稲荷山

稲荷山

濁りなき心に その8

元治元年十月

 島原の宴の後、数日経った頃。近藤より先に江戸に隊士募集の為出向いていた平助が屯所に帰ってきた。

 江戸では平助の居た剣術道場の伝で同じ北辰一刀流免許皆伝を持つ、伊東甲子太郎の紹介を受けた。伊東は水戸学に傾倒した筋金入りの攘夷勤王論者だった。文武両道の誉れも高く、その経歴を見て近藤は是非にと、伊東の入隊を望んでいる。
 平助は水戸藩邸で伊東と数回面会した後、遅れて江戸に戻った近藤に引き合わせた。そして、十一月の末には伊東と伊東の弟の三木三郎、篠原泰之進、伊東道場から他五名が上洛することに決まった。
 近藤は、新たに入隊希望をする者は身分出自拘らず浪士や町人も百姓も全て受け入れた。剣術に関しては、自ら手合わせをして入隊の許可を出した。

 十月半ば、土方に近藤から文が届いた。隊士募集は順調で、会津藩への許可伺いや幕府役人との折衝など江戸に留まるのは十一月末まで掛かると書いてあった。秋が深まり、征長の戦が始まると本陣は大坂に敷かれ、洛中は静かだった。土方は、京都守護職から部隊演習要請がない事。組組織で隊を作って準備は進めていると返信した。

 池田屋の怪我で永く患っている総司が、依然調子が戻らないと土方は追伸した。近藤から、上之町の妾宅に総司を移すよう手配すると折り返し便りがあった。



***

 斎藤は伏見に行く前日の午後、総司の刀も預かって研ぎに出そうと思い総司の部屋に向かった。

 土方と総司の言い争う声が総司の部屋から聞こえた。斎藤は廊下で立ち止まった。

「だから、何で僕が出ていかなきゃならないの」
「出ていくんじゃねえ。療養だ」
「巡察だってあるじゃない」
「巡察も暫くはいい、養生しろ」
「いいって、何がいいの?大坂や播磨まで源さんや新八さんも出てて、人手足りてないんでしょ?」

「僕は大丈夫だって、言ってるじゃない」
「上之町の屋敷は陽当たりも良くて静かだ。おわかさんの所には下女も居て、世話も行き届く」
「長州との戦もある。お前にこれ以上永く患われたら、困るんだよ」

「近藤さんを心配させんじゃねえ」
「俺だって、お前に何かあったら、おみつさんに面目立たねえからな」

「姉上を引き合いに出さないでよ」
「立派な武士に成るって約束したんだろうが」
「薩摩の芋侍に腹蹴られた上によ。お前が寝込んじまったって、おみつさんが知ったら、それこそ俺も近藤さんも腹を切らなきゃならねえ」

「何が可笑しい?」

「姉上のこと、そんなに怖いの?」
「俺も近藤さんも地獄の閻魔さんにだって平伏すことはねえけど。おみつさんにはな」

「姉上には報せないで。僕はここで良くなるよ」

 暫くの沈黙の後、

「山崎と千鶴に世話をさせる。薬も嫌がらずに飲め。いいな」
「近藤さんには文を書く。心配するな」

 土方が部屋から出てくる気配がした。斎藤はそっと廊下を引き返した。



***

 翌日の朝早くに千鶴と斎藤は屯所を出発した。

 千鶴は、おむすびと竹水筒を用意した。斎藤は草鞋の替えを千鶴の分も用意して腰に下げていた。

「旅装束ですね」
「稲荷山からの山道は茶屋もない、用心の為だ」斎藤は刀袋を肩から掛けて先を歩く。

 伏見の研ぎ屋に千鶴の小太刀と国重を預ける、その後、伏見稲荷に立ち寄って山づたいに東山方面に出よう。斎藤は以前歩いたことのある山道からの景色を千鶴に見せてやりたいと思っていた。

 伏見の研師の長屋に着くと、真五郎は工房で作業中だった。真五郎は斎藤の姿を認めると、

「よう、おこしで」と嬉しそうに笑顔になった。
「早くから、済まぬ」
「そうぞ、お上がり下さい」

 真五郎は敷物を上リ口に拡げた。千鶴は斎藤に促されて、草鞋の紐を解いて工房の床の間に上がった。

「ここは戦火を逃れたようだな」
「へえ、お陰さまで。通りを大垣藩の大砲が通った時には生きた心地がしませんでした」
「禁裏を襲う輩は一掃している。洛中で戦が起きぬようにな」
「それを聞いて、安堵しました」
 真五郎は笑顔になり、腰を下ろした。

「今回はこの小太刀も頼みたい」
 斎藤は千鶴に小太刀を渡すように目配せした。真五郎は、千鶴から小太刀を受けとると。

「黒漆の上物ですな。この様な拵えは奉納太刀でしか見たことが……」

 真五郎は、外の光が当たる場所に移動して、拵えをつぶさに見入っている。

「見事な金細工で、意匠は吉兆果、桃にも見えますな。これは白象。螺鈿ですか」

 真五郎はしきりに感心している。本身を抜くと、

「このような太刀は私は今まで見た事がございません」
「うつむき具合からすると平安。それより前に打たれたものかもしれませんな。肌目の細やかさがここまでのものは、三条でも見られません」

「師匠の写しの書に心当たりがありますが、はて、この小太刀を研ぎにかけてもよろしいんですやろか」

 斎藤は真五郎が妙な事を聞くのに驚いた。

「研ぐのは止めた方が良いのか?」
「へえ、刀身の状態は研ぎは要りません。手入れで充分かと」
「それならば、拵えの手入れも一緒に頼もう」
「へえ、それでしたら知り合いの金工師にお願いします」

「鞘の漆塗はええ状態です。お時間は二十日位みてもらえましたら」

「頼む。あと此れもだ」
 斎藤は愛刀の国重を渡した。真五郎は抜き身の状態を確かめる。

「はばき近くに傷、二箇所。ものうちに刃こぼれ三つ」
「十日をみて貰えますか?」
「頼む」
「お社へは?」
「ああ、詣ってから帰ろう。今日は此れから稲荷山へ向かう」
「お稲荷さんへ。それはそれは」

 真五郎は裏庭へ斎藤達を案内した。千鶴はお社が気に入った様子だった。祠の前で二人で手を合わせた後、真五郎の長屋を出て伏見稲荷に向かった。



***

伏見稲荷

「斎藤さん、有難うございます」
「礼には及ばぬ。あんたの小太刀は余程時代を遡るもののようだ」
「古い小太刀とは聞いていました。物心付いた時から父様に雪村の護り刀だと」
「小太刀の道場に通っていたと言っていたが」
「はい、父様は蘭方医学を教えていたので、家の離れが寺子屋のようで。私も一緒に手習いをしていました。この前屯所にお見えになった伊庭さんも。他にもお武家さんが何人も通われていて。そのまま、一緒に剣術道場に付いて行くようになりました」

「世間は狭いものだな。伊庭とは試衛館で一時期よく手合わせをしていた」、斎藤が微笑む。
「本当に」、千鶴は自分の小太刀が結んだ縁を不思議に思いながら歩いた。

「小太刀は二十日後に仕上がる。次は総司のを研ぎに出す」
「沖田さん、喜ばれると思います」
「沖田さん、とても大事にされてるんです。【この子】とはずっと一緒に闘ってきたって」

「加州清光。加賀の刀工だ。総司は幼い時に清光を持って試衛館に預けられたらしい」

 千鶴は、小さな総司が剣術の稽古をする姿を想像した。そこに小さな斎藤も現れ手合わせする。千鶴は自然と顔が綻び笑顔になった。

「……雪村。雪村、聞いておるのか?」
「はい?」
「向こうから馬が来る。今のうちに脇へ下がれ」
 斎藤はそう言うと、千鶴の手を引いて建屋の軒下に下がった。手を引かれた勢いで転びそうになった千鶴を受け止めた斎藤は、馬が通り過ぎた後もじっと動かない。

 抱き留めた一瞬甘い香りがした。
 目の前に千鶴の髪と耳朶がある事に気付き。思わず離れる。

「ありがとうございます」

 千鶴はそう言うと構わぬ様子で道に戻って歩き出す。暫くすると伏見稲荷の鳥居が見えてきた。参道には出店が並んで賑やかだった。煎じ薬を売っている店先を見ながら、

「今、山崎さんが大坂に薬草を仕入れに行かれています」
「沖田さんの咳に効くものがあるそうです。百草も良いものが」

 斎藤は、昨日の総司の部屋の廊下で立ち聞きした事を思い返した。

「沖田さん、普段から少食なのに、もっと摂らなくなってしまって」
「この前も近所の子供たちを怖がらせて、自分から遠去ける様なことを」

「総司は気紛れだ。気に病む事はない」

 千鶴は心配そうな表情で歩き続ける。

「奥の院はこっちだ」

 千本鳥居の入り口をくぐり、ゆっくりと進む。社の樹々の間から木漏れ日が差し、鳥居の朱色が鮮やかに映える。先を歩く千鶴の横顔を見ながら、斎藤は何故千鶴は総司の様子を気にしているのかと、ぼんやりと考えていた。

 副長付きの小姓。
 屯所内の雑務。
 食事当番や幹部の世話に巡察同行と忙しい筈だ。その上、総司の世話か。

 (医学の知識もあって、雪村は細かい事に良く気がつく。適任だ)

 其れでも、綱道さんがみつかれば新選組は雪村を留め置く事は出来ぬ。何処まで、我々は雪村を引き込む積もりなのだろう。

 雪村が新選組に関わる義理はない。

 これが斎藤の思考の根底に常にあり、それ故留め置く限りは全力で守ろうと決心した。

(其れならば、良いというのか……)

 堂々巡りとは思いつつ、斎藤は千鶴の事を考え続けた。



****

 鳥居を抜けると奥の院に着いた。二人分の賽銭を投げて、柏手を打った。

「随分長い間、手を合わせていたな」
「はい、皆さんが無事に巡察から戻られる様にと」
「綱道さんが見つかるように俺も願った」
「有難うございます」千鶴は笑顔で礼を言った。

 二人で鳥井を抜け【四ツ辻】まで登った。紅葉が鮮やかで美しく、洛南が見下ろせた。

「南側は戦火が及ばなかったようだな」
「長州藩のお屋敷周りも通り一つで様子が違っていました」

「雪村、疲れておらぬか?」
「はい」
「此処からずっと一の峰まで登りだ」
「はい」

 二人は四ツ辻から三ノ峰、二の峰と順に歩き、稲荷山山頂を目指した。一の峰の末広大社を詣でた後に長者社に向かった。

「ここは御劔社とも呼ばれている。社の後ろに劔石がある。雷が封じ込められているという言い伝えだ」
「劔(つるぎ)の形をしているんですね」

「此処には焼刃の水が湧いている。真五郎は研ぎにここの御神水を使っている」

 千鶴は興味深そうな様子で斎藤が湧き水を竹水筒に汲むのを眺めている。

「さっき真五郎が言っていた三条とは粟田口の刀派だが、此処で刀を打った伝承がある」
「一条天皇が夢見で『三条小鍛治宗近に刀を打たせよ』と神様からのお告げを受けたと、勅使を宗近に送った。宗近は稲荷大神へ参拝してここで童に出逢う」

「その童は稲荷山の神の御使の白狐なのだが、相槌の役目をかって出て、宗近はその童と此処で一振の剣を打った」
「剣の表に小鍛治宗近、裏に小狐との銘を入れ、宗近は『この剣は五穀豊穣と国家鎮守を守護する神剣となるであろう』と刀を一条天皇のもとへ届けた」

 斎藤は活き活きとした様子で社を周りながら話す。

「名刀小狐丸だ。今は石上神社に奉納されている」
「いそのかみ。京に有るのですか?」
「大和の国だ。真五郎はそこの宮司をしている」
「あの研ぎ師さんは大和の方なのですね。宮司もされて、研ぎ屋さんもされて、不思議です」

 千鶴は御劔石を見上げて触りながら、笑顔になる。

「真五郎は宝剣の類を研ぐのが生業だ。世阿弥の流れを受け継ぐ腕を持っている」
「斎藤さんの愛刀も真五郎さんが研いで、焼刃の御神水の御加護を受けているのですね。国を守る役目を果たすために」

 斎藤は一瞬驚いたような表情をした。

 国家鎮守の役目。俺の刀が。

 千鶴は劔石を見上げる斎藤を見つめる。

「俺は己が剣に成ろうと務めて来たが、己が刀にそのような役目が有るとまで考えてもみなかった」

 そう呟いたあと、千鶴に向き直る。

「此処へ来て良かった」

 満足そうに微笑する斎藤に促されて、千鶴は御劔社を後にした。山を下ると薬力社に着いた。

「此処は無病息災、身体加護を願う場所だ。ここの御神水は薬を飲むのに使うと良い」

 斎藤は空の竹水筒に水を汲む。

「この奥にある「おせき社」の飴は喉に効く。総司に買って行こう」
「はい」、千鶴は笑顔で返事をすると斎藤と一緒に塚を参拝して周った。道は急な石段や緑の深い山道だったりするが下りで楽だ。山に入って一刻は過ぎただろうか、御膳谷を過ぎて、最初の分岐の四ツ辻に戻った。

 其処で持って来たおむすびを食べて休憩した。ちょうど正午を過ぎていた。山道を脇へ下って、東山に抜け東福寺に立ち寄った。開山堂の庭は紅葉が美しく、人出で賑わっていた。

 六波羅の道沿いの茶屋でお薄を一服。千鶴は楽しそうに笑っている。

「良く歩いた。疲れておらぬか?」
「いいえ、お稲荷さんの山巡りは楽しくてあっという間でした」

 まだ八つ時か。四条まで上ってゆっくり屯所に戻ろう。斎藤は千鶴と高瀬川添いの小径を歩いた。



***

 夕方、屯所に戻ると巡察帰りの平助に玄関先であった。

「一くん、今日は非番?何処行ってたの?」
「伏見に行って来た」
「伏見って、千鶴も一緒?」
「ああ、今日は伏見稲荷まで足を伸ばした」

「いいなあ、狡いよ、一くん。非番に一人で千鶴と出掛けるなんてさ。俺も行きてえよ」

「明日は壬生狂言だぜ。千鶴、俺は午後は非番だから一緒に観に行こう」

「壬生狂言?」と聞きかえす千鶴。

「壬生寺で秋にやる狂言だ。氏子達で演ってる。すっげえ凝ってて面白い、行こうよ」
「うん、行きたい」、千鶴は嬉しそうに返事をしている。

「今回の演目は何だ?」と斎藤は草履の紐を解きながら訊く。

「土蜘蛛だってよ。一君は明日は巡察だろ」
「ああ、狂言は観られぬな」

 それを聞いた千鶴は残念そうな顔をした。

「雪村、観劇したければ明日の巡察の同行は休めば良い。薩摩藩の動きも今は静かだ。綱道さんの事は俺が聞き込みをしておく」

 千鶴は、頷いたが、心の中では斎藤が一緒に狂言を観に行けないのを残念に思った。




 つづく

→次話 濁りなき心に その9

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