入梅
濁りなき心に その15
慶応元年六月
千鶴はようやく松本良順に会えた。父親を探すために上洛してから一年半。良順はその間、幕命で江戸と会津、仙台、尾張を転々としていた。千鶴から父親の行方を探しに京に向かうという文を受け取ったまま、良順はすれ違いに京を留守する事になり、近藤が昨年末江戸に隊士募集で戻るまで、新選組に千鶴が身を寄せて居る事も知らず、ずっと千鶴の行方と身を案じていた。
松本良順は綱道の行方をずっと捜しているが、見つかっていないと言う。幕府の羅刹開発に鋼道と一緒に関わっていた良順は、変若水の副作用を理由に羅刹開発に反対を唱え、幕府雄藩に働きかけて来た。松本は父親の身を案じている千鶴に、雪村綱道も幕府の羅刹開発に疑問を持った末、姿を眩ませたのだろうと話した。鋼道は尊敬に値する蘭方医だから、安心するようにと千鶴を慰めた。其れから良順は、自分がここ一年以上の間、変若水の副作用を抑える研究を主に行い、雄藩を巡って羅刹の失敗作を救う活動をして来たと話した。
千鶴との面会が終わった後、松本は近藤と二人きりで部屋に残った。屯所には幕府の用命で出向いて来た。表向きは、新選組の衛生と健康管理の命を受けて現れた良順は、【手偏部屋】の隊士の状態を調査に来ていた。近藤から、変若水を呑んだ者がどのような状態でいるかの説明を受けた。日没に【手偏部屋】の責任者である山南とも面会する手筈を整えていた。
松本は千鶴が、綱道の羅刹開発や【手偏部屋】の隊士の存在も知り、新選組に深く関わって居る事を遺憾に思った。千鶴の身元を引き取り、二条城内で生活出来るようにしたいと申し立てたが、近藤と土方と話し合いの末、市中での父親探しや、千鶴を〈鬼達〉から護る為にも新選組屯所に千鶴が居る方が安全だと最終的に判断した。良順は優秀な蘭方医で将軍待医でありながらも、その気さくな人柄は近藤を始め、土方や幹部の皆に好かれ信頼されていた。普段は家茂将軍の滞在する大坂城に居るが、良順は頻繁に屯所を訪れ、隊士の健康管理を行なった。体力増強に隊士達に豚肉の摂取なども勧めた。新選組は太鼓楼の周りに柵を建てて、その中で豚の飼育を始めた。更に本願寺の僧侶の忌み嫌う畜生肉売りも境内に出入りさせ、鶏肉や牛の乳も入手し始めた。
千鶴は、幹部の食事作りに豚や鶏肉を使う事に積極的に取り組んだ。量も少なく単調になりがちだった献立も肉を使うと量が増して、美味しくなった。これで体力がつくなら、もっと工夫したい。千鶴は帳面に、献立や調理法を書き付けて置いた。
一番奮闘したのは、牛の乳だった。朝に行商から酒瓶に分けて貰ったら、直ぐに朝餉に持って行くが、普段は何でも喜んで食べる新八でさえ、匂いがすると鼻を摘んで嫌がった。滋養に良いから飲んで貰いたい。でもどうすれば良いのか、千鶴は途方に暮れた。
入梅で物の足が早くて頭を痛めるこの時期、直ぐに傷む牛の乳に火を通す事にした。塩を少し入れたら甘みが増した。でも匂いがきついのは変わらない。甘みがあると飲みやすい。これは大きな発見だった。千鶴は、水飴を溶かしてみた。甘い飲物になったが、それでも匂いがする。
今度は大事に取って置いた黒糖を溶かした。クセが無くなって飲みやすくなった。こんなに甘いと朝餉に向かないかも。千鶴は、急に思いついて甘い乳を寒天で固めてみた。井戸水で冷やしてみると美味しい。これはお茶と一緒にお菓子に出せる。千鶴は嬉々として、皿に切り分けると斎藤の部屋に走って行った。
「斎藤さん、雪村です」
部屋の障子に向かって声を掛けたが、部屋から返事がない。千鶴は、道場に向かったが斎藤の姿は見えず、屯所の周り廊下を一周しても見つからなかった。境内を斎藤の名前を呼んで捜し回った。いつも一緒に居る斎藤が名前を呼んでもいない事に不安を覚える。
斎藤さん、何処にいらっしゃるんだろう。外出される時は必ず一緒に連れて行って下さるのに。
そう思って、本御堂の裏手に出たら、斎藤が裏手の古い御堂から出て来た。汗だくで息を切らしながら早足で井戸に向かう斎藤に千鶴は背後から呼び掛けた。
「斎藤さん」、千鶴はお皿を抱えたまま駆け寄って行く。
斎藤は驚いた様に振り返った。
「雪村、この様な所で何をしている」
「斎藤さんのお姿が見えないので、探していたんです」
「どうした。何かあったのか?」
「いいえ、ただ此れを」、そう言って千鶴は自分の手に持っているお皿を見つめた。
「それは何だ?」
「牛の乳で作ったんです。甘い寒にして固めてみたら美味しくて」
斎藤は千鶴の顔をじっと見つめると微笑した。
「俺に味見しろと言うのだな」
「はい」、千鶴は嬉しそうに返事をする。
「汗を流したら、頂こう」、斎藤はそう言って井戸に向かった。
千鶴は斎藤が汗を流す間、井戸の側の石段にお皿を置いて、手拭いを袂から取り出した。斎藤が濡れた身体や顔を拭い終わると、二人で石段に腰掛けて乳の寒天固めを食べた。
「美味い」
斎藤は一言そう言うと、一気に全部食べてしまった。千鶴は溢れる様な笑顔で、「良かった」と安堵した。
「もっと冷たくして、糖蜜ときな粉ををかけても良いですよね」
「ああ、美味そうだ」斎藤は笑う。
「これなら、永倉さんも沖田さんも匂いを嫌がらないですよね」
「松本先生も牛の乳は滋養に良くて、肉と骨を強くするって仰っていたので。皆さんに飲んで貰いたくて」
「そうだな、総司も早く良くなるには、滋養に良いものを食さねばな」
斎藤はそう言うと立ち上がって、「美味かった。礼を言う」と言うと北集会所に向かって歩き出した。千鶴はその後ろについて行きながら訊ねた。
「斎藤さん、さっき裏の御堂でお稽古されてたんですか?」
「ああ、ちょっとな」
「いつもの道場にいらっしゃらなくて、方々探しました」
「済まぬ。あんたから離れぬ様に副長に念を押されていたのに、少しの時間だけと思い稽古をしていた」
「あの御堂が斎藤さんのお稽古場なんですね」
「ああ」
二人で北集会所の表に周った所で、斎藤が千鶴に向き合った。
「雪村、あの御堂には決して近づくな。いいな。俺があそこで稽古をしているのを副長はご存知だ。幹部も知っている」
「日中でも山南さんの居る離れと御堂には行ってはならぬ」
千鶴は斎藤の厳しい口調に、事情を察した。
「俺はこれから稽古に出る前は必ずあんたに知らせてから行く」
千鶴はこっくりと頷いた。斎藤は千鶴を台所まで送って行った。其処で二人でお茶を飲んだ。
「今月の終わりには、大浴場が出来上がるらしい」、と斎藤が話す。
「毎日風呂に入れるのは、有難い」
「私は毎日お風呂に入らせて貰っているので、とても有難いです」
千鶴は壬生の屯所では八木邸の母屋の風呂場を借りていた。その時から入浴中は斎藤が見張りに付いていた。北集会所の浴場は狭く、隊士たちは交代制で入っていた。松本良順の勧めで、大浴場を整えて隊士は毎日入浴するようになる。千鶴は本御堂の離れにある客間用の浴場を特別に使っていた。此れは土方が半ば脅かすように本願寺に申し出て取り付けた約束で、代わりに千鶴は客間の掃除もしなければならなかった。大浴場が出来れば、千鶴がその用事から解放される。三番組の入る時間に千鶴が入れば問題ない。
斎藤は日中、出来る限り千鶴の側を離れぬように心掛けていた。二条城の夜以来、千鶴は沈み込むような表情を見せるようになった。風間達に連れ去られるのを不安に思っているのだろう。父親の行方の手掛かりを松本良順からも得られなかった。夜中に千鶴の部屋から声を懲らして啜り泣く声が聴こえた事もあった。そのような夜の翌日、千鶴は朝餉の時から忙しく動き回り屯所内の用事に没頭していた。まるで何も考えたくないかの様に。さっき自分を追い掛けて来た千鶴は以前の様な明るい笑顔だった。斎藤は千鶴の様子に安堵した。
この笑顔を護ってやらねば。
湯呑みを両手で持って笑っている千鶴を眺めながら、斎藤はそう思った。
「今日も蒸すな。俺は着替えに部屋に戻る。午後は市場へ買い出しだったな。雨が降らなければ烏丸まで上るか」
「はい、錦市場に行きたいです」、千鶴は嬉しそうに答えた。
***
裏庭で
定期的に訪れる良順が、密かに山南や羅刹隊士、総司の診察をしていた事を千鶴は知らなかった。
ある雨上がりの午後に、千鶴は境内を横切る良順の姿を見つけ、自分の記録した献立を見て貰おうと帳面を持って追い掛けた。良順は総司と境内の裏で待ち合わせていた様だった。
二人に近づくと、「残念ながら、君は労咳だ」と言う良順の声が聞こえた。千鶴は立ち止まり愕然とした。持っていた帳面を落としそうになった瞬間、背後から口を塞がれ壁の陰に引き寄せられた。
「動くな。総司は気配に聡い」
斎藤の厳しい口調に千鶴は身を硬くしたままじっとしていた。
良順は総司に直ぐに屯所を出て療養する様に勧めた。総司は長くないなら、自分の命が果てるまで近藤と新選組を護って生きたい。そう話す総司の言葉が聞こえると、口を塞がれたままの千鶴の瞳から涙が溢れ落ちた。良順と総司が居なくなったのを確かめて、斎藤は震えている千鶴を離した。
「不躾な真似をして、済まぬ」
背後から斎藤の声がしても、千鶴は俯いたまま、さめざめと泣き続けた。
斎藤は千鶴が気付く以前から、総司の容態が悪化し深刻な状態である事に気付いて居た。松本良順が頻繁に訪れ、総司を診察している事。総司が自分の咳を誰にも聞かれないよう、夜中に部屋を出て境内の裏でうずくまって朝まで耐えている事も……。
斎藤は、日頃から総司の世話を一生懸命している千鶴を不憫に思った。死病と云われている労咳に総司が。斎藤自身も衝撃を受けながらも、千鶴がこれ以上新選組の暗闇に巻き込まれていく必要はない、と思った。
「雪村、今聞いたことはなかった事に」
千鶴は目を見開き振り返った。
「総司の事は俺たち新選組で対処する」
突き放す様な言い方しか斎藤には出来なかった。千鶴は斎藤の目を見詰めながら、大きな瞳から更にポロポロと涙を流した。斎藤は自分が千鶴を泣かしてしまっている事にどう仕様もない気持ちになった。何も言葉が思いつかぬ。
茫然と立ち尽くす斎藤の前から千鶴はゆっくり後ずさると、帳面を抱えたまま部屋に帰った。斎藤は三番組の剣撃稽古に向かった。道場には総司の姿があった。木刀を抱えて、ぼんやりと壁に凭れて座っている。斎藤が平隊士を並べて素振りさせるのを見ると、総司は立ち上がって、隊士の構えを木刀の先で押さえながら修正する。もう久しく、一番組の稽古にも現れていなかった総司が再び道場に上がった。本来なら嬉しい事だが、斎藤は総司が剣を振るえる状態なのか、唯の空元気でなければいいと思った。
(決して、俺が立聞きしたと気付かれてはならぬ)
斎藤は、平隊士に素振りを続けさせ、総司に近づいた。
「はじめくん、久しぶりにやろうよ」、総司は平隊士の構えを直しながら無表情のまま斎藤を誘った。
「ああ」
斎藤は静かに応じると、素振りの後に、隊を二人ずつに振り分けて打ち合いを始めた。総司は斎藤を相手に激しく攻めて来た、御堂の羅刹とは違う誤魔化しの効かない剣さばきに斎藤は舌を巻く。
病で臥せっていたとは思えん。
総司の翡翠色の目は爛々と輝く。斎藤の一撃に素早く躙り下がると、総司は口角を上げて攻めかかって来た。総司は興が高じると、厄介な相手だ。気を抜く事が出来ぬ。俺とて御堂での闇練で鍛えてきた。決して遅れは取らぬ。斎藤は攻め込まれ、にじり下がった。
いつの間にか、斎藤と総司の打ち合いに平隊士は手を止めて、壁側に下がった。道場の側を通り掛かった隊士が見物を始め、一番組の沖田と三番組の斎藤が真剣勝負をやっていると、屯所内に触れ回ったため、道場に見物の人集りが出来た。千鶴も部屋の外の騒ぎを聞いて、道場に駆けて来た。山崎が厳しい表情で勝負を眺め、千鶴に気付くと、土方を呼んでくると一言残し、その場を去った。
千鶴は二人の激しい打ち合いに二人の気持ちを実感した。沖田さんと斎藤さんは共に此れからも闘う。斎藤さんも沖田さんも、新選組の為に命をかける覚悟で。
(聞かなかった事に)
(総司の事は新選組で対処する)
千鶴は、斎藤から言われた事を思い返した。なにも聞かなかった様に振る舞おう。私は今まで通りに沖田さんのお世話を続ければいい。新選組は沖田さんを失う事はない。こうしてずっと共に居るとお二人は決めていらっしゃる。
「おい、お前ら。其処までにしろ!」
土方の怒鳴り声が道場に響いた。互角の勝負で双方とも引かない状態を土方は一喝した。睨み合っていた斎藤と総司は同時に木刀を下ろした。二人とも息が上がっていた。汗が光り、髪の毛まで濡れた様になっている。
「折角、面白くなって来たのに。ねえ、はじめくん」
斎藤は肩で息をしながら、「ああ」、とだけ答える。
「一体、どう言う事だ。総司、お前は部屋で横になってる筈だろ」
「おい、斎藤。剣撃の稽古はどうなってんだ。隊士に打ち合いさせるなら、ともかく。教えるのそっちのけで師範が木刀振り回してどうする」
「すみません」
斎藤は、深々と頭を下げた。
「稽古を再開しろ。おい、総司、松本先生がお前の部屋で待ってる。直ぐに戻れ」
土方はそう言うと。見物に来ていた隊士達にも一喝した。隊士達は蜘蛛の子を散らしたように退散した。千鶴は山崎に呼び止められた。 松本良順から沖田の看護の方法を詳しく指導された山崎は、千鶴に沖田の世話を手伝って欲しいと頼んで来た。
千鶴は喜んで引き受けた。
「私は今まで通り、沖田さんの身体に良い事は何でも。山崎さん、よろしくお願いします」
千鶴は頭を下げた。山崎は安堵した様子だった。
「心強い。あの人は、局長と雪村くんの言う事なら素直に聞く」、山崎は微笑しながらそう言うと部屋に戻って行った。
千鶴は稽古を再開した斎藤を見つめた。汗だくのまま、真剣に教える斎藤の姿に、此れからもずっと自分の出来る事を斎藤の傍でして行こうと決心した。
つづく
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