六十九日の終わり
戊辰一八六八 その18
慶応四年七月一日
立石山
日の出と共に千鶴は人夫に連れられて荷車を押しながら羽太村関屋の陣から街道を北上して羽鳥村に移動した。
千鶴を送り出すと同時に、斎藤たち新選組は会義隊と共に関屋から白河に向けて進軍した。作戦では仙台、二本松兵が合兵し柏野を台場に大砲を置き先陣する。そして会津軍が西側の雷神山から米村へ下りて敵陣を奇襲攻撃することになっていた。会軍の殿を進む会義隊と新選組は、既に進路が出来た所を一気に堀川に進む。川向うには立石山。この山を取れば、西側から城を攻め落とすことが叶う。
柏野台場を過ぎた時、もう既に陽は高く、辺りは数日前の焚き討ちで燃え落ちた木々の上にギラギラと陽射しが照り付けていた。斎藤は歩兵指図下役の千田兵衛と一緒に、隊列と並行するように間道を通っていた。道は悪いが林の中は陽射しを避けられる為、斎藤は無理なく足を進めることが出来た。それでも気温が高く、千田は息を切らしながら速足で進んでいる。
「隊長、堀川に着いたら、わたしはこのまま渉ります」
千田は紀伊の生まれ。山深い里で育ち、幼い頃より河を舟で行き来していた。「我は紀州の河童」と言って泳ぎが得意なことをいつも自慢している。間道開拓の間は、常に斎藤に付いて、川にぶつかると真っ先に水の中に入って足場を確かめるのが役目だ。三代や長沼の渓流では、急激な流れの中で、首まで水に浸かって足場を確保して皆を対岸に渡した。千田兵衛は水回りでも大層頼もしい部下だ。
今も気温が上がる中、水の中に早く飛び込みたいと言って笑っている。走りながら、兵糧の入った内飼を腰から肩に引き上げている。随分と準備がよい。斎藤は、前を進む千田の動きに感心しながら足を進めていた。既に遠くに砲撃の音がしていた。先頭を切った仙台、二本松兵は、既に戦闘を始めていた。斎藤は、自分も内飼を肩に引き上げて、川渡りの準備をした。
一気に、立石山を攻める。
堀川の対岸に敵兵が居る事は想定していた。川の手前の天神山の中腹で隊を整えて、山道を一気に駆け下りる。斎藤は敵の砲撃を避ける為に紡錘型をとるよう指示していた。会義隊と総勢百五十名。小隊だが十分に敵陣を崩せる。斎藤は、新選組はもとより、下士身分で結成されたという会義隊が腕利き揃いであることを実感していた。隊長の野田進は非常に目端が利き、攻撃と退却の好機を見誤ることがまずない。野田も斎藤と新選組には多大な信頼を寄せていることを斎藤はよく判っていた。
古天神と呼ばれる山の中腹で一旦隊を整えた新選組は、一気に堀川の州に降り立った。陽は頭の真上にある。敵の砲撃が始まったと同時に、斎藤達は川を渡って堤防に駆けあがり敵陣を攻めた。四半刻も闘わない内に敵は戦力を喪失して後退していった。放棄された大砲は二門。どちらも小規模なもので、砲弾も握り拳位の大きさのものが蜜柑箱のようなものに積み残されたままになっていた。
会津軍の上田隊主要部隊はそこで立石山の北側を金勝寺山に攻め込むように進軍していった。上田隊と分かれた斎藤達は南側に進んで山の斜面を上がって行った。敵は小銃で攻撃を開始した。途中から刀や槍を持った敵兵が山上から降ってくるように襲って来た。斎藤は前線で次々に敵兵を斬り倒して行った。
薩兵か。
山頂に薩摩の旗が目に入り、特徴のある軍服姿の兵士が斬り込んで来た。大きな男だ。振りかぶる一刀。薩摩の剣。ひと振り目をまともに受けてはならん。斎藤はそう思って、素早く身を躱すと相手が山壁に足元を踏ん張って態勢を整える影を見た。
「こっから先はぜったいに通してはならん」
煌めくような刀を振りかざしていた相手が低い地響きのするような声で叫んだ。この声に辺りの薩兵は鼓舞されたかのように、雄叫びを上げて一気に斬りかかって来た。この軍服が大将か。この者から太刀をまともに受けては足元から崩される。斎藤はそう思った。
「五番、かかれ」
斎藤は叫んだ。これは隊を山の西側に進める合図。隊士たちは、足場をずらすように敵兵の隙をついて徐々に山肌を西側に移動し始めた。その時、頭上から砲撃の音がした。大垣藩兵が旗を掲げながら小銃で応戦して来た。斎藤は敵の大将と斬り結んだ。相手が上段から押し込もうとするところを、一瞬の隙で相手の懐に飛び込み、切り返すように相手の脇腹に突きを入れた。相手は素早く斎藤の剣を刀の峰で受けて坂を滑るように下りて行った。その瞬間、敵の砲火が続けて斎藤の頭上から降って来た。斎藤は身をかがめるように山の中腹を西側に回ると隊列を整えて、再び山上に向かって突撃していった。薩兵が山の斜面から後退していく。大垣藩兵の銃砲が止み、斎藤達は一気に山を駆け上がった。
山上では大垣兵と薩摩兵を会義隊の小銃部隊が囲うように砲撃していた。敵兵は命からがら山の斜面を北側の金勝寺山方面に敗走して行く。味方の大勝利。前日に野田と陣形相談をして、新選組が山の南側の斜面から敵を攻めている間に、会義隊の小銃部隊を敵兵の背後に廻って追い込む作戦を密かに立てた。奇襲攻撃は見事に成功した。
斎藤達は会義隊の隊士たちと頷き合うと、敵陣を確認して放棄された武器類を確認した。砲弾が入った木箱が三つ。木箱には「薩州四番隊付機械方」と書かれてあった。ただちに立石山攻略の伝令を走らせた。
山の北側に回ると、敵兵が再び向かいの金勝寺山から攻めてくるのが見えた。その兵数はさっきの二倍。会津上田隊大隊は、既に金勝寺山に入ってしまい姿は見えない。斎藤達小隊は大砲を武備していない。このまま敵兵と斬り合いになれば兵数では圧倒的に不利だ。
「山口殿、一旦撤退です。雷神山までの退路は確保でぎでいる」
野田の鶴の一声で、新選組と会義隊は一気に堀川の川岸まで山を駆け下り、敵兵が再び立石山の山麓に辿り着く前に、向こう岸に渉り終えた。程無く背後からの追撃が始まった。
*****
羽鳥村への退避
「明日の朝、あんたには羽鳥村に行ってもらう」
白河奪還作戦の前日。夜更けに斎藤の部屋に膳を運んだ千鶴に、斎藤は陣営から離れた羽鳥の山間部に移動するよう命令した。兵糧と当面の食糧を積んだ荷車を羽鳥の山間の村落に運び、千鶴はそこで待機する。関屋村の地頭が千鶴に随行し護衛することが決まっていた。千鶴は翌日の白河攻撃は、兵の数では今までで一番の大きな戦になると知らされた。
「会軍は、二本松の後につく。俺等は一番殿を行く」
「柏野から北の街道は、退却時に火を放ち焚き落とすことに決まった」
千鶴はこれを聞いて息を呑んだ。柏野が火の海になっていた風景を思い出す。山の谷間の村落が全て焚き落とされた。事前にそこに暮らす民は山間部に避難させたと後で聞いたが、建屋全てが燃えて山の麓までが焼けていく様子は恐ろしく、家を追われた村の人々の事を思うと千鶴は胸が痛んだ。
「敵兵が建屋に立てこもり拠点を築くことを防がねばならん」
「大谷地が敵にとられたと報せがあった。敵が街道を勢至堂に向けて進軍する可能性がある」
黙って頷く千鶴に、斎藤は暫く黙ったままじっと正座をしていた。
「隊を率いて必ず羽鳥に向かう」
「それまで決して街道に下りて来てはならぬ」
「味方が見えても、敵が押し寄せてきても。あんたには山の中で隠れていて貰いたい」
「小隊は分散させて必ず帰陣させる」
明日は早い。地頭の家ではいつでも移動が出来るようにしていて欲しい。
斎藤は千鶴に山間の移動図を渡した。それは間道開拓の末に出来た秘密の経路図。万が一、隊からはぐれたとしても、街道の本道を避けて福良の本陣まで戻る道が記されていた。千鶴は斎藤から「今夜はもう休め」と言われたが、「自室で荷造りをします」と言って部屋を下がった。
千鶴は荷づくりをしながら、翌日からの戦は今までで一番大きな長い戦になるのではと思った。隊から遠く離れた場所での待機に戸惑いと不安な気持ちで一杯になってきた。
(山間移動図。今まで持たされたことなんてなかった……)
千鶴は蝋燭の灯で細かく記された間道地図を確かめるように眺めた。白河から二つの街道を縦横無尽に移動が出来るようになっている。無数の基地や塹壕の印。待機場所には丸が付けてあった。羽鳥まで四里。斎藤と福良から行軍して来た道を行けば、太平口に出る。そこからは馬入峠。険しい道。福良に向かわずに、峠とは別の山道をひたすら西に進めば、若松のご城下に戻ることが出来ると斎藤は言っていた。
「湖畔を通るより険しいが、万が一福良に戻れぬ時は、東山の土方さんの元へ大平口から向かうことも出来る」
「南会津では、同盟に賛同する藩が順に北上して堅固に街道を守っていると伝達があった」
「会津は決して墜ちぬ」
斎藤が千鶴の眼を見てはっきりとそう言った。斎藤の双眸は深い碧で優しく千鶴を包み込むように輝いていた。千鶴は深く頷いた。
(斎藤さんは微笑まれていた)
千鶴は移動図をそっと畳むと荷造りを始めた。丑三つに近かったが、横になっても眠りにつくことはできないと思った千鶴は、隊士全員に兵糧を余分に一つずつ配ろうと思い立ち、荷車から穀袋を抱えて部屋に戻ると、油紙と晒しを持ってきて、出陣する隊士全員の兵糧を作った。
明け方に近い頃、広間に置かれた四角盆の上に二寸ほどの棒状の包みが無数に積み上げられていた。起き出して出陣の準備を始めた隊士たちに、千鶴は包を一つ一つ手渡し、「手の届く襷の間にくぐり付けて置く様に」と念を押した。
「内飼に握り飯と梅干が入れてあります。そちらを先に。これは予備の兵糧です。万が一の時のものです」
広間は出陣の仕度をする隊士で一杯になった。千鶴は、勝手口で最後の片付けをして、荷車に全ての荷物を積み終えた。斎藤の姿を探したが、軍議に出ているのか廊下にも奥の部屋にも居ない。隊士たちが沿道に隊列を作り始めた。建屋には火を付けるための焚き木が準備されている。退却時に街道沿いの建屋は全て燃やされる。千鶴は、既に空っぽになった沿道の家々を眺めた。
千鶴は間もなく地頭と人夫に呼ばれて、沿道に並べられた荷車を一緒に押すように言われた。会義隊の歩兵が数名、新選組の歩兵と一緒に手伝っている。大きな荷車だ。千鶴も背後から両手で押し始めた。その時、ふいに暗い影が出来た。千鶴の手の隣に大きな手が置かれ、もう片方の手の隣にも同じように大きな手が見えた。早朝の空気の中に、かすかに匂いがする。
斎藤さんの匂い。
千鶴は自分の背後に立った斎藤が荷物を押す節ばった大きな手を見ていた。荷車の車輪が大きな石を超えて前に勢いよく進み始めた。斎藤の手が離れた。千鶴が振り返ると、斎藤は右手を上げて前を行く地頭に合図を送っていた。千鶴は荷車から離れて斎藤に駆け寄った。
「斎藤さん、これ」
慌てて、自分の腰に巻き付けた袋から晒しの包みを取り出した。
「予備の兵糧です」
千鶴は素早く、斎藤が斜め掛けにしている内飼袋の紐に棒状の包みをくぐり付けると、頭をぺこりと下げて、荷車に向かって走っていった。もう一度振り返ると、吉田俊太郎や歩兵掛の千田が千鶴に手を振っている。千鶴はもう一度、頭を下げて挨拶した。斎藤は、じっと立ったままこちら側を見ていた。
必ず、皆さんご無事にお戻りください。
羽鳥で待っています。
千鶴は、何度も振り返りながら道を進んだ。坂を上り切った頃、遠くに隊列が沿道に揃って進軍していく姿が見えた。
*****
雷神山での攻撃
薩軍からの追撃は止むことがなかった。斎藤達は雷神山に繋がる丘陵を目掛けてひたすら走った。半刻程の逃走で漸く薩軍の追撃を逃れた。一旦、急坂を避けて山の中腹から南側に回った。その時、坂の上から黒い影が迫った。九つ銭紋の旗印。飯野藩か。斎藤は構えていた刀を引いて仕舞った。
「会津でござるか」
身元を確認し合って、山上の台場に同盟軍小隊の陣が築かれていることが判った。斎藤達は急遽、上総飯野藩兵と合兵して、雷神山の中山に陣を張っている新政府軍を討つ事に決まった。会義隊は山の西側を先廻りしている。背後から敵陣を襲う算段。
「砲撃が始まる前に、一気に敵陣を突き崩す」
新選組は先陣を切って中山を駆け上った。敵の台場には大砲が三門並んでいたが、砲弾が放たれる前に、斎藤達は防壁を突破して敵兵に斬り込んだ。敵の小銃兵が発砲を始めた。斎藤は、飛んで来る銃弾の数を一瞬で数えることが出来た。全てが宙に浮いて止まっている。刀の肌で弾きながら、低く構えて突進した。立ちはだかる者は、全員斬る。
銃砲音の後に敵兵の背後から叫び声が聞こえた。会義隊か。山の反対側から凄まじい勢いで敵を蹴散らしている。有難い。こうして飯野兵と一緒に、中山を北側と南側から挟み込む形になった。敵兵は山襞を西の雷神山頂上に向かって登って行く。斎藤達は頂上の土佐藩の守備を崩した。
陽は頭上にあった。殆ど影がない状態で、斎藤は身が焼け焦げるように感じた。味方が優勢に攻める中、山の反対側から薩摩と大垣藩兵が旗を翻しながら登ってくる姿が見えた。敵の援軍か。大軍で攻めて来ている。前方の土佐藩、後方から薩兵。腹背より砲銃火に晒され、形勢が逆転した。
「退却せよ」
気が遠くなりそうな中、味方の軍が北側の間道に走って行く姿が見えた。斎藤は新選組にも退却を指示して一気に林の中に分け入って行った。背後から銃砲が聞こえる。斎藤は、振り返りざま、宙を飛んでくる銃弾を猛烈な勢いで払い落した。
「引け、引き揚げ」
斎藤の叫び声に、隊士は頷くと一目散に間道を逃走していった。銃砲は鳴りやまない。雷神山からひたすら山襞の間の林を縫うように進んだ。羽太の村落に辿りつくと、背後からの砲火は更に激しくなった。斎藤達の隊は、会義隊ともはぐれた。三隊に分かれて、街道を三方に分けて移動した。皆で、羽鳥村で落ち合う。
土佐軍の追撃は三里続いた。急こう配でも、銃砲火が止まない。敵兵は移動しながら発砲する術を持っているようだった。斎藤は、飛んでくる銃弾を止めることが出来るが、一緒に移動する部下にとっては、銃撃は脅威でしかない。だが、三里を過ぎた頃、敵の銃弾が尽きたのか砲音が止んだ。その隙に、斎藤達は、間道を更に奥深く入り秘密の獣道に出た。この辺りは、十六ささげ隊と協力して掘った大きな塹壕がある。斎藤の小隊は全員で三十二名。全員で隠れて敵兵をやり過ごすことにした。陽が傾いて来ている。羽鳥までおよそ五里。部下を休ませながら、明け方までに移動は叶うか。
斎藤は、大きく迂回する経路を取ることにした。部下は負傷しているものが五名。軽症だが、急こう配の獣道を進むには、調練時の倍はかかると思った。
「隊長、真名子が焼き討ちに」
偵察に走らせた歩兵が報告に来た。塹壕での休憩は半刻あまり。その間に水分の補給を行った。歩兵が見た街道沿いの真名子村は全て建屋に火が放たれ、土佐、薩摩、大垣藩兵が北上していったという。斎藤は流れる空気に木々が焼けるきな臭い匂いが漂っていることに気付いた。
敵は羽鳥方面も焼き討ちにするだろう。斎藤は羽鳥の山間で匿われている千鶴の事が気がかりだった。直ぐに隊列を整えて最短経路で進むことにした。だが辺りには敵の偵察部隊が潜んでいる可能性もある。隊を分けた部下はうまく逃げ果せているだろか。足を進めながら斎藤は極めて狭隘な羽太から羽鳥までの秘密の経路を思い浮かべていた。
手綱坂は難所。急な上り坂が続く。それは獣道も同じだ。陽が暮れ始めた。もう数刻は歩き続けている。部下の夜目が効かなくなるまで幾らもない。斎藤は、懐から間道移動図を取り出した。上湯の絶壁の麓に基地がある。大きく山を廻って二里半。勾配も緩やかだ。斎藤は鴉組が隠れ家にしている上湯の洞窟に向かうことにした。
****
からす洞
焼き討ちにあった真名子から深い山合に入ると上湯の山に繋がる。
この辺りの山道は全て閉ざされていて、無数の獣道が崖と崖の間を走る。丘陵がでこぼこと続き、山肌が絶壁になっている広場のような場所に出た。もう既に陽が落ちている。隊士たちは先頭を道案内のように歩く斎藤の白い襷を目印にして広場に辿り着いた。隊士は全員はぐれることなく洞窟の入り口で集まった。歩兵掛が素早く灯の準備をした。蝋燭を灯した僅かな光は、洞窟の中をぼんやりと照らした。漆黒の闇の中にいた隊士たちは、目は暗闇に慣れていたが、暗い洞窟の中の苔と埃が入り混じったような匂いの中を警戒しながら進んだ。
斎藤の後ろを歩く千田は、いつも夜襲攻撃隊として斎藤と夜間の調練に出ていた。三十二名の隊士の内、夜間調練を受けていたものは十数名。他の隊士は、からす洞に来るのは初めてだった。
「先にここに居たものが残した燃えかすがある」
洞窟の奥に石が並べられていた。輪になるように平らな広場があった。中は広い。斎藤は、隊を半々に分けて、残りの十五名を隣の祠のような洞窟に案内した。広さは十分で、全員が足を伸ばして横になることが出来た。
「ここで数刻休む。水場はここから遠いゆえ、補給はほどほどに」
隊士たちは蝋燭を灯したまま身体を横にして休み始めた。斎藤は、洞窟の外に出た。ひんやりとする夜の空気の中、虫の声がしている。秋の虫。そして、遠くの街道では、まだ焼け残った建屋が燻った音を立てて、風に揺れている。暗闇に潜む影。敵の斥候か。全身の神経が研ぎ澄まされたようになって、全ての音が耳に入って来ていた。
ここも数刻の内に発ち移動せねば。
斎藤は、鴉組が羽鳥から西郷村にかけて、闇夜を縦横無尽に移動している事を思った。分隊した隊士が、うまく鴉組と合流出来ていることを願った。そして、羽鳥の山に隠れている千鶴が無事にいることも。
出来る限り早くに合流せねばな。
斎藤は、元の洞窟の中に戻って行った。既に蝋燭の灯は消えている。隊士は全員眠りについたのだろう。かがみ込むようにして狭い通路を抜けて奥の広間に行くと、隊士たちは眠るどころか、車座になって座っている。灯もないのに、何を集まっている。斎藤は訝しく思って、手前の隊士の背中越しに声を掛けた。
「何をしている」
背中を丸めた隊士は、「うまいです」と震える声で応えた。
斎藤が見回すと全員が、手に何かを持って「うめえ」と呟いている。胡坐をかいた男たちが口元に指を持っていって、ボリボリと音を立てて何かを食べていた。
「甘い、これはなんだ一体」
「止まらねえ」
「固いが、中は甘くて柔いぞ」
まるで山猿が輪になって毛繕いをしているような姿。皆が手の中から何かを摘まんで、勿体ない様子でゆっくりと口に運んでいる。
「隊長、兵糧です。予備の。これ」
吉田が輪を崩して、斎藤の座る場所を確保すると、手に持っている油紙と晒しを見せた。吉田の手の中には、緑色の実のようなものが数個。
「雪村くんが持たせてくれた木の実。なんでしょうね。これ、甘くて香ばしくて、旨すぎる」
斎藤は、今朝方関屋を発つときに千鶴が自分に持たせた包みを思い出した。内飼の紐のどこかに結んであった筈。斎藤は背中に手を廻して内飼袋を引き寄せた。白い晒しの包みが結んであった。良かった。ちゃんと落とさずに持っておった。斎藤は包みを開いた、油紙の中に木の実が縦に並べてある。一粒とって口に含んだ。香ばしくて、栗の実のような風味がする。
噛むと柔らかくて、滑らかな食感が口内に拡がった。
美味い。
「うまいでしょ? でもこれ、一人十粒しかない」
隊士は残念そうに言いながら、半分だけを残してまた包み直して大切そうに内飼にしまった。悦びに震えながら食べていた歩兵がとつとつと話し始めた。
「これは、雪村さんが黒い木の実を炒って作ったものです」
「福良の陣で。わたしが兵糧補給掛かりで、裏庭に大きな鍋に入れた木の実を炊き火の上で炒って」
「半日かかって炒った実を、木槌で石の上で叩いて割って」
「そいで、出来たのがこの実です」
「黒いムクロジから、こげな緑色の綺麗な実がとれて、食べると甘いからって」
斎藤は、とつとつと話す歩兵が、福良の陣屋で千鶴と一緒に兵糧づくりをしている姿を想像した。確か牧野内か、上小屋だったか。雪村は無患子の実の種子を丁寧に陰干しにしていた。斎藤は、油紙の中の実をゆっくりと一粒ずつ口に運んで、その甘さを味わった。空き腹に染み入る旨さだった。五つをゆっくりと味わって。残りの数を数えた。まだ十粒ある。
(大切にとっておこう。雪村、礼をいう)
油紙で包み直して、晒しを巻こうとした。晒しの内側に何か黒い字が見えた。
さむはら
黒糸で刺された小さな文字が浮かび上がった。
さむはら
身を守る神字。確かそう言って祈っておった。
鳩尾がぎゅっと掴まれたような。直後に全身にぬくもりが広がるような感覚がした。
さむはら
さむはら
九死のうちに一生を得ることができますよう。
どうかご無事なように。どうか。
ありがたい。礼を云う、雪村。斎藤は、そっと晒しの包みを内飼の紐に結び付けて、胸の上で掌に包み込むようにして横になった。隊士たちも、空腹が紛れて眠りにつくことが出来たのだろう。横になって鼾をかき始める者もいた。斎藤は出来る限り隊士が休息できるように、時折、洞窟の外の様子を確認しに行った。
こうして斎藤達は明け四つまで身体を十分休めてから、からす洞を後にした。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その19へ
(2020/05/30)