桜花開花

桜花開花

濁りなき心に その13

元治二年三月

 屯所の移転も無事に終わり、新しく入隊した隊士、相馬主計と野村利三朗が近藤の小姓に就いた。組編成も大幅に変わり、二番組の組頭に伊東がつく事になった。千鶴は小姓の仕事を相馬と野村に引き継ぎながら、広くなった屯所の雑務に追われ、入隊した隊士の鍛錬や新たな巡察地域も増えて忙しくなった幹部とも顔を合わす機会がなかった。

 斎藤は剣撃師範の任務が多くなった。千鶴は斎藤の剣術稽古の間は炊事や洗濯など屯所内の用事に回った。
西本願寺の境内は広く、屯所にしている北集会所の建屋は広大で、以前ほど伊東の執拗な監視の目に晒される事はなくなっていた。

「千鶴、笑わなくなったな」

 午後の剣撃指南の後、井戸端で斎藤が汗を流していると、隣で平助が呟いた。

「綱道さんの事、気に病んでんのかな」

「雪村は、父親が新選組で何をしていたのか、ずっと知ろうとしていた。行方を探す手立てになると」

 斎藤は手に持った手拭いを見つめながら話す。

「俺らは何も話してやらず、ただ雪村を留め置いた」

 斎藤は平助に向き直ると、

「雪村が全てを知った今は、江戸に帰すことも出来ん。俺らがやらねばならぬ事は綱道さんを見つけることだ」

「それは、俺もそう思ってるよ。ただあんな風にショボくれてる千鶴が不憫でさ」

 斎藤はなにも返す言葉が無かった。千鶴を不憫に思っているのは皆同じだ。だが、どうしてやれる事も出来ぬ。千鶴を自由にしてやるか。そうしたとしても、千鶴の事だ。市中に留まり父親捜しを続けるだろう。女の身空であてもなく。それならば、此処に居た方が良い。護ってやれる。

「はじめくん、はじめくん、ってば。俺の話きいてる?」、平助が覗き込むように斎藤を見つめて居た。

「すまん、聞いて居なかった」

「もう、いいよ。新八っつあん達に声掛けてみるよ。島原にでも千鶴を連れ出してやる。気晴らしは必要だもんな」

 そう言って平助は自分の部屋に戻って行った。



***

 彼岸に近いある日、千鶴は近藤の部屋に呼ばれた。部屋に入ると、土方と伊東が居た。

「雪村くん、君に頼みたい儀があってな。境内の南側にある飛雲閣に君は行った事があるかい?」

「はい、中には上がってませんが、外から案内をして貰いました」

 それを聞いて、近藤は頷きながら続けた。

「飛雲閣の床の間に花を飾る手伝いをして貰いたい。君は華道の心得があると聞いて、是非お願いしたいと思ってな。如何かね?」

「お花ですか」

「そうだ。彼岸の法要も近い、新選組が此方に屯所を移したのは、本願寺にとっては無理矢理の様になってしまった経緯があってな。隊士が剣撃稽古を境内で行うのも、広如上人は良く思われて居ないらしい。矢来を立ててみたものの、まだ不満に思われているようだ」

「我々から北集会所を間借りさせて貰った事への感謝の意を表すのに、御布施をするだけでは無礼という考えもあって、花を贈ろうという事にあいなった」

 近藤が笑顔で説明する。

「雪村くんが手伝ってくれるなら、私は書院の間にも活花が出来ます。お彼岸の法要は大規模なものと伺って居ますわ。これは礼儀に叶った事、新選組の印象を良くするにはとても大切な機会になります」

 伊東が澄まし顔で近藤に進言する。近藤は、伊東に頷くと千鶴に向き直った。

「どうだろうか、雪村くん。俺は華道はてんで暗くてな。飛雲閣も書院も大層立派な床の間だと聞いている。伊東先生の手伝いを頼めないかね?」

 千鶴は暫く逡巡した様子でいたが、両手を畳について頭を下げた。

「私のような者で良ければ、お手伝い致します」

「おお、引き受けてくれるか。感謝するぞ、雪村くん」

 近藤は嬉しそうに身を乗り出して礼を言う。

「近藤さん、雪村は巡察や屯所内の用事で忙しい。最近は新しい小姓の世話もやっている。坊主の機嫌取りにかまけている時間はねえって事を承知しといてくれ。伊東さん、あんたもそうだ」

 土方が不機嫌そうに伊東を睨む。

「トシ、あいわかった。雪村君の手間がかからんように、伊東先生もご配慮下さる。ただ苦労を掛けるが、雪村くんに巡察を休んで貰うよう調整する必要はあるだろう」

「わかった。巡察や当番はこっちで調整する。雪村、追って連絡する。午後に斎藤に部屋に来るように伝えてくれ」

 土方は千鶴に指示した。千鶴は返事をして下がると、部屋に戻って行った。



***

「副長」

 土方の部屋の障子の向こうから斎藤の声が聞こえた。土方は筆を止めると振り返って声をかけた。

「斎藤か、入れ」

 斎藤が入室して、土方の前に座った。土方は文机の前で向き直って指示を始めた。

「千鶴の事だが、彼岸まで巡察と当番から外す。本願寺の法要に向けて、書院と飛雲閣で花を活ける手伝いが必要でな。千鶴に頼む事になった。あいつにはもう伝えてある」

「承知しました」、斎藤は返事をする。

「厄介なのが、伊東さんと一緒に行動する事だ。伊東さんは、千鶴の素性を探ろうとしてやがる。近藤さんは会津藩からの預かり者と公言してるようだが、最近はそれに尾鰭がついて、千鶴が御落胤だの、俺の手付きだの有らぬ噂になっている」

「俺も、雪村が中将様の御落胤(ごらくいん)だという噂を平隊士から聞いた事があります」

「ま、中将様には申し訳立たねえが、落胤云云は千鶴に護衛を付けるいい理由になる。問題は、俺が千鶴に手を出したとか、千鶴とお前を取り合ったとかいう根も葉もねえ噂だ」

 斎藤は、目を見開いた。

「俺が小姓の千鶴に手を付けて、お前が悋気を起こした。千鶴に愛想尽かした俺がお前に千鶴を押し付けて、今度は相馬と野村に乗り替えた。誰が流してんのか知れねえが、新しく入った隊士たちがそんな話をして陰で騒いでるんだとよ」

「俺が悋気、副長にですか」

「おう、お前をよく知らねえ奴らからしたら、そんな風に見えるそうだ。なんだ、その顔は?」

 驚愕の表情を見せる斎藤に向かって、土方は笑う。

「お前と千鶴が恋仲ってのは、あながち噂でも無さそうだ」

 頰が紅潮する斎藤を土方は笑顔で眺めている。

「人の噂なんて気にする事はねえが、伊東ががそれを利用して隊を分かつような事が有ってはならねえ。唯一の救いは、綱道さんに繋がる噂が一切立ってねえ事だ」

「三番組の隊士たちには、雪村が巡察に同行している目的を伝えてあります。決して口外しないと誓わせています」

「統制の取れてる三番組だから、俺も護衛を命じてる。千鶴の素性を知っているのは三番組全員か」

「はい、女子である事も知っています」

「そうか、それを聞いて安堵した。お前の手前、無体を働く者も出ねえだろ。彼岸が終われば、また千鶴の護衛を頼む」

「はい」、斎藤は力強く返事をする。

「お前も忙しいと思うが、飛雲閣と書院に様子を見に行って欲しい。伊東さんは油断ならねえ。今度の件でも、本願寺の坊主に取り入る為にやっているように見える。不審な動きをしていれば、直ぐに報せてくれ」

「承知しました」

 斎藤は土方の部屋から下がった。



***

彼岸の花活け

 数日後の朝、千鶴は伊東に呼び出されて周り廊下に向かった。

 境内に花がいっぱい積まれた荷車が停まっていた。壬生の屯所に来ていた小原女が頭の手拭いを脱いで、千鶴に会釈する。

「雪村くん、お花を広間に運ぶのを手伝って頂戴。今日は生憎二番組は巡察に出ています。さ、その娘と一緒にお願い」

 千鶴は、はい、と返事をして、荷車から花を下ろして広間に運び入れた。

「あの、もし良ければ、この草履を使ってください」

 千鶴は、草鞋の紐を解く小原女に使っていない草履を持って来て、上がり口に並べた。

「おおきに、有難うございます」

 小原女と千鶴はなんども行き来して、全ての花を広間に運び入れた。伊東は、一心に花を吟味している。

「桜と梅の大振りなものを、それぞれの筵(むしろ)に置きましょう」

「馬酔木(あせび)、木蓮、この金雀枝(えにしだ)も綺麗ね。雪村くん、これ、如何かしら」

「はい、金雀枝は茎が細いので、剣山にちゃんと刺せるか心配です」

「そうね、でも大丈夫よ。添え木を立てましょう。貴女、添え木も用意してくれてるわよね」

「はい」、小原女は笑顔で答えながら、花の選り分けをしている。

「これで、いいわ。こっちの筵を飛雲閣へ、此方を書院へ運びましょう。残りの花は、色ごとに分けましょう」

 伊東の指示で花の選り分けが終わると、千鶴と小原女は荷車に花を積み直し、境内を横切って飛雲閣に向かった。

「あの、私は雪村と申します。もし良ければ、お名前を教えてください」と千鶴は荷車を引く小原女に訊ねた。
 小原女は荷車を一旦停めると、千鶴に向き直り

「ウチは、葵と申します」、と丁寧にお辞儀する。

「葵さん、いつも綺麗なお花を有難うございます」、と千鶴も頭を下げた。

 葵は笑顔でまた荷車を引き始める。

「八瀬の里には綺麗なお花がいっぱいなんですね」、千鶴も笑顔で話し掛ける。

「へえ、山深い場所ですが、静かで美しいです」

 葵と千鶴がゆっくり境内を横切るのを、鍛錬中の三番組隊士が見ていた。斎藤も千鶴に気付き、遠目に千鶴を眺めた。久しぶりに見た千鶴の笑顔だった。

 飛雲閣の入り口に着くと、伊東と葵と三人で丁寧に花を運び入れた。床の間に用意された花器は大振りで、大きな活花になると思うと、千鶴は緊張した。
 伊東はどんどん、花器に活けて行く、千鶴と葵は指示されるままに、添え木を立てたり、枝と枝を糸で縛ったりした。最後に金雀枝を差し色にするか、伊東は悩んだ挙句、千鶴に橙の色目のものを外の荷車に取りに行かせた。千鶴は迷った上、大輪の菊にした。

「まあ、さっきは此れを見落としていたわね。雪村くん、有難う。貴方の見立て通り、此れを差してみましょう」

「正解ね。雪村くん、一気に華やかになってよ」

「はい」、千鶴は正面に立って眺めた。活けている間は、全く気付かなかった枝の位置や蕾の付き具合も全て完璧で、此れから花開く様子を想像すると気持ちが高揚した。

 後ろに立っている葵も嬉しそうに笑っていた。

 三人で丁寧に花器を床の間に置いた。掛け軸は本願寺で用意をするという。伊東は、法要の日にまた来ましょうと言って、書院に移った。それから、書院の間に花を活けた。飛雲閣に比べると光が届きにくい床の間に、伊東は敢えて抑え目の色の桜を差した。馬酔木が映えて美しい組み合わせだった。

 書院で作業する千鶴を斎藤が見に来た。邪魔をしない様に部屋の隅で様子を伺っていたら、伊東が気付き手招きをした。

「斎藤くん、良いところに来ましたね。どうぞ此方へ。如何かしら?」

 斎藤は床の間の前に正座して鑑賞した。

「綺麗だ」

 そう呟いたきり、じっと千鶴が作業するのを眺めている。

(雪村がこの様に活き活きとした表情を見せるのは、いつかた振りだろう。額に汗までかいている。渾身の作か)

 斎藤は、伊東の視線にも気付かすに千鶴の様子に見入っていた。

 間も無く、最後の仕上げを終えた伊東たちは、荷物を片付けて屯所に戻った。葵は伊東からお代を受け取ると、千鶴がお茶を飲んで休憩するように引き留めたが、八瀬に日没までに戻らなければと言って門に向かった。門の所で、葵は千鶴に袂から菊の花を一輪取り出し渡した。

「島原の君菊さまからです」

 文が菊の花の茎に結びつけられていた。

「君菊さん?」、千鶴は驚く。

「はい、うちは島原へもお花を納めています。君菊様から今朝此方を言付かりました。雪村さま、それではまた」

 葵は会釈すると、通りを北に向かって歩いて行った。千鶴は、屯所に戻る前に、君菊の文を開いた。

 雪村さま
 お西さんに移られたとのこと
 また島原でお逢いできますよう
 お待ちしております

 千鶴は楽しかった角屋での宴の夜を思い出して、心が暖かくなった。君菊への返信は、次に葵が屯所に来た時に託けてみようと思った。門から屯所を見ると、上がり口で斎藤が待っている姿が見えた。千鶴は斎藤の元に走って行った。

「今からお茶を入れます。伊東さんにもお持ちしますが、斎藤さんもご一緒に如何ですか?」

「俺は部屋に戻る」、と斎藤が答えると。

「それでは、斎藤さんのお部屋にお持ちしますね」

「いや、それはいい。俺も台所に行こう。そこで飲む」

「わかりました。では先に伊東さんの所へお茶を運んで来ます」

 千鶴はお茶の用意をして、伊東の部屋に向かった。伊東は、夕方に広間で講義があると言って、夕餉の後にもう一度話があるから自分の部屋に来るようにと千鶴に伝えた。
 千鶴は斎藤と台所で一緒にお茶を飲んだ。小原女の名前は【葵】ということ。八瀬の里から歩いて花を売りに来ていること。楽しそうに話す千鶴の笑顔を見て、斎藤は安堵した。



*****

桜花開花

 その夜、千鶴は夕餉の後にお茶を入れて伊東の部屋に向かった。斎藤はそっと千鶴に気付かれぬ様、廊下の外で待機をしていた。

「雪村です。お茶をお持ちしました」

「お入りなさい」伊東の返事が部屋の中から聞こえた。

「失礼致します」

 千鶴は静かに部屋に入ると、お盆から湯呑みを伊東の前に置いた。

「有難うございます。雪村くん、今日は御苦労でした。素晴らしい活花が出来た事、感謝します」

「此方こそ、どうも有難う御座いました。あの様な大きな活花は生まれて初めてで、とても良い経験になりました」

「夕方に広斉和尚様から御礼がありました。法要に見える門徒を歓迎できると大層御喜びになっていました。目的は叶いました。此れで新選組の此方での振る舞いを大目に見て貰えれば」

「はい」、と千鶴は首肯く。

「ところで雪村くん、貴方の様な人が何故新選組に居るのかしら?」

 伊東は静かに鋭い目線を千鶴に向ける。廊下の斎藤は、会話を聴き漏らさないように障子に耳を近づけた。

「近藤さんから、貴方は会津藩からのお預かりと伺っています。其れなら黒谷に身を置けない理由があるのかしら」

 千鶴は何も答える事が出来ずにいた。自分が新選組に居る理由は全て秘匿。廊下の斎藤は、障子を開けて千鶴を助けるべきか迷った。

「言えない理由があるようね。私は貴方の様な才のある若者が、その芽を伸ばす事も出来ずにいるのが残念なの。土方さんの小姓をやって、粗野な隊士の世話に明け暮れるのは勿体無い。私はね、貴方を導きたいの」

 千鶴は、何も言えないままでいた。どうにか部屋を下がる事が出来ないか、其ればかりを考えていた。

「貴方、四書五経の知識があるようね。剣術は?巡察に出ているみたいだけど、道場でお見かけしないわね」

「私は、新選組の隊士さんの足を引っ張らないよう、自分で稽古をしています」

「まあ、稽古は誰に? 斎藤くん?」

「はい、時々ですが、斎藤さんに見てもらっています。見取り稽古も」

「そう、其れなら今度是非、私が稽古をして差し上げるわ」

「有難う御座います」

 千鶴は、空いた湯呑みをお盆に載せると、「其れでは、こちらを片付けます」と言って一礼し立ち上がった。

 千鶴が障子を開けて廊下に出ようとした際、伊東の声が響いた。

「斎藤くんが右差しなのは、わかっていて? あの様な邪道な剣術を学ぶ必要はないことよ」

 振り返ると、皮肉な表情で笑う伊東が座っていた。

「お言葉ですが、斎藤さんの剣は邪道ではありません」

 千鶴は開け放った障子の前で伊東に向き直った。

「斎藤さんの剣の腕は新選組でも、洛中でも一番です。剣の師としても一番です。三番組の皆さんがお強いのは、斎藤さんが指南されているからです」

「あら、私は彼の腕は知っています。ただ右差しにわざわざ貴方が学ぶ必要はないと思うの」

「右差しの何が悪いのでしょう。剣はどちらの手で持とうが相手を斬る事に変わりはありません。私は斎藤さんを剣の師として尊敬しています。私の剣術が成っていないのは、私の問題です。斎藤さんは、斎藤さんは、」

「悪く有りません」

 千鶴の全身は怒りで震え、持っているお盆がひっくり返った。湯呑みが廊下に転がり、上り口に落ちて大きな音を立てて割れた。千鶴は其れにも気付かず、目に涙を溜めて更に大きな声で訴えた。

「斎藤さんは、会津中将様の御前試合でも勝ち抜きました。新選組の誇りを持って臨まれた結果です。斎藤さんの剣の腕を披露した御蔭で新選組は会津藩から市中見廻りの命を受けたんです。斎藤さんは誠の侍です。貴方に侮辱される筋合いはありません!」

 千鶴の剣幕に伊東も圧倒されて口を開いたまま、呆然と座っていた。いつの間にか、騒ぎを聞きつけて井上や左之助が駆けつけた。

「千鶴、どうした? 斎藤、何があった?」

 左之助の声で、千鶴は廊下に皆が集まっているのに気づいた。斎藤の姿を見ると目から涙が溢れ、お盆を抱えたまま廊下を走って行った。茫然と立ち尽くす斎藤に左之助が問い掛ける。

「何が起きたんだ?」

 斎藤は言葉を発せず、ただ立ち尽くしたままだった。痺れを切らした左之助は千鶴の後を追って台所に走った。



***

 左之助は台所の土間でうずくまって泣いている千鶴を見つけた。

「千鶴、怪我はないか?」

 千鶴は首を横に振った。

「伊東さんの部屋で何があった? 泣いてちゃ、わかんないだろ」

 左之助は千鶴の前にしゃがんで宥めた。千鶴は一頻り泣いてから、ぽつぽつと今日あった事を話した。

「私が剣術も出来ないのに新選組に身を置いてるせいで、斎藤さんが悪く言われて……」

「……右差しの何が悪いのか、私には伊東さんの仰る事がわかりません」

 そう言うと、また涙が溢れてグスグスと泣き出す。

「そうか、そんな事を言われたら腹が立つよな」

 左之助は立ち上がると、台所のお勝手口で振り返った

「千鶴、此れから本願寺の外に散歩に出ようぜ。 今夜は月も出て暖かい」

 千鶴は左之助に促されて、勝手口を抜けると境内を横切って門の外に出た。



****

夜の散歩

「こっちだ。夜でもこの通りは人通りが絶えねえ。壬生と違ってここいらは賑やかだ」

 左之助は手招きして通りの向こう側に歩いていく。月明かりが差して行灯なしでも十分明るい。そのまま花屋町通りを奥に進んでいく。

「この通りは古い店が多い、禁門の時に火の粉が飛んでこの辺りも焼けちまった。ほら、此処の軒先、これももっと庇が長かったんだ」

「知ってるか?この通りの角の建屋の屋根に猫と鼠が居るんだ」

 左之助が指差した先に軒丸が見えた。よく見ると鼠の意匠になっている。

「あ、鼠だ、可愛い」、千鶴は見つけると呟いた。

「ほら、その上の奥。鬼瓦は猫の顔だ、角の代わりに猫の耳だ」

 千鶴はつま先立ちで覗こうと下がっていく。

「そうか、見えねえか。ほら、持ち上げてやろう」

 左之助は千鶴を背後から持ち上げて高く掲げた。

「どうだ?みえたか。鼠の上に伝って行くと丸い大きい鬼瓦が見えるだろ?」

「はい、本当に。猫の顔です。鼠を睨みつけてるみたい」

「降ろすぞ。面白いだろ?」

 千鶴は笑顔で首肯く。

「やっと笑ったな」

 左之助は微笑みながら千鶴の顔を覗き込んだ。

「千鶴は笑ってる顔が一番可愛いぜ」

 そう言って千鶴の鼻の頭を人差し指で弾いた。千鶴は擽ったい気分になったが、ホッとして左之助の後をついて行った。

「さっきの猫瓦の家は、惣兵衛って名前の主人が小間物屋をやってる。嫁さんも人が良くてな。一度巡察中に十番組の隊士が暑さで伸びちまった時に、井戸水汲んで来て店先で介抱してくれた」

「禁門で店が焼けて、暫く洛外に逃げてたんだ。この前戻って商いを再開したが、なかなか大変そうだ」

 左之助は通りをゆっくりと歩いて行く。

「俺はよ、千鶴。惣兵衛さん夫婦みてえに、慎ましく暮らしてる市井の人達を守る為に新選組やってんだ」

「それは、斎藤も、新八も、平助も、源さんも、土方さんもよ。総司もみんな同じだ」

「俺は、尊王や攘夷、佐幕も啓蒙も、何も難しいことは解らねえ。だが、俺らが剣を振るう理由は簡単なもんだ」

 千鶴は首肯いて、左之助の隣に並んで歩く。

「斎藤の味方になってくれて有難うよ」

「俺らが斎藤に最初に会ったのは試衛館に居た頃だ。あいつは無口だし、何考えてるのか解らねえとこが有るが、剣にかけては天下一品だ。俺らは斎藤の強さに舌を巻いた。流派が何だろうが、右差しだろうが関係ねえ。試衛館では強い奴が強いんだ」

 千鶴は左之助の顔を見上げながら歩いている。

「道場によっては、免状持ちや、流派に拘るんだろうな。でもな、千鶴。京では真剣振り回す相手に、右差しも左差しも関係ないぜ。斬るか斬られるかに流派なんてもんもねえよ」

 千鶴は大きく首肯いた。

「千鶴は、一年俺らと一緒に居ただけで其れを解ったんだ。大したもんだ」

 左之助はそういうと、千鶴の頭を大きな手でよしよしという具合に撫でた。まるで幼子にするかの様に。

「斎藤は嬉しかったと思うぜ。さっきは千鶴の剣幕に驚いて固まっちまってたがな」

 左之助はそう言って笑うと、 また角を右に曲がって大通りに戻った。

「私、恥ずかしいです。あんなに取り乱してしまって」

「なあに、伊東さんにはいい薬だ。これで啓蒙風を吹かすのを控えてくれりゃ、万々歳だ」

 西本願寺の門に戻った二人は、空を見上げた。

「こうして夜の散歩に出たのは、壬生の屯所に千鶴が来た時以来だな」

「あの時も、原田さんと外を歩いて気分がすっきりしました。有難う御座います」

 千鶴は頭を下げてお礼を言った。

「お安い御用だ。千鶴、部屋まで送ってやろう。今日はもう休めば良い。源さんと俺で片付けは済ませておく。明日からまた、巡察だろ。忙しくなる」

「有難うございます」

 原田は千鶴を送った足で、自分の部屋から酒瓶を取り出すと、伊東の部屋の前が片付いているのを確かめた。それから台所に行って湯呑みを二つ持って斎藤の部屋に向かった。

「斎藤、開けるぞ」

 障子を開けると、斎藤は刀の手入れをして居た。

「外で一杯付き合えよ。どうせ眠れないんだろ? 先に行って待ってるぜ」

「ああ、直ぐに行く」、斎藤はそう言うと手入れを済ませて、玄関側の上り段に向かった。



***

 月明かりが差して青白い境内を眺めながら、左之助が杯を進めて居た。斎藤が腰掛けると、左之助は湯呑みに酒を注いで渡した。斎藤は一気に杯を空けた。

「お疲れさん」、左之助はそう言うと、斎藤の湯呑みに酒を注ぐ。

「今夜は暖かいな、昼間は汗ばむぐらいだった。寒さは彼岸迄って、本当だな」

「ああ」、と応えて斎藤は杯を空ける。

「さっき、通り向こうを千鶴と歩いた。落ち着いたみてえだ。もう部屋で休んでる」

「俺は土方さんに、伊東さんから雪村を守るよう云われていた。さっきは部屋の外に立って居ただけで、何も出来なかった」

「千鶴に逆に守られてたみてえだな」

 斎藤は黙ったまま、自分で酒を注ぐと杯を空けた。

「やっと笑う様になったな、千鶴」

 斎藤が首肯いた。

「雪村は華道が好きなようだ。書院の床の間を観に行ったが、一心不乱になって活けていた」

「小原女とも懇意になっていたようだ」

「おなご同士で笑っていた」

 ぽつぽつと斎藤は呟く。

「良いじゃねえか、たまには。野郎に囲まれて暮らしてんだ」、左之助は笑いながら杯を空ける。

「ああ」

 斎藤は頷きながら杯を開けた。左之助は斎藤の湯飲みに酒を注ぎながら呟いた。

「千鶴はいい女だな」

「ガキだと思ってたが、芯のある聡い女だ」

「ああ」

 斎藤は手酌でどんどん呑み進める。

「俺らは千鶴を守ってるつもりでいるが、俺らが千鶴に守られてんだ」

「千鶴に惚れられる奴は果報者だ、斎藤」

「……」

(千鶴に惚れられる奴)

 酔いが回った斎藤の耳に何度も木霊する。

 そうだろう。俺みたいな者の事であの様になる雪村は、惚れた相手には。
 どうなるというのだ。

 そんな果報者が居るのか。これから先現れるのか。
 そんな事があるのか……。

 考えに耽っている斎藤を見て左之助は笑った。

「自覚がないんじゃ仕方ねえか」

 そう呟くと、自分の湯呑みに酒を注いで呑んだ。

 その後は、互いに黙ったまま境内を眺めながら杯を空けた。夜廻りから帰った新八が二人を見つけた時には、二人とも泥酔状態で、こっくり眠りこんでいた。新八が隊士に声を掛けて、二人を引き摺って行き、其々の部屋に放り込んだ。

 それから、間も無く桜の蕾が綻び出した。千鶴は、以前の調子で明るく笑う様になった。




 つづく

→次話 濁りなき心に その14

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