鶴は云うと、そっと斎藤の足を畳に置いて立ち上がった。ずっと廊下から、斎藤が布団に入るのを見届けるように立っていた千鶴は、斎藤が休んだのを確かめると、洗濯をしに中庭に向かった。




******

周章狼狽

 平助は薄暗い道を歩いていた。右側には河岸の堀割。柳の緑が風で揺れている。歩けども歩けども先に見えるのは暗闇。その先に建屋がある筈だ。そうだろ、高瀬川なんだから。船宿扇屋。なんでだ、ここは江戸じゃねえの。高瀬川のわけねえし……。

 歩く地面は、心もとない感覚。
 行けども行けども、着きやしねえ。じれってえな。

 何かの拍子に目覚めた。目の前は黒い闇。夢うつつ。夢、そうか。ここはどこだ。手を伸ばした先に自分の刀と葛籠が見えた。薄い布団の上か。寝汗をかいちまってる。まだ夢の中。そうなのか。その時だった、ガタゴトと大きな音がして明るい光が土間に射してきた。眩しい。痛えよ。誰だよ、こんな昼間っからここに入ってくる奴は。

 寝返るのも面倒な平助は気づかない振りをしていようと思って、もう一度目を瞑った。はあはあという荒い息が聞こえる。なんだ。そう思って、少しだけ首を起こして光の射した方を見た。光と云っても、もう既に土間の引き戸は閉じられている。そこに蹲る影。誰だ。苦しそうに。平助は、起き上がった。自分が横になっている場所からは、はっきりと影が誰かはわからない。だが、荒い息は隊士の誰かだと思った。羅刹の発作を起こしたのか。

 ようやく夢うつつの状態から目覚めた平助はゆっくりと身体を起こした。まだ半分眠ったままの頭はすっきりとしない。

(だいたい、さっきまで京の高瀬川のほとりを歩いてたのに)

 平助は今いる場所が、江戸を離れた五兵衛新田にある屋敷の土蔵の中だと思い出すまでにしばらく時間がかかった。暗がりにうずくまる影は、膝をついて壁に手をついていた。荒い息は収まっているが。じっと動かない。黒っぽい洋装。足元は裸足。

「おい、大丈夫か」

 平助の声に影の男は飛び上がった。「その声は、平助か」と男は訊き返してきた。声から斎藤だと思った平助は、「はじめくん?」「なんだ、はじめくんだったのか」と言いながら、布団から起き上がった。斎藤は酷く落ち着かぬ様子だった。平助は、斎藤が羅刹の発作を起こしていると思った。
「苦しいのかよ。はじめくん」
「オレ、薬持ってる」
「水もある。待ってろよ」
 平助は自分の荷物をまさぐっている。「いや、いい」「平助、薬は必要ない」という斎藤の声が聞こえた。平助は、「我慢しなくていいって」といいながら薬と水筒を差し出した。
「発作ではない」
 斎藤はそう言って、平助の向けた水筒を手で押し返した。斎藤の顔を見ると、確かに血色もよく具合は悪いようには見えなかった。
「休んでいたところを邪魔して悪かった」
 そう言って斎藤は土蔵から出て行こうとしたが、平助は引き留めた。
「もうそろそろ起きるとこだったんだ。静かなとこだから、つい眠りこけちまって」
 そういいながら、平助は水筒の水をごくごくと音をたてて飲んだ。
「さっきはなんか慌てた様子だったけど。外でなんかあったのかよ」
「いや、なにもない」

 斎藤は真顔で即答する。「あんまり、息苦しそうだったからさ」「走ってきたの?」と平助は矢継ぎ早に質問する。斎藤は焦り始めた。
「なんだよ、はじめくん」
「顔が赤い」
「熱でもあんのかよ」
 

 ——言えるわけがない。

 斎藤は思った。そして自分の顔を覗き込む平助から顔を逸らした。さっき起きた事はどうしようもなかった。

(己の所業は。許されるものではない)

 また心の臓が早く動き始めた。俺は何という事を。俺は一体……。

「……はじめくん、どうしたんだよ」
「さっきから、何度も呼んでるのに。聞いてないのかよ」

 平助は傍にある大きな行李の上に腰を掛けていた。平助は隣の行李の蓋をぽんぽんと叩いて、そこに座れと合図している。
「ああ」
 斎藤は返事をしてから行李の上に座った。平助は水筒を差し出してきた。斎藤は素直に水筒を受け取って飲んだ。

(落ち着く。落ち着いてきた。それにしても、さっきの俺は)

 また断像が思い浮かぶ。胸の鼓動が早くなる。

 ——雪村。雪村に触れてしまった。
 なんてことを。

 頭から断像を振り払おうとしても、自分の唇に残った感触を思い出す。それは柔らかく甘美でこの世のものとは思えないぐらい気持ちのいい、夢見心地のような。雪村から香る匂いは優しく自分の全身を包む。舌触りは何とも言えぬ。ずっと触れていたいと思った。あのままずっと。

 ——このまま、このまま。

 そう願っていた。離したくなかった。

「……あの、斎藤さん、もしかしてまだ飲み足りませんか」

 雪村の声にとびのいて咄嗟に謝った。雪村の瞳が驚いたように見開いている。俺はなんということを。

「もう一度、傷をつけた方がいいでしょうか」
「いや、別に……。飲み足りなかったわけではない」

 こう答えるのがやっとだった。雪村は、飲み足りなければいつでも仰ってくださいといって笑う。純真無垢な表情で覗き込まれるのが辛い。いたたまれない気持ちで、その場を去るしかなかった。

(なんということをしてしまったのだ)

 じっと雪村が俺を見ているのがわかった。俺がしてしまった事を、気づいておるのだろうか。
 なんということを。俺は血を飲むばかりか、我を忘れて。

 雪村に触れた。触れてしまった。
 一番柔らかな場所に。それもいい匂いがする。

 何を考えておるのだ。

 首を振って頭から追い払った。いかん。己に禁ずる。雪村には済まぬことをしてしまった。己の助平心が情けない。武士にあるまじき行為。純真無垢な。あの雪村に……。

 忘れなければならないと、頭の断像を振り払っても。唇や舌に感じた感触がどうしても拭えなかった。

「おい、はじめくん。ほんと、大丈夫かよ」

 平助が自分の肩に手をかけて顔を覗き込んで心配している。自分でもわかっている。身が熱い。顔が熱い。耳が熱い。情けないが狼狽している。平助は、挙措を失っている斎藤を見て「熱でもあるんじゃねえの」と額に手を当てた。

「大事はない。今日は空が晴れて暑いゆえ」

 必死に押し隠した。まさか言える筈がなかろう。

「土方さんがこっちに着くのが遅れてるって。なにか理由聞いてる?」
「酒井屋敷をでたのは、二日前。オレも一緒に江戸を出たからさ」
「今戸に立ち寄るって言ってたけど、どうしたんだろうな」

 平助は土方の到着が遅れていることを気に掛けている。

「ああ、松本先生のところだ。幕府との交渉事で、今戸を出られないと伝令が来ていた」
「島田君が一緒だ。何かあれば局長に報せがくる」

 平助は土方の行方を知って安堵したようだった。
「山南さんがさ、ここには立ち寄らねえで、残りの隊士連れて新しい陣に向かうことになってんだ」
「オレの部隊は観音寺にいる三十名。先陣隊だ」
「はじめくん、土方さんにも伝えてあるんだけど」
 平助はそう前置きをしてから、江戸に残った山南の動きについて斎藤に話した。土佐藩と羅刹開発で協力関係を結んだ山南は密かに羅刹隊の活動資金を得ているということだった。

「いいか、はじめくん。オレが陣屋の柱にこれを結ぶ。これが印だ」
そう言って、平助は自分の手首に巻いた巾布を見せた。薄茶色の巾布は、平助がいつも刀を取る時の汗止めにつけているもの。

「なにか、羅刹隊が事を起こす時、先にこれで知らせる」
 手首を指し示すように向ける平助の顔は真剣な表情だった。
「山南さんがまさか謀反を起こすことはねえだろうけど」
「オレは先に知らせるしか出来ねえかもしれねえ」
「でもぜってえ、そんな事させねえようにするから」

 斎藤は黙って頷いた。土方が不在中に、江戸に残っている山南の行動も把握ができないと平助はじれったいといった様子で話している。斎藤は平助に、転陣が近いこと。副長が一両日中にでも金子邸に到着すること。すぐに陣の移動が始まるだろうと告げた。平助は頷いた。観音寺の羅刹隊は、統制がとれていて落ち着いた部隊ということだった。仮眠の後に、夕方から平助は寺に移ると斎藤に告げた。

「千鶴はどうしてる?」

 千鶴の名前が出たところで、再び斎藤の胸の鼓動が早まった。
「変わりはない」
 そう答えるのがやっとだ。平助は千鶴の無事に安堵した様子で、夕方に観音寺に移る前に千鶴に挨拶すると云って笑った。
「俺さ、千鶴には江戸の外でどこか安全な場所を見つけてやりてえと思ってて」
「土方さんは、これから会津に向かうとか言ってるし。戦に千鶴を連れまわすのかと思うと不憫でさ」
「甲府では、はじめくんが一緒だったから助かったんだ。でもあの時も陣幕に待機させたんだろ」
「薩摩の奴が鉄砲や大砲撃ってくる場所に、千鶴を置いておけねえって」
「転陣先でオレいい場所見つけるよ」
「江戸より北なら常陸霞ケ浦も良い所だってさ」
「どこか、静かで安全な場所を見つけてやらねえと」

 斎藤も同じ事を考えていた。既に三番組の部下である久米部が負傷した隊士を連れて会津に向かっている。合議では新選組はいずれ会津に向かうことになると会津藩の参謀方が言っていた。斎藤は会津に千鶴を連れて行くことはないだろうと思っていた。千鶴が実家のある江戸を離れて、新選組と共に行動をする必要はない。

 我々に義理立てる必要は無いだろう。

「土方さんにも、さんざん言ってんだけどな」

 平助は行李の上で踏ん反り返るように座って足を組みかえると、「江戸を出る時に、新八っつあん達と会って来た」と斎藤に報告した。ぱっつあんと左之さんは、「靖共隊」って部隊作ったってさ。
「はじめくん、知ってる? 上野五軒町通りの長屋に龍之介が住んでるんだってさ」
 平助の云う龍之介は、京の壬生で共に暮らした井吹龍之介という男のことだ。士分の出自でありながら、頑なに刀を取ることを拒んだ男。刀を己の生きる道と決めた斎藤とは全く真逆の生き方。確か龍之介は屯所から追われた後、江戸に移って錦絵を描いていると聞いていた。もう遥か昔の事のように感じる。井吹龍之介か。無事に生きておるのだな。
「あいつ、人相書きから芝居小屋の役者絵まで描くってよ。今じゃ、上野辺りで人気絵師だって」
「鴨川に流されて行っちまったのが、どこまでも運のいい奴だよ」
「左之さん、吉原の馴染みのところと龍之介の長屋を行ったり来たりだって」
「ぱっつあんも松前藩の知り合いと北上しようって盛り上がってるってさ」
 オレらも、会津に向かったら向こうでまた会えるかもなって。そう云ったら、左之さん達「また会おうぜ」って。平助は嬉しそうに話をする。そうか。左之たちも北を目指そうとしているのか。斎藤は嬉しかった。袂を分かったかつての仲間が、同じような志で居る事はやはり嬉しいことだった。

 もう一休みしたいという平助と別れて、斎藤は母屋に戻った。千鶴は隊士たちと一緒に食材の買い出しに出掛けていた。千鶴と顔を合せずに済んで、斎藤は内心ほっとした。もう決して、雪村の目前で倒れてはならん。具合の悪い様子を見せてはならん。さもなくば。

 ——さもなくば、またあのような疚しい行いをしてしまう。
 血を飲むことも、雪村に触れる事も、決してやってはならん。

 斎藤は心に誓った。

 なかなか外出から戻らない千鶴は、墨田川を上ったところにある農家へ、沢山の鶏卵を貰らいに向かったということだった。斎藤が思った通り、その夜土方が島田魁や相馬と野村と一緒に金子邸に辿り着いた。一緒に幕府の役人が二名金子邸を訪れた。勝阿波守の参謀方だという。上客として迎えよという近藤の指示で、千鶴は貰って来た鶏卵を使って豪勢な食事を用意した。

 夜遅くまで軍議が開かれていた。斎藤が朝方まで部屋に戻らないのを、千鶴はずっと部屋で起きて待っていた。夜中に平助が廊下から声を掛けて来たのが聞こえた。久しぶりに見る平助の元気な姿に千鶴は笑顔になった。平助は、「合議が終わった。これから観音寺の羅刹隊を連れて先に流山に転陣する」と云った。千鶴は【流山】という場所がどこにあるのかと尋ねた。安房の国だと聞いて、千鶴は生れて初めて行く場所だと微笑んだ。平助は先に行って千鶴たちを待っているからと、そのまま廊下を玄関に向かって歩いて行った。

 斎藤たちが安房国流山に向かうのは、その三日後だった。江戸に唯一の心残りは、千駄ヶ谷で独り療養している総司と別れてきたことだった。




つづく

 

→次話 戊辰一八六八 その9

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